東ブクロの生い立ちと家族|同志社でカズレーザーと組んだ学生時代、森田哲矢との結成まで

人物プロフィール

本名
東口宜隆
生年月日
1985年10月6日
身長
166cm
血液型
O型
出身地
大阪府 茨木市
コンビ・グループ名
さらば青春の光
相方・メンバー
森田哲矢
結成年
2008年
所属事務所
ザ・森東
芸人活動開始年
2007年
養成所・スクール
松竹芸能養成所

さらば青春の光・東ブクロさんは、コントやテレビ、YouTubeに加え、近年はゴルフを生かした個人仕事でも存在感を見せています。

現在の芸名になるよりずっと前、本名の東口宜隆として過ごしていた学生時代には、同志社大学の喜劇研究会で1学年上のカズレーザーさんとコンビを組んでいました。

さらに時間を戻すと、中学校の卒業文集には、すでに将来の夢として「吉本の漫才師」と書いていました。

大学へ進み、学生お笑いから松竹芸能の養成所へ入り、そこで出会った森田哲矢さんのネタに目を留めると、東ブクロさん自身が何度も森田さんを誘い、最後は長文メールを送ってコンビ結成へ動きました。

東大阪から茨木、高校、同志社大学、松竹芸能、そして客席が数人しかいなかった大阪の劇場まで、東ブクロさんがどのように芸人への道を進んできたのかを時系列でたどります。

東ブクロの生い立ちと家族|東大阪で生まれ、小3から茨木へ

東ブクロさんは1985年10月6日、大阪府東大阪市で生まれ、小学校3年生ごろから大阪府茨木市で暮らすようになりました。

後年、出身について聞かれた際には、生まれた東大阪よりも長く育った茨木市を自分の地元として答えると話しています。

中学生でナイナイのラジオに夢中になり、卒業文集に「吉本の漫才師」

お笑い芸人への憧れがはっきりしたのは中学生のころで、よく聴いていたのが『ナインティナインのオールナイトニッポン』でした。

テレビでネタを見るだけではなく、ラジオから聞こえてくる芸人同士の会話や日常のエピソードにも惹かれ、中学生の段階で芸人という仕事を自分の将来として考え始めています。

「中学の卒業文集に、夢は『吉本の漫才師』と書いてました。」

ラジトピ ラジオ関西トピックス

養成所へ入る何年も前から「芸人になる」という選択肢が本人の中にあったことが、この卒業文集から分かります。

父親・家庭教師・担任が一晩話し合った高校進学

中学3年になると高校進学を決める時期を迎えましたが、成績だけで進学先を決めようとする周囲と、本人が行きたい学校との間には考えの違いがありました。

そこで自宅に父親、家庭教師、中学校の担任が集まり、東ブクロさんの進路について酒を飲みながら一晩中話し合ったといいます。

本人はその間に眠ってしまったものの、普段は口数の多くない父親が自分の将来について夜通し話していたことが印象に残りました。

「俺だけのことを話してくれてんのやみたいな。」

ラジトピ ラジオ関西トピックス

話し合いを経て、東ブクロさんは自分が希望していた大阪府立春日丘高校へ進学しました。

春日丘高校時代|自由な校風のなかでお笑いへの思いを強める

大阪府立春日丘高校は大学進学者も多い学校ですが、東ブクロさんが後年よく覚えていたのは、学力面だけではなく自由な校風でした。

中学時代にはラジオを通じて芸人への憧れを持っていた東ブクロさんは、この高校で3年間を過ごし、お笑いについて自分なりに考えるようになっていきます。

入学した春日丘高校は「校則がほとんどない」自由な学校だった

2024年に高校時代を振り返った際、東ブクロさんは「僕のところは本当に校則がなかった」と話しています。

唯一覚えている禁止事項として挙げたのが「下駄で登校しないこと」で、OBの嘉門タツオさんが入学式に下駄で来たことをきっかけにできたルールだと説明していました。

進路をめぐって家族や先生まで巻き込んで選んだ学校で、東ブクロさんは自由度の高い高校生活を送ることになります。

高校3年で書いた「笑いについて」に残る当時のお笑い観

高校3年生になると、東ブクロさんは学校の文集に「笑いについて」という文章を書きました。

単に「芸人になりたい」と書くのではなく、笑うという行為そのものを自分なりに考えて文章にしており、後年その文集が発見されると、さらば青春の光の公式YouTubeでも企画として取り上げられています。

