人物プロフィール
ココリコの遠藤章造さんといえば、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』をはじめ、長くテレビの第一線で活動してきたお笑い芸人です。
田中直樹さんとのコンビ歴も30年を超えていますが、遠藤さんが10代のころに追いかけていたのは、お笑いの舞台ではなく野球のグラウンドでした。
高校最後の一打席を境に野球を離れ、その後の会社員生活を経て選んだ次の道がお笑いでした。
しかも、養成所へ入って相方を探したのではなく、豊中で一緒に育った田中直樹さんへ自分から声をかけ、ほとんどアテのない状態で東京へ向かっています。
遠藤章造さんはどんな家庭で育ち、どれほど本気で野球を続け、なぜ田中さんとココリコを結成することになったのでしょうか。
遠藤章造の生い立ちと家族|寝屋川で生まれ、3歳から豊中へ
遠藤章造さんは1971年7月13日に大阪府寝屋川市で生まれ、3歳のころに大阪府豊中市へ移りました。
吉本興業のプロフィールでは「大阪府豊中市出身」となっていますが、2026年に豊中市が公開したココリコの年表では、出生地は寝屋川市、育った場所が豊中市と整理されています。
父の阪神愛の中で育ち、野球が日常になった少年時代
遠藤さんの少年時代を語るうえで欠かせない存在が、熱烈な阪神タイガースファンだった父親です。
家の中では阪神が生活の一部になっており、遠藤さん自身も自然にタイガースを応援するようになりました。
「きっかけがあってファンになったというよりは、生まれてきた環境がすべてでした」
阪神タイガース公式サイト
1985年、遠藤さんが中学2年生だった年に阪神がリーグ優勝、日本一へ進むと、何度も甲子園球場へ足を運びました。
土曜日に学校がある時代でしたが、試合開始に間に合わないと父へ相談すると、阪神を応援するためなら学校を休んでもいいと言われたことまであったそうです。
遠藤さんにとって野球は単なる習い事ではなく、家庭の中から始まった日常そのものでした。
豊島小学校で田中直樹と出会う|まだほとんど話さなかった2人
1978年に入学したのが豊中市立豊島小学校で、ここには後に相方となる田中直樹さんも通っていました。
ただし、「小学校からの幼なじみ」という言葉から想像するほど、最初からいつも一緒だったわけではありません。
田中さんによると、小学校時代は別のクラスに遠藤さんがいて、ほとんど話したことはなかったそうです。
そのころの遠藤さんは野球だけでなく、しゃべることも得意な学校の人気者で、生徒会長にも立候補するような活発な児童でした。
両親と弟との家族エピソードを、幼少期に絞って整理
遠藤さんは両親と弟がいる家庭で育ち、自身のエッセイ『吾輩はアホである』でも、父親から受けた阪神の「英才教育」や弟との思い出を少年時代の話として取り上げています。
なかでも父親の影響は野球と切り離せず、少年野球を始めてからもタイガースの選手は身近な憧れでした。
掛布雅之さんが活躍していたころには、少年野球チームで背番号31をめぐって取り合いになるほど憧れていたと後年語っています。
母親と弟も後に『ガキの使い』関連の企画へ登場するようになりますが、遠藤さんの少年期でまず強く残っているのは、野球と阪神を中心にした父との時間でした。
第四中学校で田中直樹と親しくなる|野球と笑いに夢中だった10代
1984年、遠藤さんは豊中市立第四中学校へ進学し、田中さんと同じクラスになりました。
小学校時代にはほとんど話していなかった2人の距離が、ここから一気に近づいていきます。
同じクラスになり、「龍」のギャグで田中を笑わせる
田中さんが2026年のインタビューで思い出していたのが、中学生だった遠藤さんの「龍」という持ちギャグです。
目頭を指でつまみ、もう片方の腕を動かすという独特なもので、田中さんは当時それをかなり気に入っていました。
「僕は遠藤さんのことが好きで、感性が近くて、いつも笑わせてもらってたんです」
POPEYE Web
芸人になるずっと前から、田中さんにとって遠藤さんは「一緒に笑いを作る相手」というより、まず自分を笑わせてくれる友人でした。
