富澤たけしの生い立ち・若い頃|漫画少年から伊達みきおを誘い続け、サンドウィッチマンになるまで

人物プロフィール

本名
富澤岳史
生年月日
1974年4月30日
身長
170cm
血液型
AB型
出身地
宮城県 仙台市
コンビ・グループ名
サンドウィッチマン
相方・メンバー
伊達みきお
結成年
1998年
所属事務所
グレープカンパニー
芸人活動開始年
1995年

サンドウィッチマンでボケとネタ作りを担い、伊達みきおさんとの掛け合いで長く第一線を走っている富澤たけしさんですが、子どものころから芸人を目指していたわけではありません。

生まれたのは宮城県ではなく東京都で、その後は父親の仕事の都合で名古屋、新潟へ移り、小学生の途中で仙台へやって来ました。

家で一人になる時間には漫画や4コマを描き、高校ではラグビー部に入り、そこで後の相方となる伊達みきおさんと出会います。

高校卒業後すぐ伊達さんとコンビを組んだのではなく、富澤さんは別の相方との活動を始めながら、会社員になった伊達さんを芸人の道へ誘い続けました。

現在のサンドウィッチマンへたどり着くまでには、仙台のローカルお笑い劇場、元コンビの解散、上京、何度ものコンビ名変更、一時的なトリオ活動、長い同居生活、そして30歳を前にした解散話までありました。

富澤たけしの生い立ちと家族|東京生まれ、転居を重ねて仙台へ

所属事務所の公式プロフィールでは「宮城県仙台市出身」と紹介されている富澤さんですが、本人が2008年にブログへ記した経歴では、1974年に東京で生まれたところから人生が始まっています。

仙台市の公式対談でも「1974年東京都生まれ」と紹介されており、出生地と、長く育った土地としての「仙台」を分けて見ると少年時代の流れが分かりやすくなります。

東京で生まれ、名古屋・新潟を経て小学生で仙台へ

1974年に東京で生まれたあと、生後半年ほどで父親の転勤に伴って名古屋へ移り、1980年には再び転勤で新潟へ移りました。

新潟では山潟小学校へ入り、3年生からは新設された桜ヶ丘小学校へ通っています。

1984年には家族で宮城県仙台市へ転居し、富澤さん自身は初めて「だべ」「だっちゃ」といった言葉を聞いたと公式ブログで振り返っています。

仙台市の対談では、当初は漫画でしか見たことのないような言葉が飛び交っていて驚いたものの、やがて自分も普通に使うようになったと話していました。

富澤たけしさんの少年期の移動

東京で出生 → 名古屋 → 新潟 → 小学生の途中で仙台へ。

そのため「東京都生まれ」と、公式プロフィールの「宮城県仙台市出身」は矛盾する情報ではありません。

共働き家庭で一人の時間に漫画と4コマを描いた少年時代

両親は共働きで、家に一人でいる時間が比較的多かった富澤さんは、漫画を読んだり絵を描いたりして過ごしていました。

好きだったのは『キン肉マン』『北斗の拳』などの少年漫画で、一時期は漫画家を本気で考えたこともあったそうです。

ただ、長い物語を描き続けることには向いていないと感じ、次第に『かりあげクン』などの影響を受けた4コマ漫画や、教科書の端を使ったパラパラ漫画を描くようになりました。

中学、高校へ進んでからは雑誌の投稿コーナーにも作品を送り、採用された経験もあったといいます。

「今考えると4コマ漫画を描いたりしていたことがネタ書きにつながっているかもしれませんね」

日刊スポーツ

この時期はまだ「お笑い芸人になるため」に漫画を描いていたわけではなく、小学生のころに芸能人への漠然とした憧れはあったものの、具体的な進み方までは分からなかったと語っています。

前へ出て目立つタイプでもなく、周囲の人へ大声でアピールするより、近くにいる人へぼそっと一言を入れて笑わせることのほうが多かったそうです。

さらに小中学生のころに耳にしたYMO周辺のコント音源や、高校時代に聴いたスネークマンショーにも惹かれ、本人が前面に出なくても成立する「音だけの笑い」に面白さを感じていました。

絵と言葉を組み合わせて短い作品を作った時間と、音だけで成立するコメディへの興味は、芸人になるより前から富澤さんの生活の中にありました。

厳しい父と自由にさせてくれた母、兄とのけんかを経て南光台中学校へ

家庭では、父親から毎日ノート1ページ分の漢字を書くよう言われるなど厳しく育てられ、できなかったときには手を上げられたこともあったと後年のインタビューで話しています。