高校を卒業する時点で、お笑いを「将来の職業」として見るだけでなく、笑いそのものについて文章を書くほど考えていたことになります。

同志社大学の喜劇研究会|カズレーザーと「フルハウス」を結成

高校卒業後、すぐ養成所へ進んだわけではなく、東ブクロさんは同志社大学へ進学しました。

ここから、憧れとして見ていたお笑いを実際に舞台で演じる生活が始まります。

「大学は絶対」という親との約束から同志社へ

東ブクロさんによると、大学進学については親から「大学は絶対行け」と言われていました。

本人は当初、自分の学力では浪人する可能性もあると考えていましたが、現役で同志社大学に合格します。

「親に『大学は絶対行け』と言われていたんです。」

ラジトピ ラジオ関西トピックス

養成所へ行きたいと親へ言い出せないまま大学へ入ったものの、キャンパスで喜劇研究会を見つけ、「もうこれしかない」と入部しました。

1学年上のカズレーザーと正統派漫才を始める

喜劇研究会の勧誘場所へ向かうと、そこにいたのが金髪に全身赤い服という姿のカズレーザーさんでした。

当時のカズレーザーさんは「レッド」と名乗っており、東ブクロさんが入部しようと声をかけると、最初から独特の自己紹介をされたといいます。

「じゃあ俺のこと『レッド』って呼んで」

ラジトピ ラジオ関西トピックス

1学年上だったカズレーザーさんから誘われ、2人は学生コンビ「フルハウス」を結成しました。

現在のカズレーザーさんの強烈な見た目を前面に押し出したネタではなく、2人が後年振り返ったところでは正統派の漫才をしており、活動期間はおよそ2年間でした。

喜劇研究会では学内ライブを中心に活動しながら、カズレーザーさんに誘われて学外の大会へ出ることもありました。

一方で外部のオーディションなどでは思うような結果が出ず、カズレーザーさんが1学年上で先に卒業することもあり、フルハウスは解散しています。

渡辺佑欣のバイクで他大学ライブへ出かけた学生芸人時代

喜劇研究会では、現在もさらば青春の光の仕事に関わる放送作家渡辺佑欣さんとも出会っています。

渡辺さんは東ブクロさんより1学年上で、上級生よりも後輩となじむタイプだったことから、東ブクロさんにとって距離の近い先輩になりました。

2人で渡辺さんのバイクに二人乗りし、他大学のお笑いライブを見に行くこともあったといいます。

学内ライブと飲み会だけで完結することも多かった当時のサークルで、大学の外のお笑いを見る時間を一緒に過ごしていた相手でした。

大学3年で松竹芸能養成所へ|就活せずプロの世界を選ぶ

同志社大学で1〜2年ほど学生お笑いを経験すると、東ブクロさんの中で「プロとしてやってみる」という考えが現実的になっていきました。

大学3年生になる時期には就職活動へ進まず、お笑いの養成所を選びます。

吉本40万円、松竹20万円という現実的な理由もあった養成所選び

フルハウス解散後、東ブクロさんは同志社大学で別の相方とも活動しており、その相方と一緒に松竹芸能の養成所へ入りました。

後年の本人の説明では、当時は吉本興業の養成所が約40万円、松竹芸能が約20万円で、金額の違いも松竹を選ぶ理由の一つだったといいます。

森田哲矢さんが2006年春に松竹の養成所へ入り、東ブクロさんはその約半年後、同志社大学へ通いながら20歳で養成所生活を始めました。

中学生で芸人を夢見てから約5年、大学3年で初めて学生お笑いの外にあるプロの養成環境へ踏み出したことになります。

学生コンビ解散後、別コンビやピンを経て相方を探す

一緒に養成所へ入った相方はその後芸人を辞め、東ブクロさんは新しい相方を探すことになりました。

一時はピンでも活動し、さらに先輩芸人と短期間のコンビ「ヤンバルクイナ」を結成するなど、さらば青春の光の前には相方が定まらない時期があります。

そのころ、養成所で以前から気になっていた芸人が、半年先輩の森田哲矢さんでした。

養成所で森田哲矢のネタに目を留める

森田さんは当時「カサブランカ」という別のコンビで活動していました。

東ブクロさんの記憶では、森田さんは黒いTシャツとジーンズを着て周囲とあまり群れず、舞台では斜め下を向きながらボケるような尖った雰囲気だったといいます。

劇場では必ずしも毎回大きくウケていたわけではありませんでしたが、養成所でほかのコンビを見るなかで、東ブクロさんは森田さんの作るネタを高く評価していました。

「やっぱ、頭ひとつ抜けてたんですよね。」

ラジトピ ラジオ関西トピックス

自分のコンビがなくなったとき、次に組むなら森田さんだと考えるほどネタを買っていました。

森田哲矢を長文メールで口説き、さらば青春の光を結成

東ブクロさんと森田さんは養成所で知り合ってから少しずつ親しくなり、一緒に食事へ行く関係になっていました。

ただし最初からコンビを組んでいたわけではなく、それぞれ別の相方との活動が終わるまでに時間がかかっています。

森田のコンビ解散を聞き、東ブクロから結成を持ちかける

先に自分のコンビを解散した東ブクロさんは、森田さんのカサブランカも解散するらしいという話を聞き、タイミングを待っていました。

なかなか解散しなかったため一度は先輩芸人とヤンバルクイナを組んだものの、その直後にカサブランカが解散すると、短期間でヤンバルクイナを終え、森田さんへ声をかけています。