ショートとして野球部でプレーし、学校でも目立つ存在に
2人は中学校の野球部にも所属し、遠藤さんはショート、田中さんはキャッチャーを務めました。
遠藤さんは中学時代になると野球選手としても頭角を現し、高校進学時には複数の学校から声がかかるほどになっていました。
2023年のTBSラジオ出演時には、高校進学時に8校ほどからスカウトされたと本人が振り返っています。
田中さんが地元の高校へ進む一方、遠藤さんは野球でさらに上を目指し、大阪を離れることになります。
ダウンタウンやとんねるずを見ていた世代のお笑い体験
野球中心の10代でしたが、テレビのお笑い番組にも親しんでいました。
後年、遠藤さんは子どものころからお笑い番組を見ており、ダウンタウンやとんねるずを見て「芸人ってかっこええな」と感じていたと明かしています。
この時点では野球が第一の進路でしたが、テレビの中の芸能界も遠藤さんの中に残っていました。
寒川高校へ野球留学|甲子園を目指した3年間
1987年、遠藤さんは香川県の藤井学園寒川高等学校へ進学します。
地元大阪ではなく香川を選んだのは、何より甲子園へ行きたいという思いがあったからでした。
大阪を離れて香川へ|寮生活と厳しい野球部の日々
遠藤さんによると、進学時には8校ほどから声がかかっていましたが、その中から寒川高校を選びました。
ところが本人が後年笑いながら語っているのは、自分へ声をかけていた学校のうち、寒川以外の学校はその後甲子園へ出場したという巡り合わせです。
実家を離れた高校生活では、野球部の寮に入り、日々の中心を野球に置きました。
現在の寒川高校野球部も寮生活を取り入れていますが、遠藤さんが在籍した1980年代後半は現在とは練習環境も違い、本人も後年、当時ならではの練習方法をテレビで何度も語っています。
甲子園には届かなかったものの、遠藤さんは高校まで本気でその先の野球人生を考えていました。
高校最後の試合で「野球を続けるか」を一打席にかける
高校3年だった1989年夏、寒川高校は香川県大会で尽誠学園と対戦しました。
この試合は0対7で寒川が敗れていますが、遠藤さんにとって決定的だったのは、試合結果そのものより自分の最後の打席でした。
相手投手は、後に西武やダイエーなどでプレーする宮地克彦さんでした。
遠藤さんはその打席に入る前、ヒットを打つことができれば大学や社会人でも野球を続け、打てなければ野球をやめようと自分の中で決めます。
「ヒットなら野球を続けよう、アウトなら辞めよう」
日刊スポーツ
人生の進路を、自分で最後の一打席にかけてバッターボックスへ入りました。
谷佳知の好捕でアウトになり、野球の道を断念
インコース低めの球を捉えた打球は、本人が「右中間を抜けた」と思うほどの会心の当たりでした。
ところがセンターを守っていた選手が追いつき、打球をキャッチします。
その選手が、後にオリックスや巨人で活躍する谷佳知さんでした。
「あれを捕る人がいる世界ではやっていけない」と感じ、遠藤さんはそこで野球を続けないと決めました。
何年も後に谷さん本人へこの話をしたところ、谷さん側はそのプレーを覚えていなかったそうです。
谷さんにとっては数ある守備機会の一つでも、遠藤さんにとっては、その後の人生を別の方向へ進ませる一球になりました。
高校卒業後は営業職へ|野球を離れ、お笑いが次の夢になる
高校を卒業した遠藤さんは、すぐ芸人になったわけではありません。
一度大阪へ戻った後、香川で交際していた女性の存在もあり再び香川へ向かい、コピー機などを扱う会社で営業職として働いた時期がありました。
香川で社会人生活を送り、営業の仕事に就く
高校までは朝から晩まで野球をしていましたが、卒業後はスーツを着て営業へ回る社会人生活に変わりました。
遠藤さんは20歳前後まで約2年間サラリーマン生活を経験しており、野球をやめた後の空白をそのまま芸人活動で埋めたわけではありません。
その間もテレビを見ると、自分と大きく年齢が変わらないナインティナインやよゐこらが若手芸人として活動していました。
ずっと遠い存在だと思っていた芸能界が、同世代の姿を見ることで現実的な進路として近づいていきます。