一方の母親については、富澤さんが何かをやりたいと言ったときに比較的自由にやらせてくれる人だったという記憶を語っており、後にお笑いを始めると伝えたときも強く反対されなかったそうです。

兄もおり、小学6年生のころには『コロコロコミック』を貸さなかったことから兄弟げんかになった出来事を、本人が公式ブログに書いています。

1987年に仙台市立南光台中学校へ進むと、「さぼれるらしい」と聞いて柔道部へ入ったものの、少なくとも1年生の間は思ったほど楽ではありませんでした。

漫画を描いて一人で過ごす時間が好きだった少年は、中学校を終えるころ、やがて人生の相方と出会う学校へ進むことになります。

仙台商業高校のラグビー部で伊達みきおと出会う

1990年、富澤さんは仙台商業高等学校へ進学し、ラグビー部へ入りました。

このラグビー部にいたのが、のちに30年近く同じ舞台へ立ち続けることになる伊達みきおさんでした。

学ランを着たくて選んだ仙台商業でラグビー部へ

高校選びでは親に「ラグビーがやりたいからラグビー部のある学校へ行く」と説明していましたが、本人のブログによると、実際には学ランを着たいという気持ちも大きかったそうです。

ところが富澤さんたちの学年から制服はブレザーへ変更され、入学早々、思惑とは違う展開になりました。

それでもラグビー部へ入り、仙台市の対談では「部活が楽しいから学校に行く」というほど仲間との時間を楽しんでいたことを振り返っています。

高校時代には原付が欲しくなり、初めてのアルバイトとしてレストランの皿洗いも経験しました。

ラグビー部で出会った伊達みきお、3年間同じクラスにはならなかった

伊達さんとの接点は教室ではなく、あくまでラグビー部でした。

富澤さんは伊達さんの第一印象について、仙台市の対談で「かわいいやつがいる」と感じた趣旨を話しており、やがて自転車で一緒に帰るほど親しくなっていきます。

意外にも2人は高校3年間で一度も同じクラスになっておらず、のちの長いコンビ人生を考えると、部活動がなければ接点の持ち方も大きく変わっていたことになります。

富澤さんが自転車を盗まれ、雨の中で仙台駅前を探していたときには、一度別れた伊達さんが戻ってきて一緒に探してくれたという高校時代の出来事も残っています。

先輩を笑わせるラグビー部で、2人そろって呼び出される

当時の仙台商業ラグビー部には、練習後に先輩から面白いことを求められる空気があり、富澤さんと伊達さんは2人一緒に呼ばれることが多かったとそれぞれが振り返っています。

ある雨の日には先輩から水たまりで泳ぐよう言われ、富澤さんがすぐに言葉を返して先輩を笑わせたあと、伊達さんと一緒に水たまりへ入ったこともありました。

伊達さんは後年、この高校時代の出来事を「2人で芸をやった原型」と認めています。

まだコンビでも芸人でもない高校生のころから、先輩から何かを振られると富澤さんが言葉を考え、伊達さんと2人で応じる場面が生まれていました。

高校時代に始めたピザ店のアルバイトが、のちの「デリバリー」へ

1991年にはピザ店でアルバイトを始め、高校卒業後もその店で働き続けました。

富澤さん自身が公式ブログで明かしているように、この仕事で経験したことは、後にサンドウィッチマンの代表的なコントの一つとなる「デリバリー」の題材になります。

ただし、この時点ではアルバイト経験を芸人のネタへ使おうとしていたわけではなく、高校を卒業しても進路そのものがまだ定まっていませんでした。

高校卒業後、「仙台夕やけ劇場」で芸人への道が具体化する

1993年に高校を卒業したあと、富澤さんは一般企業へ就職せず、ピザ店で店長代理として働きながら芸能界へ入る方法を探していました。

子どものころから「芸能人になりたい」という気持ちはあったものの、仙台にいながら何をすれば芸能の仕事へつながるのかまでは分かっていませんでした。

就職せずフリーターを続け、芸能界へ入る方法を探した

2018年のインタビューでは、普通に会社へ就職すれば芸能界へ進むチャンスがなくなるのではないかと考え、企業の面接も受けながらフリーターを続けていたことを明かしています。

