人物プロフィール
豪快キャプテンのツッコミとして、大きな声と「山下ギャンブルゴリラ」という一度聞いたら忘れにくい芸名で知られる山下さん。
2025年には豪快キャプテンとして初めてM-1グランプリ決勝へ進みましたが、そこへたどり着くまでには大学卒業後の会社員生活、旧コンビの解散、30歳前後で迎えた相方探しなど、いくつもの時期がありました。
芸人になる前に働いていたのは証券会社で、配属先の山口県では朝早くから出社し、個人宅への飛び込み営業をしていました。
一方、さらに昔へ戻ると、家庭では祖母と漫才番組を見て、父親とはプロ野球中継を見るという子ども時代を過ごしています。
大学を卒業して証券会社へ就職したあと、1年間働いて貯めた自分のお金でNSC大阪へ進むというルートは、現在の豪快な芸名からは少し意外に見える経歴です。
どんな家庭で育ち、野球少年だった山下さんがなぜ芸人を選び、べーやんさんと豪快キャプテンを組むことになったのか、幼少期から順番にたどっていきます。
山下ギャンブルゴリラの生い立ちと家族|漫才と野球が身近だった少年時代
山下ギャンブルゴリラさんは1988年7月16日生まれ、兵庫県神戸市出身で、吉本興業の公式プロフィールではNSC大阪35期と紹介されています。
子ども時代の山下さんのそばには、お笑い好きの祖母と、巨人ファンの父親という二人の存在がありました。
お笑い好きの祖母と見ていた土日の漫才番組
お笑いとの接点はかなり早く、保育園に通っていたころにはすでに漫才番組を見ていました。
きっかけを作ったのはお笑い好きだった祖母で、土日の昼間に放送される漫才を一緒に見るのが身近な時間になっていました。
「保育園ぐらいから土日の昼間は漫才番組を見てましたね」
ch FILES
後年のインタビューでは、中田カウス・ボタン、オール阪神・巨人、大木こだま・ひびき、トミーズなど、当時テレビで見ていた漫才師の名前も挙げています。
芸人を目指すよりずっと前から、漫才そのものは家庭の中にある身近な娯楽でした。
巨人ファンの父親に影響され、プロ野球選手を目指す
ただし、幼い山下さんが最初に目指していたのは芸人ではなく、プロ野球選手でした。
父親は大の読売ジャイアンツファンで、勝てば喜び、負ければ選手への愚痴も口にしながらテレビ中継を見ていたそうです。
「小さい頃はよく父親とテレビで野球中継を見ていました!」
よしもと漫才劇場
野球に詳しい父を見ていた山下さんは、その影響で自分も野球を始めました。
ところが小学生のころ、母親に「お父さんは野球上手やったん?」と尋ねると、返ってきたのは父親は野球をしたことがないという答えでした。
小学生で投手を経験|父から教わった「宣銅烈」の投げ方
小学校高学年になるころには体重が約80kgまで増え、球が速かったことから投手を任されるようになりました。
ただ、速さがある一方でコントロールには苦労し、なかなかストライクが入らなかったと本人が書いています。
その姿を見た父親が、テレビに映っていた中日ドラゴンズの宣銅烈投手を見せながら、同じように投げてみるようアドバイスしました。
当時の山下さんはなぜ宣銅烈なのか納得できず、そのまま父親の話を聞かずに部屋へ戻ってしまい、それ以降、父親から野球への助言を受けることはなくなったそうです。
中学・高校時代|野球を続けながらお笑いの道を意識
少年時代は漫才が好きだった一方で、学校生活の中心にあったのは引き続き野球でした。
学生お笑いの大会へ積極的に出ていたタイプではなく、本人も高校時代を含めた学生生活について野球をしていたと振り返っています。
プロ野球選手の夢から、お笑い芸人へ
小学生のころはクラブチームにも入り、本気でプロ野球選手を目指していました。
ところがクラブチームには自分よりうまい選手が数多くおり、その姿を目の当たりにしたことで、プロ野球選手になるのは難しいと考えるようになります。
そこで次に浮かんだのが、幼いころから見続けていたお笑い芸人でした。
「野球が難しいなら何をするか」と考えたとき、昔から好きだったお笑いが将来の選択肢に入ってきました。
学生漫才には出ず、学生時代は野球に打ち込む
現在では高校生の漫才大会からプロを目指す芸人もいますが、山下さんはそうしたルートを通っていません。
2023年のインタビューで学生時代に人前でネタをした経験を聞かれた際には、ハイスクールマンザイ自体を知らず、野球をしていたと答えています。
