人物プロフィール
テレビではゲストへ鋭くツッコミを入れ、長年にわたってバラエティー番組の進行役を務めてきたダウンタウンの浜田雅功さん。
吉本興業の公式プロフィールでは1963年5月11日生まれ、兵庫県尼崎市出身とされていますが、現在の姿から学生時代までさかのぼると、意外な経歴がいくつもあります。
高校時代は三重県にある日生学園第二高校で全寮生活を送り、卒業後にはお笑いの道ではなく、まず競艇選手の試験を受けていました。
その後、梅田で偶然NSCの募集を見つけ、幼いころから知っていた松本人志さんへ声をかけています。
浜田さんは最初から芸人になることだけを目指していたわけではなく、偶然見つけたNSCの募集からダウンタウンの40年以上にわたる歩みが始まりました。
尼崎で過ごした少年時代から、松本人志さんと同じ舞台に立つようになった学生時代、全寮制高校での3年間、NSC1期生としての若手時代まで順番にたどります。
浜田雅功の生い立ちと家族|尼崎で過ごした少年時代
浜田雅功さんが育った場所として、長くその名前と結びついてきたのが兵庫県尼崎市です。
家族について本人が語った話を追うと、尼崎での暮らしだけでなく、両親のルーツや父親の仕事から当時の家庭の様子も少しずつ見えてきます。
両親は鹿児島出身、父はペンキ職人として1970年大阪万博へ
浜田さんは2025年に出演した番組で、両親が鹿児島出身であることを明かしています。
「うちも。両親が鹿児島で」
スポニチ Sponichi Annex
父親は塗装関係の仕事をしており、1970年に開催された大阪万博のソ連館の塗装にも携わっていました。
幼い浜田さんの父親が、のちに日本中の注目を集めた大阪万博の会場で仕事をしていたというエピソードは、浜田さんと松本人志さんが番組内で明かしています。
現在の吉本興業プロフィールでは出身地を兵庫県尼崎市としており、少年時代の思い出も尼崎の町を舞台にしたものが多く残っています。
家に風呂がない家庭も多かった時代、松本人志と地元の銭湯へ
2026年3月の『ごぶごぶラジオ』では、尼崎にあった銭湯の話になり、浜田さんは少年時代に松本人志さんとも銭湯へ行っていたと話しています。
「みんな家に風呂はなかったからね」
ENCOUNT
テレビに出るようになってから知り合った仕事仲間ではなく、浜田さんと松本さんの関係は、こうした尼崎の日常を一緒に過ごしていたころまでさかのぼります。
小学生のお楽しみ会では松本人志と別々のコンビで漫才
同じ小学校に通っていた2人ですが、小学生のころから現在のダウンタウンの形で漫才をしていたわけではありません。
当時は学校のお楽しみ会などで、浜田さんと松本さんがそれぞれ別の相手とコンビを組み、各クラスの代表として漫才を披露していたと伝えられています。
2人とも小学生のころから、人前で漫才をする経験そのものは持っていました。
このころはまだ将来一緒にプロになる関係ではなく、それぞれが自分の仲間と笑いを取っていた少年同士でした。
中学時代|松本人志・高須光聖と同じ教室へ
小学校時代から顔を知っていた浜田さんと松本さんの関係が、さらに近くなるのが中学生のころです。
のちに『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』などを手がける放送作家の高須光聖さんも、この時期から深く関わっています。
中学2年の林間学校で替え歌を披露し、松本人志と初めて同じ舞台へ
高須光聖さんによると、中学2年になったときに浜田さん、松本さん、高須さんが同じクラスになりました。
その年の林間学校ではクラス対抗の歌合戦があり、浜田さん、松本さん、高須さんを含む5人組がクラス代表として出演しています。
披露したのは替え歌で、松本さんがネタを考え、高須さんがまとめ、浜田さんが本番でアドリブを加えていったといいます。
小学生時代には別々に漫才をしていた浜田さんと松本さんが、中学2年の林間学校では同じグループで人前に立ちました。
5人の出し物はクラス対抗歌合戦で優勝し、まだプロになる何年も前に、後のダウンタウンと高須さんが一緒に笑いを作る場面が生まれていました。
友人宅の「ノコギリ事件」を経て両親が全寮制高校を選ぶ
一方、中学時代には、その後の進路を大きく変える出来事もありました。
浜田さんは友人が家にいるのに居留守を使ったことに腹を立て、玄関のドアをノコギリで切って中へ入ったというエピソードを後年明かしています。
