ななまがり初瀬悠太の生い立ちと家族|高校でNSCを挫折、大阪芸大で森下直人と出会うまで

人物プロフィール

血液型
A型
出身地
香川県
所属事務所
吉本興業
養成所・スクール
NSCその他の校舎

ななまがりの初瀬悠太さんは、森下直人さんの奇妙な発想を大きな声で受け止めるツッコミとして知られ、漫才とコントの両方で長く舞台に立ってきました。

2024年にはコンビで「THE SECOND~漫才トーナメント~」のグランプリファイナルへ進み、2026年には初瀬さん個人が「R-1グランプリ2026」決勝へ進出しています。

ところが、その芸人人生を昔までさかのぼると、順調にお笑いの道へ進み続けてきたわけではありません。

高校生のときにNSC岡山校へ入りながら、スベり続けたことで一度は芸人になる夢そのものを諦めています。

その後に進んだ大阪芸術大学でミルクボーイの漫才を見て落語研究寄席の会へ入り、そこで出会ったのが、のちの相方となる森下直人さんでした。

一度手放したお笑いの道へ、初瀬さんは大学時代にもう一度戻ってきます。

初瀬悠太の生い立ちと家族|香川県高松市で育った少年時代

初瀬悠太さんは1986年4月5日、香川県高松市に生まれました。

後年に本人が地元・高松について書いたエッセイには、祖父と出掛けた場所、父親が営んでいたうどん店、母親の料理、家族で食べに行った店など、子どものころの生活が具体的に残されています。

バラエティとプロ野球が好きだった小学生時代

小学生のころから好きだったのが、テレビのバラエティ番組でした。

『めちゃ×2イケてるッ!』『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』『ダウンタウンのごっつええ感じ』などを見ていましたが、この時点では明確に「芸人になりたい」と考えていたわけではありません。

本人によると、当時の感覚は、好きな番組に出ている人たちを見ながら「自分もこの番組のメンバーになりたい」と思うようなものだったそうです。

一方で、お笑いと同じくらい夢中になっていたのがプロ野球で、現在まで続く千葉ロッテマリーンズファンでもあります。

ただ、小学生時代に入ったのは野球チームではなく、周囲の友達との兼ね合いもあって地元の少年サッカーチームでした。

サッカーをしながらも心の中には「野球をやってみたい」「才能があるならプロ野球選手になりたい」という気持ちが残っていました。

中学で野球部へ入り、自分の才能を試した

中学生になると、初瀬さんはそれまで経験のなかった野球部へ入ります。

小学校から野球を続けてきた部員が多い中、中学から始めれば周囲との差があることは分かっていましたが、自分に野球の才能があるのか一度きちんと試してみたかったからでした。

友達がまったくいない状態から入部したものの、守備や送球はなかなか上達せず、得意だったのはバッティングで、最後まで補欠だったと本人は振り返っています。

「自分に野球の才能があるか確かめる」という中学時代の挑戦を終えたあと、初瀬さんの関心は再びお笑いへ向かいました。

父が県庁職員を辞め、讃岐うどん店「つるいち」を開店

初瀬さんの実家について特徴的なのが、父親が営んでいた讃岐うどん店「つるいち」です。

父親はもともと香川県の県庁職員でしたが、その仕事を辞め、約2年半うどん作りを修業したあと、初瀬さんが中学生だった2000年に高松市鶴市町で「つるいち」を開店しました。

修業先は高松市の有名店「うどん本陣山田家 讃岐本店」で、初瀬さんは大人になってから初めて山田家のぶっかけうどんを食べ、父親が作っていたうどんとよく似た味に驚いたそうです。

「つるいち」があった場所は、それ以前に喫茶店や焼肉店などが入っては短期間で閉店していた場所でした。

父親は周辺に工場や事業所が多いことへ目をつけ、昼食でうどんを食べる客を狙って出店し、昼には行列ができる店になりました。

「つるいち」は2000年から2021年まで21年間営業し、初瀬さんが芸人になって東京へ移ったあとも、高松に残る実家の店として続いていました。

祖父との外出や母の料理に残る高松での家族の記憶

幼少期には祖父と「さぬきこどもの国」へよく出掛けており、後年、すゑひろがりずと高松の思い出の場所を巡った際にも訪れています。

家族との食事で強く記憶に残っているのが、香川名物の骨付鳥を出す「一鶴」です。

幼稚園から小学校低学年くらいのころ、両親に初めて連れて行ってもらい、「ひなどり」を食べた味が忘れられなくなりました。

当時は外食することが少なく、普段はほとんど母親の料理を食べていたため、濃い味の骨付鳥が子どもの初瀬さんにはかなり新鮮だったようで、しばらく両親へ「一鶴に行きたい」と頼み続けていたそうです。