ネタを書く仕事に就こうと決めていたわけでも、具体的な養成所を探していたわけでもなく、芸能人になる方法自体がよく分からない状態でした。

そこへ1995年、仙台に「仙台夕やけ劇場」というお笑いの場が誕生します。

「多分これだ!」と思った仙台夕やけ劇場、最初に伊達を誘う

仙台夕やけ劇場には、DonDokoDon、ロンドンブーツ1号2号、ココリコ、品川庄司など、当時の東京の若手芸人たちが週替わりで出演していました。

地元仙台で突然目の前に現れた「お笑いをやれる場所」を見て、富澤さんの中で漠然としていた芸能界への気持ちが具体的な行動へ変わります。

「多分これだ!」

富澤たけしオフィシャルブログ

富澤さんは最初に伊達さんへ声をかけました。

しかし伊達さんはすでに仕事をしており、すぐ会社を辞めることはできなかったため、この時点で2人のコンビは実現しませんでした。

別の相方と「ゆやゆよん」を結成し、駐車場で働きながらネタを書く

伊達さんに断られた富澤さんは、お笑いそのものを諦めず、別の相方と「ゆやゆよん」を結成しました。

仙台夕やけ劇場のオーディションを受けて素人コーナーへ合格し、駐車場のアルバイトの合間に富澤さんがネタを書きながら舞台へ出る生活が始まります。

養成所へ入り、決められたカリキュラムで芸を学んだのではなく、地元のライブへ飛び込み、実際の舞台へ立ちながら活動を始めたのが富澤さんの芸人人生の入口でした。

1996年には「MYCALよしもと大博覧会in東京ドーム」の素人お笑い全国大会へ東北地区代表として出場し、決勝10組まで残っています。

ところが、その大会のあと「ゆやゆよん」は解散し、1997年は本人が公式ブログで「ブラブラする」と記す時期を過ごしました。

富澤さんは一度コンビを失いましたが、最初に芸人へ誘った伊達さんとの関係はそのまま続いていました。

伊達みきおが会社を辞め、1998年に2人で東京へ

高校を卒業してからの2人は、富澤さんがお笑いへ進む一方、伊達さんは福祉関係の会社員として働く別々の生活を送っていました。

それでも富澤さんは伊達さんを誘い続け、約5年が過ぎたころ、ようやく2人の進路が同じ方向へ動き始めます。

誘われ続けた伊達が仕事を辞める決断をした理由

伊達さんは仙台市の対談で、福祉関係の仕事をしながら富澤さんからずっとコンビを組もうと誘われていたと語っています。

そのころ大好きだった祖父が亡くなり、人はいつ亡くなるか分からないと感じたことが、自分の人生について考え直すきっかけになりました。

「一度きりの人生、好きなことをやりたい」

仙台市政だより 2023年1月号

家族からは強く反対されたものの、伊達さんは会社を辞め、富澤さんとお笑いをやる道を選びました。

富澤さんが最初に誘ってから数年を経て、1998年にようやく現在へ続く2人の活動が始まります。

S-PALで迎えた2人の初舞台は大スベり

1998年には伊達さんや地元の芸人仲間らと合同コントの自主ライブ「忠志74」を開き、2人で舞台へ立つ機会を作っていきました。

伊達さんが会社を辞めたあと、仙台駅ビルS-PALで2人の「ゆやゆよん」として初舞台を迎えます。

DonDokoDon、ガレッジセール、ペナルティらの前座として出演しましたが、富澤さんはその結果を公式ブログで「ダダズベリ」と書いています。

地元で華々しい手応えをつかんでから東京へ向かったのではなく、2人の本格的なスタートは笑いを十分に取れなかった舞台から始まりました。

「親不孝」から「銭と拳」へ、上京直後はコンビ名も変わった

同じ1998年に上京すると、最初はホリプロのネタ見せに合格して所属し、コンビ名を「親不孝」へ変更しました。

しかし所属期間は長く続かず、事務所を離れてフリーとなり、今度は「銭と拳」へ改名しています。

「銭と拳」では伊達さんが「銭」、富澤さんが「拳」という担当だったと本人はブログに書いており、後年になって富澤さん自身も「拳担当」とは何だったのかと笑いにしています。

