信子(ぱーてぃーちゃん)の生い立ちと家族|大分時代から22歳で芸人を選んだきっかけまで

人物プロフィール

本名
大野信子
生年月日
1992年8月1日
血液型
unknown
出身地
大分県 大分市
コンビ・グループ名
ぱーてぃーちゃん
相方・メンバー
すがちゃん最高No.1、金子きょんちぃ
結成年
2021年
所属事務所
ワタナベエンターテインメント
芸人活動開始年
2017年
養成所・スクール
ワタナベコメディスクール 24期

青とシルバーの髪に、明るいギャル口調で笑いを届けるぱーてぃーちゃんの信子さん。

すがちゃん最高No.1さん、金子きょんちぃさんと並ぶ現在の姿からは、子どものころから一直線に芸人を目指してきたようにも見えますが、実際にはかなり違う道を通ってきました。

大阪で生まれ、大分で育ち、陸上に打ち込み、上京後は飲食店などで働いた末に、22歳ごろになって初めて芸人という進路を選んでいます。

しかも最初から「ぱーてぃーちゃんの信子」だったわけではなく、ピン芸人志望、一時的なトリオ、きょんちぃさんとのコンビ「エンぷレス」、売れない若手時代を経て、現在の3人へたどり着きました。

「33億円の実家」や徳川家ゆかりの家系という話だけでは見えてこない、信子さんがどんな場所で育ち、なぜ芸人になり、どうやって現在のスタイルへたどり着いたのかを、時間を追って見ていきます。

信子の生い立ちと家族|大阪で生まれ3歳から大分へ

信子さんの「出身地」は所属事務所では大分県とされていますが、生まれた場所と育った場所は同じではありません。

1992年に大阪府堺市で生まれ、3歳ごろから18歳まで大分市で育ちました。

大阪の「33億円の実家」で過ごした幼少期と大分への引っ越し

信子さん自身がたびたび語っている幼少期のエピソードの一つが、大阪にあった大きな家です。

2024年に鬼越トマホークのYouTubeへ出演した際には、この家について父親が建てたもので、建築に33億円ほどかかったと説明しています。

家があったのは大分ではなく大阪で、信子さんが住んでいたのも3歳ごろまででした。

庭で迷子になり、庭師に助けてもらった記憶があるほど広かったという一方、幼かったため家そのものについて鮮明な記憶が大量に残っているわけではないとも話しています。

徳川家ゆかりの家系について信子本人が語っていること

「徳川家の末裔」という話も信子さんのプロフィールではよく知られています。

ワタナベエンターテインメントの公式プロフィールでも、信子さんについて徳川家の末裔と紹介されています。

信子さん自身は鬼越トマホークのYouTubeで、曽祖母の代まで徳川姓だったことや、家系図、家紋の入った甲冑を見たことがあると語っています。

一方で、33億円の家については徳川家から受け継いだ建物ではなく、父親が建てたものだと説明しており、「徳川家ゆかりの家系」と「33億円の家」は別の話として整理した方が実際の説明に近くなります。

母の故郷・大分で始まった家族との暮らし

3歳ごろになると、一家は母親の故郷である大分県へ移りました。

その後18歳で上京するまでの約15年間を大分で過ごしており、本人は大分について「青春のすべて」が詰まった場所として語っています。

大分には祖母も暮らしており、芸人になった後に大分で冠番組が放送された際には祖母も喜んでいたと、県の情報発信サイト「edit Oita」で明かしています。

大阪の豪邸で過ごした期間よりも、学校へ通い、友達と遊び、お笑いを見て、現在のギャルスタイルにつながる時間を過ごした大分での15年間の方が、信子さん自身の記憶には濃く残っています。

