人物プロフィール
ママタルトで大鶴肥満さんの自由なボケを拾い続ける、ツッコミ担当の檜原洋平さん。
名字の「檜原」は「ひわら」と読み、神戸大学卒という経歴でも知られています。
現在は独特な言葉選びの長尺ツッコミが印象的ですが、昔をたどると、中学生ですでにラジオへ大喜利を送り、高校では漫才、大学では学生芸人として舞台に立っていました。
しかも学生お笑いで優勝経験までありながら、大学卒業時には一度就職を選び、芸人以外の人生へ進もうとしています。
内定先へ入社する直前、元相方からもう一度誘われたことで、檜原さんの進路は再びお笑いへ向かいました。
その先にあったのが、サンストレンジの解散、ZAZYさんへの相談、そして大鶴肥満さんとの出会いです。
檜原洋平の生い立ちと家族|大阪・和泉市で育ったお笑い好きの少年
檜原洋平さんは1991年7月27日生まれで、大阪府和泉市で育ちました。
後年の本人の文章からは、父親、母親、妹の存在が確認でき、家の中での檜原さんと外で見せる姿には少し違いがあったようです。
家では静か、外では明るかった子ども時代
檜原さんは30歳を迎えた2021年の文章で、子どものころから「家では静かで、外では明るいタイプ」だったと振り返っています。
学校など家の外でどれほどしゃべっていたかを、父親は当時あまり知らなかったのではないかとも書いており、現在の大きな声で次々と言葉を返す姿とは少し違う家庭での一面が見えてきます。
一方、お笑い自体には小さいころから強く惹かれていました。
明石家さんまさんやウッチャンナンチャンに憧れ、自分もテレビの中にいる人たちのようになりたいという思いを持っていたと、後のインタビューで話しています。
さんま・ウッチャンナンチャンを見ていた幼少期と家族
幼いころからお笑いは好きでしたが、人前へ出る学校行事に何でも積極的に参加するタイプだったわけではなく、緊張しやすい一面もあったといいます。
後年、実家へ帰った際には父親がママタルトのTシャツや掲載誌を買い、出演したラジオまで聴いていたことを檜原さんが明かしており、芸人になってからは父親にも外での姿がはっきり伝わるようになりました。
妹とも交流があり、2021年に大阪へ帰った際には父親と妹が駅まで迎えに来て、一緒に寿司を食べています。
これは成人後の出来事ですが、子どものころから過ごしてきた家族との関係が、芸人になった後も続いていることが分かる一場面です。
中学・高校時代|ハガキ職人から高校生漫才へ
檜原さんがお笑いを「見る側」から「自分で笑いを作る側」へ近づいていったのは中学生のころでした。
テレビだけでなくラジオを聴くようになり、自分で考えた答えを番組へ送る生活が始まります。
中学生で大喜利とラジオ投稿に夢中になる
中学生のころ、檜原さんがよく聴いていた番組の一つが、サバンナが出演していたラジオ番組でした。
新聞のラジオ欄から番組を知り、大喜利コーナーへ自分でも投稿するようになります。
最初は10通ほど送った中から一つが読まれ、そこからハガキ職人として大喜利へどんどんのめり込んでいきました。
当時使っていたラジオネームは「ゲッパーランド」で、後にジョックロックを結成する福本ユウショウさんも同じ関西のハガキ職人仲間でした。
福本さんは2024年のM-1決勝進出時、大学生だった自分がハガキ職人の集まりへ参加していたころ、そこに高校生の檜原さんも来ていたと振り返っています。
「僕は中学生の頃、ラジオにいっぱい大喜利を送ってて」
ワラパー
現在も大喜利企画への出演が多い檜原さんですが、その入口は芸人になってからではなく、中学生のラジオ投稿までさかのぼります。
高校3年で「グランドメニュー」を組みハイスクールマンザイへ
高校へ進むと、今度は実際に漫才をするようになります。
高校3年だった2009年には「グランドメニュー」というコンビで「ハイスクールマンザイ2009」に出場しました。
南大阪予選で勝ち上がり、高校生の段階ですでに漫才の大会で結果を残しています。
一方で、本人は当時かなり緊張していたようで、舞台の記憶が飛んでしまうほどだったと後に話しています。
大喜利では関西の高校生の間で名前を知られる存在になっていましたが、人前へ立つ漫才ではまた別の緊張があった時期でした。
高校生のお笑いの場には1学年下の粗品もいた
同じころ、高校生のお笑い大会で頭角を現していたのが、現在の霜降り明星・粗品さんでした。
粗品さんは檜原さんより1学年下で、テレビ朝日の『しくじり先生』では、学生時代の檜原さんが「粗品のライバル」と紹介されています。
