ジャンボたかおの昔・若い頃|幼なじみ浅倉秋成とのM-1甲子園からレインボー結成まで

人物プロフィール

本名
實方孝生
生年月日
1989年6月25日
身長
183cm
血液型
O型
出身地
千葉県 千葉市
コンビ・グループ名
レインボー
相方・メンバー
池田直人
結成年
2016年
所属事務所
吉本興業
養成所・スクール
NSC東京校 18期

レインボーのジャンボたかおさんといえば、大柄な体格と大きな声、池田直人さんと演じる男女のコント、そして豪快に食事を楽しむ姿でも知られています。

ところが昔の写真を見ると、現在とは印象がかなり違い、特に高校時代はバレーボール部のユニフォームを着た細身の姿が残っています。

見た目の変化以上に興味深いのが、小学生のころから現在の小説家・浅倉秋成さんと一緒に遊び、中学では教室のお笑いの中心になり、高校3年では二人でM-1甲子園の舞台に立っていたことです。

大学ではアナウンス研究会でラジオドラマや映像を作り、一度は芸人以外の道も考えながら、卒業後に「やっぱり芸人になりたい」という思いを捨てきれずNSC東京へ進みました。

ジャンボたかおさんがどんな家庭で育ち、学生時代をどう過ごし、感動ピストを経て池田直人さんとレインボーを組むまでに何があったのか、時間を追って見ていきます。

ジャンボたかおの生い立ちと家族|千葉で育ったお笑い好きの少年時代

ジャンボたかおさんは1989年6月25日生まれ、千葉県千葉市出身で、現在の芸名になる前は実方孝生として活動していました。

芸人になってから知り合った人だけでなく、小学生のころから現在まで関係が続いている友人がおり、その一人が『六人の嘘つきな大学生』などで知られる小説家の浅倉秋成さんです。

小4で浅倉秋成と出会い、野球と手作り漫画に夢中

浅倉秋成さんによると、二人が一緒になったのは小学4年生のころでした。

小学4年から6年までは同じ野球部に所属し、ジャンボたかおさんは小学生ですでに170cmほどあったものの、このころはベンチにいることが多かったそうです。

二人が夢中になっていたのはスポーツだけではなく、小学5年のころにはクラスの仲間を集め、A4用紙を折ってホチキスで留めた手作りの漫画誌を制作していました。

参加する友人ごとにページを割り振り、漫画や企画を載せるという遊びで、テレビを見るだけではなく、自分たちで何かを作って人に見せることもすでに日常の中にありました。

浅倉さんは後年、小学生時代のジャンボたかおさんが「放送作家になりたい」と話していたことも明かしています。

兄・姉・両親と『ちびまる子ちゃん』を楽しんだ家庭

ジャンボたかおさんの家族については、本人の発信やインタビューから父親、母親、兄、姉とのエピソードが確認できます。

家庭で特に印象に残っている作品の一つが『ちびまる子ちゃん』で、兄は漫画を全巻持ち、姉からはまる子のシールをもらい、母とは映画を見て一緒に泣いたことがあったそうです。

父親とはレンタルビデオ店へ行き、まだ見ていない『ちびまる子ちゃん』の作品を探したこともありました。

「まるちゃんは我々家族の絆です」

FANY Magazine

現在は「食」のイメージも強いジャンボたかおさんですが、後年の家族トークでは兄を含めて家族の食べっぷりを語ることも多く、子どものころから家族で食卓を囲んだ記憶が数多く残っています。

中学では野球部主将に|教室ではお笑いの中心人物

小学生時代はベンチにいることが多かった野球でも、中学生になると状況が変わり、ジャンボたかおさんは野球部のキャプテンを務めるようになりました。

同時に、教室では別の意味でも目立つ存在になっていきます。

浅倉秋成さんによると、当時のジャンボたかおさんはすでに身長180cmほどあり、ダウンタウンが好きで、クラスにも「面白いことが正義」という空気を持ち込んでいました。

「僕らからしたらカリスマでした!圧倒的カリスマ。」

TBSラジオ『こねくと』

友人たちにも何か面白いことをするよう求め、それぞれが持ち芸のようなものを作るようになったというので、後の芸人生活よりずっと前から、周囲を巻き込んで笑いを作る場ができていました。