高校時代|スーパーで働きながらNSC岡山校1期へ

中学で野球を終えた初瀬さんは、香川県立高松商業高等学校へ進学しました。

高校では野球部には入らず、放課後の大きな時間をアルバイトとお笑いに使うようになります。

マルヨシで2年半働き、卒業前には就職を誘われた

高校時代に働いていたのは、自宅近くにあった地元のスーパーマーケット「マルヨシ」でした。

品出しだけでなく、惣菜を作って店頭へ並べ、夜になれば商品へ半額シールを貼るなど、店内のさまざまな仕事を経験しています。

芸人になった後は長いアルバイト生活を経験することになりますが、高校生だったころは、自分で働いて給料を受け取ること自体が新鮮でした。

「働くって楽しい! これでお金もらえるの? ありがたい!」

SUUMOタウン|初瀬悠太「実家が讃岐うどん屋だった僕」

約2年半働き、高校卒業が近づいて辞めようとしていたころには、店側からそのまま就職しないかと声を掛けられました。

「吉本超合金」のCMを見て高校生のままNSC岡山校へ

アルバイトを続ける一方で、お笑いへの興味も強くなっていました。

当時好きだったのがFUJIWARAの深夜番組『吉本超合金』です。

香川県と岡山県で同じローカル放送を見られる環境だったため、番組を見ていたある日、テレビからNSC岡山校1期生募集のCMが流れました。

大阪や東京のNSCと比べて当時の岡山校は学費が安く、授業も日曜日だけだったため、高校へ通いながら参加できる条件でした。

アルバイトをしていた初瀬さんには自分で使えるお金もあり、高校生のままNSC岡山校1期へ入学します。

スベり続けて退所し、芸人になる夢を一度諦めた

「才能があれば、そのまま芸人になれるかもしれない」という気持ちで入ったNSCでしたが、待っていたのは想像していたものとは違う時間でした。

高校生だったのは初瀬さんだけで、周囲は20代の受講生が中心でした。

ネタを披露しても思うように笑いが起きず、本人の表現では「信じられないくらい」スベり続けました。

「俺、お笑いの才能もないんや……」

MEN’S NON-NO WEB

初瀬さんはNSCを短期間で辞め、この時点で芸人になる夢を完全に諦めました。

後に森下さんと出会ってからも、このNSC経験をしばらく話していなかったほどでした。

大阪芸術大学へ|芸人ではなく映像の道を選んだ19歳

NSCで心が折れたあとも、お笑いそのものを嫌いになったわけではありませんでした。

高校卒業後の初瀬さんは19歳で香川を離れて大阪へ向かい、芸人とは別の形でお笑いに関わる道を探します。

松本人志の映像作品に刺激を受けて映像学科へ

高校時代のアルバイト代では、お笑いのDVDを数多く買っていました。

その中で強く影響を受けたのが、松本人志さんによる映像コント作品『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM』でした。

