すがちゃん最高No.1の生い立ち|中1一人暮らし、AD時代からぱーてぃーちゃん結成まで

人物プロフィール

本名
菅野直人
生年月日
1991年8月21日
血液型
unknown
出身地
山形県 山形市
コンビ・グループ名
ぱーてぃーちゃん
相方・メンバー
金子きょんちぃ、信子
結成年
2021年
所属事務所
ワタナベエンターテインメント
芸人活動開始年
2014年
養成所・スクール
ワタナベコメディスクール 19期

赤いスーツに身を包み、信子さんと金子きょんちぃさんの間でツッコミを入れる「ぱーてぃーちゃん」のすがちゃん最高No.1さん。

現在のチャラ男キャラクターからは想像しにくいかもしれませんが、所属事務所の公式プロフィールにも「元AD」「中学生から一人暮らしをしていた経験あり」と紹介されている、かなり異色の経歴を持っています。

3歳で母親を亡くし、山形で祖父母や伯母と暮らした後、12歳だった中学1年生から家に一人で暮らすようになりました。

高校を卒業するとすぐ芸人になったわけではなく、東京で放送・映像を学び、テレビ番組のADを経験した後、男性コンビで長い若手時代を過ごしています。

中1の一人暮らしからAD、約7年間売れなかったコンビ時代を経て、現在のぱーてぃーちゃんへたどり着いています。

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すがちゃん最高No.1の生い立ちと家族|山形で過ごした子ども時代

