人物プロフィール
シソンヌのツッコミとしてコントに立つ一方、現在はバラエティ番組のMCや俳優としても活動している長谷川忍さん。
シソンヌは2014年のキングオブコント王者ですが、長谷川さんの芸人人生は、高校を出てすぐ養成所へ入り、そのまま順調にコンビを結成したような経歴ではありません。
20歳で静岡から東京へ出たもののNSCには入らず、ショーパブや最初のコンビでの活動を経て、26歳になってからNSC東京校へ入り直しています。
そこで同じ26歳だったじろうさんと出会い、2006年にシソンヌを結成しましたが、コンビになってからも仕事が少ない時期は長く続きました。
浜松でどんな子ども時代を送り、なぜ一度遠回りするような形でお笑いの世界へ入り、じろうさんと組むことになったのか、幼少期から順番にたどります。
長谷川忍の生い立ちと家族|浜松の寿司屋で育った子ども時代
長谷川忍さんは静岡県浜松市出身で、実家は寿司屋を営んでいました。
2025年放送の『アメトーーク!』でも「実家がお店芸人」の一人として出演し、シソンヌ長谷川さんの実家が寿司屋であることが紹介されています。
寿司屋の家庭で育ち、家族と過ごした浜松での幼少期
子どものころの長谷川さんをたどると、現在のテレビで見せるツッコミだけでなく、服や音楽に詳しい一面もかなり早い時期から始まっていたことが分かります。
特に影響が大きかったのが母親でした。
母親はオードリー・ヘップバーンや海外ドラマが好きで、当時の家庭としては珍しく朝食にオートミールを出すこともあったと長谷川さんは振り返っています。
実家が寿司屋という和の環境の中で、家庭には海外の映画やファッションなど別の文化も入り込んでいました。
母が選んだナイキからファッションへの興味が始まった
ファッションに興味を持ち始めたのは小学4〜5年生ごろだったと本人が話しています。
「興味をもったのは小学校4〜5年生くらいだったと思うんですが、そのころは主に母親からの影響が強かったですね」
GQ JAPAN
周囲の小学生に国産スポーツブランドの靴が人気だったころ、母親が買ってきたのは白いナイキのランニングシューズでした。
学校へ履いていくと、まだナイキが子どもたちに広く知られていなかったため、友達からブランド名をからかわれたこともあったそうです。
本人は当時その靴を嫌がったものの、周囲から後になって「あいつは早かった」と見られるようになり、母親から教えてもらった『メンズノンノ』なども読むようになりました。
現在まで続くスニーカーやファッション好きは、芸人になってから突然生まれた趣味ではなく、小学生のころの母親とのやり取りまでさかのぼります。
「夢で逢えたら」などのテレビコントに夢中になった小学生時代
服と同じくらい、子どもの長谷川さんが夢中になっていたのがテレビのお笑いでした。
『オレたちひょうきん族』や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を見ており、特にウッチャンナンチャン、ダウンタウン、野沢直子さん、清水ミチコさんらが出演した『夢で逢えたら』のコントに強く惹かれました。
「人生を変えるくらいお笑いを好きになったきっかけが、『夢で逢えたら』」
ORICON NEWS
その後も『ダウンタウンのごっつええ感じ』や『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』など、テレビで芸人が芝居をしながら笑いを取る番組を見続けました。
学校でも笑いを取ろうとする子どもで、後年じろうさんとの対談では、球技大会でお尻を出して笑わせようとしたことまで明かしています。
長谷川さんが憧れていたのは、トークだけではなく「人を演じながら笑わせる」テレビのコントでした。
中学・高校時代|HIPHOPとファッションに夢中になった10代
中学生になると、お笑いに加えて音楽とファッションへの興味もさらに強くなります。
「今夜はブギー・バック」と出会いHIPHOPへ傾倒
長谷川さんがHIPHOPを意識した最初の記憶として挙げているのが、1994年にヒットしたスチャダラパーと小沢健二さんの「今夜はブギー・バック」でした。
当時は中学生で、その音楽を聴いて「こういう音楽があるんだ」と興味を持ったといいます。
母親から教えてもらったファッション誌の世界から、自分で雑誌を選び、音楽と服を結びつけて追いかける時期へ変わっていきました。
高校でDJを始め、静岡から東京まで服を買いに通う
