吉野おいなり君の生い立ち|定時制高校と運送会社を経て芸人へ、原一刻とめぞん結成まで

人物プロフィール

本名
吉野裕介
生年月日
1994年2月3日
身長
171cm
血液型
A型
出身地
福岡県 北九州市
コンビ・グループ名
めぞん
相方・メンバー
原一刻
結成年
2016年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2016年
養成所・スクール
NSC東京校 22期

「M-1グランプリ2025」で初めて決勝へ進んだめぞんでネタ作りを担い、YouTubeチャンネル「板橋ハウス」では企画を考える側としても知られているのが吉野おいなり君です。

独特な設定の漫才やインターネットへの強いこだわりが印象的ですが、その始まりをたどると、福岡県北九州市でテレビのお笑いを見ていた子ども時代までさかのぼります。

定時制高校を卒業した後はすぐ芸人になったわけではなく、地元の運送会社で約3年間、大きなソファを運ぶ仕事をしていました。

その間も頭にあったのはインターネットで、仕事の合間にはTwitterを開き、どうすれば投稿が広がるかを考えていたといいます。

やがて東京へ出て東京NSC22期に入り、最初のコンビの解散や一人で舞台に立つ怖さを経験したあと、現在の相方・原一刻さんと組むことになります。

北九州で芸人を夢見ていた少年が、どのように会社員生活を経てお笑いの世界へ入り、めぞん、板橋ハウス、M-1決勝へ進んでいったのかを順番にたどっていきます。

吉野おいなり君の生い立ちと家族|北九州で芸人を夢見た子ども時代

吉野おいなり君は1994年2月3日生まれ、福岡県北九州市出身です。

現在の芸風を見るとマンガやアニメ、インターネットから生まれた人物のようにも見えますが、最初に「芸人」という職業を意識したのはもっと早い時期でした。

小学生のころから家族へ「芸人になりたい」と話していた

吉野さんは小学生のころ、すでに親へ将来はお笑い芸人になりたいと話していました。

2026年のマイナビニュースのインタビューでも、子どものころから芸人になりたいと思っていたことを振り返っており、高校卒業後に働き始めてから突然思いついた進路ではありませんでした。

一方、家族について本人が詳しく公に語る機会は多くありませんでしたが、2026年8月の著書発売イベントでは、現在の親族について母親だけだと明かしています。

「親族がお母さんしかいないんです。」

出典:デイリースポーツ(ライブドアニュース)

父親や兄弟、祖父母についてもその場で「いない」と話していますが、そうなった経緯や時期までは説明していないため、幼少期の家庭事情をそれ以上推測することはできません。

M-1とチュートリアル、ブラックマヨネーズを見ていた少年時代

小学生だった吉野さんが好んで見ていたのが「M-1グランプリ」でした。

当時好きだった芸人として、本人はチュートリアルやブラックマヨネーズの名前を挙げています。

M-1を見ながら芸人への憧れを持っていた小学生が、のちに自分自身も同じ大会の決勝へ立つことになりますが、その間にはテレビのお笑いからいったん大きく離れる時期がありました。

芸人への進路を「好きなように」と受け止めた母親

高校卒業後も吉野さんはすぐ東京へ出ず、北九州で会社員として働きました。

それでも子どものころから芸人になりたいと言っていたため、母親はその進路に強く反対するのではなく、本人によれば好きなようにすればいいという形で送り出してくれたそうです。

この母親は、数年後に吉野さんのNSC入学時期が変わる出来事にも登場します。

中学から定時制高校へ|テレビから離れ、インターネットへ

小学生のころはテレビのお笑いを追っていた吉野さんですが、中学生になるころから過ごし方が変わっていきました。

ここから、現在の板橋ハウスやSNSでの活動にも重なる「インターネットが好きな吉野おいなり君」の姿がはっきりしてきます。

中学に入るころから2ちゃんねるへ没頭

中学生に上がったあたりから、吉野さんはテレビをほとんど見なくなり、代わりに2ちゃんねるへ張りつくようになりました。

そこに書き込んでいる人たちをおもしろいと感じ、その空間にずっといたいと思うほどインターネットへ入り込んでいったと、テレビ朝日logirlのインタビューで振り返っています。