すがちゃん最高No.1さんは1991年8月21日生まれで、現在は山形県山形市出身として活動しています。

ただ、人生の最初の数年間は東京で過ごしており、3歳で母親を亡くした後に父親の実家がある山形へ移りました。

3歳で母を亡くし、祖父母と伯母に囲まれて育つ

本人によると、3歳になるころまでは父親、母親と東京で暮らしていましたが、母親が病気で亡くなったことをきっかけに生活が大きく変わりました。

山形へ移ってから同じ家で暮らしたのは、父親、父方の祖父母、父親の姉にあたる伯母、そしてすがちゃんの5人です。

なかでも生活を支えていたのが、本人が「かっちゃん」と呼ぶ伯母でした。

食事を作り、誕生日やクリスマスにはプレゼントを用意し、家計が厳しいなかでも子どもだったすがちゃんが困らないように動いてくれていたといいます。

幼いすがちゃんにとって、伯母のかっちゃんは母親に近い存在でした。

家を離れることが増えた父と、母親代わりだった伯母

一方の父親は、すがちゃんが小学生になるころには家にいない期間が増えていきました。

ある日を境に突然いなくなったわけではなく、本人の表現では少しずつ家庭から「フェードアウト」していくような状態だったそうです。

家族が顔を合わせる夕食の時間には、お金のことなどをめぐって言い争いになることもあり、父親が帰ってきた日は伯母や祖母と激しくぶつかることもありました。

「フツーの家庭だったらよかったのに」

HugKum

友達の家へ遊びに行き、父親と母親だけでなく祖父母まで普通に仲良く話している様子を見たときには、家族が仲良く暮らす家庭そのものに驚いたと語っています。

母親がいないことや家庭の状況は学校ではほとんど話さず、周囲には「普通の明るい子」として過ごそうとしていました。

小学校高学年から家族が一人ずつ家を離れていく

小学校高学年になると、生活を支えていた伯母が東京へ移ることになります。

伯母からは一緒に東京へ行って2人で暮らすことを提案されましたが、当時のすがちゃんはそれを断りました。

心配性で細かなことまで注意する伯母に反発する年頃でもあり、家族と離れれば自由になれるという気持ちもあったと後に話しています。

その後は祖父母との3人暮らしになりますが、祖父が病気で亡くなり、祖母も体調を崩して施設へ入ることになりました。

もともと父親はほとんど家に帰らない状態だったため、家に残ったのはすがちゃん一人でした。

中学1年から一人暮らし|学校に隠しながら続けた生活

こうして12歳だった中学1年生の時期に、すがちゃんは実質的な一人暮らしを始めます。

大人になってから振り返るとかなり特殊な状況ですが、本人が最初に抱いた感情は恐怖や絶望だけではありませんでした。

気づけば家に自分だけが残っていた

家族は一度にいなくなったのではなく、父親、伯母、祖父、祖母と少しずつ家から離れていったため、「今日から一人暮らし」という明確な境目があったわけではありません。

ある時、学校から帰っても誰もおらず、翌日も、その次の日も一人という生活になっていました。

「なんか、もしかして今、カッコいいか?」

ワニブックス『中1、一人暮らし、意外とバレない』

当時読んでいた漫画では、主人公が家族と離れて一人で生きている設定も多く、自分も物語の主人公のように感じたそうです。

しかし、自由な生活を楽しむだけでは済まず、掃除、洗濯、食事、学校との連絡まで自分で処理しなければなりませんでした。

中学生でありながら、学校へ通いながら家の生活を一人で回す日々が始まります。

「親が作ったような弁当」と友人宅で覚えた家事

家庭の事情を学校で知られたくなかったため、弁当も単に自分で作るだけではなく、「親が作ったように見える弁当」を意識していました。

料理の基本を教えてくれる人はいなかったため、友達の家に遊びに行くと、友達の母親が台所で何をしているのかを観察しました。

調味料を入れる順番や包丁の使い方を眺め、自宅へ戻ってから自分なりに再現していたといいます。

料理本を読もうにも、そもそも「だし」が何なのか分からないため、レシピに「だし100cc」と書かれていても、その前提から分からない状態でした。

学校で習字道具を用意するよう言われても、筆をどの店で買うのか分からず、給食袋に名前やワッペンを縫う必要があれば自分で針を持ちました。

生活そのものを、友達の家や学校で見たものから少しずつ覚えていきました。

学校を休むときには父親の声をまねして電話をかけ、三者面談も基本的には「親が忙しい」と伝えて一人で受けていました。

進路相談で一度だけ父親に来てもらった際には、父親が早く到着して教室でタバコを吸っていたというエピソードも残っています。

料理も戸締まりも、自分で覚えていった

家計が厳しかった時期には電気が止まり、ろうそくを使って生活したこともありました。

食事も限られたお金の中で考え、家にある材料を使いながら自分なりの料理を作っていました。

ただ、一人暮らしで本人が特に怖かったと語っているのは家事よりも夜でした。

在宅中にカマを持った侵入者が家へ入ってきたことがあり、それ以降は寝る前の戸締まりが大きな負担になります。

古い大きな家には、人が出入りできるほどのキッチンの出窓や浴室の大きな窓があり、夜になると一つずつ確認して鍵を閉めていました。

高校で考え始めた進路|「普通の人生」から東京へ

中学校を終えた後も山形で暮らし、県内の私立高校へ進学しました。

このころまでは、将来お笑い芸人になるという進路を決めていたわけではありません。

地元で堅い仕事に就くつもりだった中学時代

家族の中でも特に堅実だった伯母は、父親とは反対の人生を歩んでほしいという思いから、すがちゃんに公務員になってほしいと話していました。

本人も中学生まではその考えに近く、地元で安定した仕事に就き、早く結婚して子どもを持つような暮らしを想像していたそうです。

「中学時代までは『フツーがいい』と痛切に思っていた」