この出来事などもあり、両親は高校進学先として、三重県にある全寮制の日生学園第二高校を選びました。
尼崎で松本人志さんや友人たちと過ごしていた生活から、浜田さんは全寮制高校で生活することになります。
日生学園第二高校時代|朝4時30分から始まる3年間の全寮生活
浜田雅功さんの若い頃をたどるうえで、特に多くの本人エピソードが残っているのが日生学園第二高校時代です。
テレビで語られる断片だけを見ると「厳しい学校」という印象が先に立ちますが、本人が話している一日の流れを見ると、当時どのような生活だったのかが具体的に分かります。
晨行・団体訓練、「毎日の生活が部活」だった高校生活
浜田さんが通っていた当時の日生学園第二高校では、朝は4時30分に起床していました。
起きると部屋を整理整頓し、「道場」と呼んでいた体育館へ移動して、雑巾で床を磨く晨行(しんぎょう)を行います。
その後は団体訓練をこなし、ようやく朝食という順番でした。
服装も本人が「通常着」と呼ぶ作業着のような上下で、現在の学校生活とはかなり異なる時期だったといいます。
「我々はもう、毎日の生活が部活やったから」
デイリースポーツ
朝4時30分から始まる寮生活そのものを、浜田さんは「毎日の生活が部活」と表現しています。
浜田さんによると、こうした生活は自身より2、3学年下あたりから変わっていき、後年の学校は当時とは異なる形になっています。
学校へ戻れず鶴橋へ引き返し、松本人志に助けを求めた日
寮から自宅へ帰れる休みの日が終われば、再び三重県の学校へ戻らなければなりません。
浜田さんはあるとき近鉄電車に乗ったものの、学校へ戻る気持ちになれず、降りるはずだった駅を通り過ぎてしまいました。
次の駅で降りて大阪方面へ戻り、たどり着いたのが鶴橋でした。
ところが持っていたのは学校へ行くための片道分ほどのお金で、そこから尼崎へ帰る電車賃が足りません。
公衆電話から連絡した相手が、当時まだ芸人になる前の松本人志さんでした。
「『腹減ってんねやろ』って、うどんを食わせてくれてん」
スポニチ Sponichi Annex
松本さんは鶴橋まで電車賃を持ってきただけでなく、浜田さんをうどん店へ連れて行きました。
コンビを組む前から、浜田さんが困ったときに電話をかける相手の一人が松本人志さんでした。
卒業後は競艇選手を受験し、まだ芸人が第一志望ではなかった
高校生活を終えた浜田さんが、すぐ芸人を志したわけではありません。
子どものころには警察官になりたいと思っていた時期があり、高校卒業後には競艇選手という進路を考えました。
小柄で体重が軽い自分にも向いているのではないかと考え、実際に競艇選手の試験を受けています。
松本人志さんも後年、浜田さんが高校卒業後に競艇選手を受験していたことを話しており、芸人になる直前まで別の職業が具体的な選択肢に入っていました。
日生学園を卒業した直後の浜田さんは、芸能界ではなく競艇の世界へ進む可能性もありました。
芸人になったきっかけ|うめだ花月のNSC募集から松本人志を誘う
競艇選手の試験を受けたあと、浜田さんの進路を変えるものが大阪・梅田で目に入りました。
それが、1982年に開校する吉本総合芸能学院、NSC大阪校の募集でした。
「1年遊びたかった」卒業後、偶然見つけたNSC募集
浜田さんは競艇選手の試験後に梅田を歩いていると、うめだ花月の前でNSCの募集を見つけました。
厳しい全寮制高校で3年間を過ごした直後でもあり、本人の中には「卒業後は少し遊びたい」という気持ちがありました。
「卒業して1年遊びたかった!」
ORICON NEWS
当時の浜田さんはNSCを専門学校のようなものと受け止め、「ここなら1年過ごせる」と考えました。
「芸人として絶対に売れる」と決意して入ったというより、偶然見つけた募集が最初の入口でした。
就職が決まっていた松本人志へ「こんなんあるけど行かへん?」
NSCへ行こうと思った浜田さんが声をかけた相手が、尼崎で小学生のころから知っていた松本人志さんでした。
松本さんにはすでに就職先が決まっていましたが、浜田さんはNSCの募集を見せて誘っています。
芸人になる道へ松本人志さんを誘ったのは浜田雅功さんの側でした。
中学校卒業後は別々の高校へ進んでいた2人が、高校卒業後に再び同じ進路を選ぶことになります。