後に檜原さん自身も、粗品さんとは高校生のころから付き合いがあり、インディーズライブを自分たちで開催するようになってから距離が近くなったと語っています。
中学生でラジオへ投稿していた少年は、高校を卒業するころには、後にプロになる同世代の芸人たちと同じお笑いの場へ足を運ぶようになっていました。
1浪して神戸大学へ|学生お笑いで頭角を現した時代
高校卒業後、檜原さんはすぐ大学へ進んだわけではなく、1年間の浪人生活を送っています。
その後に進学したのが神戸大学で、大学生活が始まると、お笑いへの動きはさらに本格的になりました。
年間17万円の予備校から神戸大学・発達科学部へ
浪人時代に通っていた予備校について、檜原さんは2026年の『踊る!さんま御殿!!』で年間約17万円だったと話しています。
大学受験では、同じ大学でも学部・学科ごとに科目や配点が違うことを細かく調べ、自分の得意科目を生かせる受験方式を探しました。
その中で見つけたのが神戸大学発達科学部の人間表現学科で、2011年、1浪を経て入学しました。
ところが入学すると、周囲には絵画やピアノ、ダンスなどを得意として入ってきた学生も多く、檜原さんは実技系の授業についていくのに苦労したと明かしています。
受験では自分に合う入口を探し当てたものの、大学へ入ってからは想像していたものとは違う授業も待っていました。
入学直後に宰務翔太とサンストレンジを結成
大学へ入った2011年、檜原さんは宰務翔太さんと「サンストレンジ」を組みます。
神戸大学には檜原さんが入るようなお笑いサークルがなかったため、大学内だけで活動するのではなく、外の舞台へ直接進みました。
檜原さんの本人noteには、「2011年4月、1浪して神戸大学に入学した19歳のころ」に宰務さんと吉本興業の劇場オーディションへ挑んだ記憶が残されています。
高校生漫才の次に待っていたのは、学生だけの大会ではなく、プロを目指す若手も立つ大阪の劇場でした。
5upよしもとのオーディションに初挑戦で合格
2人が受けたのは、当時の5upよしもとで行われていた「サードチャレンジ」というオーディションでした。
サンストレンジは最初の挑戦で合格し、大学へ入ったばかりの檜原さんはさっそく劇場の舞台へ進みます。
ただし翌週に出た「サードバトル」では手応えのないまま敗れたと、本人は後に記しています。
それでも本人の記憶に残ったのは負けたことだけではなく、舞台そのものが楽しかったことでした。
大学へ通いながら、授業の外ではすでにプロの芸人に近い場所でネタを試す生活が始まっていました。
「わらいを愛する学生芸人No.1決定戦」で優勝
サンストレンジは学生お笑いでも結果を残します。
2013年3月に行われた「わらいを愛する学生芸人No.1決定戦」には全国から202組がエントリーし、12組が決勝へ進出しました。
サンストレンジは「彼女ができた」を題材にした漫才を披露し、審査員票を集めて優勝しています。
高校生で大会へ出始めた檜原さんは、大学3年のころには学生芸人の全国大会を制するところまで来ていました。
ただ、優勝したからそのまま迷いなくプロへ進んだわけではありません。
大会後の取材では、サンストレンジの2人とも芸人を目指す一方、まだ家族から十分に理解を得られている状況ではないことも語っていました。
大学時代はボケ担当、有吉弘行と麒麟・川島が好きだった
現在のママタルトではツッコミの檜原さんですが、2013年の学生芸人大会の公式プロフィールではサンストレンジの「ボケ・左」と紹介されています。
当時、好きな芸人として挙げていたのは有吉弘行さんと麒麟・川島明さんでした。
M-1決勝進出後には川島さんがMCを務める『ラヴィット!』への出演も増えますが、川島さんの名前は学生時代のプロフィールにすでに残っています。
また、2011年ごろには粗品さんやヒコロヒーさんら大阪の若手と麻雀をした思い出を本人が書いており、大学へ入りながら芸人仲間との時間も増えていきました。
その大学生活の途中、2014年ごろには母親を病気で亡くしています。
2019年の本人noteでは、母親が亡くなる前に泉北高島屋へ2人でしゃぶしゃぶを食べに行ったことを思い出として記しており、学生芸人として活動していた時期には家庭でも大きな出来事がありました。
就職内定を辞退して芸人へ|サンストレンジと上京
学生お笑いで優勝し、劇場にも立っていた檜原さんですが、大学卒業後の進路については一度大きく方向を変えています。
