人物プロフィール
「女芸人No.1決定戦 THE W 2023」で優勝し、紅しょうがのツッコミとして東京の劇場やテレビ、ラジオなどで活動している稲田美紀さん。
熊元プロレスさんとの掛け合いでは歯切れのいい言葉を返していますが、子どものころに育ったのは、小学校教師の母と学習塾で教えていた父がいる家庭でした。
大学へ進んだ稲田さんがお笑いの世界へ踏み出すまでには、中学3年生のころに2歳上の兄から教えてもらったラジオ番組との出会いがあります。
ブラックマヨネーズのラジオを繰り返し聴いていた中学生は、大学在学中にNSCへ入り、前コンビの解散を経て熊元プロレスさんへ自らDMを送りました。
ここからは、大阪府和泉市で過ごした子ども時代から、紅しょうが結成、東京進出、THE W優勝までを時間の順番にたどります。
稲田美紀の生い立ちと家族|和泉市の教育一家で育った子ども時代
吉本興業の公式プロフィールでは、稲田さんの出身地は大阪府和泉市とされています。
家庭には学校や勉強に関わる大人が多く、後に芸能界へ進む稲田さんとはかなり違う進路が身近にありました。
小学校教師の母と教育関係の父、2歳上の兄と育つ
母親は小学校教師で、父親は高校受験を扱う学習塾で教えており、母方の祖母も教師でした。
兄は稲田さんより2歳年上で、のちにお笑いへ興味を持つきっかけを作る人物でもあります。
教育に関わる人が多い家庭と聞くと厳しい生活を想像しやすいものの、本人の感覚は少し違っていました。
「『厳しい』という感覚はまったくなかったです」
CHANTO WEB
テストの点数そのもので強く叱られるより、先生への態度や挨拶、礼儀などを教えられていたと話しています。
夕食は「クローズアップ現代」、クリスマスはゲームより絵本
家の中には、教育に携わる両親らしい日常もありました。
幼いころは「クレヨンしんちゃん」などを見る機会がほとんどなく、夕食時に家族で見ていた番組はNHKの「クローズアップ現代」だったそうです。
バラエティ番組を見ながら食卓を囲む生活ではありませんでしたが、本人にとってはそれが普段の家庭の風景でした。
小学生のクリスマスにも、ゲームより「学びがあるもの」として絵本などをプレゼントされることがあったと明かしています。
一方で兄は、周囲の子どもたちが持っていたこともあり、スーパーファミコンを買ってもらっていました。
「稲田先生の娘」として過ごした小学生時代
母親が稲田さんの生活圏に近い学校で勤務していた時期には、近所で「稲田先生の娘」として知られることもありました。
スーパーへ行けば母親の教え子の保護者から声をかけられることがあり、自分からきちんと挨拶することを意識していたそうです。
授業参観では、自分の担任より母親のほうが年上だったため、担任が少し気まずそうに見えたことまで覚えています。
母親が学校でどんな先生なのかについても、「怖い先生なのか」より「おもしろくない先生だったら嫌だ」という部分が気になっていました。
友人の姉から母について柔らかい雰囲気の先生だったと聞き、家にいる母親と変わらないことに安心したというエピソードも残っています。
中学・高校時代|兄のラジオからお笑いに夢中になる
家庭でバラエティ番組を見る機会が多かったわけではない稲田さんが、お笑いを強く意識するようになったのは中学生になってからでした。
その入口を作ったのは、同じ家で育った2歳上の兄です。
中学3年、兄からブラックマヨネーズのラジオを教わる
中学3年生のころ、兄からABCラジオで放送されていた「ブラックマヨネーズのずぼりらじお」を教えてもらいました。
テレビでブラックマヨネーズの姿を見て好きになったのではなく、最初に引き込まれたのは2人の声とトークでした。
「ラジオをカセットテープに録音して、寝る前に何回も聴いていて」
ch FILES
カセットテープに録音した番組を何度も再生しながら、話している芸人がどんな顔なのかを想像していました。
稲田さんにとって、お笑いへ向かう最初のはっきりした入口は、兄が教えてくれた一本のラジオ番組でした。