小学生のお楽しみ会、林間学校の歌合戦、鶴橋でのうどんという出来事を経て、今度は仕事として一緒に笑いを作る側へ進みました。
松本人志は松竹も考えていたが、2人で吉本NSCへ
松本さんは後年、芸人になるなら松竹芸能という考えも持っていたと明かしています。
それでも浜田さんが見つけてきたのは吉本のNSCだったため、最終的には2人そろってNSC大阪校1期生となりました。
それまで芸人は師匠へ弟子入りする道が一般的でしたが、1982年に始まったNSCは、学校形式で若手を育てる新しい入口でした。
浜田さんと松本さんは、NSCという新しいルートからプロのお笑いの世界へ入った最初の世代です。
NSC大阪1期とダウンタウン結成|1982年に「松本・浜田」で始動
1982年、浜田さんと松本さんはNSC大阪校へ入学しました。
吉本興業の公式プロフィールでも、2人はNSC大阪校1期生、ダウンタウンの結成年は1982年とされています。
面接担当・竹中功が覚えていた2人一緒のNSC面接
NSCの開校に携わり、浜田さんの面接を担当した元吉本興業の竹中功さんは、40年以上がたっても当時のやり取りを覚えていました。
「友達と一緒に願書出してます」
スポニチ Sponichi Annex
その「友達」が松本人志さんでした。
竹中さんは「コンビなのだから一緒に面接しよう」という趣旨で松本さんを呼び、浜田さんと松本さんの2人を同時に面接したと明かしています。
浜田さんが一人で受け始めた面接は、途中から松本さんを呼んで2人一緒の面接になりました。
初期漫才は浜田雅功もボケる「Wボケ」だった
現在は「松本=ボケ、浜田=ツッコミ」というイメージが定着していますが、活動初期から役割が完全に固定されていたわけではありません。
NSC1期生で、当時「銀次・政二」として活動していた前田政二さんによれば、初期のネタでは4分の1ほど浜田さんがボケる部分があったといいます。
「あ、紳助・竜介よりオモロい。すごいなこいつら」
エキサイトニュース/太田出版ケトルニュース
前田さんは、普段の2人は周囲とあまり話さず静かだったのに、初めて漫才を見たときには強い印象を受けたと振り返っています。
また、漫才大会の会場では境内の端で浜田さんと松本さんが練習している姿も目撃していました。
デビュー当時には浜田さん自身がボケ、そこへ松本さんがさらにボケを重ねる形も使われていました。
今宮こどもえびす優勝から、なんば花月の舞台へ
NSCへ入ったのは1982年4月でしたが、その年の夏には早くも結果が出ます。
2人は当時「松本・浜田」の名前で今宮こどもえびすマンザイ新人コンクールへ出場し、福笑い大賞を受賞しました。
浜田さん自身の説明では、4月にNSCへ入り、8月ごろにはなんば花月の舞台へ出るようになっています。
ただし、当時の劇場では弟子入りではなく養成所から出てきたNSC生への風当たりも強かったと本人は振り返っています。
NSC入学から数か月で新人コンクールを勝ち、花月の舞台へ立つところまで進みました。
翌1983年にはNHK上方漫才コンテスト優秀賞、1984年にはABC漫才・落語新人コンクール最優秀新人賞を受賞し、若手コンビとして実績を増やしていきます。
「てるお・はるお」「ライト兄弟」を経てダウンタウンへ
現在のコンビ名へ落ち着くまでには、いくつかの名前がありました。
最初はそのまま「松本・浜田」として活動し、その後「てるお・はるお」という名前を付けています。
松本さんによれば、「暗く見えるから名前だけでも明るく」という趣旨で付けられた名前で、その後には横山やすしさんから「ライト兄弟」と命名された時期もありました。
最終的な「ダウンタウン」は、2人が喫茶店でコンビ名を考えていたときに決まりました。
考えすぎるのをやめ、週刊誌をめくって指で押さえた場所にあった言葉を名前にしようとしたところ、そこにあったのが「ダウンタウン」だったと松本さんが明かしています。
1982年に始まった「松本・浜田」は、いくつかの名前を経て「ダウンタウン」になりました。
若手・下積み時代|同期に先を越されながら2丁目劇場へ
新人コンクールで早くから結果を残していたダウンタウンですが、そのまま一直線に全国的なスターになったわけではありません。
NSC1期の同期にはトミーズ、ハイヒールらがおり、同期が先にテレビで活躍する時期を2人は過ごしています。
