人物プロフィール
お笑いコンビ「たくろう」のきむらバンドさんは、2025年のM-1グランプリで優勝し、長く活動してきた大阪の劇場から一気に全国へ名前を広げました。
本名は木村太一さんで、現在の柔らかな語り口や赤木裕さんとの独特な漫才からは想像しにくいものの、学生時代にはバンドでベースを弾き、音楽で売れることまで考えていた時期があります。
さらに時間をさかのぼると、愛媛県の小さな町で吉本新喜劇や明石家さんまさんをまねし、転校した初日にも知らない同級生へボケを仕掛ける子どもでした。
芸人という進路がはっきり形になったのは、松山大学で偶然入った落語研究部で漫才とコントに出会ってからです。
そこから大学生活、1年間のフリーター生活、NSC大阪校、ピン活動と旧コンビを経て、まだ顔も知らなかった赤木裕さんとの待ち合わせへと進んでいきます。
きむらバンドの生い立ちと家族|鬼北町で育ち、10歳ごろに松山市へ
きむらバンドさんは1990年1月28日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは愛媛県松山市出身とされています。
一方、地元・愛媛朝日テレビなどでは愛媛県鬼北町生まれ・松山市育ちと紹介されており、本人も小学生時代まで鬼北町で暮らし、その後松山市へ移った経緯を語っています。
同級生10人ほどの鬼北町で、新喜劇と明石家さんまをまねていた
幼いころに暮らしていた鬼北町は、同じ学年の子どもが10人ほどだったといい、家へ帰れば知らない近所のおじいさんが普通にいるような、周囲の大人とも距離の近い環境でした。
テレビでは吉本新喜劇や明石家さんまさんが好きで、面白い場面を見ればそのまま友達の前でまねしていました。
小さな集団の中では、少しでも笑わせることができればすぐ目立つため、自然と人前でふざける機会も増えていったそうです。
小学3年生ごろには将来について「ジャニーズかお笑い」と口にしていたほどで、お笑いは大人になって突然見つけた進路ではありませんでした。
松山市へ転校、初日からボケて教室へ入っていく
小学5年生のころ、鬼北町から松山市内の学校へ転校します。
それまで10人ほどだった同級生が100人以上になる環境の変化に、本人も最初は「やっていけるかな」と緊張していました。
それでも転校初日、後ろの席にいた会ったことのない児童へ、以前からの知り合いのように「久しぶり」と声をかけました。
周囲から知り合いなのかと聞かれると「知らんねん」と返し、教室に笑いが起きたとCHANTO WEBのインタビューで話しています。
知らない人ばかりの教室へ入ったその日に、きむらバンドさんが最初に使ったのが「笑わせること」でした。
母に育てられた少年時代、小5ごろから高校2年まで続いた反抗期
本人によると家族は母親、3歳下の弟、10歳下の妹がおり、小学生のころに両親が離婚しました。
離婚後は母親が子どもたちを育てましたが、父親とも現在は普通に会っていると本人が明かしています。
幼いころは母親が大好きな甘えん坊だった一方、小学5年生ごろになると反抗する時期が始まり、それが高校2年生ごろまで続きました。
2026年にM-1優勝後初めて実家へ帰った『相席食堂』では、母親が当時を振り返り、反抗期の息子にも定期的に手紙を書いていたことを明かしています。
学校では人を笑わせていた少年が、家では母親へ口答えする時期も長く過ごしていました。
中学・高校時代|笑いで周囲に入り、松山中央高校ではバンドへ
松山市での生活に慣れると、きむらバンドさんにとって笑いはますます日常の一部になっていきます。
ただし、このころから一直線に芸人だけを目指していたわけではなく、高校では別の表現に夢中になります。
中学では周囲を笑わせながら人間関係を築いた
本人は子どものころから人見知りではなく、初対面の相手とも関わることをそれほど苦にしない性格だったと話しています。
中学校でも人との間へ入るときには笑いがあり、友人を笑わせることが特別なイベントではなく、普段の学校生活そのものになっていました。
