人物プロフィール
2024年のM-1グランプリで初の決勝進出を果たして4位、翌2025年には再び決勝へ進み、ファーストラウンド1位から最終決戦まで勝ち残ったエバース。
そのボケとネタ作りを担当しているのが、宮城県出身の佐々木隆史さんです。
今では漫才師として知られていますが、子どものころから目指していたのはお笑いの世界ではなく、生活の中心にあったのは野球でした。
高校では野球部の主将として甲子園を目指し、卒業後も野球推薦で大学へ進んでいます。
そこから進路が変わったのは、大学で野球から離れてできた時間に、ダイアンのラジオを毎週聴くようになったことでした。
芸人を目指す決断、NSCで最初に組んだ相方との別れ、町田和樹さんとの偶然のような出会い、なかなか結果が出なかった若手時代を順番にたどると、現在のエバースができるまでにはいくつもの転機がありました。
佐々木隆史の生い立ちと家族|登米市豊里町で野球が身近な家庭に育つ
佐々木隆史さんは1992年11月6日、宮城県登米市豊里町の出身です。
吉本興業の公式プロフィールにも豊里町出身と記載されており、佐々木さん自身も地元についてたびたび語っています。
兄2人の影響で小学2年生から野球を始める
佐々木さんは兄2人がいる3兄弟の末っ子で、兄だけでなく従兄弟も野球をしていました。
本人によると、家の周囲には「男に生まれたら野球をやるのが当たり前」というほど野球が身近な環境があり、小学2年生から自身も野球を始めています。
両親は共働きで、幼いころは祖母の家に預けられることも多く、佐々木さんは後年、自分を「ばあちゃん子」だったと振り返っています。
小学生から野球へ打ち込み、中学時代も競技を続けましたが、体格のこともあり、早い時期から野球だけで将来食べていくのは難しいとも感じていたそうです。
一時は漫画『モンキーターン』の影響で競艇選手を考えたこともありましたが、試験や倍率について調べるうちに、その道へ進むことは断念しました。
野球中心の少年時代にも、お笑い番組は身近にあった
野球に多くの時間を使う一方で、お笑いは子どものころから好きでした。
2026年に刊行された初エッセイ『ここで1球チェンジアップ』の小中学生時代を扱った章には、2003年の『M-1グランプリ』の記憶や、人を笑わせる同級生への思いも登場します。
ただ、この時点で本人が将来の職業として芸人を決めていたわけではありません。
学校生活の中心はあくまで野球で、お笑いは見る側として身近にあるものでした。
祖母と見ていた『笑点』など、子どものころのお笑いの記憶
両親が仕事をしていたため祖母の家で過ごすことが多かった佐々木さんは、祖母と一緒に日本テレビ系『笑点』を毎週見ていたと、自身のQJWeb連載で明かしています。
家では兄たちが遊んでいるゲームを後ろから眺め、その記憶が大人になってから昔のゲームを遊ぶ楽しみにもつながっているそうです。
野球、ゲーム、お笑いが身近にある少年時代を過ごし、中学を終えた佐々木さんは、さらに本格的に野球へ打ち込むため古川学園高校へ進みました。
古川学園高校で甲子園を目指した3年間
高校へ入ると、野球は放課後の部活動というより、生活そのものに近い存在になっていきます。
佐々木さんが目指していたのは、子どものころから見てきた甲子園でした。
野球部で主将を務め、冬も長靴を履いて練習
古川学園高校では野球部に所属し、のちに主将を務めるまでになりました。
宮城の冬はグラウンドに雪が積もるため、雪の上では長靴を履いて練習することもあったといいます。
普通に走ると長靴が脱げてしまうため、足首を上げる独特の走り方を続けた結果、本人によれば通常のスパイクへ戻ったときに変な癖が残り、かえって足が遅くなってしまったそうです。
佐々木さんは高校時代に2番打者を務めることもあり、後にコンビ名となる「エバース」のサインを出される機会も多かったと話しています。
菊池雄星との練習試合で代走に出るも牽制アウト
高校野球時代には、花巻東高校に在籍していた菊池雄星投手と練習試合で対戦したこともありました。