森田さんは何度か誘いを断りましたが、東ブクロさんは最後に、自分と組むメリットを何項目も書き込んだ長文メールを送りました。

「僕ならあなたの才能を今の何倍も引き出せます」

お笑いナタリー

メールの最後には、断られれば芸人を辞めるつもりだとまで書いており、森田さんから「脅迫ですよね?」と笑い交じりに振り返られるほどの内容でした。

2024年には、森田さんから返事が来るまでの間、元相方のカズレーザーさんにも再結成を持ちかける長文メールを送っていたことまで明かしています。

最終的に森田さんと組むことになり、2008年8月、さらば青春の光が動き始めました。

結成直後の初舞台はキングオブコント1回戦

2人が試しに組んでみる理由になったのが、この年に始まった第1回キングオブコントでした。

コンビとしての初舞台が2008年キングオブコントの1回戦で、結果は敗退でした。

ただし2人とも舞台の感触自体は悪くないと感じ、その後に出た事務所ライブでは1位になり、翌年にはNHK上方漫才コンテストの本選へ進出します。

最初から長く続けると決めていたというより、実際に舞台へ立ち、次の結果が出たことでコンビ活動を継続していきました。

みなみかわが提示した候補から「さらば青春の光」へ

コンビ名の名付け親は、当時松竹芸能の先輩だったみなみかわさんです。

結成を報告されたみなみかわさんは、そのころ見た映画のタイトルから「さらば青春の光」と「復讐するは我にあり」の2案を提示しました。

2人は「復讐するは我にあり」はさすがに尖りすぎていると考え、消去法で「さらば青春の光」を選びました。

大阪の若手時代|客7〜8人の劇場で新ネタを作り続ける

コンビを結成すると、大阪の松竹芸能の劇場を中心に舞台へ出る生活が始まりました。

現在の大規模な単独ライブとは大きく違い、当時は客席を埋めるところから自分たちで動かなければならない環境でした。

チケットノルマと月1〜2万円ほどの芸人収入

劇場が新世界へ移ったころについて、2人は平均のお客さんが7〜8人ほどで、20人入れば多いと感じるような時期だったと振り返っています。

ライブにはチケットの販売ノルマがあり、路上や友人へ自分たちで売り、残れば自腹で負担することもありました。

東ブクロさんたちの記憶では、当時の芸人としての収入は多い月でも1〜2万円ほどだったといいます。

売れていないという抽象的な状況ではなく、舞台に立つためにまずチケットを自分で売るところから始まる毎日でした。

200円ほどのコーヒー1杯で5〜6時間続けたネタ作り

ライブの本数が多かったため、ネタ作りの量も現在とは比べものにならないほど多く、月に6〜7本ほどの新ネタを作ることもありました。

よく使っていたのが劇場近くのイタリアントマトで、当時200円ほどだったアイスコーヒーを1杯だけ注文し、その後は水を飲みながらネタを考えていたといいます。

1杯のコーヒーで店に5〜6時間残り、次のライブで使うネタを作り続けることも珍しくありませんでした。

少しお金がある日は英國屋へ行き、ほかにもドトールや深夜のファミリーレストランを使い分けながら、ネタ合わせを重ねていました。

渡辺佑欣ら作家が加わり、ネタ作りの形も変化

同志社大学時代に親しかった先輩の渡辺佑欣さんは、卒業後も東ブクロさんとの関係が切れず、さらば青春の光のネタ作りへ参加するようになります。

渡辺さんは学生時代から森田さんの以前のコンビを見て「面白い」と感じ、その名前を何度も東ブクロさんへ伝えていた人物でもありました。

コンビ結成を決めた東ブクロさんが早い段階で渡辺さんへ知らせ、その後は放送作家の廣川祐樹さんも加わり、4人でネタを考える形ができていきます。

仕事として十分なギャラが出る状況ではなく、何年もの間、作家側にはファミリーレストラン代程度しか渡せない時期もありました。

「2人のコントが、まずむちゃくちゃおもしろい」

ラジトピ ラジオ関西トピックス

渡辺さんは、それでも関わり続けた理由を2人のコントそのものにあったと語っています。

KOC準優勝後に松竹芸能を離れ、2013年に東京へ

さらば青春の光は結成初年からキングオブコントへ挑戦し続け、2008年は1回戦敗退、2009年は出場予定日に森田さんがインフルエンザとなり、2010年と2011年は準決勝まで進みました。