好きだったのもお笑いだけではなく、『クレヨンしんちゃん』など「面白い」と感じるもの全般で、テレビで見つけた笑いを学校へ持ち込む生活が続いていました。
松山中央高校で「サディスティック・ジョーカー」のベース担当に
高校は愛媛県立松山中央高校へ進学しました。
ここで力を入れたのが音楽で、バンド「サディスティック・ジョーカー」を組み、ベースを担当します。
ただ演奏するだけではなく、他のバンドが5曲演奏するところを自分たちは3曲ほどにし、そのぶんステージ上でしゃべることもあったそうです。
「一番おもしろいベーシストになろうと思ってたんです」
愛でたい四国
高校時代は「芸人になる」だけでなく、「面白いベーシストとして売れる」という道も本人の中にありました。
進路希望には吉本と書けず、飼育員や保育士も候補にした
心の中には昔から吉本への憧れがありましたが、高校で提出する進路希望の用紙に「吉本」と書くことはできませんでした。
動物や子どもが好きだったことから、そこには動物園の飼育員や保育士といった職業を書いていたと振り返っています。
一方でバンド活動は続いており、高校卒業が近づくころには音楽を続けて売れることも現実の選択肢として考えるようになっていました。
松山大学の落研で漫才に出会い、芸人になる進路が固まる
高校を卒業したきむらバンドさんは、地元の松山大学へ進みます。
大学進学の段階でも、目的はお笑い一本ではなく、高校時代からのバンドを続けることが頭にありました。
「面白いベーシスト」を目指してバンド仲間と松山大学へ
松山大学へはバンド仲間と進学し、入学当初は大学でも音楽活動を続けようとしていました。
高校時代には「演奏もできてしゃべりも面白い」という立ち位置なら勝負できるのではないかと考えており、大学へ入った時点では音楽と笑いがまだ同じ場所にありました。
そのキャンパスで、きむらバンドさんは落語研究部の存在に気づきます。
廃部寸前の落研へ女性部長から誘われ、初めて漫才・コントを経験
当時の落語研究部は部員が少なく、存続そのものが危うい状態でした。
1学年上の女性部長から熱心に誘われたものの、落語をやらなければならないと思っていたきむらバンドさんは、最初から積極的だったわけではありません。
ところが実際には、落語だけでなく漫才やコントをやってもいいと分かり、入部を決めます。
ここで初めて本格的に漫才とコントへ取り組み始めました。
高校まで漠然と持っていた「お笑い」の選択肢が、松山大学の落研で「お笑いで食べていきたい」という進路へ変わっていきました。
地元テレビやMCの仕事が増え、部員も約20人へ
きむらバンドさんたちが活動を続けるうちに、廃部寸前だった落研には少しずつ人が集まるようになりました。
地元のケーブルテレビから取材を受け、本人を取り上げる企画が組まれるなど、大学の中だけで終わらない活動にもつながっていきます。
さらにイベントのMCなど、人前でしゃべってお金を受け取る仕事も経験しました。
落研の部員も増え、本人の回想では20人ほどになった時期があり、大学生活の中心は授業よりもお笑いへ移っていきます。
学生の趣味として漫才を始めただけでなく、地元で実際に「しゃべる仕事」を経験したことが、NSCへ進む前にありました。
4年間在籍し、大学を卒業せず芸人の道へ
お笑い活動へ熱中する一方、大学の単位は順調には積み上がりませんでした。
本人の回想では授業より友人と過ごす時間が増え、大学には4年間在籍したものの、卒業には至っていません。
そこで大学に残り続けるのではなく、以前から頭にあった吉本で芸人になる道へ進むことになります。
大学を離れて1年間フリーター|NSC大阪36期へ進むまで
大学を離れたあと、すぐ大阪へ移ったわけではありません。
NSCへ進むための準備期間として、愛媛で約1年間働く生活を送っています。
愛媛で働きながらNSCへ行く資金を貯める
この時期はフリーターとして働き、NSCへ入るためのお金を準備しました。
経験した仕事の一つが、愛媛にあった会員制キャバクラのボーイです。