高校に入るとDJを始め、海外の音楽にも触れるようになりました。
ファッション誌も『Boon』を読むようになり、服装はきれいめなスタイルからストリート系へ移っていきます。
当時は裏原宿のカルチャーが盛り上がっていた時期で、長谷川さんは実家のある静岡から東京まで服を買いに出かけていました。
高校時代にはG-SHOCKにも強い興味を持ち、雑誌で限定モデルを眺めていたことも後年語っています。
芸人になる前から、東京はテレビの向こう側にある遠い街ではなく、音楽や服を求めて自分から足を運ぶ場所になっていました。
高校時代を経て20歳で静岡から東京へ
長谷川さんの学校名についてはさまざまな情報が出ていますが、本人や所属事務所など信頼性の高い公表資料で学校名まで確定できる情報は多くありません。
一方、本人が繰り返し語っているのが、20歳で静岡から東京へ出てきたという事実です。
上京の先にあったのは、子どものころから見続けてきたテレビのコントでした。
ところが東京へ来ても、長谷川さんはすぐNSCには入りませんでした。
20歳で上京|ショーパブと最初のコンビで過ごした時期
お笑いをやるために東京へ来たのに、養成所へ行かないという、一見すると不思議な時期がここから始まります。
ダウンタウンの言葉を真に受け、あえてNSCへ行かなかった
長谷川さんが東京へ出てきたころ、頭に残っていたのがダウンタウンがテレビで話していたNSCにまつわるトークでした。
長谷川さんはその発言を文字通り受け取り、「ダウンタウンがそう言うならNSCには入らない方がいい」と考えてしまいます。
ただし、ダウンタウン自身はNSC大阪校1期生です。
東京まで来たものの、養成所という分かりやすい入口を自分で外してしまい、どこから芸人になればいいのか分からない状態になりました。
「テレビでコントをやりたい」という目的ははっきりしているのに、そこへ行く方法だけが分からない20代前半でした。
麻布十番のショーパブでMCをしながら芸人への入口を探す
行き先を探した末に働き始めたのが、麻布十番のショーパブでした。
そこではモノマネ芸人の小ボケにツッコミを入れながらステージを進めるなど、MCとして人前に立っていました。
舞台には立てていても、自分が思い描いていた芸人として前へ進んでいる感覚とは違っていたようで、やがてこのままでは進まないと考えるようになります。
後にNSCへ入る際には、ショーパブの店長から費用を借りたことも本人が明かしています。
旧相方と吉本の舞台へ進むも、活動が突然途切れる
NSCへ入るより前にも、長谷川さんは別の相方とコンビを組んでいました。
ネタ見せのオーディションに合格し、ルミネtheよしもとの舞台に立つところまで進みます。
ところがある日の本番当日、相方が姿を見せませんでした。
心配した長谷川さんが相方の家を訪ねると、隣人からすでに2日前に引っ越していたことを知らされたといいます。
長谷川さんは後年、自分がネタを書き、相方を追い込んでしまった部分もあったとして、相手だけを責めるような話し方はしていません。
その後は再びアルバイトをしながら過ごしました。
それでも「まだ自分は納得するところまでお笑いをやっていない」という気持ちが残り、26歳で初めてNSCへ向かいます。
26歳でNSC東京校11期へ|じろうとの出会いとシソンヌ結成
2005年、長谷川さんはNSC東京校11期に入りました。
10代や大学卒業直後の生徒も多い養成所で、26歳という年齢は少数派でした。
「納得するまでやっていない」と26歳でNSCへ
この時点で長谷川さんは、何となく芸人になろうとしていたわけではありません。
旧コンビでネタを書いた経験から、自分で書くよりも、「自分がツッコミをしたくなるネタを書く人」を相方にしたいと考えていました。
「納得するところまでやってないな」
ORICON NEWS
NSCは長谷川さんにとって芸人生活のスタートというより、一度遠回りしたあとに「ここでダメなら帰る」と決めて入った場所でした。
同い年でバイク通学だったじろうと距離が縮まる
そこで出会ったのが、後に相方となるじろうさんです。
じろうさんも同じ26歳でNSCへ入り、入学前には約4年間コント劇団で活動していました。
同年代が少なかったうえ、2人ともバイクで通学していたことなどから自然に話すようになります。
意外なのは、現在の印象とは逆に、当時クラスへなかなか馴染めなかったのが長谷川さんだったことです。
2026年に2人でNSC時代を振り返った際、長谷川さんは、社交的だったじろうさんが周囲の生徒を次々に紹介してくれたと話しています。