菊池投手は佐々木さんの1学年上で、後にメジャーリーグでも投げることになる左腕です。
ただし佐々木さん自身がこの試合を振り返ると、華々しい対決とは少し違った場面が残っています。
「僕が代走で牽制アウトになった」
スポニチアネックス
長く野球を続けた本人だからこそ、後年も失敗した場面まで具体的に覚えていました。
最後の夏に甲子園への道が閉ざされ、野球推薦で大学へ
高校時代には秋の県大会で優勝した経験もあり、佐々木さんは祖母の家へ報告に行っています。
褒めてもらえると思っていたところ、祖母から返ってきたのは、優勝した人がいれば負けた人もいることを忘れてはいけないという言葉でした。
一方、目標だった甲子園には届かず、高校最後の夏に甲子園へ進む道は終わりました。
本人は後年、その日の帰宅後に自室のベッドへ横になり、天井を見ていたことを自伝的エッセイで振り返っています。
長く追ってきた甲子園という目標はここでなくなりましたが、野球そのものは続けることになり、卒業後は野球推薦で東北工業大学へ進学しました。
東北工業大学で野球から離れ、お笑いが新しい進路になる
東北工業大学は、佐々木さんを同大学のライフデザイン学部安全安心生活デザイン学科の卒業生として紹介しています。
大学進学時点では、まだ野球とのつながりが切れたわけではありませんでした。
野球推薦で進学するも、大学野球部から次第に離れる
野球推薦で大学へ入った佐々木さんは、そのまま大学でも野球部へ所属しました。
ところが高校までとは環境が変わり、本人には大学の野球部があまり合わなかったようで、次第に練習へ行かなくなります。
かといって別のサークルへ入ることもなく、仙台で一人暮らしをしながら、大学へ行く、アルバイトをする、家で過ごすという生活になりました。
それまで野球に使っていた時間が空き、ゲームをしたり、お笑いを見る時間が一気に増えていきます。
ダイアンのラジオと『にけつッ!!』を見続けた大学生活
この時期、佐々木さんが繰り返し聴いていたのがダイアンのラジオでした。
テレビのネタだけではなく、ラジオで芸人の普段の部分まで知るうちに、芸人という仕事が少しずつ現実的なものとして見えるようになったといいます。
さらに千原ジュニアさんとケンドーコバヤシさんの『にけつッ!!』にもハマり、ゲオからDVDを次々に借り、自宅でゲームをしながら見ることもありました。
大学3年生ごろ、毎週聴いていたダイアンのラジオをきっかけに「自分も芸人になろうかな」と考え始めます。
野球をやめた瞬間に次の夢が決まったのではなく、何も決まっていない時間の中で、お笑いを見る量が増えたことから少しずつ進路が変わっていきました。
就職せず芸人へ|父を先に説得してから反対していた母へ伝える
大学3年生の終盤から周囲が就職活動を始めても、佐々木さんはすでに芸人になりたい気持ちがあったため、就活へ本腰を入れませんでした。
4年生になると同級生たちの就職先や内定が決まっていきますが、自分には何も決まっていません。
その状況で、漠然としていた芸人という選択が現実の進路へ変わっていきました。
ただ、家族が最初から賛成していたわけではありません。
「母親には結構、反対されましたね」
マイナビニュース
母親が反対することを予想していた佐々木さんは、まず父親を説得して味方につけ、そのうえで母親へ話すという順番を取りました。
母親も最後には好きなことをやればいいというところまで気持ちが変わり、大学卒業後は就職せず、東京NSCへ進むことを決めました。
東京NSC21期へ|最初の相方が辞めたことで町田和樹と出会う
大学卒業後、佐々木さんは宮城・仙台を離れて東京へ移り、東京NSC21期として芸人生活を始めます。
現在のエバースへ一直線に進んだわけではなく、最初に組んだ相手は町田和樹さんではありませんでした。
上京して上石神井へ|漫画喫茶で働きながらNSCに通う
東京で部屋を探したとき、不動産屋の担当者が偶然にも元芸人でした。
芸人をするなら家賃が比較的安く、新宿へ一本で出られる西武新宿線沿いがいいと勧められ、佐々木さんは上石神井に住むことになります。