野球に代わる次の進路として、お笑いを選ぶ
2020年、自身が芸人を目指したころについて遠藤さんは、同世代の芸人がテレビへ出ている姿を見たことを話しています。
「ほぼ同世代がやってるからやってみよう」
マイナビニュース
プロ野球選手という最初の夢を終えたあと、遠藤さんが新しく選んだのが芸能界でした。
子どものころからテレビを見ることは好きで、中学生のころには人を笑わせる一面もあったため、まったく接点のない世界へ突然飛び込んだわけでもありませんでした。
相方候補として思い浮かんだのが田中直樹だった
遠藤さんが仕事を辞めて大阪へ戻ったころ、田中さんはデザイン系の専門学校で卒業制作に追われていました。
提出期限が迫る中、時間のあった遠藤さんは田中さんの家へ通い、約1週間、朝から晩まで卒業制作を手伝ったと田中さんが振り返っています。
田中さんはぎりぎりで卒業できたものの、就職活動はほとんどできていませんでした。
そこで芸能界へ行こうと考えていた遠藤さんが、昔から自分のギャグを一番笑ってくれていた田中さんへ声をかけます。
養成所で出会った相方ではなく、中学生のころから自分の笑いを知っていた友人を相方に選びました。
天竺川で田中直樹を誘い、20歳で東京へ
遠藤さんが田中さんへコンビ結成を持ちかけた場所も、2人が育った豊中に残っています。
その場所は、服部と庄内の間あたりを流れる天竺川の土手でした。
卒業制作中の田中へ遠藤からコンビ結成を持ちかける
2026年8月、とよなかアンバサダー就任式で、遠藤さんは34年前の場面を改めて振り返りました。
「コンビ組んで東京行けへん?」
ORICON NEWS
ココリコは、遠藤さんの側から田中さんを誘ったことから始まっています。
飛行機の音で聞こえなかった「一緒に東京へ行こう」という誘い
ところが田中さんの記憶では、この人生を変える言葉を最初はきちんと聞き取れていませんでした。
豊中は大阪国際空港に近く、天竺川の土手でも飛行機が低い位置を通ります。
ちょうど遠藤さんが話したときに飛行機が通過し、田中さんは音で何を言われたのか分からず、飛行機が過ぎてから聞き直したそうです。
後に30年以上続くコンビ結成の誘いは、一度、飛行機の音にかき消されていました。
NSCには入らず、ツテのない東京でオーディションを探す
ココリコはNSC出身のコンビではありません。
2人が上京した1992年当時は、まだ東京NSCが開校する前でした。
大阪のNSCには高校を卒業した18歳ごろから入る人も多く、20歳だった2人は「2年遅れている」という感覚を持っていました。
それなら大阪の養成所から始めるより、東京へ直接行こうと考え、何の仕事も決まっていない状態で上京します。
上京後はオーディション雑誌などを見ながら、人前に立てる場所を探しました。
ココリコ結成|拾った手帳から名前が生まれ、初舞台へ
東京へ来た2人は、養成所の授業を受ける代わりに、出られそうなライブやオーディションを自分たちで探しました。
テレビでライブのオーディション告知を見つけると、急いで3分ほどのコントを作ります。
「喫茶ココリコで待ち合わせ」というメモがコンビ名の由来
「ココリコ」という名前のきっかけは、実は芸人になってから東京で生まれたものではありません。
2人が豊中で拾ったシステム手帳に、「喫茶ココリコで待ち合わせ」という落とし主のメモが書かれていました。
手帳は落とし主へ返し、お礼も受け取ったことから、「ココリコ」という響きと合わせて縁起のいい言葉として2人の記憶に残りました。
コンビ名を決める必要が出たとき、その「ココリコ」を使うことになります。
ココリコボンバーズとして出発し、3分コントでオーディションへ
デビュー当初のコンビ名は「ココリコボンバーズ」でした。
初めて作った短いコントをオーディションで見せると、その日のライブへ出演させてもらえることになります。
ネタ全体が大ウケしたわけではありませんでしたが、一部分で客席から笑いが起こりました。
それまで普通の友人同士だった2人にとって、人前で自分たちの作ったものを見せ、知らない人から笑いが返ってくる初めての経験でした。