中学3年の公立高校入試前日には、担任から「景気のいいことを」と振られ、ジャンボたかおさんと浅倉さんがクラスの前で漫才を披露しています。

まだプロを目指して動き出す前から、友人と漫才を作って人前に立つ経験が始まっていました。

幼なじみ二人の当時をもっと見たい場合

小・中学校の同級生だった浅倉秋成さんとジャンボたかおさんは、後年に公式対談で学生時代やお笑いについて振り返っています。

ジャンボたかおの高校時代|バレー部とM-1甲子園

中学校を卒業すると浅倉秋成さんとは別々の高校へ進み、ジャンボたかおさんは野球からバレーボールへ競技を変えました。

現在の姿と比べて「ジャンボたかおの昔」「痩せていた頃」が気になる人にとって、本人が公開した高校時代の写真は特に印象の違いが分かりやすい一枚です。

厳しいバレー部でレギュラーに|今より痩せていた高校時代

高校時代のジャンボたかおさんはバレーボール部に入り、本人の回想では決して上手な選手ではなかったものの、身長を生かして試合にも出ていました。

2025年に公開した当時の写真には、現在よりかなり細いユニフォーム姿が残っており、本人は顧問の練習が非常に厳しかったことも振り返っています。

このころから食べる量は多く、高校時代には5kgのチャレンジラーメンを完食したというエピソードもあります。

現在の「食うチャンネル」より十数年以上前の話ですが、食にまつわる豪快なエピソードはすでに学生時代からありました。

高校3年で浅倉秋成とM-1甲子園へ|初舞台で大きな笑い

高校3年になると、ジャンボたかおさんはAO入試で大学進学が早めに決まり、別の高校へ進んでいた浅倉秋成さんに連絡します。

誘ったのは、当時高校生を対象に開催されていたM-1甲子園への出場でした。

二人は電車とバスを乗り継いで地区予選会場となった成田のイオンへ向かいましたが、家族や友人には大会へ出ることを知らせていませんでした。

会場にはほかの出場者を応援する家族や友人が集まり、二人にとっては完全なアウェーに近い状況でした。

しかも出番は最後でしたが、居酒屋でビールを飲む設定の漫才を披露すると客席は大きく沸き、舞台を降りた後にはほかの高校生から声をかけられています。

ジャンボたかおさんにとって、これが人前で漫才を披露した最初期の大きな舞台になりました。

ところが結果発表では二人の番号は呼ばれず、審査では「高校生らしさ」が重視されたと説明されました。

初舞台で手応えを感じながら、そのまま勝ち上がるという展開にはなりませんでした。

予選敗退後も学生お笑いを続けた二人

M-1甲子園の予選で終わっても、二人のお笑いはそこで途切れませんでした。

浅倉さんによると、会場で声をかけてきた人物に誘われて別の小さな大会へ出場し、そこで賞を獲得したこともあったそうです。

大学生になった後にも何度かお笑いの地区大会へ出ており、高校時代のM-1甲子園は一度きりの思い出参加ではありませんでした。

ただし、浅倉さんはそのまま芸人には進まず、後に小説家となります。

ジャンボたかおさんもすぐ芸人一本に決めたわけではなく、大学では別の角度から「人に見せるものを作る」時間を過ごしていきました。

國學院大學のアナウンス研究会で「物語を作る」経験

高校卒業後に進んだのは國學院大學で、在学中はアナウンス研究会に所属していました。

本人の2021年の投稿では、自らを「KAC51代会長 実方孝生」と記しており、アナウンス研究会で会長を務めていたことも分かります。

ラジオドラマやDJ番組、ミニドラマを制作

「アナウンス研究会」という名前から発声や司会だけを想像しやすいですが、ジャンボたかおさんが経験した活動はそれだけではありません。

番組発表会ではラジオドラマ、15分ほどのDJ番組、映像、ミニドラマなどを制作していたと本人が明かしています。

後年、小説を出版した際のインタビューでは、この大学時代について、物語を考える習慣が身についた時期だったかもしれないと振り返りました。

小学生で友人たちと漫画誌を作り、大学ではラジオドラマや映像を作るという経験が続いていたことになります。

芸人への憧れを諦めきれず、大学卒業後にNSCへ

ジャンボたかおさんは後年、芸人を目指した時期について「小6」と答えたことがあり、10代のころに憧れていた芸人にはダウンタウンを挙げています。

一方で、お笑いが好きすぎたからこそ、自分自身が芸人になれるとは考えられず、放送作家やディレクターになる道も考えていました。

「それでもやっぱり芸人の道も諦められなくて」

ananweb

大学卒業後、ジャンボたかおさんが選んだのは吉本興業の養成所・NSC東京校でした。

高校でM-1甲子園に出たからそのまま芸人になったのではなく、小学生から続いていたお笑いへの憧れや、学生時代の制作経験を経た末の選択でした。

NSC東京18期と感動ピスト|首席卒業から解散まで

NSC東京校へ入ったジャンボたかおさんは18期生となり、ここで後の相方となる池田直人さんとも同期になります。

ただし、この時点では二人とも別の相方を選び、それぞれ別のコンビで芸人生活をスタートさせました。

森川やるしかねぇと感動ピストを結成

ジャンボたかおさんがNSCで最初に組んだのは、当時森川涼太さんとして在籍し、後に森川やるしかねぇとして活動する芸人でした。

NSC大LIVE当時の吉本興業の記事によると、ジャンボたかおさんは、高校卒業後に一人で東京へ出てきた森川さんを見て「やる気のある人だ」と感じ、自分から声をかけています。