会社役員や経営者など年上の客と接する店で、言葉遣いや礼儀を身につけたと仕事に関するインタビューで振り返っています。
大学を離れてから芸人になるまでの空白ではなく、地元で働きながら次へ進む資金を作っていた1年間でした。
母に芸人になる意思を伝え、反対されず大阪へ
芸人になることを家族へ伝えたとき、母親から強く反対されることはありませんでした。
「やってみたら?ダメなら帰ってきたらいい」
CHANTO WEB
小学生のころから高校まで長い反抗期を見てきた母親に送り出され、きむらバンドさんは大阪へ向かいます。
地元で漫才をする学生から、プロの芸人になるための最初の具体的な行動がNSC入学でした。
新喜劇や憧れの先輩たちを追ってNSC大阪校を選んだ
入ったのはNSC大阪校36期です。
大阪を選んだ背景には、幼少期から見ていた吉本新喜劇や明石家さんまさんだけでなく、今田耕司さん、フットボールアワー、チュートリアル、ブラックマヨネーズなど、自分が面白いと思ってきた芸人たちの存在がありました。
愛媛の大学でお笑いを始めたきむらバンドさんが、プロの芸人が集まる大阪へ生活の場所を移しました。
一人しゃべり1位の直後、同期や劇場の芸人を見て現実を知る
NSCへ入った直後には、得意だったしゃべりで手応えもありました。
最初の一人しゃべりの授業では1位になり、大学時代まで人前でしゃべってきた経験が通用する場面もありました。
しかし、周囲にはのちに世に出ていく同期がおり、劇場へ行けばすでにプロとして笑いを取っている芸人がいます。
同期には8.6秒バズーカーがおり、身近な芸人たちを見ているうちに、愛媛で感じていた自信だけでは進めない世界に入ったことも分かっていきました。
NSCに入ったことがゴールではなく、ここからコンビを組み、解散し、ピンになり、もう一度相方を探す時間が始まります。
NSC卒業後はピンと旧コンビを経験|木村太一から「きむらバンド」へ
現在は「きむらバンド」という名前が定着していますが、NSC卒業直後からこの芸名で「たくろう」を組んでいたわけではありません。
現在の相方へたどり着く前に、コンビの解散とピン活動を経験しています。
NSC時代のコンビが卒業時に解散、本名・木村太一でピン活動
NSC在学中にもコンビを組んでいましたが、卒業と同時に解散しました。
その後は本名の「木村太一」でピン芸人として舞台に立ち、「煌~kirameki~Lesson」などにも一人で出演しています。
現在のコンビから芸人人生が始まったのではなく、最初のコンビが終わったあとに一人で活動していた時期がありました。
宗安の一言から「きむらバンド」という芸名が生まれる
本名で活動する中、「木村」という名字は多いという話になり、チェリー大作戦の宗安さんから芸名をつけてみてはどうかと提案されました。
高校時代にバンドをしており、音楽の仕事にもつながればいいという話から出てきた名前が「きむらバンド」でした。
高校時代にベースを弾いていた経験が、そのまま芸名の中へ残ることになります。
「バンドワゴン」を約1年で解散し、再び相方を探す
芸名が生まれたころには、偶然にも「バンドワゴン」というコンビを組むことになりました。
活動したのは芸歴1~2年目ごろの約1年間で、バンドワゴンも解散します。
コンビはなくなりましたが、宗安さんにつけてもらった「きむらバンド」という芸名はそのまま残しました。
そして再び相方を探していた時期に、現在まで続く人物の名前が宗安さんから出てきます。
赤木裕との出会い|心斎橋の初対面から「たくろう」結成へ
きむらバンドさんがNSC大阪36期なのに対し、赤木裕さんは37期です。
同じNSCにいた先輩後輩ではありますが、在学中から親しく付き合い、そのままコンビを組んだわけではありませんでした。
宗安とねんどの紹介で、1期下の赤木裕と連絡先を交換
バンドワゴン解散後に相方を探していると、当時NSCのアシスタントをしていた宗安さんから、1期下に「赤木という面白い芸人がいる」と聞かされます。