大分で過ごした小中学生時代|新喜劇と陸上とギャル

大分市では金池小学校、上野ヶ丘中学校で学びました。

この時期の信子さんには、現在につながる「お笑い好き」と、全国大会まで進んだ「陸上」という二つの顔がありました。

土曜の吉本新喜劇を見て、友達と「新喜劇ごっこ」

信子さんにとって、お笑いは芸人になろうと決めるずっと前から生活の中にありました。

当時の大分では土曜日の昼に『吉本新喜劇』が放送されており、午前授業が終わると家へ帰ってテレビを見ていました。

「edit Oita」のインタビューでは、学校で配られたオレンジジュースの紙パックを持って急いで帰宅し、テレビの前に座った当時の様子まで語っています。

見終わればそれで終わりではなく、友達と集まって「新喜劇ごっこ」をしていました。

島木譲二さんの「ポコポコヘッド」や辻本茂雄さんの「茂じい」、中條健一さんのアスパラガスのネタなどをまねし、最初は数人だった仲間も次第に増えていったそうです。

2004年のM-1グランプリで南海キャンディーズを見たことも印象に残っており、特に山里亮太さんのツッコミに衝撃を受けました。

「こんな革命的なツッコミする人いるんだ……!」

logirl

ただ、この時点では「将来は芸人になる」と進路を決めていたわけではありません。

走り幅跳びでジュニアオリンピックへ

お笑いと同じくらい具体的な結果を残していたのが陸上です。

種目は走り幅跳びで、小学生時代にはジュニアオリンピックの全国大会へ進んだ経験があり、所属事務所のプロフィールにも掲載されています。

後年の『Tarzan』のインタビューでは、地元の陸上が強くなっていた時期に自分も競技へ打ち込み、中学ではキャプテンも経験したことを話しています。

学校の外では新喜劇のまねをし、競技場では走り幅跳びに打ち込む生活を送っていました。

小6の春休みに金髪へ、ギャルとして迎えた中学時代

現在の信子さんを特徴づけているギャル文化との出会いも早く、小学6年生の春休みには髪を金髪に染めています。

本人はこれを「中学デビュー」と振り返っており、芸人になってから作られた衣装用のキャラクターではなく、大分で暮らしていたころからギャルだったことが分かります。

高校時代から18歳の上京へ|お笑い好きでも芸人はまだ進路ではなかった

中学を終えた後は大分南高校で学んでいます。

その後は高校を卒業せず、2026年に本人が自ら「中卒」と明かしたうえで高校へ入り直しています。

大分南高で過ごした時期と『リンカーン』『ごっつ』に夢中だった日々

学生時代に好きだったのは吉本新喜劇だけではありません。

中高生になると『リンカーン』を見たり、『ダウンタウンのごっつええ感じ』をDVDで見たり、南海キャンディーズの漫才やバナナマンの単独ライブDVDを借りたりしていました。

『ごっつええ感じ』は当時交際していた相手から勧められ、映像を見るようになったことも本人が明かしています。

ここまでお笑いを見ていても、まだ芸人になるために養成所を調べたり、コンビ相手を探したりしていたわけではありません。

地元誌のスナップに憧れた大分での青春

大分時代の話では、テレビや学校以外の遊び方もかなり具体的に残っています。

パークプレイス大分やトキハわさだタウン、ゆめタウン別府などへ友達と出掛け、映画を見たり、買い物をしたり、プリクラを撮ったりしていました。

当時、大分の若者に読まれていたフリーペーパー『CHIME』のスナップに載ることにも憧れており、お気に入りの服を着て若草公園へ出掛けていたそうです。

テレビで見た「ギャル」を外見だけ取り入れたのではなく、地元の街で友人たちと過ごす日常そのものがギャル時代でした。

18歳で大分を離れ東京へ

18歳になると大分を離れて上京しました。

このときも目的は「芸人になるための上京」ではありません。

東京へ出た後は働きながら生活し、お笑いは好きなものとして残っていましたが、仕事として選ぶまでには数年かかっています。

上京後の仕事から芸人へ|22歳で選んだ「やり残したこと」

信子さんの芸人人生で最初の大きな転機は、養成所へ入った瞬間よりも、その少し前にあります。

東京で仕事を続け、別の将来を考えていたところから、突然お笑いが現実の進路へ変わりました。

BAR・星付きレストラン・アパレルで働いた東京生活

上京後はBAR、星付きレストラン、アパレルショップなどで働きました。

特に飲食の世界では、そのまま自分の店を持つ道も考えていました。

さらにワインを学ぶためフランスへ行くことも選択肢に入り、芸能界とはまったく違う将来が目前まで来ていました。

店を持つかフランスへ行くか迷った末に「芸人」が浮かぶ

22歳ごろ、自分の店を持つのか、フランスへワイン修行に行くのかを考えたとき、信子さんは別のことを考えました。

「日本で最後にやり残したことない?」

edit Oita

そこで浮かんだのがお笑い芸人でした。

子どものころから好きだったお笑いが、22歳になって初めて「仕事としてやってみたいこと」に変わります。

南海キャンディーズの山里亮太さんを見て受けた衝撃も残っており、芸人を目指す段階では「ピンの女性芸人」という方向を考えていました。

「オモ女オーディション」を見つけWCS24期へ

養成所を探す中で目に留まったのが、ワタナベエンターテインメントの「オモ女オーディション」でした。

当時のワタナベではバービーさん、イモトアヤコさん、にしおかすみこさん、平野ノラさんら女性芸人が活躍しており、ピン志望だった信子さんは自分にも合うのではないかと考えます。