じろうさんから見ると、長谷川さんは大人数で行うコントでも一人でツッコミ役を回せる人物でした。
「長谷川さんと組まない理由はありませんでした」
日商 Assist Biz・じろうインタビュー
別々のコンビを経て、2006年4月にシソンヌを結成
ただし、出会ってすぐ2人でコンビを組んだわけではありません。
NSCではそれぞれ別の相手とネタをしており、じろうさんもいくつかの組み合わせで活動していました。
2026年には、コンビ結成までのさらに具体的な場面も明かされました。
当時じろうさんは、一発ギャグを得意とする別の芸人からM-1へ出ようと誘われ、一緒に漫才をしたものの、2人のスタイルは噛み合っていませんでした。
その舞台を客席から見ていた長谷川さんは、じろうさんが弱っているタイミングだと感じ、帰りに声をかけます。
場所はお台場から帰るゆりかもめで、長谷川さんは「一緒にやった方がいいんじゃない?」という趣旨でじろうさんを誘いました。
じろうさんも「乗り物の中で誘われた」という場面は覚えており、その誘いを受けました。
こうして2006年4月、長谷川忍さんとじろうさんによるシソンヌが結成されました。
じろうのネタと長谷川のツッコミでコント中心の活動へ
長谷川さんがNSCで探していたのは、自分がツッコミたいと思えるネタを書く人物でした。
一方のじろうさんは、独特な人物や会話を作り出すコントを書くようになります。
シソンヌは若手時代からほぼ一貫してコント中心で、後年には本人たちが「テレビで漫才をした記憶がほとんどない」と語るほどでした。
長谷川さんが遠回りの末に探していた「ツッコミたくなるネタを書く相手」が、同じ26歳でNSCへ入っていたじろうさんでした。
シソンヌの若手・下積み時代|コントを撮っては見返した日々
コンビを組んだことで仕事がすぐ増えたわけではなく、劇場へ出るところから再び時間をかけることになります。
稽古を撮影し、自分たちのコントを何度も見直していた
シソンヌが若手時代に繰り返していたのが、自分たちの稽古を映像で確認する作業でした。
長谷川さんによれば、芸歴4年目ごろまでは、コントを一度撮影して2人で確認し、直してもう一度撮るという作業を何度も繰り返していたといいます。
「4年目くらいまでは撮影しちゃあ、2人で観てました」
よしもとニュースセンター
小道具や大掛かりなセットを自由に用意できない若手時代には、何もない場所に物があるように見せる表現も必要でした。
カメラを通して自分たちが客席からどう見えるかを確認してきたことで、舞台上でも見え方を想像しやすくなったと長谷川さんは話しています。
現在「演技力の高いコント師」と見られる2人は、若手時代から自分たちの芝居を撮って客観視する作業を続けていました。
舞台では笑いが起きても観客投票では票が伸びなかった
舞台でまったくウケなかったわけでもありません。
若手が出演するバトル形式のライブでは笑いが起きる一方、なぜか観客投票になると票が伸びない時期がありました。
長谷川さんは後年、「笑いの量は負けていないのになぜだろう」という感覚があったと振り返っています。
NSC卒業後には劇場のオーディションになかなか通らず、年齢を理由に若手中心の枠から外されたこともありました。
長谷川さん自身、5〜6年ほど仕事がほとんどない時期があったと語っています。
そのころは、じろうさんが芸人を辞めようと言い出したら、自分も諦めるつもりだった時期さえありました。
仕事の少ない時期を支えた先輩芸人たちの言葉
客からの投票では結果につながらなくても、楽屋では先輩芸人からコントを評価されていました。
長谷川さんは、ライブ後に先輩から「面白かったぞ」と声をかけてもらったことが救いになっていたと話しています。
2026年の『人生最高レストラン』でも、博多華丸・大吉や山里亮太さんら、苦しい時期に声をかけてくれた先輩芸人の存在を2人が振り返りました。
客席の投票では結果が出ない一方、舞台を近くで見ていた芸人たちからはコントそのものを評価されていた時期でした。
2013年に始まった「シソンヌライブ」が活動の軸になる
結成から7年以上が経った2013年12月、2人は赤坂RED/THEATERで第1回の「シソンヌライブ[une]」を開催しました。
作・演出はじろうさんが担当し、照明や音響、衣装、映像まで含めて一つの公演として作り込む単独ライブでした。
翌2014年8月には第2回「deux」を中野ザ・ポケットで開催し、長く続く単独ライブの形ができていきます。