芸人として舞台に立つ才能はないかもしれないが、映像なら自分にも可能性があるかもしれないと考え、大阪芸術大学の映像学科へ進学します。

芸人になることは諦めても、「大阪へ行って何らかの形でお笑いに関わりたい」という気持ちは残っていました。

ミルクボーイの新歓ライブを見て落研へ入部

大阪芸術大学へ入ると、初瀬さんはお笑いサークルにあたる落語研究寄席の会の新入生歓迎ライブを見に行きました。

ただ、お笑いを見る目が厳しかった初瀬さんは、ライブを見始めても入部したいと思える出演者になかなか出会えませんでした。

そんな中で登場したのが、一学年上にいたミルクボーイです。

ネタを見て腹を抱えて笑い、「この人たちと友達になりたい」と感じ、そのまま落研への入部を決めました。

初瀬さん自身が後に、ミルクボーイがいなければ落研には入っていなかったと振り返るほど、この日のライブはその後の進路を変える出来事になりました。

森下直人との出会い|漫才でスベった二人がコントを見つけるまで

落研には、同じ新入生として森下直人さんも入っていました。

ただし、二人は出会ってすぐ意気投合したわけではありません。

「チャラそう」が第一印象だった森下直人

当時の森下さんは、B系のキャップに大きめのパーカーとパンツ、ピアス、茶髪のウルフカットという姿でした。

初瀬さんから見ると「チャラそう」で、自分とは話が合わなそうな相手に見えたため、最初から特別気になる存在だったわけではありません。

一方の森下さんは、当時痩せていて口元が目立っていた初瀬さんの顔にかなり興味を持っていたそうです。

落研への一斉メールに初瀬だけが返信してコンビ結成へ

二人が一緒にネタをすることになったきっかけは、森下さんが落研のメンバーへ送ったメールでした。

お笑いライブへ出るために「自分とコンビを組まないか」という内容を一斉送信し、初瀬さんは遊び感覚で返信します。

ところが、返信したのは初瀬さん一人だけで、そのまま二人で組むことになりました。

初めてきちんとネタ作りのために集まったときには、森下さんが初瀬さんの顔をじっと見たうえで口元をいじり、初瀬さんが本気で傷つくという出来事もありました。

初瀬さんはその一件で、しばらく森下さんを嫌っていたと明かしています。

最初の漫才は不発、森下の奇妙な発想からコントへ

二人が最初に始めたのは漫才でした。

お笑いを長く見てきた初瀬さんが知識を伝え、森下さんとネタを作りましたが、落研の身内もほとんど笑わないほどスベる状態が続きます。

後に大学の先輩だったミルクボーイからも、当時の二人の漫才は面白くなかったとはっきり言われたそうです。

転機は、ネタ作りに行き詰まった森下さんが、意味の分からない言葉を突然叫び始めたときでした。

それまで漫才では苦戦していた初瀬さんが、その突飛な言葉には思わず大笑いします。

そこで「コントならいけるのではないか」と考え、森下さんの思いつくままの発想を初瀬さんが形にしながらネタへしていくと、客席から笑いが起こるようになりました。

森下さんが自由に発想し、初瀬さんがそのアイデアをお笑いとして成立させる形は、大学時代からすでに始まっていました。

インディーズライブ優勝で「芸人になる」と腹をくくった

コントで手応えを得た二人は、大阪のインディーズライブのオーディションにも合格しました。

吉本の劇場オーディションへ進む直前の芸人たちも出演するレベルの高いライブで、先に出演していたミルクボーイも苦戦する環境だったといいます。

そこで二人は、出場わずか2回目で優勝しました。

映像学科で学んでいた初瀬さんは、それまで森下さんから芸人を続けるのか聞かれても、芸人になるとは答えていませんでした。

森下さんは初瀬さんが就職を選ぶのではないかと内心では心配していましたが、ライブで結果が出たあと、その答えが変わります。

「腹くくった、芸人になるわ!」

MEN’S NON-NO WEB

高校時代に一度諦めた芸人への道を、初瀬さんは大阪芸術大学で自分の意思でもう一度選び直しました。

2008年にななまがり結成|大阪の劇場でプロ活動を開始

大学で組んだ二人は、そのまま学生サークルのコンビで終わらず、吉本興業の劇場へ挑戦します。

吉本興業の公式プロフィールでは、ななまがりの結成年月は2008年11月とされています。

大学在学中に吉本の劇場オーディションへ合格

インディーズライブで結果を残したあと、ななまがりは吉本の劇場オーディションを受け始め、2008年に合格しました。

初瀬さんは当時、若手芸人が出演していたbaseよしもとへの憧れが強く、大学卒業まで待つより早く劇場へ入りたいと考えていました。