HugKum

家族のことを周囲へ隠してきたからこそ、自分自身の将来には「普通」を求めていました。

高校2年の進路選択で山形を出たいと思い始める

考えが変わったのは高校2年生になり、本格的な進路指導が始まったころでした。

大学へ行くのか、就職するのか、その先にどんな人生を送るのかを決め始めたとき、それまで望んでいた安定した道に急に窮屈さを感じたといいます。

ずっと暮らすつもりだった山形を出て、東京へ行きたいという気持ちが高校時代に生まれました。

この段階でも目的は芸人ではなく、子どものころから身近だったテレビの世界でした。

テレビの裏方を目指し東京の日本工学院専門学校へ

高校卒業後は上京し、日本工学院専門学校でテレビ制作やカメラについて学びます。

2026年には、男性歌謡グループSHOW-WAの井筒雄太さんが、すがちゃんと専門学校時代に2年間同じカメラコースで学んでいたことをテレビ番組で明かしました。

井筒さんが覚えていたのは、自分の誕生日に、すがちゃんがケーキの代わりに豆腐を用意して祝ってくれたという出来事です。

すがちゃんは「ウケるかと思って」と理由を説明しており、まだ芸人ではなかった学生時代にも、人を笑わせようとする場面がありました。

専門学校で東京の友人たちと知り合うと、それまで隠していた家族の話も少しずつできるようになります。

友人たちもそれぞれ家庭についてさまざまな事情を抱えており、お互いの話を笑いながら話せたことで、自分の家庭だけが特別なのではないと感じるようになりました。

テレビ番組のAD時代|芸人になる前の社会人生活

専門学校を卒業した後は、学んできたことを生かしてテレビ番組の制作会社へ入り、ADとして働き始めました。

現在は演者としてテレビに出演していますが、最初にテレビ業界へ入ったときはカメラの反対側にいました。

映像とカメラを学び、卒業後は番組制作会社へ

専門学校時代の同級生だった井筒雄太さんは卒業後にカメラマンとなり、すがちゃんはADになりました。

2021年には芸人としてテレビ収録へ参加した際、スタジオカメラを担当していた専門学校時代の同期と偶然再会したことも本人が明かしています。

テレビが好きだったすがちゃんにとって、番組制作の現場へ入ったこと自体は希望していた進路でしたが、社会人生活は順調なスタートとはなりませんでした。

チャラい挨拶で失敗したAD時代

入社直後、周囲と早く打ち解けようと考えたすがちゃんは、先輩たちにかなり距離の近い「チャラい」挨拶をしました。

本人としては場を盛り上げようとした行動でしたが、職場では「常識がない新人」と受け取られ、人間関係が悪化したといいます。

「ここから駆け上がったらかっこいい」

MANTANWEB

仕事では失敗も多く、生放送中にスタジオの非常ベルを鳴らしてしまったことまでありました。

それでも、失敗が笑い話になると上司との空気が変わる経験を重ね、笑いが人間関係を変える感覚をこの時期にも味わっています。

テレビの裏側からお笑いの世界へ向かう

転機になったのは、ADとしてさらにキャリアアップするために受けた採用試験に落ちたころでした。

そのタイミングで専門学校時代の同級生から呼び出され、芸人をやらないかと誘われます。

最初は、自分が人前に出る仕事をすることに乗り気ではありませんでした。

「自分が表に出る仕事なんて無理だって最初は言った」

テレビ朝日 logirl

ところが2人で深夜のカラオケへ行き、即興でネタらしいものを試してみると、満員の客席を笑わせる自分たちの姿まで想像してしまったそうです。

ADとして働いていたすがちゃんが芸人へ進む直接のきっかけは、この同級生からの誘いと深夜のカラオケでした。

ワタナベコメディスクール19期へ|パーティーズで始まった芸人人生

芸人になると決めたものの、動き始めたのは養成所の一般的な春入学から少し外れた時期でした。

そこで最初から現在の所属先へ一直線に進んだわけではなく、まず別の事務所の門をたたいています。

最初の舞台はマセキのオーディション、半年後にWCSへ

芸人になろうとした時期が5月ごろだったため、すぐ入れる場所を探し、最初に挑戦したのがマセキ芸能社のオーディションでした。

相方が作った「くまのプーさんのマラソン大会」という設定の漫才で、すがちゃんはツッコミを担当しました。

2人とも手応えがあるつもりで舞台へ出ましたが、本人が後に「あり得ないくらい」と表現するほどウケなかったそうです。

その後、秋入学があったワタナベコメディスクール19期へ2013年10月に入り、本格的に芸人としての基礎を学び始めます。

同じ19期には、後に「Why Japanese People!?」で知られるようになる厚切りジェイソンさんらがいました。

専門学校時代の同級生と「パーティーズ」を結成

芸人へ誘ってくれた専門学校時代の同級生と、そのまま男性コンビ「パーティーズ」として活動を始めました。

現在のギャル2人とのパリピ漫才とは違い、当時は男性2人で漫才をするコンビで、所属事務所のライブでは比較的評価される位置まで上がっていました。

すがちゃんはツッコミを担当し、事務所の後輩芸人からは「ちゃんとした漫才をする先輩」として見られていた時期もあります。

後にぱーてぃーちゃんを組む信子さんときょんちぃさんも、当時はパーティーズを先輩コンビとして知っていました。

約7年続けてもテレビ出演がなかった若手時代

パーティーズは2014年ごろから活動を続けましたが、長く続けたからといってすぐ仕事が増えたわけではありません。

2020年に解散するまでの約7年間、コンビとしてテレビ出演は一度もなかったと本人が明かしています。

「うそみたいに売れていなかった」

MANTANWEB

芸歴5年目あたりまでは相方と同じ方向を向いていましたが、若手の「第7世代」が次々に注目され始めたころから、すがちゃんの中で「そろそろ売れなければ」という気持ちが強くなっていきます。