選んだのは、そのまま芸人になる道ではなく就職活動でした。
学生お笑いで結果が出ても一度は就職活動を選択
大学3年時に学生芸人の全国大会で優勝しても、檜原さんは卒業後に芸人一本で生きることをすぐ決めませんでした。
就職活動を行い、興味を持っていた映像制作の世界へ進もうとします。
応募したのはアダルトビデオの制作会社で、面接では本来15分ほどの予定だったところ、約1時間にわたって話したとラジオで明かしています。
お笑いを続けてきた数年間がありながら、この段階では別の仕事を職業にする未来がかなり具体的なところまで進んでいました。
約300人の応募から制作会社の内定を獲得
その採用試験には約300人の応募があったといい、檜原さんはその中から採用されました。
学生お笑いで結果が出ているから就職を諦めたのではなく、実際に働く会社まで決まった状態で卒業を迎えようとしていたことになります。
ところが入社直前の3月、サンストレンジの相方だった宰務翔太さんから連絡が入ります。
卒業直前、宰務翔太の一言で進路変更
檜原さんによると、宰務さんから伝えられたのは、もう一度2人でお笑いをやらないかという話でした。
「やっぱりお笑いやれへんか」
ラジトピ ラジオ関西トピックス
檜原さんは、すでに内定していた会社にも事情をそのまま相談しました。
すると会社側は、裏方の制作仕事なら後から挑戦することもできる一方、表に立つ仕事は若いうちに挑戦してみた方がいいという趣旨で背中を押したといいます。
檜原さんは内定していた会社へ入る道をやめ、宰務さんと芸人を続けることを選びました。
中学から続けてきた大喜利、高校生漫才、大学での劇場出演や大会優勝がありながら、「芸人を職業にする」という最後の決断は就職直前まで持ち越されていました。
東京へ進んだサンストレンジは2015年に解散
大学卒業後、サンストレンジは東京へ進んで活動を続けます。
しかし、学生時代から何度か解散と再結成を経験していた2人は、東京へ出た後もそのまま長く続いたわけではありませんでした。
檜原さんの本人noteによると、2015年12月の「第5回タイズブリックライブ」がサンストレンジとして最後の舞台となり、コンビを解散しています。
就職をやめてまで選んだ相方との活動は、東京でいったん終わることになりました。
大鶴肥満との出会い|ZAZYの助言翌日にママタルト結成へ
サンストレンジ解散後、檜原さんには再び「誰とお笑いを続けるのか」という問題が残りました。
そこで相談した相手が、大阪時代から親しかったZAZYさんでした。
サンストレンジ解散後、ZAZYに次の相方を相談
ZAZYさんは、次に組むなら見た目や特徴がはっきりした人がいいのではないかと檜原さんへ助言しました。
その例として出たのが、「ものすごく太っている人」のような、一目で特徴が伝わる相手でした。
この話だけなら芸人同士の相談で終わるところですが、次の日に偶然が重なります。
翌日の大喜利ライブで大鶴肥満を見つける
ZAZYさんへ相談した翌日、檜原さんは大喜利ライブへ出演しました。
そこに出場していたのが、後の相方となる大鶴肥満さんでした。
大鶴さんは学生お笑いを経験した後、一度塾講師として働き、その後に太田プロの養成所へ入り、当時は別のコンビで活動していました。
ZAZYさんから「太っている人」のような特徴的な相方を勧められた翌日に、目の前へ大鶴さんが現れました。
檜原さんは「こんなタイミングで、こんなに大きな人と会うことはない」と感じ、大鶴さんを次の相方として意識します。
「僕と組めば王になる」で大鶴肥満を誘う
ただし、大鶴さんにはすでに相方がいたため、出会っただけでコンビが決まったわけではありません。
檜原さんは大鶴さんへかなり積極的に声をかけました。
「僕と組めば、あなたは“王”になることができる」
テレ朝POST
大鶴さんからすれば、学生お笑いで全国優勝までしていた檜原さんはすでに実績のある存在でした。
その檜原さんから自分を必要とされたことで、大鶴さんの気持ちも新しいコンビへ傾いていきます。
さらに檜原さんは、大鶴さんが体格だけでなくスポーツや音楽など複数の特技を持っていると知り、自分にはできないことを多く持った相手だと感じたと話しています。
2016年にママタルト結成、サンミュージックへ
こうして2人は2016年4月にママタルトを結成しました。
現在はサンミュージックプロダクションのプロジェクトGETに所属しています。