ラジオをカセット録音し、ブラックマヨネーズの漫才を見に行く
ラジオからブラックマヨネーズを知ったため、最初に2人の顔を見たときには、自分が声から想像していた姿との違いに驚いたそうです。
それでもおもしろさへの興味は変わらず、今度は実際の漫才を見に行くようになりました。
後に吉田敬さんのファンだったと紹介されることもありますが、本人は小杉竜一さんも含めてブラックマヨネーズの2人とも好きだったと話しています。
ラジオで何度も声を聴き、そこから舞台の漫才へ足を運ぶようになったことで、お笑いが日常の中へ入っていきました。
泉北高校では女子ハンドボール部のマネージャーに
本人の公式Xでは、卒業校として大阪府立泉北高等学校を明かしています。
高校では選手として競技をしていたのではなく、女子ハンドボール部のマネージャーになりました。
入部理由には、稲田さんらしい具体的な憧れがありました。
「私もマネージャーをしたいと懇願して入部しました」
ch FILES
ケンカが強い女子ハンドボール部でマネージャーをしている先輩を見て、自分もその立場になりたいと思ったそうです。
高校2年の遅い帰宅で父に叱られた夜
普段から何でも厳しく禁止されていたわけではありませんが、家庭のルールについて父親に強く叱られたことはありました。
高校2年生のころ、初めて付き合った彼氏と過ごして帰宅が午後11時ごろになった日、家へ着くと父親が玄関の外で待っていました。
本人は後に、初めてのキスが楽しくなってしまい帰宅が遅れたと笑いを交えて明かしています。
父親から玄関先で強く叱られ、その日以降は門限をかなり意識するようになったと話しています。
父親に大きく叱られた記憶としては、それが最後だったそうです。
関西外国語大学時代|就職ではなく芸人を選ぶまで
高校を卒業した稲田さんは、そのまま芸人の養成所へ進んだわけではありません。
家族から大学進学を求められていたこともあり、まずは関西外国語大学へ進学しました。
得意だった英語を生かして関西外国語大学へ進学
大学選びそのものは自分で決めており、当時得意だった英語で受験できることが関西外国語大学を選んだ理由でした。
本人は公式Xでも、泉北高校を卒業し、関西外国語大学の穂谷学舎を卒業したことを記しています。
両親からは大学の名前を指定されていたわけではありませんが、大学へ行くこと自体は当然の進路として考えられていました。
さらに周囲には教師が多く、家族からは稲田さんにも教員になることが期待されていました。
面接制の「学友会」に入り、現在まで続く仲間ができる
大学では授業へ通うだけでなく、学生による生徒会に近い組織「学友会」にも所属していました。
学友会は誰でもそのまま加入できる組織ではなく、参加するために面接による選抜が行われていたとラジオで話しています。
学生の中でも存在感のあるメンバーが集まり、交際を始めた人がいれば全体の集会で報告するという独特の風習もありました。
熊元さんから話を聞いて「キモい会」とツッコまれても、稲田さんは当時の仲間たちを「みんな優しい」と説明しています。
大学を卒業して長い時間がたってからも集まって遊ぶことがあるほど、学友会の仲間との交流は続いています。
大学3年で「大学とNSCに通う」と家族へ伝える
大学生活が終盤へ近づくと、周囲の学生と同じように就職を考える時期がやってきました。
しかし、中学生のころから続いていたお笑いへの興味は消えていませんでした。
大学3年生のとき、稲田さんは電話で両親へ自分の進路を伝えます。
「来年、大学通いながらNSC通うわ」
CHANTO WEB
大学を辞めるのではなく、4年生では大学とNSCの両方へ通うという選択でした。
芸能関係の仕事をする親戚もいなかったため、両親にとって芸人は身近な職業ではなく、「就活はしないのか」と強く心配されました。
母が就職セミナーへ行くなか、大学4年でNSC大阪33期へ
稲田さんが芸人を目指すと伝えたあとも、母親はすぐにその進路へ切り替えられたわけではありません。