大学時代から仙台で一人暮らしをしていたため生活そのものには慣れていましたが、上京するとすぐに歌舞伎町の漫画喫茶でアルバイトを始めました。
のちにエバースのネタ合わせ場所になるのは、自宅近くの人が少ない公園や、そのそばのびっくりドンキーです。
公園にはいつも使う丸い背もたれの椅子まであり、まだ何者でもなかったころから、そこで漫才を合わせていました。
最初のネタ見せ直後に相方が芸人を辞める
NSCへ入ると、ネタ見せの授業へ出るための相方探しが始まります。
佐々木さんはそこで知り合った別の男性と、とりあえず試すような形で最初のコンビを組みました。
最初のネタ見せでは、本人がクラスの中で一番ウケたと思うほど手応えがありました。
ところが授業が終わると、その相方は「芸人を目指すのを辞める」と言い出し、わずか1回のネタ見せでコンビは終わります。
急に辞めることを申し訳なく思った元相方が、代わりに別の相方候補を紹介すると言って連れてきた人物が町田さんでした。
元相方の紹介で「一番スベっていた」町田和樹とバーミヤンへ
佐々木さんは町田さんのことを、同じネタ見せの授業ですでに見ています。
そのとき町田さんが組んでいたコンビは、佐々木さんの記憶ではクラスで特にスベっていた組でした。
一方の町田さんは逆に、佐々木さんの最初のコンビがよくウケていたことを覚えており、新しい相方として紹介されたときには好都合だと思っていたようです。
初対面の日は、辞める元相方を含めた3人でバーミヤンへ行きました。
「まあセンスありそうだし、一回やってみるか」
QJWeb
初対面なのになぜか町田さんが話を仕切り、この言葉から2人は試しにネタをやってみることになりました。
最初の相方が1回のネタ見せで辞めなければ、町田さんとは知り合っていなかった可能性が高いと、佐々木さん自身も振り返っています。
佐々木がネタ作りを担い、エバースとして活動を始める
バーミヤンで話した2人は、次に会うまでにお互いネタを考えてくることにしました。
ところが次に会ったとき、ネタを書いてきたのは佐々木さんだけで、提案した町田さんは何も持ってきませんでした。
それ以来、エバースのネタ作りは佐々木さんが担当しています。
コンビ名の「エバース」も野球用語で、バントの構えからバットを引き、投球を見送る動作を指します。
高校時代に2番打者だった佐々木さん自身にもなじみのある言葉で、野球経験はコンビ名にまで残ることになりました。
NSC在学中から町田さんと組み始め、吉本興業公式プロフィールではエバースの結成年月を2016年4月1日としています。
エバース結成後の下積み|NSCで評価されず、∞ホールでも最下層から始まった
町田さんと組めばすぐ結果が出たわけではありません。
むしろ、現在のエバースからは想像しにくいほど、最初の数年間は周囲から知られていない時期が続きました。
選抜にも入れず、同期にも知られていなかったNSC時代
自分たちではネタを面白いと思っていたものの、NSCでは思うような評価を得られませんでした。
選抜クラスへ一度も入れず、同期にもあまり知られていないコンビだったと、2人は後年のインタビューで話しています。
卒業後もヨシモト∞ホールで下位のクラスが続き、客席が埋まるような環境とは程遠いところで漫才をしていました。
佐々木さんは後の自伝的連載で、上京後3〜4年ほどはアルバイトとゲームを繰り返し、芸人として結果がないのに「頑張り方すらわかっていなかった」と書いています。
公園とファミレスでネタを合わせ、仕事の少ない時期に新ネタを作り続ける
仕事がほとんどなかったころも、佐々木さんはネタを書き、町田さんと公園やファミレスで合わせていました。
駆け出しのころは予定が少なく、本人の感覚では、芸人として何か結果を生むためにできることは新しいネタを作ることでした。
現在まで毎月のように新ネタライブを続けているエバースですが、その習慣は仕事が少なかった時期から積み上がっています。
「町田を面白くしろ」の助言でネタ作りが変わる
転機のひとつが、芸歴3〜4年目ごろに受けた放送作家山田ナビスコさんからの助言でした。