そして2012年、初めて決勝の舞台へ進みます。

KOC2012準優勝でも仕事と収入が一気に安定したわけではなかった

キングオブコント2012では、初決勝のさらば青春の光が準優勝し、優勝したバイきんぐとともに大きな注目を集めました。

初舞台だった第1回大会から4年後、客席が数人という劇場で大量の新ネタを作ってきたコンビが全国放送の決勝まで進んだことになります。

しかし、準優勝した瞬間から生活が安定したわけではありませんでした。

翌2013年春に東京で会見した際には、前年の収入が100万円に満たなかったことも明かしており、賞レースで結果を残した後にも大きな選択が待っていました。

松竹芸能との契約終了から東京での再出発へ

2013年1月、松竹芸能は同年3月末をもってさらば青春の光との専属契約を解除すると発表しました。

事務所側は「度重なる話し合いの結果」と説明し、東ブクロさんは当時、自分たちから辞めたい意思を伝え、双方同意で退社することになったと発信しています。

「僕らから辞めたいという旨を会社に伝え、双方同意のもと、退社する」

スポニチアネックス

2013年4月から2人は松竹芸能を離れ、活動拠点を大阪から東京へ移しました。

賞レース準優勝者として東京へ来た一方、東ブクロさんは当初、別の芸能事務所から声がかかるだろうと考えていた部分もあり、その見通しが甘かったことを後に認めています。

冠番組の企画から個人事務所「ザ・森東」を設立

フリーとなった2013年5月、TOKYO MXで冠番組『さらば青春の光 ふぁいなる』がスタートしました。

そのなかで自分たちの会社を作るという方向が具体化し、同年10月に株式会社ザ・森東を設立します。

森田さんが社長、東ブクロさんが副社長となり、マネジメントをほかの大手事務所へ任せるのではなく、自分たちの会社で仕事を受ける形へ変わりました。

大阪の劇場でチケットを自分たちで売っていたコンビが、今度は自分たちで会社を運営しながら東京で仕事を取る側になった時期です。

賞レース常連から仕事が広がるまで|2017年が一つの転機

独立後もさらば青春の光はコントだけに絞らず、漫才の賞レースにも挑戦を続けました。

2016年にはM-1グランプリ決勝へ進み、448点で4位となっています。

M-1決勝進出後の2017年、「東口宜隆」から「東ブクロ」へ改名

M-1決勝時点では、まだ本名の東口宜隆を芸名として使用していました。

変化が起きたのは2017年4月、AbemaTVの番組で姓名判断を受けたときです。

いくつかの候補のなかから「東ブクロ」が選ばれ、所属するザ・森東も正式な改名であることを認めました。

学生時代から長く使ってきた東口宜隆という名前から、現在広く知られている東ブクロへ変わったのはこの時期です。

KOC2017で3位でも仕事量と単独ライブの反響が大きく変化

同じ2017年、さらば青春の光はキングオブコントへ再び進出し、決勝で3位となりました。

優勝ではありませんでしたが、本人たちが後年振り返ったところでは、この大会を境に仕事の入り方が大きく変わっています。

「そこでネタを見ていただけたことで如実に仕事が増えたんです。」

お笑いナタリー

これは森田さんの言葉で、東ブクロさんも単独ライブのチケットがそれまでとは違う速さで売れ、約1000席に対して先行予約が約3000件入ったことを話しています。

賞レースで優勝した年ではなく、KOC2017でネタを広く見てもらった後に、実際の仕事量とライブの反響が変わりました。

賞レースだけに頼らず、単独ライブやYouTubeへ活動を拡大

さらば青春の光はその後もキングオブコント決勝へ進みましたが、活動の中心は賞レースだけではなくなっていきます。