こうして生まれたコンビが感動ピストでした。

コンビ名には、ジャンボたかおさんが「笑い」と同じくらい感動することを好んでいたことと、森川さんが当時乗っていたピストバイクが関係していました。

NSCを首席卒業して若手芸人として活動

感動ピストは2013年の「NSC大LIVE 2013 TOKYO」で優勝し、東京NSC18期の首席となりました。

養成所へ入っただけで順調に進んだという経歴ではなく、最初のコンビですでに同期の頂点に立つ結果を残していたことになります。

2016年にジャンボたかおさんが投稿したNSC18期の同期ライブ告知には、当時を振り返る「懐かしすぎる写真の数々」も掲載されています。

現在のレインボーより前に、ジャンボたかおさんには感動ピストでNSC首席となった時代がありました。

感動ピストと「ひので」が近い時期に解散

一方の池田直人さんは、NSC同期のおばたのお兄さんと「ひので」を結成して活動していました。

感動ピストもひのでも劇場で活動していましたが、やがて二つのコンビは近い時期に解散します。

NSCで同期だったジャンボたかおさんと池田さんが、ここで初めて「次の相方」の候補としてつながることになりました。

池田直人に誘われ、2016年にレインボー結成

それぞれの旧コンビが終わった後、先に動いたのは池田直人さんでした。

二人は同期としてすでに知り合っていましたが、ここから現在まで続くレインボーの歴史が始まります。

NSC同期だった池田直人がジャンボたかおを誘う

ジャンボたかおさん本人は後年、現在のコンビについて池田さんから声をかけてもらったと話しています。

二人にはお笑いだけでなくラジオ好きという共通点もあり、同じ番組を聴いていると分かったことから距離が縮まった時期もあったそうです。

2016年2月、ジャンボたかおさんと池田直人さんは「レインボー」を結成しました。

ジャンボたかおさんにとっては、高校時代の学生漫才、NSC、感動ピストを経て始まった新しいコンビでした。

最初のコントから男女の物語を描いていたレインボー

現在は男女の恋愛や人間関係を細かく切り取るコントで知られるレインボーですが、その方向性は結成直後から見えています。

二人がレインボーとして最初に作ったコントは、新小岩駅で歌手の夢に破れた女性と駅員が出会い、恋に落ちるという設定でした。

ただし、最初から観客の反応が良かったわけではありません。

ジャンボたかおさんは自身のnoteで、レインボーとしての初舞台について、先輩芸人が驚くほど受けなかったことを振り返っています。

それでも二人は男女の感情や関係を描くコントを重ね、後の「ロマンティックコント」へ続く形を作っていきました。

初単独ライブは手売りでも空席が残った

コンビを組んでから約1年は、ジャンボたかおさん自身が「鳴かず飛ばず」と振り返る時期が続きました。

それでも渋谷のヨシモト∞ホールで初めて単独ライブを開催できることになり、二人はチケットを直接手売りしました。

現在なら大きな会場の単独ライブを完売させるレインボーですが、当時は客席が途中まで埋まらないこともあったと話しています。

次にルミネtheよしもとで単独ライブをやりたいと希望した際には、二度ほど断られた時期もありました。

レインボー結成直後から現在のような人気があったわけではなく、小さな客席を一つずつ埋めるところから始まっています。

下積み時代と『おもしろ荘』|優勝直前には母親を泣かせていた

レインボー結成後も芸人だけで生活できる状態にはすぐ届かず、ジャンボたかおさんにはアルバイトを続けながら舞台へ出ていた時期がありました。

その生活が大きく動いたのが、2018年の『ぐるぐるナインティナイン』内企画「おもしろ荘」でした。

借金を抱え、芸人を続けられるかという時期へ

『おもしろ荘』へ出る少し前、ジャンボたかおさんは金銭面で苦しい状況にあり、借金について母親から電話で注意を受けています。

本人によると、母親を泣かせてしまい、電話を切った後にはストレスでじんましんまで出たそうです。

芸人を辞めたいとは考えていなかったものの、このまま続けていけるのかという現実的な問題に直面していました。

その約1カ月後にやってきたのが、『おもしろ荘』への出演でした。

2018年『おもしろ荘』優勝で二人ともアルバイトを辞める

レインボーは2018年の『おもしろ荘』で優勝し、一気に名前を知られる機会をつかみます。

この優勝を境に仕事が増え、ジャンボたかおさんと池田直人さんは二人ともアルバイトを辞めることができました。