さらにTwitterも使い続けるようになり、テレビに出ている芸人を見る時間よりも、ネット上の文章や投稿に触れる時間が長くなっていきました。

「芸人」より「ネット上のおもしろい人」を目指した時期

小学生のころには芸人を目指していたものの、中学以降の吉野さんが意識していたのは、必ずしもテレビに出るお笑い芸人だけではありませんでした。

むしろ「ネット上のおもしろい人」になりたいという気持ちが強くなっていきます。

マンガやアニメ、ゲームにも熱中し、中高生のころには小説投稿サイト「小説家になろう」で「威蘇迅(いそじん)」という名前を使って作品を書いていました。

この作品は芸人になってからファンに発見され、2024年のQJWebでは、本人も読んでみると当時から自分の好きなものがほとんど変わっていなかったと話しています。

相方の原さんも、その昔の文章を読んだことで、吉野さんには昔からやりたいことが一貫してあったと感じたそうです。

学校行事のない定時制高校で過ごした青春

高校は定時制高校へ進みました。

学校名は公表されていませんが、本人は2024年のnoteで、自分の高校には文化祭や運動会といった学校行事がなかったと書いています。

「僕は高校が定時制で文化祭とか運動会とか学校行事がなかった」

出典:吉野おいなり君 note

高校時代に一般的な学校行事をほとんど経験しなかったことから、後年、吉本興業の若手芸人が集まる大型イベントに参加した際には「もし文化祭があったらこんな感じだったのか」と感じたそうです。

高校を卒業しても大学には進まず、吉野さんはいったんお笑いとは別の仕事に就きました。

高校卒業後は運送会社へ|ソファを運びながらTwitterを続けた約3年

高校卒業後の吉野さんが選んだのは、すぐに養成所へ入る道ではありませんでした。

地元で働きながら資金を貯め、タイミングを見てお笑いの世界へ進もうとしていました。

大学へ進まず、地元で働きながらNSC資金を貯める

高校卒業後は運送会社に就職し、およそ3年間働いています。

仕事内容について本人は、大きなソファを運んでいたと具体的に話しています。

朝から仕事をして家具を運び、給料を受け取りながら、いつか養成所へ行くためのお金を貯めていました。

子どものころから芸人になると言っていた一方で、実際に仕事を辞めて上京する段階になると怖さもあり、資金を用意したあともしばらく踏み出せない時期があったそうです。

仕事の合間にもTwitterで面白い投稿を考え続けた

会社員になってからも、中学時代から続いていたインターネット中心の生活は変わりませんでした。

吉野さんは大きなソファを運びながら、休憩や移動の時間になるとTwitterを開き、投稿がどうすればリツイートされるかを考えていたと自身のQJWeb連載でも書いています。

仕事をしている時間とTwitterを考えている時間が同じ一日の中に並んでいたのが、芸人になる直前の生活でした。

後に板橋ハウスで動画の企画を考えたり、めぞんの漫才を短い動画にしてSNSへ載せたりする吉野さんですが、その前から「ネットで何が広がるのか」を考えること自体が日常になっていました。

母親へ40万円を渡し、NSC入学を1年延期

運送会社で働き、吉野さんは一度、NSCへ入るためのお金をすでに用意していました。

ところが入学しようとしていた時期、母親が勤務先の40万円の小切手を紛失してしまいます。

泣いていた母親に対し、吉野さんは自分が貯めていた40万円を渡しました。

その40万円は、ちょうどNSCへ入るために用意していた金額だったため、養成所入りは約1年後ろへずれることになりました。

「あと1年働けばいい」と考えて母親へお金を渡した結果、吉野さんが入ることになったのが東京NSC22期でした。

同期との出会いを考えると、この1年のずれはその後の芸人人生を大きく変えることになりますが、当時の本人にとってはまず母親の困りごとを解決し、もう一年働くという選択でした。