つまり、学生時代から漫才コンビを組んで舞台経験を重ねていたわけではなく、実際にプロのお笑いへ踏み出すのは大学を卒業して社会人を経験してからでした。
出身中学校は非公表|高校名も一次情報では確認されていない
山下さんの出身中学校については、本人や吉本興業から学校名は公表されていません。
高校については「兵庫県立三木北高校」と紹介する二次情報がありますが、本人のインタビューや吉本興業の公式プロフィールでは高校名まで明らかにされていません。
一方で、本人が学生時代を通して野球をしていたことは、よしもと漫才劇場の本人コラムなどで確認できます。
大学時代|芸人志望を抱えながら就職を選んだ理由
高校卒業後、山下さんは大学へ進学しました。
この大学進学は本人だけの出来事ではなく、家族や親戚にとっても大きな出来事だったようです。
家族・親戚が喜んだ大学進学
父親も母親も大学へ進んでいなかったため、山下さんが大学へ入った際には、親戚の間でも「大学へ行く子が出た」と喜ばれました。
その後、就職活動で証券会社から内定を得ると、家族の喜びはさらに大きくなります。
だからこそ、すでに心の中にあった「芸人になりたい」という希望を、その場ですぐ口にすることはできませんでした。
なお、出身大学については「大阪経済大学」と紹介する二次情報が複数ありますが、本人や吉本興業の公式プロフィールでは大学名は公表されておらず、本人の言葉で確認できるのは大学を卒業したことまでです。
大学時代にはすでに芸人になる意思が固まっていた
就職したあと突然芸人になりたくなったわけではなく、大学に通っているころから芸人を目指す気持ちは持ち続けていました。
しかし、大学進学を喜んでくれた家族を前に、卒業後すぐ養成所へ行くという選択はせず、まず社会へ出る道を選びます。
就職は芸人を諦めた結果ではなく、一度会社員として働いたうえで、それでも気持ちが変わらなければ芸人になるという段取りでした。
まず1年間働き、自分のお金でNSCへ行くと決める
家族に養成所の費用を出してもらうのではなく、会社員として1年間働いて貯金し、そのお金でNSCへ入ることを考えていました。
「まだ芸人をやりたかったら自分で貯めたお金でNSCに入ろうかな」
マイナビニュース
大学卒業から直接NSCではなく、「大学卒業→就職→退職→NSC」という順番で芸人人生が始まります。
証券マン時代|山口県での飛び込み営業からNSCへ
大学卒業後に入った証券会社では、山下さんは山口県へ配属されました。
ここで約1年間、芸人とはまったく違う営業の仕事を経験します。
朝5時半に起き、個人宅を回っていた証券営業
当時は朝5時半ごろに起床して会社へ向かい、まず社内を掃除し、社員がそろうと朝礼、その後は担当エリアへ出る生活でした。
営業先は企業だけではなく個人宅への飛び込みが中心で、平日の昼間に一軒ずつ訪ねていきました。
昼間に家にいる高齢者から、若い山下さんを見て商品を買ってもらう場面もあり、自分の中で営業のやり方に迷いを感じることもあったと後年話しています。
営業を通して強い人見知りにも変化
山下さんはもともとかなりの人見知りだったそうです。
それでも仕事では、会ったことのない人の家へ行き、自分から話を始めなければ営業になりません。
本人はこの1年間について、嫌でも知らない人と話さなければならなかった経験は結果的によかったかもしれないと振り返っています。
舞台へ立つ前に、まったく知らない相手へ毎日話しかける仕事を経験していたことになります。
退職を伝えると母は受け入れ、父は猛反対
予定していた1年が経っても芸人になりたい気持ちは変わらず、山下さんは証券会社を辞めることを家族へ伝えました。
母親は本人の人生だからと受け入れましたが、父親の反応はまったく違いました。
大学へ進み、安定した会社へ就職した息子がその職を辞めて芸人になるという話に、父親は強く反対しました。
家族が喜んでいた証券会社を1年で辞め、それでもお笑いを選んだことが、山下さんの最初の大きな進路変更でした。
NSC大阪35期|マストビーキングからダークニンゲンへ
会社員生活を終えた山下さんは、吉本興業の養成所であるNSC大阪35期へ入ります。
現在の豪快キャプテンが最初のコンビではなく、NSC時代からいくつかの形を経て現在の相方へたどり着きました。