当時のエバースは、佐々木さんが大喜利的なボケを言い、町田さんがそれを処理する形のネタが多く、ツッコミが町田さんでなければ成立しない構造にはなっていませんでした。
「お前が面白いのはわかったから、町田を面白くしろよ」
FASHIONSNAP
佐々木さんが考えたのは、町田さんがどんなときに一番面白く見えるかということでした。
いじられたとき、困ったとき、追い詰められたときに町田さんの反応が大きくなることに気づき、ネタを一から組み直します。
佐々木さんだけがボケを積み重ねる形から、町田さんの反応そのものが笑いになる漫才へ変わっていきました。
現在のエバースにつながるネタ作りが見え始めたのは、このころです。
∞ホールの最下層で過ごした時期から、M-1の3回戦へ
ヨシモト∞ホールで結果が出ない時期が続く中、4年目のM-1では3回戦まで進み、初めてルミネtheよしもとの舞台に立ちました。
それ以前は5〜6人ほどの客の前で漫才をすることもあったところから、いきなり約500人を前にする舞台でした。
佐々木さんは後に、そのときに見た客席が今も頭に残っており、あの経験があったから芸人を辞めなかった部分もあると話しています。
その後のコロナ禍では、もともと少なかった芸人の仕事がさらに消え、収入はアルバイト頼みになりました。
神奈川の実家からUber Eatsの仕事で東京へ来ていた町田さんが、ネタ合わせ後に佐々木さんの家へ泊まる日が増え、やがて家賃を半分ずつ出して一緒に暮らすようになります。
仕事が増えたから同居したのではなく、仕事がない時期の生活の流れから始まったルームシェアでした。
エバースの漫才が届き始める|劇場での積み重ねから2023年M-1敗者復活へ
結果が出ない間も、エバースは漫才そのものを別のジャンルへ変えず、会話を中心としたスタイルを続けました。
少しずつ技術や2人の関係性がネタに合うようになり、M-1でも一段ずつ上へ進むようになります。
町田の反応を生かす現在につながる漫才へ変化
佐々木さんは、ネタを作るときに日常で見つけた言葉や光景をメモし、そこから会話を広げています。
芸歴6〜7年目ごろに作った「ケンタウロス」では、佐々木さん自身が奇妙な状況になるのではなく、町田さんが巻き込まれ、その反応が膨らんでいく形を取っています。
佐々木さんによると、2023年のM-1敗者復活から2025年まで主要な賞レースで使ったネタの多くは、この6〜7年目ごろに作ったものでした。
劇場と新ネタライブを重ね、M-1で少しずつ上位へ
M-1では、一度に決勝へ駆け上がったわけではありません。
ある年に3回戦へ届くと、次は準々決勝へ進み、本人たちも「今年は前年より先へ」という感覚で活動を続けていました。
佐々木さん自身、後年のインタビューで突然ブレイクした感覚はなく、毎年少しずつ結果が増えていったと話しています。
2022年にはM-1で準々決勝まで進み、翌2023年、ついに準決勝へ到達します。
2023年M-1敗者復活戦を境に名前が広がる
2023年のM-1では決勝進出こそ逃しましたが、敗者復活戦で披露した「ケンタウロス」が大きな反響を呼びました。
それまでメディア出演がほとんどなかったエバースに、劇場やイベントから声がかかるようになります。
「まさか敗者復活でこんなにも仕事が増えるとは思わなかったです」
QJWeb
2023年の敗者復活戦は、実際に舞台数やメディアの仕事が増え始めた転機でした。
賞レースで優勝したから突然売れたのではなく、決勝の一歩手前にある敗者復活戦から、仕事の景色が変わっています。
2024年は劇場での結果とNHK新人お笑い大賞優勝へ
2024年に入ると、前年のM-1で知った人が劇場へ足を運ぶようになり、エバースが立つ舞台も増えていきました。
同年10月にはNHK新人お笑い大賞で優勝。
結成から結果が出ない時期を重ねてきたエバースにとって、大きなタイトルが加わりました。
そして、その年の終わりには、長く目標にしてきたM-1の決勝へ初めて進むことになります。
M-1初決勝から現在へ|甲子園とは別の舞台で全国へ知られる