親や同級生の視線を感じ、北九州から東京へ

会社員生活が長くなるにつれ、吉野さん自身もこのまま地元に残ることへの居心地の悪さを感じるようになりました。

小学生のころから「芸人になる」と周囲へ言っていたため、親や昔の友人に「いつまで地元で働いているのだろう」と見られているような感覚があったといいます。

そこで運送会社を離れ、北九州から東京へ向かいました。

芸人になったきっかけ|東京NSC22期で始まった「青春」

上京した時点でも、吉野さんは「絶対に芸人として成功するまで帰らない」と考えていたわけではありませんでした。

むしろ最初は、短期間試してみるような気持ちで東京NSCへ入っています。

「半年で帰るつもり」で入ったNSCが楽しくて残った

吉野さんは当初、半年ほどNSCへ通ったら地元へ帰るくらいのつもりだったと振り返っています。

ところが実際に通ってみると、NSCで同期と過ごす時間そのものが楽しかったそうです。

「高校も定時制だったし大学も行かなかったので、NSCが青春でした。」

出典:テレビ朝日logirl

高校で文化祭や運動会を経験せず、大学にも進まなかった吉野さんにとって、同期が集まり、毎日お笑いの話をするNSCが学校生活のような時間になりました。

最初のコンビ「男尊女卑」から「シャボン玉」へ

NSCへ入った吉野さんは、原さんと組む前に別の同期と試しにコンビを組んでいます。

最初につけたコンビ名は「男尊女卑」でした。

当然ながら講師から注意を受け、すぐに「シャボン玉」へ改名しています。

このころから吉野さんがやりたがっていたのは、マンガやアニメから思いついた少し変わった設定のネタでした。

しかし当時の相方はそうした設定をやりたがらず、二人の方向性はなかなか合いませんでした。

1分ネタで緊張した初舞台と約1カ月での解散

吉野さんの初舞台は、このシャボン玉で立ったNSC時代の舞台でした。

ネタの長さはわずか1分でしたが、本人によれば驚くほど緊張し、思うようにはできませんでした。

舞台後には、客が面白かったコンビへ丸をつけるアンケートを見ることができ、何枚めくっても同期の竹内智也さんが当時組んでいた「竹内鬼頭」に丸がついていたことが強く記憶に残っています。