NSC大阪35期へ入り、マストビーキングで舞台へ
NSC大阪35期には、ゆりやんレトリィバァさんらも在籍していました。
2013年2月に開催された「NSC大ライブ2013」では大阪35期生168組が出場し、山下さんが活動していたマストビーキングも決勝20組まで残っています。
養成所を出る段階ですでに、168組から20組に残る舞台を経験していました。
2013年に神原大侑とダークニンゲンを結成
NSC卒業後は神原大侑さんとダークニンゲンを結成し、山下真一郎の名前で活動しました。
豪快キャプテンとは芸風も相方も異なり、この時期の山下さんを知る芸人仲間の証言からは、現在とは少し違う舞台上の姿が見えてきます。
早い時期から劇場へ進むも、すぐに売れたわけではなかった
ダークニンゲンは若手のころから劇場で活動する機会を得ていましたが、テレビで広く知られるところまですぐ進んだわけではありません。
舞台へ出ながら芸人仲間とのつながりを広げ、後にビスケットブラザーズやダブルヒガシらとユニット「肉6」で活動する時期もありました。
大東翔生が覚えていた「舞台では激しく、裏では静かな山下」
当時の山下さんを間近で見ていた一人が、ダブルヒガシの大東翔生さんです。
大東さんによると、ダークニンゲン時代は現在より体が細く、舞台では怒鳴るような漫才をしていました。
「漫才で怒鳴り倒してるくせに裏でまあまあ大人しい」
よしもと漫才劇場「マンゲキ交換日記」
その後、パチンコやスロットが好きという共通点が分かり、2017年ごろには月20回ほど一緒にパチンコ店へ行くこともあったと大東さんは記しています。
ダークニンゲン解散|30歳を前に次が最後の挑戦に
ダークニンゲンは2018年に解散し、山下さんは再び相方のいない状態になります。
20代前半でNSCへ入ったころとは違い、この時点では30歳が近づいていました。
解散後のピン名が「山下ギャンブルゴリラ」
現在の芸名は豪快キャプテンを組んでから付いたものではありません。
よしもと漫才劇場の企画で本人が語ったところでは、ダークニンゲン解散後にピン芸人として活動するようになった時点で、すでに山下ギャンブルゴリラを名乗っていました。
時期については、豪快キャプテン結成の「一年前くらい」と本人が説明しています。
「山下ギャンブルゴリラ」は、もともとコンビで付けられた名前ではなくピン芸人時代の芸名でした。
ピンやユニットを経て新しい相方を探す
解散後はピンで活動しながら、ほかの芸人とユニットを試す時間が続きました。
一から相方を探すことになったものの、山下さんには何度でもコンビを作り直すつもりはありませんでした。
「次でダメなら辞める」と考えるようになる
約30歳になっていた山下さんは、もう一度コンビを組んでうまくいかなければ芸人を辞めることも考えていました。
「80%ぐらいは(芸人を)やめるんやろうなと思って組んだ最後のコンビだった」
FANY Magazine
次に組むコンビを「最後」と考えていた時期に現れた相手が、現在の相方・べーやんさんでした。
豪快キャプテン結成|べーやんから「コンビを組んでください」
山下さんとべーやんさんは、養成所の同期でも学生時代の友人でもありません。
山下さんはNSC大阪35期、べーやんさんは36期で、年齢も6歳ほど離れていました。
旧コンビの解散時期が重なった2人
山下さんがダークニンゲンを解散したころ、べーやんさんもそれまで活動していたセントビンセントを解散していました。
山下さんは同期の芸人から、べーやんさんのコンビが解散したことを聞きます。
それまでほとんど話したことがなかった2人でしたが、相方がいない時期が重なったことで一度一緒にやってみることになりました。
ほぼ話したことのない相手とお試しユニットを結成
最初から正式なコンビとして始めたのではなく、まずはユニットとして漫才を試すところからのスタートでした。
山下さんにとっては最後になるかもしれない相方探しでしたが、べーやんさん側には以前から山下さんのツッコミに対する印象が残っていました。
山下のツッコミを評価していたべーやんから正式オファー
べーやんさんは別々に活動していたころから、山下さんのツッコミを見て「面白い」と感じていたそうです。