大学時代の元相方と別れて数か月後、檜原さんの芸人人生は大鶴肥満さんとのコンビで再スタートしました。
大鶴さんとの結成までの経緯や当時の活動については、2人自身がテレビ朝日公式YouTubeでも詳しく話しています。
学生時代のボケから長尺ツッコミへ
サンストレンジ時代にはボケとして記録されていた檜原さんですが、ママタルトでは主にツッコミを担当するようになります。
大鶴さんの大きな体を使った動きや独特の発言に対し、檜原さんが次々と言葉を重ねていく長いツッコミがコンビの特徴になりました。
ネタ合わせでは、大鶴さんの記憶力が非常に高く、檜原さんがノートを見せると短時間で内容を覚えてしまうことも本人たちが明かしています。
中学生のころから大喜利で言葉を考え続け、大学時代にはボケとして漫才をしていた檜原さんは、ママタルトで別の役割を担うようになりました。
若手・下積み時代|アルバイトとライブを続けたママタルト
ママタルトを結成しても、すぐに芸人の収入だけで暮らせるようになったわけではありません。
檜原さんは大学時代から始めていたアルバイトを東京でも続けながら、ライブやオーディションへ向かいました。
宅配ピザのアルバイトをしながら舞台へ
檜原さんが長く続けていたのが宅配ピザのアルバイトです。
本人のエッセイによれば、19歳から29歳まで約10年間、ピザを配達していました。
大学へ入ったころから始めたピザ配達は、サンストレンジ、上京、ママタルト結成をまたいで10年間続きました。
冬の繁忙期には着替える時間を惜しみ、寒いまま配達へ出ることもあり、雪の日にバイクで走った記憶も本人の文章に残っています。
2018年ごろの生活については、ライブ会場やオーディション先、祐天寺にあったアルバイト先へ原付で移動していたと書いています。
舞台が終われば仕事へ向かい、仕事が終わればまた芸人の予定へ移るという生活の中で、原付は移動に欠かせない存在になっていました。
芸人や放送作家が集まった「カサグランデ」での共同生活
東京での若手時代には、生活する場所にも多くの芸人仲間がいました。
檜原さんが24歳ごろから暮らしたのが、若手芸人や放送作家たちが共同生活をしていた「カサグランデ」です。
元相方の宰務翔太さんが短期間住んだ後、檜原さんらが加わり、その後はZAZYさんやケビンスの仁木恭平さんらも暮らしました。
入居したころの檜原さんはアルバイトへ毎日のように出かけ、家賃を分担しながら生活していたと当時を知る取材で語られています。
檜原さんは24歳から31歳まで、約7年間をカサグランデで過ごしました。
2023年にその家を出る際、檜原さん自身が「青春のシェアハウス」と表現したように、ママタルトの若手時代の大部分と重なる住まいでした。
キングオブコントとM-1で少しずつ上のラウンドへ
ライブを続ける中で、賞レースでも少しずつ結果が変わっていきます。
2020年にはキングオブコントで準決勝まで進み、M-1グランプリでも準々決勝へ進出しました。
この時点ではM-1決勝へ届いていませんでしたが、テレビへ突然現れたコンビではなく、ライブと賞レースの両方で段階を上げています。
2021年には東京・座・高円寺2で単独ライブを複数公演行うなど、自分たちを見に来る観客へまとまったネタを届ける機会も増えていきました。
10年間続けたアルバイトを離れ、芸人の仕事だけの年末へ
毎年のように「来年こそアルバイトを卒業する」と考えていたという檜原さんに、生活上の大きな変化が訪れたのは30歳前後でした。
19歳から続けていたピザ配達を29歳で終え、2021年末から2022年の年始にかけては、成人後初めてアルバイトのシフトが入っていない年末年始を迎えています。
約10年間続いた「芸人+ピザ配達」の生活が、ここでようやく終わりました。
ママタルト結成からもすでに5年以上が経過しており、コンビを組んだ瞬間に生活が変わったわけではありませんでした。
M-1準決勝から初決勝へ|ママタルトが知られていくまで
アルバイトを離れたころから、M-1でも決勝が現実的な距離まで近づいていきます。
ただ、そこから初決勝までも一度で進んだわけではありません。
2022・2023年と2年連続でM-1準決勝へ
2022年、ママタルトはM-1準決勝へ進みました。
決勝進出は逃しましたが敗者復活戦へ回り、檜原さんは本番直前まで、自分たちが決勝へ行く姿を見せたいという思いをSNSに投稿しています。