そして2016年4月、ワタナベコメディスクール24期へ入学しました。

初めて作ったネタは銀の全身タイツの「マイナスイオン姉さん」

説明会へ行った信子さんは、次に来るときはネタをやるよう言われ、急いで自分のネタを作りました。

初めて人前で披露したのは「マイナスイオン姉さん」というピンネタです。

銀色の全身タイツを着て自然を擬人化したようなキャラクターを演じました。

「アンタ、森に返してやろうか!」

logirl

現在のギャル漫才とはかなり違いますが、これが信子さんにとって人前で自作ネタを披露した最初期の経験でした。

WCSで金子きょんちぃと出会い「エンぷレス」結成へ

WCS24期には、のちに長く相方となる金子きょんちぃさんもいました。

ただし、入学直後から2人がコンビを組んだわけではありません。

最初は別々に活動し、週3〜4回飲む友人になる

信子さんはもともとピン志望でしたが、養成所で知り合った女性から声をかけられ、一度コンビを組みました。

その後は男性メンバーも加わった一時的なトリオでも活動しています。

この時期、芸人として同じ組にいたわけではないきょんちぃさんには、活動の愚痴などを頻繁に話していました。

2人は週3〜4回ほど一緒に飲むプライベートの友人になり、先に芸人仲間としてではなく、人間関係が深まっていきます。

一時的なトリオ解散後にきょんちぃと組む

信子さんのトリオが解散したあと、ようやくきょんちぃさんとコンビを組みました。

養成所側は以前から2人の相性に目をつけていたようで、きょんちぃさんもワタナベから信子さんと会うよう勧められた経験を語っています。

実際に2人が組んだとき、講師から返ってきたのは次の言葉でした。

「お前ら、やっと組んだのか」

logirl

芸人になる前から決まっていた相方ではなく、養成所で別々の活動を試したあと、友人として相性のよかった2人がコンビになりました。

初舞台で起きた出来事と、手探りだった初期の芸風

2人は「エンぷレス」として活動を始めます。

養成所で初めて2人でネタを披露したときは、まだ組んで1週間もたっていませんでした。

きょんちぃさんがネタを飛ばして舞台後に泣き、信子さんはネタを飛ばしたことより、その後すぐ化粧を直し始めたことに腹を立てたという、現在の2人の関係を思わせる出来事も残っています。

