春とヒコーキ土岡哲朗の生い立ちと家族|高校の孤独、青学落研、3年ニートから芸人になるまで

人物プロフィール

血液型
A型
出身地
栃木県
所属事務所
タイタン
養成所・スクール
タイタンの学校

お笑いコンビ「春とヒコーキ」でツッコミとネタ作りを担う土岡哲朗さん。

相方のぐんぴぃさんとともにコントや漫才を続け、YouTubeで広く知られるようになった後も賞レースや単独ライブの舞台に立ち続けています。

ところが学生時代までさかのぼると、現在の姿からは想像しにくい時間があります。

高校では一日ほとんど誰とも話さずに帰る日が続き、青山学院大学では落語研究会で笑いを取るようになり、卒業後には約3年間のニート生活を送りました。

芸人一直線だったわけではなく、就職することさえ怖くなったところから、ぐんぴぃさんを誘ってお笑いの道へ進んだ人物です。

土岡哲朗の生い立ちと家族|宇都宮で育ち、父と映画を見た子ども時代

土岡哲朗さんは1992年2月21日生まれ、栃木県宇都宮市出身です。

後に落語やお笑いへ向かう一方で、子どものころから長く続いているもう一つの大きな趣味が映画でした。

父は医師|宇都宮で育った家庭

土岡さんの父親は医師で、本人は宇都宮で育ちました。

後年のテレビ出演では父親の職業が医師であることが紹介されており、大学卒業後に東京で無職になった時期にも、家族の支えを受けながら暮らしていました。

家族との思い出の中で土岡さん自身が詳しく語っているのが、父親と一緒に映画を見ていた時間です。

父と『スター・ウォーズ』を観た時間から映画好きへ

両親は映画が好きで、なかでも父親は『スター・ウォーズ』が好きでした。

テレビで作品を見ていると父親が物語を説明してくれ、その姿を子どもの土岡さんは格好いいと感じていたそうです。

『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』が公開されるころには、父親がそれまでの作品をDVDで用意し、一緒に見てから新作を映画館へ観に行きました。

父親と見た『スター・ウォーズ』は、後に土岡さんが映画を自分から追いかけるようになる入口になりました。

神社の奥に映画のような別世界があると想像して友達と遊んだこともあり、映像の中の世界を日常の遊びへ持ち込む子どもでもありました。

中学までは男友達とよく遊び、お笑いも好きだった

高校時代の孤立が強く語られる土岡さんですが、中学生のころからずっと一人だったわけではありません。

本人によると女子とはうまく話せなかったものの、男子とは3年間よく遊び、ふざけたり笑ったりしながら過ごしていました。

お笑いもこのころには好きになっていましたが、好きだからこそ「自分がプロとして活躍する世界ではない」と考えており、芸人を将来の仕事として見ていたわけではありません。

高校3年間は「ひとり別空間」|友達を作れず、ほとんど話さない日々

中学では男子の友達と普通に過ごしていた土岡さんにとって、高校進学前の期待はかなり大きなものでした。

進学したのは男子校で、むしろ友達を作りやすい環境だと思っていたからです。

男子校なら全員と仲良くなれると思って入学

土岡さんは高校へ入る前、男子だけの学校なら中学時代と同じように自然と友達ができると考えていました。

「男子しかいない学校なら、全員と仲良くなれるじゃん!」

土岡哲朗 note「高校3年間、ひとり別空間にいた」

しかし入学すると、中学から一緒だった友達と新しい同級生を無意識に比べるようになり、自分から関係を作る方法が分からなくなっていきます。

最初から完全に孤立していたのではなく、1年生の後半になっても同級生との距離が縮まらないまま時間が過ぎました。

2年生になると一言も話さず帰る日が増えた

2年生になるころには、先生に指名されて答える以外に声を出さない日が増えていきました。

授業が終われば掃除をしてそのまま帰宅し、学校で一日を過ごしても同級生と会話しないまま終わることが珍しくなくなります。

「今日は誰とも話していない」と本人が数えられるほど、会話そのものが特別な出来事になっていました。

休み時間の「寝たふり」と水道、体育で数えた会話回数

話し相手がいない休み時間は、机で寝たふりをするか、水を飲みに行くことで時間を使っていました。

そんな学校生活の中で、人と声を交わせる可能性が高かったのが体育の授業でした。

球技ならボールを受け取るときの「ヘイ」、失敗したときの「ごめん」といった短い言葉を発する機会があり、本人は何人と話せたかを数えていたといいます。

多い日には5人ほどと声を交わせることもあり、普通なら意識しない一言一言が当時の土岡さんにとっては数えられるほど具体的な出来事でした。

はんにゃの「ツッチー」がクラスだけ「ツッツー」になった

高校時代を象徴する小さな出来事として、土岡さんは当時人気だったはんにゃのネタについても書いています。

ネタの中に「ツッチー」と呼ぶ場面がありましたが、クラスメートがそれをまねると「土岡を呼んだと思われるかもしれない」という空気が生まれ、土岡さんのクラスでは「ツッツー」という少し変えた言い方が広がりました。