本人が就職活動をしないため、母親が代わりに就職セミナーへ行き、資料を持ち帰ってきたことまでありました。
それでも稲田さんは考えを変えず、大学へ通いながらNSC大阪33期としてお笑いを学び始めます。
教師になることも想定されていた大学生が、卒業直前の一年を大学とお笑い養成所の両方へ通う生活に変えました。
吉本興業の公式プロフィールでは、稲田さんは2011年にNSC大阪33期を卒業しています。
NSC33期と「ブリの白子」|最初のコンビで始まった芸人人生
NSCへ入ったことで、それまで客席から見ていたお笑いは、自分が舞台に立ってネタを見せる世界へ変わりました。
現在の紅しょうがより前に、稲田さんには「ブリの白子」というコンビで活動した時期があります。
講師・本多正識が覚えていたNSC時代の稲田美紀
NSCで講師を務めていた漫才作家の本多正識さんは、稲田さんを入学当初からしゃべりが達者で、演技も一定以上できる生徒として覚えていました。
一方で、何でもある程度できるからこそ、当時は突出した個性がまだ見えにくかったとも記しています。
「『器用貧乏』にならなければいいけどな」
日刊ゲンダイDIGITAL/本多正識
この時点では、後の紅しょうがで見せる熊元さんとの強い掛け合いはまだありませんでした。
「ブリの白子」でコンビ活動をスタート
NSC時代から稲田さんは國松恵さんと「ブリの白子」を組み、舞台に立っていました。
現在の紅しょうがが最初のコンビではなく、芸人人生の初期には別の相方と数年間過ごしています。
本多さんも「ブリの白子」というコンビ名を覚えており、NSC時代の稲田さんについて、しゃべりや演技が安定していたことを後年記しています。
本人が2014年の解散時に投稿した言葉によれば、このコンビで過ごした期間は約4年間でした。
2014年に前コンビが終わり、次の相方を探し始める
2014年3月27日、稲田さんは公式Xで「ブリの白子」の解散を発表しました。
國松さんは東京へ移り、稲田さんは大阪に残って、それぞれ芸人としての活動を続けることになりました。
コンビが終わっても芸人を辞める方向には進まず、稲田さんは大阪で次に一緒に活動する相手を探し始めます。
その相方探しの途中で名前が挙がった後輩が、熊元プロレスさんでした。
熊元プロレスとの出会い|ゆりやんの紹介から紅しょうが結成へ
稲田さんはNSC大阪33期、熊元さんは35期で、2人は同じ期の友人からコンビを組んだわけではありません。
先輩と後輩という距離があるところから、現在まで続くコンビが始まりました。
ゆりやんに「いい子おる?」と相方候補を相談
前コンビ解散後、稲田さんはゆりやんレトリィバァさんに、誰か一緒に組めそうな女性芸人はいないか尋ねました。
そこでゆりやんさんから名前を挙げられたのが、35期の熊元プロレスさんです。
稲田さんは以前、熊元さんがピンでネタをしているところを見ており、そのときには声の大きさと力強さ、そして女性芸人では珍しかった「熊元プロレス」という芸名が印象に残っていました。
「声大きいな、力強いなって思いました」
ch FILES
ゆりやんさんから勧められたあと、稲田さんの側から熊元さんのTwitterへDMを送りました。
DMで熊元プロレスを誘い、最初の食事はインドカレー店
DMの内容は、まず「ご飯へ行こう」という誘いでした。
熊元さんからすれば、ほぼ話したことのない2期上の先輩から突然届いた食事の誘いだったため、最初から「コンビを組みたいのでは」と感じていたそうです。
2人が初めてしっかり話した場所は、居酒屋ではなくインドカレー店でした。
熊元さんは辛いものが苦手でしたが、先輩に連れてきてもらった店で料理を残しづらく、カレーを食べていたところで稲田さんから話を切り出されます。
「組もう!」
ラジトピ ラジオ関西トピックス
熊元さんは慌てて「組みます」と返事をし、2人で活動する話が進んでいきました。
相方探しの相談からDM、インドカレー店での一言を経て、現在の紅しょうがにつながる組み合わせが決まりました。