数百組が挑戦するオーディションから残った芸人たちが、さらに劇場内のバトルで順位を争う環境に入り、学生生活とプロの芸人活動が重なっていきます。

2012年に劇場の一軍へ上がってもアルバイト生活は続いた

劇場へ入れれば安定して芸人として生活できるわけではありませんでした。

下のランクから何度もバトルを重ね、ななまがりがようやく一軍へ上がったのは2012年です。

かまいたちや天竺鼠といった劇場の看板メンバーと並び、ななまがりの名前も大きく掲げられるようになりました。

それでも、劇場出演だけで生活できるほどの収入にはならず、ライブへ出て、ネタを作り、先輩との付き合いをしながら、空いた夜にアルバイトを入れる生活が続きます。

劇場の一軍になっても、初瀬さんがアルバイトを完全に辞められたのは2020年ごろでした。

森下の発想を初瀬が選別するネタ作りが固まっていく

大学時代に見つけた二人のネタ作りは、プロになってからも続きました。

森下さんが頭に浮かんだ奇妙なアイデアを次々に出し、初瀬さんが客前へ出せる形に整えていきます。

初瀬さんは特にオリジナリティを重視し、森下さんが誰かをまねたわけではなくても、ほかの芸人のネタと少し似ていると感じるものは採用しないことがあると語っています。

自由な森下さんの発想と、それを厳しく選ぶ初瀬さんの組み合わせが、ななまがり独特のネタを作る形として定着していきました。

2014年に東京へ|大阪の看板メンバーから再びゼロへ

大阪の劇場では一軍まで上がったななまがりでしたが、その状態が長く続いたわけではありません。

2014年、5upよしもとの卒業を機に、二人は活動拠点を東京へ移しました。

5upよしもと卒業で東京進出を決断

初瀬さんたちは、一軍へ上がったばかりだったため、自分たちまで卒業対象になるとは考えていなかったそうです。

ところが上の世代だけではなく、ななまがりの世代までまとめて劇場を卒業することになりました。

若手劇場を卒業すると大阪で継続的に出られる舞台が大きく減るため、まだ全国的に売れていなかった二人は東京へ進むことになります。

大阪では劇場の看板メンバーまで上がった二人が、東京では名前をほとんど知られていない状態からやり直しました。

大宮の劇場バトルでも勝てず、アルバイト中心の日々

東京へ来ると、客だけではなく、劇場スタッフにもななまがりを知らない人が多くいました。

テレビの仕事が突然増えるわけでもなく、劇場出演も少なかったため、再びアルバイトの比重が大きくなります。

当時は大宮の劇場で、ルミネtheよしもとの出演枠を争うバトルにも参加していました。

客票で順位が決まる一方、開催日によって客数が違い、初瀬さんの例では、客が8人の日に8票すべてを取っても、別の日に30人中9票を取ったコンビに順位で負けることがありました。

大阪で積み上げた劇場での立場を、そのまま東京へ持ってくることはできませんでした。

キングオブコント準決勝で東京進出後初めて手応え

東京進出後、初瀬さんが初めて大きな希望を感じた出来事として挙げているのが、キングオブコント準決勝進出です。

吉本興業の公式プロフィールでは、ななまがりは2014年と2015年にキングオブコント準決勝へ進出しています。

大阪時代は準々決勝が最高だったため、東京へ来てから一段上の結果が出たことは、仕事が急増しなかったとしても二人にとって大きな自信になりました。

KOC2016決勝進出で周囲の見方が変わった

そして2016年、ななまがりは「キングオブコント2016」決勝へ初めて進出しました。

大会公式記録にも、ファイナリスト10組の一組としてななまがりの名前が残っています。

決勝進出だけで一気にテレビの人気者になったわけではありませんが、森下さんによれば、スタッフから二人を見る目は明らかに変わりました。

賞レースで結果を出しながらも、ななまがりの場合はここを一度の「ブレイク」とするより、その後にいくつもの転機が重なっていきます。

テレビで見つかったななまがり|ブレイクまでに重なった転機

キングオブコント決勝後も、ななまがりは劇場と賞レースを中心に活動を続けました。

テレビで二人の持ち味が知られていくまでには、コント以外の場で森下さんの奇妙さが受け入れられる経験が必要でした。

「チャンスの時間」でコント以外の森下のキャラクターが受け入れられる

初瀬さんが大きな転機として挙げているのが、千鳥がMCを務めるABEMAの『チャンスの時間』です。

出演した「オープニング長回し選手権」は、偽番組のオープニング収録をどれだけ長く続けられるかを試すドッキリ企画で、二人は約1時間にわたって持ちネタやギャグを繰り出しました。