1992年5月、結成直後に舞台へ立つ
吉本興業の公式プロフィールでは、ココリコの結成年月は1992年5月となっています。
同じ1992年5月には吉本主催のライブで初舞台を経験し、その後そのまま吉本興業に預かってもらう形で芸人生活が始まりました。
NSC入学、卒業、事務所所属という一般的な養成所ルートではなく、上京して自分たちで見つけたオーディションが入口でした。
銀座7丁目劇場の若手時代|低収入と借金の中でコントを続ける
初舞台を終えたからといって、すぐテレビの仕事が続いたわけではありません。
1994年3月に銀座7丁目劇場が開館すると、2人は劇場のオーディションを受けながら舞台へ出る生活を続けました。
アルバイトを辞め、芸人の収入だけで勝負する
若手時代の遠藤さんは、最初はアルバイトもしながら生活していました。
しかしアルバイトなら月に10万円ほど稼げて生活できてしまうため、「この状態でいいのか」と考え、途中でバイトを辞めています。
芸能の収入だけで暮らそうと決めた結果、今度は生活費が足りず、借金をしながら過ごす時期が続きました。
消費者金融を利用したほか、所属会社からお金を借り、その後の給料から返済分を差し引かれていた時期もあります。
極楽とんぼ、ロンブーらと同じ劇場で過ごした日々
銀座7丁目劇場では、極楽とんぼやTEAM-0などの先輩が活動しており、その後、DonDokoDon、ペナルティ、ロンドンブーツ1号2号らも同じ東京吉本の現場へ入ってきました。
ここで注意したいのは、ココリコがNSCの「何期生」という形で彼らと同期だったわけではないことです。
養成所の期ではなく、東京吉本や銀座7丁目劇場で活動時期が重なった若手芸人たちでした。
極楽とんぼの加藤浩次さんからは「ボンバーズを取ったほうがいい」という趣旨の助言を受け、「ココリコボンバーズ」から現在の「ココリコ」へ改名します。
「3年でレギュラーがなければ辞める」期限直前にテレビの仕事が入る
上京時、2人には一つの期限がありました。
芸人を始めて3年たった時点で、一分一秒でもテレビのレギュラーに関われていなければ辞めようと話し合っていたのです。
舞台には立てても、テレビで結果が出ない時期が続き、ネタの出来を互いのせいにして楽屋で取っ組み合いのけんかをしたこともありました。
ところが期限が迫った3年目の終わりごろ、テレビ静岡の番組でミニコーナーを任されます。
「3年で辞める」という約束は、ぎりぎりのところで最初のレギュラー仕事によって回避されました。
25歳で「25円」の給与明細を受け取った時期
テレビの仕事が入り始めても、すぐ安定した生活ができたわけではありません。
遠藤さんが現在も保管しているというのが、25歳だった9月の給与明細です。
「僕25歳の9月の給料明細いまだに持ってるんですけど、僕25円でしたからね」
スポニチアネックス
仕事がゼロだったから25円になったのではなく、会社から借りていたお金が給料から差し引かれた末の金額でした。
すでにテレビへ出始めているのに、手元にはほとんどお金が残らない時期が続いていました。
2022年の『徹子の部屋』では、パンの耳を食べていたことも明かし、田中さんも100円で4分使えるコインシャワーの時間を節約して生活していたと話しています。
遠藤さんは、田中さんが自宅で先に頭へシャンプーをつけ、泡立てた状態で商店街を歩いてコインシャワーへ向かう姿を見たことまで覚えていました。
『ガキの使い』前説からレギュラーへ|ココリコの仕事が変わった時期
20代半ばになると、ココリコの芸人人生を大きく変える現場へ入るようになります。
それが『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』の前説でした。
前説で笑いを取れず、収録前から緊張していた若手時代
当時の遠藤さんによると、前説をする若手用の楽屋が用意されているわけでもなく、近くの駐車場などで呼ばれるのを待っていました。
客席にいたのはダウンタウンを見るために集まった観客です。