借金について母親と話していた時期から、わずか約1カ月後の出来事でした。

ただし、レインボーの歩みを見ると、ここを「優勝してそのままブレイクした」とすると実際の経過とは違います。

優勝しても売れ切らず、観客3人の営業も経験

『おもしろ荘』優勝によって営業の仕事も入るようになりましたが、出演先で誰にもレインボーを知られていないような状態も残っていました。

池田さんは後年、観客が3人しかいない営業も経験したと振り返っています。

その一方、同じ『おもしろ荘』に出演したひょっこりはんさんは大きくブレイクし、周囲の同世代にもテレビで活躍する芸人が増えていきました。

レインボーにとって『おもしろ荘』は大きな転機でしたが、安定して仕事が続く状態に到達した地点ではありませんでした。

第7世代への焦りと解散危機|YouTubeが二人の「帰る家」に

2019年から2020年ごろになると、レインボーと同世代の芸人が「お笑い第7世代」と呼ばれ、テレビで次々に活躍するようになります。

レインボーも同じ枠で番組へ出演することはありましたが、ジャンボたかおさんには「自分たちだけが置いていかれている」という感覚が強くなっていきました。

同期や後輩が売れる中、テレビを見られないほど悔しかった

EXIT、かが屋、宮下草薙、四千頭身などが注目され、ぼる塾をはじめ身近な芸人の活躍も増えていきます。

テレビ好きだったジャンボたかおさんですが、第7世代の芸人が出ているとチャンネルを変え、『アメトーーク!』の録画までやめた時期がありました。

「悔しすぎて見れなかったですね」

TVガイドWeb

本人の回想では、こうした状態が1年ほど続いています。

芸人になる前から大好きだったテレビそのものを楽しめなくなるほど、周囲との差が気になる時期でした。

池田直人の人気に焦り、テレビ局で「解散しよう」

コンビの外でも変化が起き、池田直人さんがInstagramなどで注目を集めるようになると、ジャンボたかおさんの焦りは相方にも向かいました。

本人たちによると、テレビ局の1階でジャンボたかおさんが泣きながら池田さんに気持ちをぶつけたことがあります。

「1人で売れたいなら解散しよう」

マイナビニュース

レインボーが実際に解散したわけではなく、池田さんが次に提案した活動が二人の居場所を変えていきます。

YouTubeを始めても最初の3カ月は伸びなかった

池田さんが提案したのがYouTubeで、レインボーは2020年1月1日から「レインボーコントチャンネル」で毎日新作コントを投稿するようになりました。

今では代表的な活動の一つですが、開始直後から数字が伸びたわけではありません。

「最初の3カ月は伸びなかったよね」

TVガイドWeb

自信のあるコントを公開しても思うように再生されず、それでも3時のヒロイン・福田麻貴さんなど周囲の芸人が面白さを認めてくれることが支えになった時期もありました。

撮影にはレンタルスペースを使い、外の音に悩まされるような環境から更新を積み重ねています。

毎日のコント投稿がレインボーの新しい軸になる

YouTubeではテレビ番組の尺や設定に合わせるだけではなく、二人が思いついた人物や会話をそのままコントへ持ち込めるようになりました。

「こういう女性に会った」というジャンボたかおさんの経験を池田さんへ伝え、その場で人物を演じてもらうなど、アドリブを生かした作品も増えていきます。

池田さんはYouTubeについて二人の「帰る場所」と表現し、ジャンボたかおさんも「帰る家」になったと振り返りました。

売れている芸人を見てテレビを消していた時期に、二人だけで何本でもコントを作れる場所ができました。

2020年には劇場公演やテレビ収録が難しくなる時期もありましたが、レインボーはリモートコントを含めてYouTubeで発信を続けています。

『クセスゴ』からキングオブコント2025へ|コント師として広がった現在

YouTubeが安定した活動の軸になる一方、テレビではレインボーのコントをこれまでと違う世代へ届ける番組が現れました。

その代表がフジテレビ系『千鳥のクセがスゴいネタGP』で、二人は長期間にわたって「ひやまとみゆき」を演じています。

「ひやまとみゆき」で子どもや上の世代まで反響が拡大

ジャンボたかおさんは後年、『クセスゴ』への感謝について「半端じゃない」と語り、「ひやまとみゆき」を約2年続けたことを振り返っています。

池田さんによると、番組出演後は劇場では会う機会が少ない子どもや年配の視聴者からも声をかけられるようになりました。