「怖そうな先輩」と「声の大きい後輩」が2014年に紅しょうがを結成
当時の2人がお互いに抱いていた印象は、現在の仲のよい姿とは少し違います。
熊元さんから見た稲田さんは、脱色した強い金髪で目つきも鋭く、近寄りやすい先輩には見えなかったそうです。
「目つきも悪くてとがってて怖かった」
TBS NEWS DIG
一方の稲田さんは、熊元さんの大きな声と力強いピンネタを覚えていました。
本多正識さんによれば、結成当初は後輩の熊元さんが先輩の稲田さんへ気を遣っているようにも見えましたが、活動を続けるうちに対等に言い合う関係へ変化していったといいます。
吉本興業公式では、紅しょうがの結成は2014年10月とされています。
大阪の劇場で重ねた若手時代|THE W決勝常連になるまで
紅しょうがを結成してからすぐに全国的に知られたわけではなく、2人は大阪を拠点に舞台へ立つ時期を重ねました。
その流れの中で、女性芸人の賞レース「女芸人No.1決定戦 THE W」が、2人にとって何度も大きな舞台になります。
漫才を中心に活動し、2018年にTHE W決勝へ
吉本興業公式の経歴では、紅しょうがは2018年にTHE Wで初めて決勝へ進出しています。
このころの紅しょうがは漫才を中心に勝負しており、熊元さんが「女子〜!」と呼びかけるツカミと、稲田さんのツッコミも舞台で知られるようになっていきました。
稲田さんは大会後、この決勝で初めて全国放送で漫才を披露できたことを投稿しています。
2019年には今宮戎マンザイ新人コンクールで新人漫才奨励賞を受賞しました。
2020年は最終決戦まで進むも準優勝
2020年のTHE Wでは再び決勝へ進み、ファーストステージで披露したのも漫才でした。
紅しょうがはAブロックを勝ち抜き、吉住さんとの最終決戦まで進出します。
2本目も漫才で勝負しましたが、結果は準優勝でした。
全国大会で準優勝まで進んだ2020年も、紅しょうがにとってTHE Wの挑戦が終わった年にはなりませんでした。
翌2021年、さらに2022年も決勝へ進み、優勝には届かない時間が続きます。
地元・和泉市のライブには母が約30人の知人を連れて来場
芸人になることを聞いた当初、就職や教員の道を望んでいた家族との関係にも、活動を続ける中で別の場面が生まれていました。
2021年に地元の和泉市で「紅しょうがまつり」を開催した際、稲田さんは集客を心配していました。
すると、長く小学校教師をして顔が広かった母親が、知人を約30人連れて会場へやってきました。
母親は芸人という進路を最初から全面的に歓迎していたわけではありませんが、娘の地元ライブには多くの知人と足を運んでいます。
父親はさらに独特で、芸人になった後もネタの感想を聞かれると「俺は笑わんかった」と返すほど、お笑いへの評価は勉強以上に厳しかったそうです。
2022年ごろからコントへ本格的に取り組む
長く漫才で賞レースへ挑んできた紅しょうがですが、芸風はそこで固定されたままではありませんでした。
熊元さんは2023年末のよしもとアカデミー特別授業で、コントへ本格的に取り組み始めた時期を振り返っています。
「コントをちゃんとやり始めたのが去年くらいから」
TBS NEWS DIG
つまり、2022年ごろから漫才だけでなくコントにも本格的に取り組むようになっていました。
この変化は、翌年のTHE Wで選ぶ2本のネタにも表れます。
2022年THE W敗退から東京進出へ|2人が大阪を離れた決断
紅しょうがにとって東京進出は、THE Wで優勝した後に生まれた計画ではありません。
大阪から拠点を移す決断は、むしろ優勝できなかった夜の直後に動き始めました。
優勝して東京へ行く予定だった2022年THE Wで敗退
2022年のTHE Wで紅しょうがは4度目の決勝へ進み、Cブロックを勝ち抜いて最終決戦へ進出しました。
最終決戦ではヨネダ2000、天才ピアニストと争い、優勝したのは天才ピアニストでした。