毎年の単独ライブを続けながら、公式YouTubeを使った企画やザ・森東の会社そのものをコンテンツにする仕事も増えていきました。

若手時代から続けてきたネタの舞台を残したまま、テレビ、ラジオ、YouTubeへ仕事の幅を広げていったのが独立後のさらば青春の光です。

東ブクロの現在|学生時代の経験からラジオ・ゴルフまで

東ブクロさん個人の仕事にも、学生時代や長く続けてきた趣味がそのまま企画になったものがあります。

さらば青春の光としてのネタ活動を続けながら、コンビとは少し違う場所で単独の仕事も増えていきました。

学生お笑い経験を生かし、学生芸人を迎えるラジオ番組のMCへ

2021年にはラジオ関西で『さらば青春の光 東ブクロの学生芸人YOAKEMAE』が始まりました。

同志社大学喜劇研究会出身の東ブクロさんがMCとなり、現役学生芸人や学生お笑いを経験したプロを迎える番組です。

番組ではカズレーザーさんとの出会い、大学時代のライブ、プロへ進むと決めた時期、渡辺佑欣さんとの学生時代など、自身の過去についても多く語りました。

学生時代にできた人間関係について本人は、現在さらばのネタへ参加している作家や、テレビ業界へ進んだサークル仲間などを挙げ、長く続いていると話しています。

コンビ活動に加えてゴルフなど個人仕事も増加

個人活動で特に目立つようになったのがゴルフです。

テレビ大阪の『さらば青春の光の東ブクロとデビュー作』でも、ゴルフをはじめとする本人の特技や特徴を企画に使い、YouTubeではゴルフ専門のチャンネルも展開しています。

2025年にはザ・森東の社歌「in the dreaming」で作詞とメインボーカルも担当し、コンビのネタとは別の役割も担いました。

一方でネタの舞台から離れたわけではなく、2026年の単独ライブ『九官鳥』は5月から8月にかけて全国12都市を巡る、さらば青春の光として過去最多公演数のツアーとなりました。

2025年に母との別れを経験し、2026年に公表

家族については、芸人になってから長い時間が流れた2025年に大きな出来事がありました。

2025年7月、東ブクロさんの母親が亡くなりました。

母親は以前、さらば青春の光のTBSラジオ番組へ電話出演したこともありましたが、体調が悪化し、歩くことも難しくなっていたといいます。

東ブクロさんが母の死を知ったのは『ラヴィット!』の仕事を終えて楽屋へ戻ったあとで、父親からLINEが届きました。

そのころ実家では父親や親族らが母のそばで『ラヴィット!』を見ており、東ブクロさんが出演していた番組が流れている時間帯に息を引き取ったことも、後に本人がラジオで話しています。

しばらく公にはしていませんでしたが、2026年4月、いとこであるファイヤーサンダー・こてつさんとのライブで初めて明かし、翌日のラジオでも報告しました。

「去年の7月に、この番組にも出てもらったおかんが亡くなりまして」

スポニチアネックス

中学時代の進路を家族で話し合ったころから20年以上を経て、母との別れを迎えたことを、自分の言葉で公にしたのは2026年でした。

東大阪に生まれ、茨木で育った東ブクロさんは、中学生ですでに芸人になる夢を卒業文集へ書いていました。

大学進学という家族との約束を守りながら学生お笑いを始め、カズレーザーさんとのコンビや松竹芸能の養成所を経て、森田哲矢さんへ自ら声をかけたことで現在のさらば青春の光が始まりました。

2026年も、さらば青春の光として全国でコントを続ける一方、ラジオやYouTube、ゴルフなど、東ブクロさん自身の仕事も広がっています。

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