現場ではドッキリのため周囲が笑わず、手応えが分からないまま進めましたが、後に千鳥やスタッフがその様子を見て大笑いしていることを知ります。

それ以前、初瀬さんは森下さんの「架空芸能人ものまね」のような極端なキャラクターをテレビで出すことに慎重でしたが、この番組を境に考えが変わりました。

「ななまがりってこういうやつらっていう名刺にもなったし、完全にターニングポイントだったと思います」

TVガイドWeb

コントの設定の中だけではなく、森下さん自身の奇妙さをそのまま見せても笑いになると分かった出来事でした。

「新元号当てるまで脱出できない生活」で全国的に知られる

2019年には、TBS『水曜日のダウンタウン』の企画「新元号を当てるまで脱出できない生活」にななまがりが出演しました。

新元号「令和」が発表される直前に外部の情報から隔離され、二人だけで新しい元号を予想し、正解するまで生活を続ける企画です。

初瀬さんと森下さんは大量の漢字の組み合わせを考え続け、最終的に「令和」へたどり着きました。

放送後、初瀬さんは自身の公式Xで企画への出演を明かし、脱出できた瞬間の喜びは忘れられないと投稿しています。

吉本興業の公式プロフィールでも、この企画がギャラクシー賞の月間賞を受けた実績が記載されており、ななまがりの名前を広く知るきっかけの一つになりました。

コロナ禍の無観客収録で芸人仲間からの評価が仕事につながった

その後、2020年から新型コロナウイルスの影響でテレビ収録から一般観覧客がいなくなる時期が訪れました。

通常なら厳しい状況ですが、ななまがりにとっては意外な変化につながります。

二人は以前から、劇場の一般客には思うように受けない一方、芸人仲間からネタを評価されることが多いという特徴がありました。

観覧客がいないスタジオでは、出演している芸人たち自身の感覚で笑いが起こり、先輩芸人から面白さを認められる機会が増えていきます。

賞レースの一度の結果ではなく、『チャンスの時間』、『水曜日のダウンタウン』、そして無観客収録での芸人仲間からの評価が重なり、テレビの仕事が少しずつ増えていきました。

初瀬さん自身も、ななまがりは何か一つで突然跳ねるのではなく、一段ずつ階段を上ってきたと語っています。

漫才・コント・ピンへ|初瀬悠太とななまがりの現在

大学時代は漫才でスベったことからコントへ移ったななまがりですが、芸歴を重ねる中で再び漫才にも力を入れるようになりました。

コントだけに絞らず漫才を続けたことが、2020年代に入って新しい結果へつながっています。

THE SECOND 2024グランプリファイナルで漫才でも結果

2024年、ななまがりは結成16年以上の漫才師を対象にした「THE SECOND~漫才トーナメント~」へ出場しました。

ノックアウトステージを勝ち抜き、8組だけが進めるグランプリファイナルへ初進出しています。

大学時代には漫才でほとんど笑いが取れず、コントへ転向した二人にとって、漫才の全国賞レース決勝は特別な舞台でした。

「僕らが漫才の賞レースの決勝に出られるなんて、本当に夢のようで」

フジテレビ「THE SECOND~漫才トーナメント~2024」

グランプリファイナルではタモンズに1点差で敗れ初戦敗退となりましたが、大学時代に一度手放した漫才でも全国大会の決勝へたどり着きました。

初瀬はR-1グランプリ2026決勝へ

コンビの活動と並行し、初瀬さんは一人で舞台に立つR-1グランプリにも挑戦してきました。

2026年大会では過去最多となる6171人のエントリーから勝ち上がり、9人のファイナリストに選ばれました。

大きな声で物事を断定していく「言い切る男」のスタイルを、自分一人のネタとして決勝の舞台へ持ち込んでいます。

決勝前のインタビューでは、自分にとってR-1は何かと聞かれ、次のように答えました。

「僕にとっては修行です。」

カンテレ公式エンタメNEWS「みよか」

一人でネタを作り、一人で舞台に立ち、スベっても誰のせいにもできない経験を積むことで、そこで身につけた構成力をコンビへ持ち帰りたいとも話しています。

森下さんは一足早く2020年のR-1決勝へ進んでおり、2026年には初瀬さんも同じ舞台へ到達しました。

高校時代にNSCでスベり続けて「お笑いの才能がない」と一度は舞台を降りた初瀬さんが、2026年には一人でR-1決勝の舞台に立ちました。

毎年28本の新ネタを作る「ななまつり」が現在の活動へ続く

現在のななまがりを語るうえで欠かせないのが、2022年から続けている単独ライブ「ななまつり」です。

2026年の「ななまつり 二〇二六」では、4月11日と12日の2日間に4公演を開催し、各公演で異なる新ネタを7本ずつ披露しました。

つまり、2日間で作る新ネタは合計28本です。

大学時代から続く森下さんの発想力に加え、少しでも既存のネタと似ていると感じれば採用しないという初瀬さんの厳しい選別を通し、その量の新作を毎年舞台へ出しています。

漫才、コント、そして初瀬さん個人のピンネタまで、現在の活動は一つの芸風だけに収まらなくなりました。

香川県高松市でバラエティとプロ野球を好きになった少年は、高校時代に一度お笑いの世界へ入り、その難しさを知って舞台から離れました。

大阪芸術大学でミルクボーイの漫才を見て落研へ入り、偶然メールへ返信したことで森下直人さんと組んだことから、止まっていた芸人への道がもう一度動き始めます。

2008年のななまがり結成から大阪、東京で長い時間を重ね、初瀬悠太さんは現在も森下さんと新しいネタを作りながら、自分一人でも舞台へ立ち続けています。

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