2017年にWCSを卒業してから、本格的な若手芸人としての活動へ進みました。

エンぷレスの若手時代|事務所ライブに上がれない日々

養成所を出れば、そのままテレビへ進めたわけではありません。

エンぷレスはワタナベの若手ライブに出演しながらネタを続けましたが、当時のすがちゃん最高No.1さんとは出演するステージの位置にも差がありました。

山里亮太を意識したツッコミを試していた信子

エンぷレス時代の信子さんは、現在のような自由なギャルのボケ役とは違い、憧れていた山里亮太さんを意識したたとえツッコミを試していました。

一方のきょんちぃさんには「自分が世界で一番かわいい」といったキャラクターを設定するなど、2人とも現在とは違う形を試しています。

周囲の芸人からは、普段しゃべっていると面白いのにネタでは魅力が出ていないと指摘されることもありました。

事務所ライブのオーディションに苦戦

すがちゃんさんは当時の自分たちについて、事務所ライブでは上のステージにいた一方、エンぷレスはまだ下のライブへ出ていたと振り返っています。

テレビで知られるようになるまでには数年あり、きょんちぃさんのアルバイト先などでもネタ合わせを続けていました。

最初から「ギャルをそのまま出せば売れる」と分かっていたわけではなく、ツッコミ、キャラクター、漫才の形を変えながら舞台へ出続けています。

すがちゃんがネタ作りを手伝う先輩になる

このころ、後に同じトリオを組むすがちゃんさんは、すでにワタナベの先輩芸人でした。

所属後に最初に食事へ連れていってくれた先輩でもあり、その後は「月一すがの会」と呼ぶ食事の機会ができています。

やがてエンぷレスのネタ作りも手伝うようになり、信子さんがやりたいことを伝え、話し合いながらすがちゃんさんが大部分を形にすることもありました。

まだ3人は同じトリオではありませんでしたが、現在につながるネタ作りの関係はすでに始まっていました。

2020年、きょんちぃが芸人を辞めようとしたコロナ禍

2020年、新型コロナウイルスの影響でライブやイベントが大きく減ると、エンぷレスにも変化が訪れます。

きょんちぃさんは芸人を辞めることを考え、信子さんもその空気を感じ取っていました。

信子さんは、もしコンビが終わればピンでやることまで考え、ピンネタを準備しようとしていました。

エンぷレスが終わる可能性が現実になった2020年夏、その直後にすがちゃんさんのコンビも解散します。

すがちゃん最高No.1が加わり、ぱーてぃーちゃん結成へ

エンぷレスの2人とすがちゃんさんは、最初から「3人で売れよう」と集まったわけではありません。

それぞれの活動が揺れていた時期に、まず試しに3人でネタをするところから始まりました。

すがちゃんのコンビ解散後、3人で即席ユニットを試す

すがちゃんさんが以前のコンビを解散したのは2020年。

同年11月ごろ、解散した芸人などを集めて即席ユニットを作るライブがあり、そこで3人が一緒に漫才をしました。

この最初期の舞台については、後年のインタビューによって「ウケた」と振り返っている場面と「一番スベった」と振り返っている場面があり、複数のライブを経ながら試していたことが分かります。