2024年12月、エバースは結成後初めてM-1グランプリ決勝の舞台に立ちました。
そこで披露することになるネタも、決勝直前に急いで作ったものではありませんでした。
2024年「桜の木の下」でM-1初決勝4位
初決勝で選んだのは「桜の木の下」という漫才です。
このネタの原形ができたのは決勝のおよそ3年前で、まだ仕事が少なかったころでした。
下北沢のフリーライブが終わったあと、佐々木さんはオフローズの宮崎駿介さん、金魚番長の箕輪智征さんとコンビニで缶チューハイを買い、近くの公園で話していました。
そこで佐々木さんが考えていた設定を2人に話し、「こうなったらどうなる」「こうだったら」と何時間も話したことから「桜の木の下」の原形ができています。
まだ大きな仕事がなかったころに公園で作ったネタを、3年後のM-1決勝で全国へ披露しました。
M-1公式記録では、エバースは848点で4位。
最終決戦まであと1点という位置で、初めてのM-1決勝を終えました。
2025年はABCお笑いグランプリ優勝、M-1最終決戦3位へ
初のM-1決勝を経験した翌2025年も、エバースは賞レースで結果を残します。
6月29日の第46回ABCお笑いグランプリでは、芸歴10年目のラストイヤーで優勝しました。
前年2024年にも同大会の決勝へ出ていましたが、そのときは佐々木さんが大事なところで言い間違えるなど、本人にとって悔しさの残る結果でした。
2025年は再び決勝へ進み、かが屋、家族チャーハンとのファイナルステージを制して王者になっています。
そして年末のM-1では2年連続で決勝へ進出。
M-1公式記録では、ファーストラウンド870点で10組中1位となり、前年には届かなかった最終決戦へ進みました。
最終決戦では、たくろう、ドンデコルテと優勝を争い、結果は3位。
NSCで選抜クラスに入れなかったコンビが、M-1のファーストラウンドを1位で通過するところまで進みました。
登米市・宮城との仕事が増え、野球経験も再び現在の活動へ
M-1などで知られるようになるにつれ、佐々木さんの地元・宮城との仕事も増えています。
2025年6月には故郷の登米市から「とめふるさと大使」を委嘱されました。
さらに2026年2月には、佐々木さんと町田さんの2人が宮城県の「みやぎ絆大使」に就任しています。
子どものころから続けてきた野球も、現在の仕事の中に再び登場しています。
佐々木さんは中学生のころに球団が誕生して以来の楽天イーグルスファンで、楽天モバイルパーク宮城でセレモニアルピッチを務めるようになりました。
2026年6月30日のセレモニアルピッチでは、楽天の前田健太投手から投球練習でアドバイスを受け、108キロを記録。
キャッチャーを務めたのは町田さんでした。
小学2年生から続けた野球は、進路としてはいったん大学で離れましたが、コンビ名、野球ネタ、地元での仕事という別の形で現在も残っています。
2026年に初エッセイ『ここで1球チェンジアップ』を刊行
2026年7月14日には、佐々木さん初の自伝的エッセイ『ここで1球チェンジアップ』が太田出版から発売されました。
本では「野球一族の末っ子」として育った小中学生時代、甲子園を目指した高校生活、大学で目標を失った時期、ダイアンのラジオからNSCへ向かった経緯、町田さんとの出会い、下積み、M-1までが本人の文章で綴られています。
発売後は大きな反響を受けて緊急重版が決まり、2026年8月3日出来で2刷となりました。
「重版なんてガチでエグいぞ」
QJWeb
登米市で野球が当たり前の家庭に育った佐々木さんは、甲子園への道が終わったあと、大学でお笑いという次の進路を見つけました。
東京で町田さんと出会い、客の少ない舞台と新ネタ作りを重ねた時間の先で、エバースはM-1の最終決戦まで進むコンビになりました。
2026年も漫才を軸にしながら、地元・野球・文章へと佐々木さんの活動は広がっています。












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