実際にユニットで合わせるとその印象がさらに強まり、最終的にべーやんさん側から正式なコンビ結成を申し出ました。
正式に「コンビを組んでください」と伝えたのは、べーやんさんでした。
30歳前後で「次がダメなら辞める」と考えていた山下さんと、山下さんのツッコミに惹かれていたべーやんさんがここで合流します。
2019年5月27日に豪快キャプテンを結成
吉本興業とM-1グランプリの公式プロフィールでは、豪快キャプテンの結成日は2019年5月27日とされています。
NSC入学年でもダークニンゲン結成年でもなく、この日が現在の豪快キャプテンとしてのスタートです。
若手・下積み時代|コロナ禍で再び芸人を辞める選択肢
新しいコンビを組めばすぐ仕事が増えるわけではなく、豪快キャプテンにも再び生活と芸人活動の間で揺れる時期がありました。
特に結成翌年から始まったコロナ禍は、舞台を中心に活動する若手芸人に大きく影響します。
結成当初は漫才コントを中心に活動
現在は2人の日常会話をそのまま広げるような漫才が特徴ですが、結成当初からまったく同じ形だったわけではありません。
初期には設定へ入る漫才コントも行いながら舞台に立ち、その後、少しずつ現在の会話を軸としたスタイルへ変化していきました。
コロナ禍、エアコン清掃のアルバイトで生活
仕事が少なかった時期、山下さんはエアコン清掃のアルバイトをしていました。
吉本興業の公式プロフィールに現在も「ハウスクリーニング」が特技として掲載されていますが、その技術は生活を支える仕事でもありました。
後年のM-1決勝前インタビューでは、何年か前まで1日16時間ほどアルバイトをし、短時間だけ眠って再び仕事へ向かるような時期もあったと話しています。
芸人の収入よりエアコン清掃のアルバイトで得る金額のほうが大きい時期もありました。
べーやんの家族が増えると知り、コンビ終了も覚悟
コロナ禍のある日、ネタ合わせの場でべーやんさんから、交際相手との間に子どもができたと知らされます。
当時は仕事も十分ではなく、山下さんは「子どものために芸人を辞めるのだろう」と受け止めました。
そして、べーやんさんが辞めるなら自分も芸人を終えるつもりでいたものの、べーやんさんから返ってきた答えは「辞めたくない」というものでした。
そこでコンビは終わらず、2人はさらに漫才を続けることになります。
ネタ作りの転機|出番直前の「タバコ」から現在の漫才へ
生活面の危機を越えたあと、豪快キャプテンには漫才そのものにも大きな変化が起きました。
そのきっかけは、時間をかけて作り込んだ一本ではなく、むしろ新ネタが完成しないまま迎えたライブ当日でした。
喫茶店で台本を書くネタ作りに行き詰まる
以前は喫茶店に集まり、ノートを広げてネタを考える作り方をしていました。
しかし、何も思いつかない日にも相方が来ている以上は考え続けなければならず、その作業自体を負担に感じるようになります。
新ネタライブ直前、2人の会話だけで舞台へ
そんな時期、新ネタライブ当日になっても一本が完成せず、残り2組ほどで自分たちの出番というところまで来てしまいました。
2人ともタバコを吸うことから、とりあえず「タバコ」を題材にその場で会話してみることにします。
大まかなテーマだけを持って舞台へ出ると、その漫才が予想以上に客席へ届きました。
準備できなかったことから生まれた「タバコ」の漫才が、その後の豪快キャプテンの作り方を変える転機になります。
録音した会話から作る「ネタ帳なし」のスタイルが定着
現在はテーマを一つ決め、2人で普通に話してみて、その会話を録音しながら漫才へ整えていく方法を取っています。
山下さんが大まかな方向を考え、べーやんさんから題材を出すこともあり、舞台を録音して聞き直しながら悪い部分を変えていく形です。
きれいな台本を先に完成させるのではなく、普段2人で話している空気を残したまま漫才にするスタイルへ変わりました。
2026年のインタビューでは、その「タバコ」のネタで大阪の賞レース決勝へ進み、M-1でも初めて準決勝へ行けたと山下さん自身が説明しています。
M-1準決勝から初の決勝へ|仕事が変わり始めた2023〜2025年
漫才の作り方を変えたあと、豪快キャプテンは賞レースで少しずつ結果を残すようになります。
一つの優勝で突然ブレイクしたというより、準決勝、敗者復活戦、新人賞、初の決勝と段階を踏んで仕事が変化していきました。