本人は輪の中に入ることなく、その変化を外から見ていました。

高校生活は友達を作れないまま卒業を迎えましたが、その状況は次の進学先で大きく変わります。

青山学院大学の落研で一変|ぐんぴぃとの出会いと学生落語準優勝

高校卒業後、土岡さんは青山学院大学文学部日本文学科へ進学しました。

入学後に選んだのが落語研究会で、ここで後の相方となるぐんぴぃさんと出会います。

落研の新歓で1学年上の「紙袋おじさん」ぐんぴぃと出会う

二人の最初の接点は、青山学院大学の落語研究会の新入生歓迎でした。

ぐんぴぃさんは1学年上で、土岡さんが入学するころには学内で紙袋を持って歩く人物として知られ、掲示板などでも話題になる存在だったといいます。

そのため土岡さんは、実際に話す前から「紙袋おじさん」としてぐんぴぃさんのことを知っていました。

一方のぐんぴぃさんが新歓で見た土岡さんの第一印象は、かなり物静かな新入生でした。

半年ほどで「落研のスター」と呼ばれる存在へ

入部直後の印象だけを見れば、高校時代と大きく変わらないようにも見えます。

ところが半年ほどすると、ぐんぴぃさんが「土岡は落研を辞めたのでは」と思うほど、土岡さんの印象は別のものになっていました。

実際には辞めておらず、周囲から「誰よりも笑いを取っている」と教えられます。

当時の落研には約30人が所属しており、ボケたがる部員が多い中で、土岡さんは相手の言葉へ反応するツッコミ役として存在感を出していきました。

高校では一日ほとんど話せなかった土岡さんが、大学では半年ほどで周囲から「落研のスター」と見られるほど笑いを取るようになりました。

ボケだけでなくツッコミでも笑わせた学生落語

土岡さんは落研でツッコミをしていただけでなく、自分が高座へ上がる学生落語でも独特の笑いを作っていました。

既存の落語へ自分のギャグを入れる改作落語を得意とし、話そのものを崩さずにオリジナルの言葉を加えていたと、当時を知る芸人のどくさいスイッチ企画さんが振り返っています。