2人はそれ以前から、THE Wで優勝したら東京へ行くという話をしていました。
しかし、その予定を実行するために待っていた優勝は2022年も手に入りませんでした。
翌日のタクシーで「負けても東京へ行く」と気持ちが一致
大会翌日、2人は大阪へ戻り、新大阪駅から劇場へ向かうタクシーに乗っていました。
そこで、優勝できなかったから東京行きを延期するのではなく、考えを切り替えます。
「負けたけどお互い東京に行こうという気持ちになっていた」
WANI BOOKS NewsCrunch
THE Wに勝ってから東京へ行く予定を、東京へ行ってから優勝を目指す方向へ切り替えました。
2022年の敗退は活動を止める出来事ではなく、長く活動した大阪から動くタイミングを決める出来事になりました。
2023年4月、紅しょうがが活動拠点を東京へ
2023年2月、稲田さんは公式Xで、紅しょうがが4月から活動拠点を東京へ移すことを発表しました。
吉本興業の公式プロフィールでも、2023年4月から東京へ活動拠点を移したことが記されています。
結成から長く活動してきた大阪を離れ、劇場も仕事の環境も変わるなかで、その年もTHE Wへ挑みました。
5度目のTHE Wで優勝|紅しょうがの仕事が広がった転機
東京へ移って8か月ほどたった2023年12月、紅しょうがは再びTHE Wの決勝へ進みました。
2018年から数えて、これが5度目の決勝進出でした。
その年に手応えのあったコント2本で2023年決勝へ
それまでTHE Wの大舞台で漫才も披露してきた2人が、2023年に選んだ決勝ネタは2本ともコントでした。
熊元さんによれば、漫才かコントかという形式から逆算して選んだのではなく、その年に最も手応えのあった2本がコントだったといいます。
稲田さんも、5度目の決勝だから特別な方向へ寄せたというより、自分たちがやりたいネタを選んだ感覚を話しています。
「ほんまに好きなネタをやった感じ」
TBS NEWS DIG
漫才で何度もTHE Wへ挑んできた紅しょうがが、本格的に取り組み始めたコント2本を5度目の決勝へ持ち込みました。
史上最多863組の頂点に立ち、コンビ初の大きなタイトルを獲得
2023年12月9日の決勝で紅しょうがはBブロックを勝ち上がり、スパイク、エルフとの最終決戦へ進みました。
そして最終決戦を制し、「女芸人No.1決定戦 THE W 2023」で優勝しました。
FANY Magazineの優勝後インタビューによると、この年のエントリーは大会史上最多の863組でした。
紅しょうがは2018年に初めて決勝へ進んでから、2020年の準優勝、2021年、2022年の決勝を経て、5回目でタイトルを手にしています。
優勝は東京へ出てから約8か月後で、大阪を離れる決断をした翌年に訪れました。
東京の劇場・テレビ・ラジオへ活動を広げる現在
THE W優勝後も紅しょうがはコンビ活動を続け、現在は東京の劇場に立ちながらテレビやラジオ、Podcastなどへ仕事を広げています。
稲田さん個人でもテレビ番組へ出演し、紅しょうがとしてはラジオ関西のPodcast「紅しょうがは好きズキ!」などで熊元さんとのトークを続けています。
2025年には、その「紅しょうがは好きズキ!」で実兄とのテレビ初共演について話す動画も公開されました。
中学3年生の稲田さんへブラックマヨネーズのラジオを教えた兄は、長い時間を経て芸人として活動する妹と番組でも顔を合わせるようになりました。
兄から教わったラジオをカセットで聴いていた中学生は、大学とNSCを並行し、自分から相方を探して紅しょうがを結成しました。
大阪で何度もTHE Wへ挑み、2022年の敗退後に東京へ動くことを決め、その翌年に5度目の決勝で優勝しています。
教育に関わる家族の中で育った和泉市での生活から始まった時間は、現在も熊元プロレスさんとの舞台やトークへ続いています。












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