アルバイトをしていた最初の1〜2年、松本人志と2人で食事へ
浜田さんは後年、芸人になった最初の1〜2年についてアルバイトをしていた時期があったと話しています。
まだ周囲に同期や知り合いが多くなかったため、仕事やアルバイトの合間には松本さんと自然に2人で食事へ行っていました。
2人とも酒には強くなかったものの、一緒に飲んで酔っぱらい、浜田さんが松本さんを介抱したこともあったといいます。
後年は2人だけで食事をする機会がほとんどなくなりましたが、2023年のORICON NEWSで浜田さん自身が、若手の最初の1〜2年は2人で食事をしていたと振り返っています。
舞台以外の時間でも、若手時代の2人は仕事、食事、移動を一緒にする時間が現在よりはるかに長くありました。
トミーズ・ハイヒールが先に売れる中、大﨑洋が2人の居場所を作る
この時期の2人を近くで見ていた人物の一人が、後に吉本興業の会長となる大﨑洋さんです。
大﨑さんと浜田さん、松本さんが出会ったのは、2人が18歳のころでした。
同期のトミーズやハイヒールが先に人気を得る一方、ダウンタウンの笑いは会社や舞台の客に十分理解されず、2人が悩んでいた時期があったと大﨑さんは振り返っています。
そこで大﨑さんは事実上マネジャーのような立場になり、大阪ローカルのラジオや劇場など、2人が力を出せる場所を作っていきました。
新人賞を獲得していても仕事が一気に増えたわけではなく、同期が先行する時期を経て、ダウンタウンが活躍できる場所そのものが作られていきました。
心斎橋筋2丁目劇場とラジオで若い客の支持を集める
1986年には、大阪・心斎橋に心斎橋筋2丁目劇場が開場します。
のちに今田耕司さん、東野幸治さん、千原兄弟、ナインティナインら多くの芸人が活躍する場所になりますが、初期の中心にいたのがダウンタウンでした。
それまでの寄席中心のお笑いとは異なり、若い世代が足を運ぶ劇場として育てられ、ダウンタウンを目当てにした観客も徐々に増えていきます。
テレビで全国的に知られる前に、ダウンタウンには2丁目劇場という若い観客の前で笑いを磨く場所がありました。
この劇場を舞台に、翌1987年から始まった番組が『4時ですよーだ』でした。
1987年『4時ですよーだ』で関西ブレイク|仕事が一変した20代
浜田さんが20代前半だった1987年、ダウンタウンの仕事量と知名度を大きく変える番組が始まります。
毎日放送の『4時ですよーだ』です。
視聴率約3%から最高14%近くへ、「2丁目現象」が広がる
番組が始まったころの視聴率は約3%で、最初から大人気番組だったわけではありません。
しかし放送を続けるうちに数字は7〜8%前後まで上がり、夏休みには10%を超え、最高では14%近くに達したと大﨑洋さんが著書『居場所。』で記しています。
2丁目劇場には若い女性客が詰めかけるようになり、周辺にファンが集まる様子は新聞で「2丁目現象」として取り上げられるほどになりました。
デビュー5年目の『4時ですよーだ』によって、ダウンタウンは関西の若者が劇場へ押し寄せる存在へ変わっていきました。
賞レースの受賞直後ではなく、この番組と2丁目劇場で生まれた熱狂が、ダウンタウンの大きなブレイクになりました。
仕事がなかった時期から一転し、浜田雅功が重圧を抱えた時期
人気が急上昇すると、それまでとは比べものにならない量の仕事が続くようになります。
大﨑洋さんの『居場所。』には、『4時ですよーだ』が人気絶頂に向かっていたころ、浜田さんが突然番組収録へ現れなくなった出来事も記されています。
自宅や実家、立ち寄りそうな場所をスタッフが探しましたが見つからず、番組は松本さんや今田耕司さん、東野幸治さん、板尾創路さん、ほんこんさんらが埋めました。
約1週間後、浜田さんは戻ってきます。
大﨑さんによれば、2丁目劇場の階段に座った浜田さんは言葉を発さず涙を流し、周囲のスタッフたちも一緒に泣いていました。
長く仕事が少なかった状態から、平日に毎日テレビへ出る生活へ急激に変わった時期の出来事でした。
その後も浜田さんは番組へ戻り、『4時ですよーだ』の中心に立ち続けました。
関西の劇場人気から東京・全国放送へ
『4時ですよーだ』で関西の若者から圧倒的な支持を得るようになると、ダウンタウンの活動は大阪だけに収まらなくなります。
1988年にはフジテレビ系『夢で逢えたら』に出演し、ウッチャンナンチャン、清水ミチコさん、野沢直子さんらとコントを中心とした番組を作りました。