きむらバンドさんと親しかったチェリー大作戦のねんどさんにも赤木さんについて尋ねると、こちらからも面白いという話が返ってきました。
ところが、2人は互いの名前を聞いたことがあるだけで、顔を知りませんでした。
宗安さんやねんどさんを通じて連絡先を交換し、まず会うことになった場所が心斎橋でした。
心斎橋で初対面し、きむらバンドが赤木に“一目惚れ”
待ち合わせ当日も、きむらバンドさんはどんな人物が来るのか分かっていません。
そこへ現れた赤木さんの姿を見た瞬間、本人は「絶対に面白い」と感じたそうです。
よしもと漫才劇場のインタビューでは、このときについて「正直その時点で一目惚れ」だったと明かしています。
その後ファミリーレストランへ移り、自分はネタも書ける、こんなこともできると赤木さんへ盛んにアピールし、コンビを組もうと口説きました。
現在のたくろうは、互いの顔すら知らなかった2人が心斎橋で初めて会ったところから始まりました。
インディーズライブと愛媛の実家訪問を経てコンビを決める
初対面ですぐ意気投合したからといって、その場で正式なコンビになったわけではありません。
まず一緒にネタを試し、インディーズライブにも出演しながら、実際に組んで活動できる相手なのかを確かめていきました。
赤木さん側は、面白さだけでなく長く一緒に続けられる人かどうかも見ていたと後年語っています。
正式結成前には赤木さんらを連れて、きむらバンドさんの愛媛の実家へ行ったこともありました。
きむらバンドさんはすでに組みたい気持ちを強く持っていた一方、赤木さんは慎重に考えており、最初から同じ温度で始まったコンビではありませんでした。
2016年3月9日に結成、木村拓哉とイチローから「たくろう」へ
2人は2016年3月9日に正式にコンビを結成しました。
コンビ名の「たくろう」は、きむらバンドさんが好きな木村拓哉さんの「拓」と、赤木さんが好きなイチローさんの「郎」を組み合わせて生まれた名前です。
NSCの同期同士で最初から組んだコンビではなく、互いに別のコンビやピン活動を経験したあとで出会った2人でした。
結成直後の試行錯誤|スベる漫才から「無理をしない」形へ
赤木さんという相方が決まっても、すぐ現在の漫才になったわけではありません。
結成直前から結成初期にかけては、何をやってもうまくいかないと感じるほどネタが受けない時期もありました。
明るい登場やノリツッコミを試すも笑いが起きなかった
最初はきむらバンドさんが勢いよく明るく登場し、赤木さんがゆっくり出てくるような見せ方も試しました。
フットボールアワーの後藤輝基さんのような強いノリツッコミにも憧れがあり、自分でもやってみたものの、思うようには受けませんでした。
2人とも自然体とは違う動きを足しながら、笑いの形を探していました。
約3か月で「赤木を肯定する」漫才の原型ができる
試行錯誤が続く中で、一度力を抜いてやってみようと考えました。
きむらバンドさんが赤木さんを強く否定して引っ張るのではなく、赤木さんの言動を受け入れながら会話を進める形に変えると、それまでより大きな笑いが起きました。
そこから2~3本ほどネタを作り、現在まで続く「2人とも無理をしすぎない漫才」の輪郭ができていきます。
赤木さんの独特な言動を矯正せず、その人間そのものを漫才の中へ残す形が早い時期に見つかりました。
UNDER3とKakeru翔GPを勝ち上がり、早々に劇場メンバーへ
形が見つかると結果は早く、芸歴3年目以下の若手が出場する「UNDER3」で1位を獲得しました。
その結果「Kakeru翔GP」へ進み、初出場ながらこちらでも1位になります。
当時のKakeru翔GPには霜降り明星、ゆりやんレトリィバァ、ミキ、コロコロチキチキペッパーズら後に全国区となる若手も出演していました。
たくろうは結成から1年もたたないころによしもと漫才劇場のメンバーへ上がり、若手時代の序盤はかなり速いペースで階段を上っています。
2018年M-1準決勝で仕事が増えるも、そこから長い停滞へ
劇場へ早く上がったたくろうは、その後も賞レースで名前を残すようになります。