「ツッコミのワードでも笑いを取る」

月刊ニュータイプ/どくさいスイッチ企画×土岡哲朗

現在の春とヒコーキでも土岡さんはツッコミとネタ作りを担当していますが、言葉を返すことで笑いを作るスタイルは学生時代からすでに見えていました。

全国大会準優勝と、どくさいスイッチ企画らとの交流

学生落語では第4回てんしき杯学生落語トーナメントで準優勝しています。

大学の枠を越えた交流もあり、後にR-1グランプリ決勝へ進出するどくさいスイッチ企画さんらと落語会で顔を合わせていました。

青山学院大学での寄席が終わったあと、終電を逃した大阪からの出演者たちを土岡さんの家へ泊め、翌日に一緒に上野動物園へ行ったこともあったといいます。

高校で友達を作れなかった3年間の次にあったのは、落語を通じて大学の外にも人間関係が広がっていく時間でした。

お笑いは好きでも「自分が芸人になる」とは考えていなかった

これだけ落研で笑いを取っていても、土岡さんは卒業後に芸人になるつもりではありませんでした。

中学のころからお笑いが好きだったため、むしろプロの世界を高く見ており、自分がそこで活躍する姿を現実的には考えられなかったからです。

大学では映画を観た記録をExcelに残し始めるなど趣味も深まっていましたが、4年生になると周囲と同じように就職活動へ向かいました。

就活失敗から3年間のニートへ|芸人になる決断まで

土岡さんが芸人になるまでの最大の分岐点は、落研で賞を取ったことではなく、その後の就職活動でした。

普通に会社へ入り働くつもりで動き始めたものの、面接でうまく話すことができませんでした。

面接でつまずき、就職留年を決める

就職活動ではスーツ姿の大人を前にすると言葉が出ず、一次面接の段階で落ちることが続きました。

そこで土岡さんは、その年の就職を諦め、大学へもう1年残って次の就活に備える就職留年を選ぼうとします。

卒業に必要な最後の科目を落とせば大学に残れると考え、期末試験を受けませんでした。

試験を受けなかったのに単位が出て、予定外の卒業

ところが、その科目では普段の出席や提出していたレポートが評価され、試験を受けなかったにもかかわらず単位が認められました。

本人の計画とは逆に、大学から届いたのは卒業できるという知らせでした。

「卒業するつもりなんてなかったんです。許してください」

土岡哲朗 note「記憶のないニート時代の思い出」

留年して就活をやり直す予定だった土岡さんは、思いがけず大学を卒業し、就職先のないまま社会へ出ることになりました。

何も予定のない日々が約3年間続いた

大学を卒業した土岡さんは、そのまま約3年間のニート生活へ入ります。

家族から生活面の支えを受けて東京に残り、アルバイトもせずに暮らしていました。

本人が後に書いた当時の日常は、起きて、食事をして、洗濯や掃除をしているうちに一日が終わるというものでした。

テレビやインターネットを見て過ごし、翌日も同じような生活が続きます。

本人はその繰り返しを「1000日」と表現しており、予定が何もない朝を迎えること自体が次第につらくなっていきました。

「就職も芸人も怖い」なら芸人へ|ぐんぴぃを誘う

ニート生活の中でも、仕事を探そうとしたことはありました。

求人情報を見つけても、応募するための電話をかけることが怖くなり、就職への心理的なハードルはどんどん高くなっていきます。

一方、大学の落研で経験したお笑いも、プロになるには怖い世界だと考えていました。

やがて本人の中で、その二つの怖さがほとんど同じ高さまで近づきます。

「どちらも怖いならば、いっそ芸人になってしまおう!」

MEN’S NON-NO WEB

ここで土岡さんは就職ではなく芸人を選び、自分からぐんぴぃさんへコンビ結成を持ちかけました。

相手にぐんぴぃさんを選んだ理由もはっきりしており、大学時代に自分を最も笑わせた人物だったからです。

芸人になると決めてから相方を探したのではなく、土岡さんの中では最初から「組むならぐんぴぃ」という答えがありました。

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』にも背中を押された

コンビとして本格的に動き出す前の2015年には、子どものころから好きだった『スター・ウォーズ』の新作『フォースの覚醒』が公開されました。

長い歴史を持つシリーズが再び動き出した姿を見て、土岡さんは自分のやりたいことについても考えました。

「言い訳せずにやりたいんだったらやらなきゃ損だな」

Do it Theater

幼少期に父親と見始めた映画が、今度は芸人として動き出す時期にも本人の背中を押す作品になりました。