2023年も再び準決勝まで進みましたが、2年連続で決勝進出者には名前を呼ばれませんでした。
この2年間の準決勝経験を経て、次の2024年にようやく結果が動きます。
2024年、結成9年目で初のM-1決勝
2024年、ママタルトは3年連続でM-1準決勝へ進出し、今度は初めて決勝進出を決めました。
決勝進出が決まった際、檜原さんは過去2年も準決勝で落ちていたため、意外に冷静な自分に驚いているとM-1公式インタビューで話しています。
「意外に冷静な自分にびっくりしてます」
M-1グランプリ2024
2016年にママタルトを結成してから9年目、檜原さんは初めてM-1決勝の舞台へ立ちました。
結果はファーストラウンド812点で10位でした。
本人たちは後に、決勝では緊張しすぎてネタ中の記憶がほとんど残っていないほどだったと『しくじり先生』で明かしています。
初決勝は望んだ結果では終わりませんでしたが、ここでテレビや取材などママタルトを目にする機会は大きく増えていきました。
2025年も決勝へ進み2年連続ファイナリストに
2024年の決勝後、檜原さんはその日の夜から「もう一度朝からやり直したい」と思うほど悔しさが残ったと翌年のM-1公式インタビューで話しています。
そして2025年、ママタルトは再び決勝進出者に選ばれました。
初決勝で最下位になった翌年にもう一度決勝へ戻り、2年連続のM-1ファイナリストとなりました。
2025年の決勝では823点を獲得して9位となり、前年より順位を一つ上げています。
一度の決勝進出で終わらず、2024年と2025年の2年続けてM-1の最終舞台に立ちました。
檜原洋平の現在|長尺ツッコミ、大喜利、文章へ広がった活動
M-1決勝へ進むようになった後も、檜原さんの活動は漫才だけに限られていません。
中学生のころから続けてきた大喜利や言葉への関心は、テレビでのツッコミや文章にも広がっています。
2025年、地元・和泉市へ戻り86歳の祖母とテレビ出演
M-1初決勝の翌年となる2025年2月、『相席食堂』の企画でママタルトは檜原さんの生まれ故郷・大阪府和泉市を巡りました。
ロケでは思い出の店や実家周辺を回り、86歳だった祖母も登場しています。
祖母は前年のM-1決勝をしっかり見ており、大鶴さんのバク転についてだけでなく、檜原さんにも「声を張り上げすぎて聞いていてしんどかった」という趣旨のダメ出しをしました。
学生芸人だったころには家族の理解を得きれていないと話していた檜原さんが、M-1決勝後には地元へ戻り、祖母から漫才の具体的な感想を聞く場面がテレビで放送されました。
2026年に初エッセイを出版
2024年からはWebサイト「ウォーカープラス」で「ママタルト檜原の楽しみ日記」というエッセイ連載も始まりました。
そして2026年2月26日、初の書籍『正直言わせてもらうでぃ、この本を読んで日々をご機嫌にするほかないやろう』がKADOKAWAから発売されています。
ママタルトで知られる長いツッコミだけでなく、独特な言い回しそのものがエッセイという形でも作品になりました。
中学生のころはラジオへ自分で考えた大喜利を送り、大学では漫才のボケを担当し、ママタルトでは長尺のツッコミを担い、現在は文章でも言葉を届けています。
「ツッコミスター」初代王者になった2026年
2026年5月には、霜降り明星・粗品さんがMCと審査を務めるフジテレビの『ツッコミ芸人No.1決定戦 ツッコミスター』に出場しました。
大会にはオズワルド伊藤俊介さん、真空ジェシカ・ガクさん、さや香・新山さん、トンツカタン森本さんらツッコミ芸人が集まりました。
檜原さんはその大会を勝ち抜き、「ツッコミスター」の初代王者となりました。
学生時代の公式プロフィールには「ボケ」と記録されていた檜原さんが、15年ほど後にはツッコミだけを競う大会の初代王者になっています。
大阪・和泉市でお笑い番組を見ていた少年は、中学生になるとラジオへ大喜利を送り、高校と大学では自分で漫才をするようになりました。
神戸大学卒業時には一度就職へ進みかけましたが、宰務翔太さんの誘いを受けて芸人を選び、サンストレンジ解散後に大鶴肥満さんとママタルトを結成しました。
アルバイトとライブを続けた時期を経てM-1決勝へ進み、現在は漫才、大喜利、ツッコミ、文章と、中学生のころから使い続けてきた「言葉」をさまざまな場所で届けています。












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