少なくとも、一度やって即座に正式結成したわけではありません。

3人でライブや番組オーディションへネタを持っていきながら、数カ月にわたって手応えを探していました。

サンローランをヒントに「ぱーてぃーちゃんポーズ」が誕生

最初の形で続けても思うようにウケず、すがちゃんさんは漫才の途中でポーズを入れるアイデアを考えました。

高級ブランドのロゴを手で表現できないかと2人へ相談し、サンローランをヒントにした案から信子さんが手の形を作ります。

そこから調整して生まれたのが、現在も知られる「ぱーてぃーちゃんポーズ」でした。

現在の3人らしい漫才の形が見え始めたのは、正式結成するより前でした。

『知らなくて委員会』での結果が3人の背中を押す

ポーズ漫才が形になると、北海道放送『知らなくて委員会』の芸人企画へ出場する機会を得ました。

それまでノリでぶつかることも多かった3人ですが、この番組では事前にキャラクターや振られたときの返しまで細かく話し合い、本番へ向けて準備しています。

本番で結果を残し、その場で別番組への出演を打診されるほどの手応えを得ました。

すがちゃんさんも、この経験でテレビで結果を残せば次の仕事へつながることを実感したと話しています。

バーでのやり取りを経て2021年4月に正式結成

『知らなくて委員会』で結果を出した後、3人は正式に組む話を進めます。

当時よくネタ合わせをしていたのは、きょんちぃさんのアルバイト先のバーでした。

信子さんときょんちぃさんがすがちゃんさんを呼び出し、周囲からも3人で組むことを勧められていた流れの中で話がまとまっていきます。

2021年4月、エンぷレスにすがちゃん最高No.1さんが加わる形で「ぱーてぃーちゃん」が正式に結成されました。

『おもしろ荘』を目標にした結成1年目とテレビ進出

正式結成した3人には、早い段階から具体的に狙っていた番組がありました。

日本テレビ系『ぐるナイ おもしろ荘』です。

結成直後から『おもしろ荘』を狙ってネタを作り直す

『おもしろ荘』のオーディションは秋ごろから始まるため、3人は4月に正式結成すると、その年の出演を目標に準備を進めました。

一次審査を通過した後、ネタについて「ガチャガチャしすぎている」という趣旨の反応を受ける場面もありました。

最終審査まで進む中ではネタを大きく作り直し、ライブやロケも重なる忙しい期間を3人で過ごしています。

信子さんは後にこの時期を「アオハルだった」と振り返っています。

2022年の出演を境にテレビの仕事が増加

2022年元日の『おもしろ荘』出演後、ぱーてぃーちゃんを取り巻く状況は大きく変わりました。

2022年末のMEN’S NON-NOのインタビューでは、すがちゃんさんが前年と比べて仕事量が約10倍になったと話しています。

きょんちぃさんも、前年はアルバイト予定の色が多かったカレンダーが、芸人仕事を示す色へ変わったことを明かしました。

「声かけてもらえるようになった。圧倒的に違う!」

MEN’S NON-NO WEB

賞レースで一度優勝して突然すべてが変わったというより、3人のネタが形になる→番組で結果を出す→正式結成→『おもしろ荘』へ進むという段階を踏んで仕事が増えていきました。

憧れていた山里亮太と同じ仕事をするまでに

仕事が増えたことで、信子さんには子どものころからのお笑い好きとつながる出来事も起こります。

2004年のM-1で見て衝撃を受け、エンぷレス時代にはツッコミのスタイルまで意識していた山里亮太さんと仕事で共演するようになりました。

初めて山里さんのラジオへ呼ばれた際には、終わった後に感情があふれて涙が出たことも明かしています。

小学生のころテレビで見ていた芸人と、同じ現場で仕事をするところまで芸人人生が進みました。

大分、WCS、高校へ再びつながった現在

ぱーてぃーちゃんとしてテレビへ出るようになってからも、信子さんの活動はバラエティだけに広がったわけではありません。

近年は、子ども時代や芸人になる前に過ごした場所と、もう一度つながるような仕事や出来事が続いています。

2025年に大分市魅力発信アンバサダーへ

2025年3月、信子さんは大分市魅力発信アンバサダーに就任しました。

大分市は、大分ゆかりの人物の発信力を通じて市の歴史、文化、自然、食などをPRする制度を設けており、信子さんもその一人として公式に掲載されています。

2024年の「edit Oita」のインタビューでは、まだ就任前ながら「大分観光ギャル大使」をやりたいという夢を話していました。

3歳から18歳まで暮らした大分を発信することは、芸人になった後に新しくできた活動の一つになりました。

WCSの生徒から「自己プロデュース論」を教える側へ

2016年に信子さんときょんちぃさんが24期生として入ったワタナベコメディスクールとも、現在まで縁が続いています。

2026年度のWCSでは、ぱーてぃーちゃんが特別授業「自己プロデュース論」を担当することが発表されました。

番組オーディションなどで使われるアンケートを題材に、自分のキャラクターや魅力をどう伝えるのかを扱う授業です。

銀の全身タイツで「マイナスイオン姉さん」を演じていた養成所時代から約10年を経て、今度は後輩の養成所生へ自分たちの経験を伝える側になっています。

2026年、高校へ再入学

2026年4月には、33歳で高校へ入学したことを自身のXとInstagramで公表しました。

本人はそれまでの最終学歴について「中卒」と説明し、大人になって改めて学びたいという気持ちが生まれたことを入学理由として挙げています。

「改めて学びたい欲に駆られて、高校入学することにしまんた」

ORICON NEWS

大学で何かを研究してみたいと思ったことがきっかけとなり、それならまず高校へ行こうと考えたこともInstagramで説明しています。

10代で離れた高校という場所へ、芸人として活動を続けながら33歳で戻りました。

バラエティから俳優まで広がる個人活動

ぱーてぃーちゃんとしての活動を続ける一方、個人での仕事も広がっています。

2026年にはテレビ東京系ドラマ『刑事、ふりだしに戻る』で飯田智子役を演じ、連続ドラマのキャストとして出演しました。

養成所へ入ったときはピン芸人を考え、エンぷレスではツッコミを試し、ぱーてぃーちゃんではギャルとして舞台に立ち、現在はその外側の仕事にも活動範囲を広げています。

大阪で生まれ、大分で新喜劇をまねしていた子ども時代から、飲食の仕事とワインの道を経て、22歳ごろに選んだのがお笑いでした。

その後もピン志望、一時的なトリオ、エンぷレス、コロナ禍での解散危機を通り、すがちゃん最高No.1さんと金子きょんちぃさんとの3人にたどり着いています。

大分、WCS、そして高校と、若いころに過ごした場所へ別の形で戻りながら、現在もぱーてぃーちゃんの信子として活動を続けています。

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