ぐんぴぃを約3年待ち、春とヒコーキ結成へ

土岡さんが芸人になると決めても、すぐに二人で活動を始められたわけではありません。

ぐんぴぃさんは大学卒業後、ブックオフへ就職して会社員として働いていました。

「100万円貯めたら会社を辞める」から3年で22万円

土岡さんからコンビに誘われたぐんぴぃさんは、芸人になること自体にはすぐ同意しました。

ただし、会社を辞める前に100万円を貯めるという条件を自分で決めます。

「100万円貯めたら辞めて芸人になる」

CHINTAI情報局

ところが会社員生活が続く中で貯金は予定どおり増えず、3年ほどたって残っていたのは22万円でした。

土岡さんはその間ずっと待ち続けましたが、ついに「もう待てない」と伝えます。

大学卒業後に芸人を決めた土岡さんは、自分が選んだ相方が会社を辞めるまで約3年待っていました。

正式結成前の2016年、「ポピンジ」でM-1に出場

ただし、この3年間に二人がお笑いの場でまったく動いていなかったわけではありません。

M-1グランプリの公式記録では、春とヒコーキの正式結成より前の2016年に「ポピンジ」名義で出場していたことが記されています。

会社員だったぐんぴぃさんと、ニート生活から芸人へ向かおうとしていた土岡さんが、正式なコンビ結成に先んじて二人で舞台へ出始めていた時期でした。

2017年4月に春とヒコーキを正式結成

ぐんぴぃさんが会社を辞めることを決め、二人は2017年4月1日に「春とヒコーキ」を正式結成しました。

土岡さんにとっては、就活に失敗して大学を卒業し、3年間のニート生活を送り、その間に待ち続けた相手とようやく本格的に芸人活動を始めることになった時期です。

養成所で相方を見つけたのではなく、大学時代から知るぐんぴぃさんと先にコンビを組み、フリーの状態から芸人人生を始めました。

他人の名前を残した「春とヒコーキ」というコンビ名の由来

「春とヒコーキ」という少し変わった名前を付けたのは土岡さんです。

もともと土岡さんは、学生時代の知人に由来する「ハルヒコ」という名前をぐんぴぃさんの芸名に使おうとしました。

ぐんぴぃさんに拒否されたため、その名前をそのまま使うことは諦めたものの、「春ヒコ」と略せるように「春とヒコーキ」というコンビ名へ形を変えました。

ぐんぴぃさんからすれば拒否したはずの名前が、別の形でコンビ名に残ったことになります。

漫才とコントを始め、土岡がネタ作りを担う

春とヒコーキは漫才とコントの両方に取り組み、土岡さんはツッコミだけでなくネタ作りも担当するようになりました。

学生落語では、元の物語を壊さずに自分のギャグやツッコミを差し込んでいた土岡さんですが、コンビのネタを書くようになってからは映画の脚本術も参考にしていきます。

映画の三幕構成などを扱う本を読み、面白い設定を出すだけで終わらず、ネタとしてどう着地させるかまで考える材料にしていると後に語っています。

フリー芸人からタイタンの学校へ|事務所に入れない2年間

2017年に春とヒコーキを結成した二人は、すぐに芸能事務所へ所属できたわけではありません。

最初の約2年間はフリー芸人としてライブへ出ながら、所属先を探していました。

芸人ライブと事務所オーディションを繰り返す

知り合った芸人のライブへ出演しながら、複数の事務所のオーディションを受ける生活が続きます。

2018年にはK-PROのフリー芸人大会「THE VERY BEST OF FREE」で決勝へ進出しましたが、それでも所属事務所が決まったわけではありませんでした。

舞台には出られるものの、芸人として活動を続ける場所をまだ自分たちで探している時期でした。

ネタの講評が「気持ち悪かった」だけだったオーディション

事務所オーディションの一つでは、他の芸人には「ここをこう直したほうがいい」と具体的な講評が続いていました。

春とヒコーキにも同じようなアドバイスが来ると思って待っていると、返ってきた言葉は一言だけでした。

「気持ち悪かったなぁ」

MEN’S NON-NO WEB

具体的に直す場所さえ示されないまま、オーディションを受け続ける時間が続きました。

2019年にタイタンの学校2期へ入り、校内ライブで最優秀芸人に

コンビ結成から約2年後の2019年、春とヒコーキは「タイタンの学校」芸人コース2期へ入ります。

二人にとっては、養成所を出てからコンビを組んだのではなく、コンビとしてフリーで活動した後から学校へ入る順番でした。

同年9月の定期ライブ「TITANの学校 presents Dragonfly」では、観客投票によって春とヒコーキと対決ダンスが上位に選ばれ、若手ライブ「TITAN LIVE Rhea」への出演権を獲得します。