一方のシャボン玉は、吉野さんが出したい設定と相方がやりたいネタが合わず、約1カ月で解散しました。

吉野さんは再び相方のいない状態になります。

原一刻との出会いとめぞん結成|一人で滑った二人が相方へ

現在の相方・原一刻さんとは、同じ東京NSC22期でした。

ただし、出会ってすぐ自然にコンビになったわけではなく、二人とも一度は別の相手と組んでいます。

「相方探しの会」で原から「組むなら吉野」と言われる

NSCには相方が決まっていない人たちが集まる「相方探しの会」があり、吉野さんと原さんもその場に参加しました。

ピンの5〜6人ほどで食事へ行き、帰る方向が一緒だった吉野さんと原さんは、その後も歩きながら話していました。

そこで原さんは、吉野さんを面白いと思っているため、もしコンビを組むなら吉野さんがいいという趣旨の言葉を伝えました。

吉野さんもその言葉をうれしく受け取ります。

翌日には原が別のコンビへ、それぞれ別の相方と活動

ところが翌日NSCへ行くと、原さんはすでに別の人とコンビを組んでいました。

相方探しの会で知り合った別の人物から積極的に連絡が来たため、原さんは流されるような形で一度組んでみたのだと後に説明しています。

吉野さんにも前述のシャボン玉があり、結局この段階では二人が一緒になることはありませんでした。

その後、それぞれのコンビが解散し、吉野さんと原さんはともにピンの状態になります。

二人ともネタを用意せず、即興ピンネタで大滑り

二人がコンビを組む方向へ進むきっかけになったのは、ネタ見せの授業でした。

この日、吉野さんも原さんもピンネタを用意していませんでした。

順番が回ってこないことを期待して列の最後へ並んだものの、授業が想像以上に早く進み、二人とも舞台へ出なければならなくなります。

その場で考えた即興のピンネタをそれぞれ披露し、二人とも大きく滑りました。

「滑るならせめて誰かと一緒に」

出典:マイナビニュース

一人で舞台へ出て滑る怖さを同じタイミングで味わった二人が、ここからコンビとして動き始めます。

後年の二人は、最初から互いを唯一の相方だと考えていたわけではなかったと明かしています。

M-1公式では2016年6月9日結成

こうして誕生したのが「めぞん」です。

M-1グランプリ公式サイトでは、めぞんの結成日は2016年6月9日と記録されています。

吉野さんがNSCで最初に組んだシャボン玉では、マンガやアニメ由来の設定を相方に拒まれていましたが、原さんは吉野さんから出された設定をほとんど拒みませんでした。

吉野さんが思いついた世界へ原さんが入っていくという、現在のめぞんにも続く関係がここから形になっていきました。

めぞんの若手・下積み時代|吉野がネタを書き、原が受け止める関係に

コンビを結成しても、すぐ仕事が増えたわけではありません。

めぞんは若手ライブや劇場で活動しながら、吉野さんが考えた設定を原さんと舞台へ持っていく時間を重ねていきます。

「最下層」でも辞めず、同期と過ごした若手時代

NSCから活動初期について、吉野さん自身は自分たちが順調だったとは考えておらず、2026年のインタビューでは当時を「最下層」と表現しています。

それでも「芸人を辞めよう」と思った時期はなかったそうです。

売れている感覚がないままでも、同期と遊び、お笑いをしながら日々を過ごしていました。

高校や大学で味わわなかった集団生活をNSCで楽しんだ吉野さんにとって、卒業後も同期との関係は若手生活の中に残っていました。

新ネタでセリフを飛ばした原を責め、3時間無視された一度のケンカ

普段は吉野さんの提案を原さんが受け入れることが多く、大きく衝突することはほとんどありません。

そんな二人にも、一度だけ本人たちがはっきり覚えているケンカがありました。

原さんが「新ネタをやりたい」と言ったため舞台へ出したものの、本番で原さんがセリフを飛ばしてしまいます。

舞台後、吉野さんが「自分でやりたいと言ったネタなのに」と責めると、原さんは怒り、約3時間にわたって吉野さんを無視しました。

logirlのインタビューでは、それが二人にとって数少ない明確なケンカとして語られています。

「ミルク」の台本から完成させたネタが人生最大級の大滑り

ネタ作りは基本的に吉野さんが中心ですが、一度、原さんがネタを書くことになった企画がありました。

ライブまで約2週間という時点で原さんから出てきた台本には、ほとんど「ミルクと言いながら揺れる」という内容しか書かれていなかったそうです。

そこで吉野さんと同期芸人2人が手伝い、どうにか一本のネタに仕上げました。

しかし本番では、吉野さんが後に「人生で一番」と振り返るほど滑りました。

それでもネタ作りの主導権をめぐって大きく揉めることはなく、吉野さんが案を出し、原さんが受ける現在の形へ戻っています。

M-1は長く3回戦が最高だった

めぞんは2016年の結成後、M-1へ挑戦を続けてきましたが、2025年まで決勝どころか準決勝へ進んだこともありませんでした。

2026年のQJWebインタビューによると、2024年までの最高成績は3回戦で、2024年大会は2回戦敗退でした。

一方、劇場やライブでは少しずつ経験を重ね、めぞんとは別に吉野さんの名前を広げる活動も始まります。

板橋ハウス誕生|「お笑いが足りない」から始めたルームシェア

吉野さんの知名度を大きく広げたもう一つの活動が、板橋ハウスです。

ただし、最初からYouTubeで成功するために3人を集めたプロジェクトではありませんでした。

駐車場で2〜3時間お笑いを話し、24時間お笑いの生活へ

きっかけは、吉野さんと同期の竹内智也さんが駐車場で長時間お笑いについて話したことでした。

竹内さんは約2時間、吉野さんは約3時間だったと記憶していますが、そこで出たのが「お笑いが足りていない」という話です。

もっと長い時間お笑いに触れるには、一緒に暮らして24時間お笑いのある生活にすればいいという方向へ話が進みました。

その後、吉野さん、竹内さん、軟水の住岡遼太さんの3人で暮らすことになります。

吉野さんと住岡さんには、それ以前にも一時期ルームシェアをした経験があり、吉野さんは窓のない小さな部屋でも特に苦にならなかったと話しています。

2020年に同居開始、最初の動画はわずか7いいね

3人が一緒に暮らし始めたのは2020年10月でした。

最初からカメラを回していたわけではなく、同居開始から約2カ月は、朝方まで部屋でふざけているだけの日もあったそうです。