まだ現在の名前も形も決まっておらず、オーディションへ応募したり、芸能事務所へデモテープを送ったりしながら東京で仕事の入口を探していました。

一時トリオになったことで「サンドウィッチマン」が誕生

1999年になると2人は一時的にもう1人を加えたトリオになり、3人組になったことから「サン」に関係する名前を考えます。

当時の名前候補

サンドウィッチマン/三途の川/三角関係

この候補から消去法で選ばれたのが「サンドウィッチマン」でした。

同年にはHRプロジェクトへ入り、「はったりライブ」にも出演するようになります。

2000年には再び伊達さんと富澤さんの2人組へ戻りましたが、サンドウィッチマンという名前はそのまま残しました。

現在まで続くコンビ名は、最初から2人組の名前として考えたものではなく、一時的に3人組になった時期に生まれた名前でした。

東京で続いた下積み|アルバイトとライブ、2人暮らしの日々

コンビ名がサンドウィッチマンに決まっても、すぐにテレビの仕事が増えたわけではありません。

2人は東京の小さなアパートで一緒に暮らし、アルバイトをしながらライブや営業へ出る生活を長く続けました。

6畳一間で暮らし、昼はアルバイト、夜はネタ作り

上京後の2人は6畳一間ほどのアパートで寝食を共にし、その同居生活はM-1優勝後まで約10年続きました。

昼はそれぞれアルバイトへ出て、芸人としての仕事やライブがあると舞台へ向かい、家へ戻ればまた同じ部屋で過ごす毎日でした。

所属事務所の公式サイトで紹介されている著書『復活力』にも、家賃6万8000円の部屋で布団を並べて眠り、観客が2人しかいない舞台にも立った若手時代が紹介されています。

布団に寝たまま舞台の立ち位置でネタ合わせ

狭い部屋は生活の場であると同時に、2人にとってネタ合わせの場所でもありました。

「布団に寝て天井を見ながら練習するんですけど、漫才の立ち位置そのままなんです」

朝日新聞GLOBE+

実際に立って稽古するときも部屋には十分なスペースがなく、わずかな場所を作り、2人とも舞台と同じ方向を向いてセリフを合わせていたと別のインタビューでも語っています。

2001年から2004年ごろにはアルバイトを続けながらVシネマへ出演したり、ライブや営業へ出たりしていましたが、本人の感覚ではテレビへ出られる気配はほとんどありませんでした。