その中で、生活そのものを変えた最初の大きな出来事が2018年のM-1グランプリでした。
M-1敗者復活5位をきっかけにアルバイトを辞める
2018年、たくろうはM-1グランプリで初めて準決勝へ進出しました。
決勝進出は逃したものの、敗者復活戦では5位となり、全国放送の舞台で漫才を見てもらう機会を得ます。
「正直これきっかけでバイトを辞められました!」
よしもと漫才劇場
2018年のM-1は賞レースの成績だけでなく、アルバイトをしながら舞台へ立つ生活が変わった転機でした。
テレビ仕事が増えた一方、賞レースでは結果を残し切れない時期へ
M-1準決勝進出を境にテレビの仕事も増え、きむらバンドさん自身も当時は「このまま売れていくのだろう」と感じていました。
しかし、若いうちに急に仕事が増えたことで準備が追いつかず、後から振り返ればうまくできなかった仕事もあったと話しています。
2019年にはytv漫才新人賞で準優勝するなど結果を残しましたが、M-1では2018年以降、準決勝へ戻れない年が続きました。
結成直後の急上昇で一気に売れ切ったわけではなく、「一度売れそうになったあと」の時間が長くなっていきます。
2020年には地元愛媛の『なるちか!』レギュラーに
全国の賞レースで思うように上へ進めない時期にも、地元・愛媛との仕事は続いていました。
2020年からはコンビで愛媛朝日テレビの情報番組『なるちか!』にレギュラー出演します。
松山大学の落研時代にも地元メディアへ出演していたきむらバンドさんが、今度はプロのコンビとして愛媛のテレビへ定期的に戻るようになりました。
2021年M-1でネタを飛ばし、解散という言葉まで出る
大きく関係が揺れたのが2021年のM-1グランプリでした。
1回戦で赤木さんがネタを飛ばし、規定時間を超えてしまいます。
舞台後、赤木さんが笑っているように見えたことで、結果を重く受け止めていたきむらバンドさんは強く腹を立てました。
後に赤木さんは、このとききむらバンドさんから解散という言葉も出たと明かしています。
結成から約5年、M-1の1回戦敗退をきっかけに「たくろう」を続けるかどうかまで話す時期がありました。
劇場で「目の前の客に笑ってもらう」漫才へ立ち返る
それでも2人は解散せず、よしもと漫才劇場の舞台へ立ち続けました。
賞レースで評価されそうな格好いいネタや尖ったネタを狙うより、まず目の前の客席で笑いが起きる漫才を優先するようになります。
赤木さんが持つ独特の間や人物像を消さず、それを繰り返しネタの中心へ置く方向へ戻っていきました。
2018年に一度見えた「売れる」という感覚から離れ、劇場で受けるかどうかを積み重ねる期間がその後も続きました。
2025年M-1優勝|7年ぶりの準決勝から1万1521組の頂点へ
2018年に初めてM-1準決勝へ進んでから、たくろうは長く同じ場所へ戻れませんでした。
そして結成9年目の2025年、7年ぶりに準決勝へ進出します。
7年間準決勝へ戻れない中で「とにかくウケる」を優先する
きむらバンドさんは優勝後、2018年から続いた7年間について、必要な時間だったと振り返っています。
「笑っていただけるネタをしようと腹を括れました」
ABCマガジン
賞レースに向けて自分たちとは違う形を作るのではなく、劇場で最も笑いが起きるものを持っていく方向がはっきりしていきました。
7年間の停滞を経て選んだのは、新しい人物になることではなく、赤木さんの人間味をそのまま漫才へ出すことでした。
「リングアナ」の漫才で初の決勝進出、861点で2位通過
2025年大会には史上最多となる1万1521組がエントリーしました。
たくろうは初めて決勝へ進み、ファーストラウンドで披露したのが、赤木さんの独特な人物像を前面に出した「リングアナ」の漫才でした。
得点は861点で、エバースの870点に続く2位となり、上位3組による最終決戦へ進みます。
2018年に準決勝で止まってから7年、初めて進んだM-1決勝でそのまま最終決戦まで残りました。