一方、相方には自分たちのスタイルを簡単に変えたくない思いがあり、徐々に考え方がずれていきました。

後輩世代がテレビへ進む一方で、自分たちは長く舞台に立ちながらテレビ出演ゼロという時期が続きました。

パーティーズ解散|一人になって選んだ新しい形

長く続けたパーティーズは2020年に解散します。

芸人を辞めたわけではありませんが、それまで一緒に活動してきた相方と別れ、次の形を探す時期に入りました。

長く続けた男性コンビが解散

すがちゃん自身は、コンビ解散後に芸歴10年目まではピンでも本気で続けてみようと考えていました。

パーティーズ時代には周囲からのアドバイスを素直に取り入れず、漠然と活動していた部分もあったとして、解散前後から姿勢を変えています。

人からもらった言葉や仕事の進め方を自分の「教科書」のように取り入れ、好きだった酒を1年間断つなど、売れるために生活まで変えました。

約7年間続けたパーティーズの解散が、現在のぱーてぃーちゃんへ向かう大きな分岐点になりました。

ピンの時期に「すがちゃん最高No.1」として活動

コンビ解散後はピンで活動する時期に入り、現在の「すがちゃん最高No.1」という名前で舞台へ立つようになります。

ここでいきなり信子さん、きょんちぃさんと正式なトリオを組んだわけではなく、当初は一人で今後を探しながら、さまざまな芸人とネタを試していました。

一人でさまざまな芸人とネタを試すライブへ

この時期に、いろいろな相手と組んでネタをするライブ企画へ参加します。

そこで試しに一緒に舞台へ立つことになったのが、事務所の後輩だった信子さんと金子きょんちぃさんでした。

2人とは、このとき初めて知り合ったわけではありません。

すがちゃんは養成所で5期上の先輩にあたり、以前から後輩として2人を知っていました。

信子・金子きょんちぃとの出会い|ぱーてぃーちゃん結成へ

すがちゃんがパーティーズで活動していたころ、信子さんときょんちぃさんは「エンぷレス」というコンビを組んでいました。

舞台上の芸風は違っていましたが、プライベートでは以前から交流がありました。

エンぷレスだった信子ときょんちぃ

信子さんは当時のすがちゃんについて、芸人の先輩で初めて親しくしてくれた存在だったと話しています。

「芸人で初めてよくしてくれた兄貴」

MEN’S NON-NO WEB

すがちゃんは月に一度ほど「菅野会」を開き、後輩だった2人を食事へ連れて行くこともありました。

ただし、最初から2人を高く評価して「いつか一緒に組みたい」と考えていたわけではなく、エンぷレスのライブを見に行った際には、自分たちに似ていると言われたことが理解できなかったと笑いながら振り返っています。

3人で試したネタが周囲から好評に

コロナ禍でライブやイベントが減ったころ、信子さんときょんちぃさんも活動が停滞していました。

すがちゃんは、このまま2人が解散してしまうのはもったいないと考え、当時ルームシェアしていたリンダカラー∞のDenさんや芸人仲間と一緒に2人のネタを考えることもありました。