1989年には日本テレビ系『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』が始まり、東京を拠点とする仕事も増えていきます。
尼崎からNSC、花月、2丁目劇場と進んできた活動場所は、1980年代末に東京のテレビへ広がりました。
全国区から現在へ|漫才・コント・MC・音楽へ広がった活動
東京進出後の浜田さんは、漫才コンビのツッコミだけに活動を限定せず、コント、トーク、番組MC、音楽へ仕事を広げていきます。
ここからは出演番組を並べるのではなく、若手時代の漫才中心の活動から仕事の種類が変わっていった節目を見ていきます。
『夢で逢えたら』『ガキの使い』『ごっつええ感じ』で全国区へ
東京で仕事を始めたダウンタウンにとって、『夢で逢えたら』はウッチャンナンチャンら同世代の芸人とコントを作る番組となりました。
続いて『ガキの使いやあらへんで!』が始まり、1991年12月にはフジテレビ系『ダウンタウンのごっつええ感じ』がスタートします。
『ごっつええ感じ』は1997年11月まで放送され、ダウンタウンだけでなく、2丁目劇場時代から関係の深かった今田耕司さん、東野幸治さん、板尾創路さんらも加わりました。
大阪で一緒に舞台や番組を作っていた顔ぶれの一部が、そのまま全国放送のコント番組でも共演することになります。
若手時代に2丁目劇場で培った関係は、東京進出後のコント番組にも続いていました。
一方で浜田さん個人は、ゲストへテンポよく話を振り、場を動かす役割でも番組の中心に立つ機会が増えていきました。
H Jungle With tの音楽活動から現在の歌番組・音楽企画へ
1990年代には、お笑いとは別の分野でも大きな結果を残します。
音楽番組『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』で小室哲哉さんと関わったことから、1995年にH Jungle With tとして「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」をリリースしました。
同曲は200万枚を超える大ヒットとなり、浜田さんは歌手としても広く知られるようになります。
漫才やコントから始まった人物が、テレビ番組の司会を経てミリオンヒットを持つ歌手にもなるという活動の広がりでした。
現在のTBS『ハマダ歌謡祭★オオカミ少年』でも、公式サイトは浜田さんを「ダブルミリオン歌手」と紹介しています。
さらに2026年にはDOWNTOWN+で音楽企画『浜田ウタ功』も配信され、山本彩さんら歌手と楽曲を歌う企画が展開されています。
2025年の休養と復帰を経て、2026年現在もMC・配信で活動
長く第一線で活動を続けてきた浜田さんは、2025年3月10日から体調不良のため休養しました。
吉本興業は同年5月2日に活動再開を発表し、その日の深夜に放送されたMBSラジオ『ごぶごぶラジオ』への出演から仕事へ戻っています。
2026年8月現在は、TBS『ハマダ歌謡祭★オオカミ少年』でMCを務めるほか、ラジオやDOWNTOWN+のコンテンツでも活動しています。
また2022年には吉本興業創業110周年特別公演「伝説の一日」で、ダウンタウンとして久しぶりに漫才を披露しました。
舞台袖では出囃子が流れ始めても2人はすぐには動かず、サビへ入ったところで浜田さんが松本さんへ声をかけて舞台へ向かったことを、後輩のCOWCOW・多田健二さんが後に明かしています。
1982年に「松本・浜田」で花月の舞台へ出た2人は、40年後にも同じ大阪の吉本の舞台で漫才をしました。
尼崎では松本人志さんと別々のコンビで漫才をしていた少年が、日生学園の寮生活と競艇選手の受験を経て、偶然見つけたNSCの募集からお笑いの道へ入りました。
浜田さんが松本さんへ声をかけた1982年から、花月、2丁目劇場、『4時ですよーだ』を経て、ダウンタウンの活動は全国へ広がっていきました。
現在はMCや音楽企画、配信にも活動の場を広げながら、その出発点には尼崎で長く付き合ってきた松本人志さんをNSCへ誘った18歳のころがあります。












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