ジャンボたかおさん自身も、そのときの反応を「別格」だったと表現しています。

『おもしろ荘』、YouTube、『クセスゴ』と、レインボーの知名度は一つの出来事ではなく複数の段階を経て広がりました。

2019年には『ネタパレ』の企画を通じて、実方孝生から「ジャンボたかお」へ改名し、現在の名前もこの時期に定着していきました。

大学時代の物語作りは2023年の小説執筆にも

コント以外にも、ジャンボたかおさんが学生時代から続けてきた「物語を作る」活動が形になった仕事があります。

2023年9月、KADOKAWAから『説教男と不倫女と今日、旦那を殺すことにした女』を刊行し、小説家としてデビューしました。

本人は執筆について、大学のアナウンス研究会でラジオドラマやミニドラマを作っていた経験を振り返りながら、物語を考える癖がついたのかもしれないと話しています。

さらに、このデビュー作に推薦コメントを寄せたのが、小学4年からの幼なじみだった浅倉秋成さんでした。

小学生で一緒に漫画誌を作り、高校ではM-1甲子園へ出場した二人が、一方は小説家、一方は芸人として小説を刊行する立場になった後にも作品を通じてつながっています。

子どものころの手作り漫画、大学時代のラジオドラマ、レインボーのコント、小説執筆まで、「物語を作る」時間が別々の形で続いています。

家族との「食」が個人活動にも広がる

もう一つ、現在のジャンボたかおさんを語るうえで外せないのが食です。

学生時代には5kgのチャレンジラーメンを完食した話があり、芸人になってからも母親の料理や実家での食事が本人の発信や動画でたびたび登場するようになりました。

個人YouTubeの「レインボー ジャンボたかおの食うチャンネル」では、料理を豪快に食べる姿そのものがコンテンツになっています。

2026年8月現在は、TBS『アッコとジャンボ』で和田アキ子さんと街を歩きながら名店を探す企画にも出演しており、池田直人さんがナレーターを担当しています。

高校時代から残る「食べる」エピソードが、現在はコンビとは別の個人仕事にもつながっています。

結成10年目でキングオブコント初決勝、最終3位

レインボーは長くコントを続けながら、キングオブコントではなかなか決勝へ届かない時期が続きました。

2022年のインタビューでは、二人が掲げる「レインボー3本柱」の一つとしてキングオブコント優勝を挙げています。

その後も挑戦を続け、2025年、史上最多となる3,449組がエントリーしたキングオブコントで初めてファイナリスト10組に入りました。

「俺らってファイナリストになれない芸人なのかな」

TBS『キングオブコント』

ジャンボたかおさんは決勝進出が決まった瞬間について、生きてきた中で一番うれしかったと話し、発表時の記憶があまり残っていないほどだったと振り返っています。

結成10年目でつかんだ初の決勝では最終3位となり、長く目標にしていた舞台で結果を残しました。

決勝進出時には、長く過ごしたヨシモト∞ホールについて、同期や先輩と楽屋で話し、賞レースが近づくと全員の顔つきが変わる「青春」のような場所だったとも語っています。

初単独で空席が残っていた∞ホールは、やがてキングオブコント決勝を目指す仲間たちと何年も過ごした場所になりました。

コント・YouTube・テレビ・俳優・食の仕事へ広がる現在

現在のジャンボたかおさんは、レインボーとして劇場や単独ライブに立ちながら、YouTube、テレビ、俳優、小説、食に関する仕事へ活動を広げています。

吉本興業の公式プロフィールにはレインボーとしてのコント活動だけでなく、ドラマや映画への出演、小説の刊行、個人YouTubeなども並んでいます。

それでも経歴を昔までたどると、現在の活動と無関係に見える仕事が突然増えたわけではありません。

小学生のころには友人たちと漫画を作り、中学では教室で笑いを求め、高校ではM-1甲子園へ出場し、大学ではラジオドラマや映像を制作していました。

そこからNSC、感動ピスト、池田直人さんとのレインボー結成へ進み、『おもしろ荘』で優勝してもすぐには売れ切らず、YouTubeという新しい場所で何本ものコントを作り続けてきました。

ジャンボたかおさんの昔をたどると、芸人になる前から「笑い」と「物語を作ること」が何度も生活の中に現れていたことが見えてきます。

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