「はったりLIVE」など小さな舞台に立ち続けた若手時代

上京初期から出演した「はったりLIVE」などでは、同じ時期に東京で活動していた芸人たちとのつながりが少しずつ生まれていきました。

一方でライブへ出演するには、出演者自身がチケットを買い取って客へ売るチケットノルマがあることも多く、知り合いが少なければ赤字になる状態でした。

アルバイトを休んでライブへ出ればその日の収入も減り、さらにチケット代も負担するため、舞台へ立つほど生活が楽になる仕組みではありませんでした。

それでもライブでは大きな笑いを取ることがありながら、テレビ局や大きな仕事から声がかからない時期が続きます。

「舞台ではウケるのに、その先へ進めない」という時間が、上京から何年も続いていました。

30歳を前に富澤から「辞めよう」|あと1年だけ本気で勝負

20代の終わりが近づくと、富澤さんは周囲の芸人が芽が出なければ辞めていく姿を見ながら、伊達さんをこのまま引っ張り続けてよいのか考えるようになります。

そもそも会社員だった伊達さんを芸人の世界へ誘ったのは自分であり、結果が出ないまま年齢を重ねさせることへの責任も感じていました。

ついに富澤さんのほうからコンビを辞める話を出しますが、伊達さんから返ってきたのは、そのまま終わらせる答えではありませんでした。

「もう1年頑張ろう。ダメならやめたらいいじゃん」

MANTANWEB

2人はこの1年間だけは悔いが残らないよう本気で取り組み、それでも全国ネットのテレビ番組でネタができなければ辞めると決めました。

それまで避けていた赤字になるライブにも出ると決め、アルバイトを減らして出演できる舞台へ片っ端から出始めます。

ライブを増やした先で「エンタの神様」のカメラに見つかる

2005年、浅草で出演したライブに日本テレビ系『エンタの神様』の若手発掘用カメラが入り、そこから番組出演のオファーが届きました。

同じころフラットファイヴへ所属し、ようやく2人が目標にしていた「全国ネットのテレビでネタをする」機会がやって来ます。

『エンタの神様』で最初に披露したのは「ピザの宅配」で、高校時代から働いていたピザ店での経験を題材にしたネタでした。

高校時代に始めたアルバイトの経験が、10年以上たって「芸人を辞めずに済んだ」と富澤さんが振り返るテレビ初期の重要なネタになりました。

同じ2005年にはM-1グランプリで初めて準決勝へ進み、2006年も2年連続で準決勝に残りました。

長くテレビへつながらなかった時期が終わり、少しずつ外から見える場所へ出始めたのは、解散を考えた直後の数年間でした。

M-1敗者復活から優勝|長かった下積み後に仕事が一変

2007年には『笑点』への出演も果たしましたが、この年の芸人人生を最も大きく動かしたのはM-1グランプリ2007でした。

ただしサンドウィッチマンは、最初から決勝進出9組の中へ名前を連ねていたわけではありません。

2005年・2006年は準決勝、2007年も最初は決勝へ届かなかった

2年続けて準決勝へ進んでいたサンドウィッチマンは2007年もM-1へ挑みましたが、決勝への直接進出は逃しました。

残されたルートは、決勝当日に行われる敗者復活戦でした。

その年のM-1には4,239組が参加しており、サンドウィッチマンは敗者復活戦を勝ち上がって最後の1枠として決勝へ入ります。

決勝ファーストラウンドでは651点を獲得してトップとなり、キングコング、トータルテンボスとともに最終決戦へ進みました。

2007年、敗者復活から史上初のM-1王者へ

最終決戦を制したサンドウィッチマンは、敗者復活戦から勝ち上がったコンビとして史上初めてM-1グランプリ優勝を果たしました。

大会公式記録にも、敗者復活戦の勝者がそのまま王者になった初めての大会として2007年の結果が残されています。

予選で一度決勝への道を断たれたあと、同じ日に敗者復活と決勝を勝ち上がり、東京で約10年続けてきた2人の仕事量は一気に変わりました。

テレビへ出られず解散まで考えたコンビが、その数年後には4,239組の頂点に立ちました。

「借金返せる」と思った優勝直後、翌日から生活が変わる

優勝が決まった瞬間、富澤さんが真っ先に考えたのは借金を返せるということだったと仙台市の対談で語っています。

長い同居生活とアルバイトを経て30代で迎えた優勝だったため、賞金を手にして浮かれるというより、これから芸人として食べていかなければならないという気持ちのほうが強かったそうです。

仕事は急激に増え、富澤さんは後年、M-1優勝後の状況を次のように振り返っています。

「M-1で優勝してから、半年は休みなく仕事をいただいて」

Numero TOKYO

昨日までアルバイトとライブを行き来していた2人が、今度はテレビの現場で先輩芸人やタレントたちと次々に共演する生活へ入りました。

売れた直後にも「結果を出さなければ次はない」という緊張があり、M-1優勝そのものより、その翌日から始まった仕事の変化によってブレイクを実感することになります。

富澤たけしがネタを書き、漫才とコントを続ける現在

M-1優勝後はテレビやラジオの仕事が大幅に増えましたが、サンドウィッチマンの活動から漫才とコントが消えたわけではありません。

若手時代から続いてきた富澤さんのネタ作りと、伊達さんとのライブが現在もコンビの中心にあります。

富澤が作るネタに伊達がライブでアドリブを加える

朝日新聞GLOBE+の2021年の取材では、富澤さんが携帯電話で台本を作り、伊達さんへ送り、そこから2人でネタ合わせをする方法が紹介されています。

仙台市の対談では富澤さんがきちんとネタを作り、伊達さんがライブでアドリブを加えていくという2人の関係も語られています。

高校のラグビー部では先輩から2人まとめて面白いことを求められ、上京後は同じ部屋でセリフを合わせ、M-1後も2人で舞台へ立つ形は変わっていません。

「一人で売れたいとは思わないし、一人で芸人を続けたいとは思わない」

MANTANWEB

富澤さんにとってサンドウィッチマンは、ネタを書く自分と、それを舞台で返す伊達さんの2人がそろって成立する活動です。

テレビ・ラジオへ活動が広がってもライブを続ける

テレビでMCを務める機会が増えたあとも、富澤さんはインタビューで「活動はライブが柱」と話し、テレビを見た人がライブへ来てくれればよいという考えを語っています。

所属するグレープカンパニーは2026年6月にも「サンドウィッチマンライブツアー2026」の開催を発表しており、全国8都市12公演が予定されています。

仙台公演も日程に組まれており、高校のラグビー部で出会った2人が東京へ出てから長い年月がたっても、仙台とライブの両方が活動の中に残っています。

子どものころ4コマ漫画を描き、高校卒業後には駐車場の仕事の合間にネタを書いていた富澤さんは、現在もサンドウィッチマンのネタを書く側として舞台に立っています。

東京で生まれ、転居を重ねて仙台へ来た少年は、仙台商業高校のラグビー部で伊達みきおさんと出会いました。

高校卒業後は別々の道を歩きましたが、富澤さんが伊達さんを誘い続けたことで2人は再び同じ道へ進み、解散を考えるほど長い下積みの先でM-1優勝をつかみました。

2026年もライブツアーを続ける現在まで、2人が舞台でネタをする時間はサンドウィッチマンの活動の中に残り続けています。

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