さすがにこの時間を何かに残そうと動画を撮り始め、吉野さんが最初に提案したのが、大喜利で滑ったら服を着たまま風呂へ飛び込む企画でした。

本人はバズると思っていましたが、結果は7いいねでした。

2021年に4〜5本目の動画がバズる

大きな反応が出たのは、2021年1月です。

まだ投稿ペースは週1本にも満たない程度で、実質4〜5本目だった「コンビニに絶対行く」という動画が初めて大きく広がりました。

しかも吉野さん自身は、その動画について「これは来ないだろう」と思いながら投稿したと振り返っています。

「絶対バズる」と考えた最初の企画は7いいねで、あまり期待していなかった数本後の動画が拡散されるというスタートでした。

動画収入でアルバイトを辞め、めぞんにも新しい機会が生まれる

板橋ハウスでは、企画を考える役割を吉野さんが多く担うようになりました。

「吉野ですね。企画系はだいたいやってくれる。」

出典:テレビ朝日logirl/住岡遼太

竹内さんも、最初は吉野さんが持ってきた企画に「大丈夫か」と感じることがあったものの、実際にそれらが伸びるため、次第に口を出さなくなったと話しています。

動画から収入を得られるようになると3人はアルバイトを辞め、板橋ハウスを見た人がそれぞれのコンビの劇場へ足を運ぶことも増えていきました。

吉野さんにとって、板橋ハウスはめぞんから離れる活動ではなく、SNSを入口に漫才を見てもらう新しい経路にもなりました。

M-1決勝までの変化|長く3回戦だっためぞんが2025年に躍進

板橋ハウスで吉野さんを知る人が増えても、めぞんとしてM-1で大きな結果が出るまでは時間がかかりました。

しかし2024年から2025年にかけて、コンビとしての賞レース結果にも変化が現れます。

2024年「Laughter Night」でマイナビ賞

2024年11月9日、めぞんはTBSラジオ「マイナビ Laughter Night」の第10回チャンピオンLIVEへ出場しました。

年間王者はかが屋でしたが、めぞんは特別賞の「マイナビ賞」を受賞し、サイコロで決まった賞金20万円を獲得しています。

マイナビ公式発表にも、月間チャンピオンの一組として決勝ライブへ進み、特別賞を受賞したことが記録されています。

M-1で突然知られたというより、その前年にはラジオのお笑いライブでも評価を受けるところまで来ていました。

2025年にツギクル芸人グランプリ決勝へ

翌2025年6月には「ツギクル芸人グランプリ2025」決勝へ進出しました。

長く若手ライブや神保町よしもと漫才劇場で活動してきためぞんが、複数の大会で決勝クラスまで進む時期に入ります。

そして同じ2025年、長年大きな壁になっていたM-1でも、それまでとは違う結果が続きました。

前年2回戦からM-1 2025で初の準々決勝、そして初決勝

2024年のM-1で、めぞんは2回戦敗退でした。

吉野さんはその敗退後、それまで以上にM-1を意識してネタを考えるようになったと2026年のQJWebで話しています。

2025年には初めて準々決勝へ進み、そのまま準決勝も突破しました。

長年の最高成績が3回戦だっためぞんが、結成9年目の2025年に初めてM-1グランプリ決勝進出を決めました。

M-1公式のファイナリストインタビューで原さんも、前年は2回戦敗退だったうえ、2025年は準々決勝へ進むこと自体が初めてだったため、どこまで行けるのか分からないまま一番のネタを続けてきたと話しています。

M-1決勝は820点で10位

2025年12月の決勝では、めぞんはファーストラウンドで漫才を披露しました。

M-1グランプリ公式記録では、得点は820点で、10組中10位となっています。

優勝には届きませんでしたが、それまで3回戦が最高だったコンビが初めて全国放送の決勝へ立ったことで、舞台を見に来る観客の規模や仕事にも変化がありました。

2026年のインタビューでは、M-1ツアーで約2000席規模の会場に立ったことなど、決勝以前とは違う客数を前に漫才をする機会が増えたと語っています。

M-1後の吉野おいなり君|漫才、板橋ハウス、執筆へ

M-1決勝後も、吉野さんの活動が漫才だけに一本化されたわけではありません。

めぞん、板橋ハウスに加えて、中高生のころから続いていた「文章を書くこと」も仕事として表に出るようになりました。

憧れていたルミネでめぞん単独ライブ

2026年5月24日には、めぞんがルミネtheよしもとで単独ライブ「吉野原ペアvs地獄の三人衆」を開催しました。

吉野さんは芸人になってからずっとルミネに立ちたいという気持ちがあり、原さんにとっても昔から憧れていた劇場でした。

若手時代に「最下層」と振り返る位置から始まり、長くM-1では3回戦までだった二人が、決勝進出後にその劇場で単独公演を行うところまで進みました。

2026年に初ライトノベル『幼馴染同窓廻』を刊行

さらに2026年8月7日、吉野さんはPASH!文庫から初の書き下ろしライトノベル『幼馴染同窓廻』を刊行しました。

PASH!ブックス&文庫公式サイトでも、吉野おいなり君名義の作品として発売日が2026年8月7日と掲載されています。

執筆には約1年半をかけており、その期間は2025年のM-1挑戦とも重なっていました。

中高生のころ「威蘇迅」という名前でネット上に小説を書いていた吉野さんが、30代になって商業ライトノベルを刊行したことになります。

作品の題材になった「幼なじみ」への憧れには、自分には兄弟や幼なじみがおらず、マンガやアニメに登場する家族のような幼なじみへ強く惹かれていたことも関係していると本人は発売イベントで話しています。

なお、吉野さんがQJWebで連載していた「三姉妹」は本人が脳内に設定した架空の妹たちであり、実際の兄弟姉妹ではありません。

北九州でM-1を見ながら芸人を夢見ていた吉野さんは、定時制高校を卒業すると、運送会社でソファを運びながら約3年間働きました。

母親へ40万円を渡してNSC入りを1年延ばしたあと東京へ出て、別の相方との初舞台、一人で滑ったネタ見せを経て原一刻さんとめぞんを結成しました。

現在は漫才を続けながら、学生時代から好きだったインターネットや創作も、板橋ハウスや執筆という形で活動の中に残っています。

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