最終決戦はきむらバンドの判断で「ビバリーヒルズ」を選ぶ
最終決戦の直前、赤木さんは予定していたネタを別のものへ変えたいと提案しました。
予定していた「ビバリーヒルズ」は完成してから約1か月と新しく、赤木さんには不安がありました。
普段はネタ選びを赤木さんへ任せることが多かったきむらバンドさんが、このときは変更せず「ビバリーヒルズ」で行くと判断しました。
2026年の『しくじり先生』では、エバースやドンデコルテと台本の完成度で同じ勝負をするのではなく、多少粗くても客席で受けるネタを選びたかったと説明しています。
初めてのM-1最終決戦で、ネタ選びについて普段ほとんど意見しなかったきむらバンドさんが決断を下しました。
審査員9人中8票を集め、M-1グランプリ2025優勝
最終決戦では、たくろう、エバース、ドンデコルテの3組が漫才を披露しました。
結果は審査員9人のうち8人がたくろうへ投票し、第21代M-1王者に決定しました。
結成9年、2018年の初準決勝から7年を経て、たくろうは1万1521組の頂点に立ちました。
優勝直後、きむらバンドさんは自身のXで喜びを伝える中、赤木さんについて「出会えて良かった」と投稿しています。
M-1後は東京へ|母への優勝報告から愛媛初冠番組まで
M-1優勝後は仕事の場所が大きく広がりましたが、最初に記事の時間軸へ戻ってきたのは、芸人になる前から過ごした愛媛でした。
その後、大阪を拠点としてきた生活にも変化が訪れます。
2026年2月、愛媛へ凱旋して母と落研時代の元部長に再会
2026年2月放送の『相席食堂』では、赤木さんとともに愛媛県松山市を訪れ、M-1優勝を報告しました。
そこで再会した一人が、大学時代に廃部寸前だった落研へ誘った当時の女性部長です。
大学のキャンパスで声をかけられたことから始まった漫才が、約15年後にはM-1優勝の報告へとつながりました。
最後には実家へ戻り、M-1優勝後としては初めて母親とも再会しています。
芸人になることを反対せず大阪へ送り出した母親へ、M-1王者として帰省することになりました。
3月によしもと漫才劇場を卒業し、4月から東京へ
2026年2月8日、たくろうは公式YouTubeチャンネルで4月から活動拠点を東京へ移すことを発表しました。
きむらバンドさんはM-1優勝後のタイミングで自然に東京進出を考えるようになったと説明しています。
3月15日には長く出演してきたよしもと漫才劇場で卒業単独ライブ「たくろう」を開催しました。
ライブの最後にはM-1最終決戦で披露した「ビバリーヒルズ」の特別版も演じ、大阪で若手時代を過ごした劇場を離れました。
愛媛から大阪へ出てNSCに入り、約10年以上を過ごした関西を離れ、2026年4月から東京を新しい活動拠点としています。
7月、地元愛媛で初冠『寝耳にたくろう』がスタート
東京へ移った一方で、地元・愛媛との関係はむしろ大きくなりました。
2026年7月5日、愛媛朝日テレビで『寝耳にたくろう ~僕らは何も知りません!~』がスタートしました。
コンビにとって初めての冠レギュラー番組で、ロケの場所や内容を2人へ事前に知らせず、その場で起きる反応を見せる番組です。
「夢の冠番組が大好きな地元愛媛で始まりました!」
吉本興業株式会社/愛媛朝日テレビ
鬼北町と松山市で笑わせることを覚え、松山大学で漫才に出会ったきむらバンドさんは、M-1優勝後も愛媛で新しい仕事を始めています。
同級生が10人ほどだった鬼北町で新喜劇をまねしていた少年は、松山大学の落研で「お笑いを仕事にする」という進路を具体的にしました。
大阪へ出てからはピンと旧コンビを経験し、心斎橋で赤木裕さんと出会ったことで「たくろう」が始まりました。
結成直後の急上昇、2018年から続いた停滞、解散という言葉が出た時期を経てM-1王者となり、現在は東京と故郷・愛媛の両方へ活動の場所を広げています。












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