「タバコ」をきっかけにM-1初準決勝へ
2023年のM-1グランプリでは初めて準決勝へ進み、敗者復活戦にも出場しました。
翌2024年も再び準決勝へ進み、2年連続で決勝目前まで残ります。
長く交流していたダブルヒガシの大東さんは、初めてM-1準決勝へ進んだ際に「死ぬほど嬉しかった」と書き、山下さんの仕事が増えていくことも喜んでいました。
2025年に第60回上方漫才大賞新人賞
2025年には第60回上方漫才大賞の新人賞を受賞しました。
すでにM-1で2年連続準決勝まで進んでいたところへ、新たな受賞歴が加わった年でもあります。
それでもM-1では前年まで決勝へ届いておらず、山下さんには準決勝会場で思うように笑いを取れなかった記憶が残っていました。
「今まで2年連続準決勝で、ニューピアホールでウケずに負けてきた」
M-1グランプリ公式サイト
M-1グランプリ2025で初決勝、839点で6位
2025年、3年連続となる準決勝を突破し、豪快キャプテンはついにM-1グランプリ初の決勝進出を決めました。
決勝ファーストラウンドでは839点を獲得し、最終順位は6位でした。
NSC大阪35期として舞台に立ち始めてから十数年、ダークニンゲンの解散や長いアルバイト生活を経て初めてM-1決勝へ届きました。
「次のコンビでダメなら辞める」と考えていた山下さんが、最後のつもりで組んだ豪快キャプテンでM-1ファイナリストになりました。
M-1後の現在|10年以上疎遠だった父親との会話も戻る
M-1決勝へ進んだあと、豪快キャプテンの仕事には目に見える変化が出ています。
そして山下さん個人の人生でも、証券会社を辞めて芸人になると告げたころから続いていた父親との関係に変化がありました。
M-1決勝を境にテレビ・レギュラーの仕事が増加
山下さんは2026年のインタビューで、M-1決勝進出後に大阪でレギュラー番組ができ、東京のテレビからも声がかかるようになったと話しています。
2026年には「MBSヤングタウンNEXT」から「豪快キャプテンのMBSヤングタウン」へ昇格し、毎週月曜夜の放送を担当するようになりました。
さらにGAORAでは同年7月から、コンビ初の冠番組「豪快キャプテンの よそはよそ、うちはうち。」もスタートしています。
M-1決勝はゴールというより、漫才以外の仕事まで広がり始める大きな節目になりました。
芸人転身に反対した父親と、最近になって再び話すように
大学へ進み、証券会社にも入った息子が会社を辞めて芸人になるという決断をしたとき、強く反対していた父親。
その後の関係について、山下さんは2026年9月放送の「千原ジュニアのヘベレケ」で、父親と長い間ほとんど口をきかなかったことを明かしました。
「口をきかない期間が10年以上。ようやく最近、口きき出して」
デイリースポーツ
小さいころは一緒に巨人戦を見て、その影響で野球を始めた父親と、芸人への転身を境に長く会話が途切れ、M-1ファイナリストになった後になって再び話すようになっています。
幼少期の野球中継から芸人転身による反対を挟み、10年以上を経て父親との会話が戻りました。
年齢を重ねても劇場で漫才を続けたい現在の目標
テレビやラジオ、冠番組へ仕事が広がっても、山下さんが将来まで続けたいと話しているのは漫才です。
2023年の時点から、なんばグランド花月などの劇場でずっと漫才を続けたいという希望を語っていました。
2026年にも、テレビではいつか世代交代があっても、漫才なら年齢を重ねた師匠がトリで大きな笑いを取ることができるとして、年を取っても舞台に立ちたいという考えを明かしています。
保育園のころに祖母とテレビで見ていた「師匠たちの漫才」は、現在では山下さん自身が目指す将来の姿にもなっています。
祖母と漫才を見て、父親の影響で野球に打ち込んだ少年は、大学と証券会社を経て自分のお金でNSCへ進みました。
旧コンビの解散後、辞めることも考えながらべーやんさんと豪快キャプテンを結成し、アルバイト生活や漫才スタイルの変化を経てM-1決勝までたどり着いています。
現在はテレビやラジオにも活動が広がる一方で、本人が先に見ているのは、年齢を重ねても劇場で漫才を続けている姿です。












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