事務所オーディションに落ち続けていた二人は、タイタンの学校では校内ライブの最上位に選ばれるところまで進みました。

学校修了と預かり期間を経てタイタン正式所属へ

タイタンの学校を修了した後は、すぐ正式所属ではなく預かりの期間を挟みました。

そして2021年5月からタイタンへ正式所属となります。

大学の落研で出会い、ニートと会社員という別々の時間を経て結成し、フリーで約2年活動してから学校へ入り、ようやく所属芸人として活動する環境が整いました。

「バキバキ童貞」のバズと、ネタで売れたい春とヒコーキ

タイタンの学校へ入った2019年前後、春とヒコーキには賞レースとはまったく違う方向から大きな出来事が起こります。

ぐんぴぃさんが街頭インタビューを受け、その映像の一場面がインターネット上で急速に拡散しました。

ぐんぴぃの街頭インタビューが突然拡散

インタビューを受けた本人は当初、それほど大きなことになるとは考えていませんでした。

その後、知人がX上で映像を見つけ、ぐんぴぃさんへ「すごいことになっている」と知らせたことで、本人たちも拡散の規模を知ります。

街頭で答えた内容と表情が切り取られ、ぐんぴぃさんには後に「バキバキ童貞」という呼び名が定着しました。

春とヒコーキが最初に広く知られる大きなきっかけは、賞レースの優勝ではなく、相方の街頭インタビューでした。

相方が「芸人ではない部分」で先に知られた土岡の戸惑い

土岡さんは、このバズを単純に「売れるチャンス」とだけ見ていたわけではありません。

二人は芸人としてネタで笑ってもらい、そこから名前を知られようとしていました。

ところがぐんぴぃさんは、舞台上のボケやネタではなく、一般人として受けた街頭インタビューで先に何百万人もの目に触れることになります。

「芸人として知られたい」のに、その前に相方だけが別の形で有名になるという、春とヒコーキ特有の状況が生まれました。

ぐんぴぃさん自身も急な注目に戸惑い、しばらく家から出にくくなった時期があったと二人は後に明かしています。

YouTubeが新たな活動軸になる一方、ネタを続ける

街頭インタビューの拡散からすぐ現在のようなYouTube活動へ一直線に進んだわけでもありません。

ぐんぴぃさんは当初、自分がネットで知られたことに複雑な気持ちを持っており、後にマネージャーの提案などを受けて動画活動が本格化していきました。

やがてYouTube「バキ童チャンネル」は春とヒコーキを知る大きな入口になりますが、コンビはライブとネタ作りを止めませんでした。

ネットでの知名度が大きくなる一方で、漫才やコントでは別の実績を積み上げていきます。

K-PRO、ラフターナイトを経てキングオブコント2024準決勝へ

2019年にはK-PROの大会「THE VERY BEST OF FIVE」で優勝し、「D-1 2019」では敗者復活から決勝へ進出しました。

2020年の「D-1 2020」でも敗者復活から決勝へ進んでいます。

2022年12月にはTBSラジオ「マイナビ Laughter Night」で月間チャンピオンを獲得しました。

そして2024年、春とヒコーキはキングオブコント準決勝へ進出します。

街頭インタビューやYouTubeとは別に、コンビとしてネタを続けた先でキングオブコント準決勝まで進みました。

ネット上で先に大きな知名度を得た後も、春とヒコーキの芸人としての歩みはライブと賞レースの中で続いています。

全国ツアーへ進んだ春とヒコーキ|土岡哲朗の現在

春とヒコーキとしての活動が広がった現在も、土岡さんには大学の落研やニート時代から続いているものがあります。

その一つが、言葉を選びながらネタを組み立てることです。

学生落語から続く言葉と構成が現在のネタ作りへ

学生落語では、既存の話に自分のギャグを入れながら筋を壊さず、ツッコミの言葉でも笑いを取っていました。

現在は春とヒコーキのネタを書く際に、長年見続けてきた映画の構成も参考にしています。

大学時代から映画の感想をExcelへ記録する習慣を始め、その後も長く続けてきました。

脚本術を扱う本から三幕構成などを学び、コントでも設定だけを出して終わらず、物語としてどう回収するかを考える材料にしています。

高校では言葉を発する機会そのものを数えていた土岡さんが、大学ではツッコミの言葉で笑いを取り、現在はその言葉を使ってコンビのネタを書いています。

2026年、初の4都市単独ライブツアーを開催

2026年には、春とヒコーキの第3回単独ライブ「モンキービジネス」を開催しました。

今回は初めて東京だけでなく、大阪・福岡・北海道・東京の4都市を回るツアー形式です。

当初販売された公演が相次いで完売したため追加公演も決まり、最終的に4都市で全24公演を行いました。

事務所に入れずフリーライブへ出ていた時期から約9年後、春とヒコーキは4都市24公演の単独ツアーを回るコンビになりました。

現在の知名度だけでなく、単独ライブを全国へ広げられるところまでネタ活動の規模も大きくなっています。

ツギクル芸人グランプリ2026で初の決勝へ

同じ2026年には、若手芸人の賞レース「ツギクル芸人グランプリ2026」で初めて決勝へ進出しました。

8月1日に行われた決勝ではBブロックに登場し、ファイナルステージ進出には届かなかったものの、春とヒコーキにとって大会初の決勝進出となりました。

キングオブコント2024準決勝に続き、YouTubeとは別の場所でもネタを競う活動が続いています。

3年間のニート経験を『内定0から始めるニート入門』として本にする

2026年2月には、土岡哲朗さん名義で『内定0から始めるニート入門』を刊行しました。

大学4年の就活でつまずき、卒業後に3年間ニートとして過ごした経験が、芸人になってから一冊の本になった形です。

土岡さんは現在でも、ライブの日を「仕事」と強く意識するより「お笑いをやる」と考えるようにしていると語っています。

宇都宮で父親と映画を見ていた少年期、高校でほとんど声を出さなかった3年間、青学落研で笑いを取った大学時代を経て、卒業後には一度社会から離れる時間がありました。

就職することと芸人になることが同じくらい怖くなったところで選んだのが、大学時代に最も自分を笑わせたぐんぴぃさんとのお笑いでした。

その二人はフリー時代とタイタンの学校を経て、現在も春とヒコーキとしてネタを書き、ライブの舞台に立ち続けています。

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