その流れの中で、すがちゃん自身がパーティーズを解散し、あるライブの「おふざけ枠」で3人による漫才を試します。

「そのときはすっごいウケたんだよね」

MEN’S NON-NO WEB/信子

最初は正式なトリオではなく、ライブで試しに3人で漫才をしたことから始まりました。

最初の手応えは大きかったものの、その後3カ月ほどライブやネタ番組のオーディションへ出すと、同じようにはウケなくなりました。

ぱーてぃーちゃんポーズが生まれ、2021年4月に正式結成

行き詰まったころ、すがちゃんが思いついたのが、漫才の中で3人がポーズを決める形でした。

「ハイブランドのロゴを手で表現できないか」と2人へ相談し、信子さんがその場で作ったポーズをもとに現在の「ぱーてぃーちゃんポーズ」が出来上がります。

ポーズを取り入れてからネタの反応が変わり、現在につながるスタイルが固まり始めました。

さらに「知らなくて-1グランプリ」のオーディションに3人で挑み、番組で手応えを得た際、すがちゃんの同居人だったテレビマンから正式に組むことを勧められます。

そこで初めて3人で細かなキャラクター設定やテレビでの受け答えまで話し合い、3人ならいけるかもしれないという感覚を持ちました。

2021年4月、すがちゃん最高No.1・信子・金子きょんちぃの3人で「ぱーてぃーちゃん」を正式に結成します。

正統派の男性コンビから「パリピ漫才」へ

パーティーズ時代は男性2人で漫才をしていたすがちゃんにとって、ギャル2人と組む現在のスタイルは大きな転換でした。

ネタ作りはすがちゃんが中心となり、信子さんときょんちぃさんが実際に言いそうなこと、やりそうなことを材料に組み立てていきました。

作り込んだ「芸人らしいギャル」ではなく、2人が普段見せる自由な振る舞いをそのまま生かす方向へ変わっていきます。

すがちゃんは長いコンビ時代を経た側、信子さんときょんちぃさんは後輩という関係から始まったため、3人の役割も自然に現在の形へ分かれていきました。

『おもしろ荘』から仕事が変化|長い下積みの先で注目を集める

結成した2021年の年末、ぱーてぃーちゃんに早くも大きなテレビ出演の機会が訪れます。

2022年元日の『ぐるナイ おもしろ荘』への出演でした。

2022年『ぐるナイ おもしろ荘』出演

赤いスーツのチャラ男と2人のギャルによる「パリピ漫才」は、番組出演をきっかけに広く知られるようになります。

本人の芸人人生で見ると、養成所へ入ってからすでに長い年月が経っており、男性コンビでテレビに出られなかった期間の後に訪れた機会でした。

パーティーズ時代には約7年間テレビ出演がなかったすがちゃんが、トリオ結成翌年に全国放送で大きく注目されました。

テレビ・ライブで「ぱーてぃーちゃん」の認知が広がる

『おもしろ荘』出演からおよそ1年後、すがちゃんが前年のスケジュールと比べたところ、仕事量は本人の感覚で約10倍になっていました。

きょんちぃさんも、以前はアルバイト予定の色が多かったカレンダーが芸人の仕事を示す色で埋まるようになったと話しています。

賞レースの優勝ではなく、『おもしろ荘』出演後に実際の仕事量が大きく変わったことが、ぱーてぃーちゃんの転機でした。

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父との関係も芸人生活の中で再び交わる

子どものころ家にいることが少なかった父親とは、大人になって芸人として活動を始めた後にも独特な形で関係が続きました。

すがちゃんは、自分が芸人になったことを父親には長く詳しく話していなかったといいます。

ところが父親はある日、すがちゃんが出演するライブ会場へ突然現れ、客前で本名を呼び、本人が周囲へ話していなかった借金のことまで口にしました。

その後、父親は信子さんやきょんちぃさんとも会い、きょんちぃさんの車に乗せてもらいながら自分の予定を優先するなど、相変わらず自由な振る舞いを見せています。

すがちゃんの著書では、その後の父親の病気と死別についても描かれています。

中1の一人暮らしを本に|現在はMCやラジオ、執筆にも活動を広げる

テレビで知られるようになった後、すがちゃんは長く周囲へ隠していた子ども時代の話そのものを仕事として語るようになります。

その大きな形になったのが、2024年に出版した初のエッセイです。

2024年『中1、一人暮らし、意外とバレない』出版

2024年4月26日、ワニブックスから『中1、一人暮らし、意外とバレない』を発売しました。

本には、家族が一人ずつ家を離れていった経緯、一人暮らしの家事、若手芸人時代、ぱーてぃーちゃん結成前夜までが収められています。

中学生のころは隠していた一人暮らしの経験を、30代になって自分の言葉で一冊の本にしました。

発売後は重版され、ワニブックスによると2万部を超えるまで読まれています。

過去の経験をエッセイとして書く仕事へ

2025年には、ワニブックスのWEBメディアで初のエッセイ連載『お布団で反省文』も始まりました。

中学生時代には家庭のことを友達にも先生にも知られたくないと考えていた人物が、現在は自分の生活や考えを文章として読者へ届けています。

芸人として売れなかった時期を振り返るときも、出演番組を並べるのではなく、そのころ何を考え、どんな失敗をしたのかを具体的に話すことが増えました。

ぱーてぃーちゃんと個人活動を続ける現在

現在もぱーてぃーちゃんとしてライブやテレビ出演を続けながら、個人ではトークやラジオ、執筆へ活動の幅を広げています。

2025年からはJFNのラジオ番組『ウチらのイイブン!』でパーソナリティを担当し、2026年にも全国のJFN系列局で放送が続いています。

AD時代から希望していたテレビの世界に演者として戻り、男性コンビでは届かなかった全国放送へぱーてぃーちゃんとして進み、さらに一人で話す仕事や文章を書く仕事へも活動を広げました。

山形で家族の事情を隠しながら一人で生活を回していた中学生は、高校卒業後にテレビの裏方を目指して東京へ出ました。

ADから芸人へ進み、約7年間のパーティーズ時代と解散を経て、信子さん、金子きょんちぃさんとの3人組へ形を変えました。

現在のすがちゃん最高No.1さんは、ぱーてぃーちゃんの舞台に立ちながら、かつて人に話せなかった昔の出来事もラジオやエッセイで語っています。

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