若手のココリコが出て行って簡単に笑ってもらえる空気ではなく、遠藤さんは後年、観客から「ダウンタウン以外の笑いは認めない」という雰囲気を感じていたと回想しています。
冠番組を持つようになる前に、ダウンタウンの番組で観客を温める前説を何度も経験していました。
1997年に『ガキの使い』レギュラーへ
前説を続けるうちに、2人は本編のオープニングなどへ呼ばれるようになり、1997年から番組のレギュラーメンバーとなります。
遠藤さん自身、この番組への参加を単なる出演作の一つとは考えていません。
「そこで芸人としての“パスポート”をもらったと思っています」
LEON
『ガキの使い』で遠藤章造と田中直樹という若手芸人の顔と名前が全国へ広がっていきました。
同じ1997年には『笑っていいとも!』にもレギュラー出演し、20代後半から仕事量が変わり始めます。
1998年『ココリコ黄金伝説』へ進み、コンビの知名度が広がる
翌1998年10月6日、テレビ朝日で『ココリコ黄金伝説』の放送が始まりました。
ココリコの2人が体を張り、それまで誰もやっていないような企画へ挑む番組で、コンビ名を冠したレギュラー番組です。
2000年には『いきなり!黄金伝説。』へ発展し、ゴールデンタイムでも放送される番組になりました。
ココリコの場合、賞レース優勝で一夜にして売れたのではなく、小さなテレビ仕事、前説、本編出演、レギュラー、冠番組と段階を踏んで仕事が広がっています。
「ホホホイ」など遠藤個人のキャラクターも知られるように
コンビの知名度が上がる中、『ガキの使い』では遠藤さん個人のキャラクターも次々と表に出るようになります。
その一つが、遠藤さんを代表するギャグとして知られる「ホホホイ」です。
中学生時代に田中さんを「龍」のギャグで笑わせていた少年は、20代後半には全国放送で自分自身を前面に出す立場になっていました。
野球、コント、豊中|若い頃の経験が残る現在
テレビのレギュラーが増えてからは、遠藤さんも田中さんも個人で活動する場が広がりました。
それでも現在の仕事を見ると、若いころに大きな位置を占めていた野球、コント、豊中という3つはそのまま残っています。
30年を超えても田中直樹とコントを作る「ココリコチャンネル」
2021年11月、ココリコはコンビの公式YouTubeチャンネル「ココリコチャンネル」を本格始動しました。
そこで選んだ中心コンテンツが、若手時代にも取り組んでいたコントです。
個人での仕事が増え、テレビで2人そろってコントをする機会が減っていたため、再びコンビで作る場所としてYouTubeを選びました。
1992年に3分ほどのコントを作って初舞台へ出た2人が、30年近くたった後もコンビでコントを作っています。
野球・ゴルフが現在の仕事にも残る
吉本興業の現在の公式プロフィールでも、遠藤さんの趣味・特技には野球とゴルフが挙げられています。
高校最後の一打席で選手としての野球人生には区切りをつけましたが、その後も野球関連の仕事や企画にたびたび出演してきました。
父親から受け継いだ阪神ファンとしての一面も変わらず、少年時代に甲子園へ通っていた経験が、大人になってからも仕事の一部として続いています。
2026年、2人そろって「とよなかアンバサダー」へ
2026年8月19日、遠藤さんと田中さんはそろって「とよなかアンバサダー」に就任しました。
就任式では、小学校や中学校の思い出、拾った手帳から「ココリコ」という名前が生まれた話、天竺川でコンビ結成を持ちかけた場面まで、2人が豊中で過ごした時代を振り返っています。
田中さんと出会い、野球をし、コンビ結成を決めた街へ、34年以上たって2人そろってアンバサダーという形で関わることになりました。
父親の影響で野球に夢中になった豊中での少年時代から、香川で本気で甲子園を目指した高校時代へ進み、最後の一打席を境に遠藤章造さんの進路は大きく変わりました。
会社員生活の後、自分から田中直樹さんを誘って東京へ向かったことで、1992年にココリコとしての時間が始まりました。
野球、田中さんとの関係、コント、そして豊中という若いころからの要素は、30年以上が過ぎた現在の活動にも残っています。












コメントを残す