ライブは後に全国へ規模を広げ、テレビ関係者や俳優、映画関係者がシソンヌのコントを見る機会にもなりました。
長谷川さんは、単独ライブを見た関係者からバラエティやドラマの仕事へ声がかかることもあったと話しています。
キングオブコント2014優勝|王者になっても翌日から急には変わらなかった
単独ライブを始めた翌年、シソンヌに大きな結果が出ます。
準決勝敗退を経て2014年にキングオブコント王者へ
シソンヌは2009年と2013年にキングオブコント準決勝まで進んでいました。
2014年には初めて決勝へ進出し、10組による一騎打ち方式で行われた大会を勝ち上がります。
最後はNSC東京校11期の同期でもあるチョコレートプラネットとの対決を制し、7代目キングとなりました。
結成9年目の2014年、シソンヌはキングオブコント優勝という大きな結果を残しました。
ここだけを見ると、長い下積みの末に賞レースを制し、その翌日から一気に売れたようにも見えます。
実際の2人の記憶は少し違います。
優勝後もテレビ出演が一気に増えたわけではなかった
2026年に当時を振り返った2人によると、キングオブコント優勝の翌朝、じろうさんはパチンコ店の列に並んでいました。
賞レース王者の翌日に情報番組を回るような予定はなく、長谷川さんも自宅にいたと話しています。
あまりに連絡が来なかったため、当時のマネージャーが自分から「優勝しました」と営業していたという話まで残っています。
キングオブコント優勝はシソンヌの名前を広げた大きな転機でしたが、優勝翌日から生活が一変したわけではありませんでした。
長谷川さん自身も後年、KOCを仕事が増えるきっかけとして挙げながら、当時のテレビはトーク中心のバラエティが多く、シソンヌの2人はそこで力を発揮することに苦戦したと話しています。
コントには自信があっても、それ以外の場所では思うようにいかない時期が続きました。
単独ライブと地方番組を続けながら次の転機を待つ
KOCの翌2015年4月には、広島ホームテレビで初の冠レギュラー番組『ぶちぶちシソンヌ』がスタートしました。
番組ではロケの途中で即興コントをしたり、スタジオ用の新作コントを作ったりと、テレビでもシソンヌの得意な形を生かしていきました。
同番組ではKOCの優勝賞金を使い、長谷川さんの浜松の実家へ向かい、父親の握った寿司を食べる企画も放送されています。
子どものころに過ごした寿司屋へ、今度はキングオブコント王者になったシソンヌとして帰ることになりました。
一方で単独ライブも止めず、回数と公演規模を増やしていきます。
KOCのタイトルだけに頼らず、ライブでコントを見てもらう場所を持ち続けたことが、その後の仕事へ少しずつつながっていきました。
『有吉の壁』で仕事が広がる|コントからMC・俳優へ
キングオブコントから数年が経つと、長谷川さん個人のテレビ出演も徐々に増えていきます。
KOC後のトーク中心バラエティでは苦戦した時期
KOCを取った時期のバラエティ番組は、フリートークやひな壇での立ち回りが重要になる番組も多くありました。
長谷川さんは、自分もじろうさんもトークがそれほど得意ではなく、コント以外の場所では思うようにいかなかったと振り返っています。
一方、単独ライブは続いており、舞台ではシソンヌのスタイルをそのまま出すことができました。
そのライブを見たテレビ関係者からドラマやバラエティへ声がかかることも増えていきます。
シチュエーションコントが生きる『有吉の壁』との出会い
テレビとの距離が少し開いていた時期に声がかかった番組の一つが、日本テレビ系『有吉の壁』でした。
街や施設の中でその場に合った人物になりきる企画は、舞台で長くシチュエーションコントを続けてきたシソンヌと相性のいいものでした。
じろうさんが次々と濃いキャラクターになり、長谷川さんがその人物や状況を受けながらツッコむという、2人が積み重ねてきた形をテレビでも使えます。
「それからちょっとずつ仕事が増えていったって感じです」
双葉社 THE CHANGE・長谷川忍インタビュー
シソンヌが長年やってきたコントの形を大きく変えるのではなく、そのまま生かせるテレビの場所が現れたことが仕事の広がりにつながりました。
コントを続けながらMC・バラエティ・俳優へ活動が拡大
長谷川さんはその後、シソンヌとしてコントを続けながら、個人ではバラエティ、MC、ドラマや映画へ活動を広げていきました。
俳優の仕事についても本人にとっては突然別の世界へ移った感覚ではなく、子どものころに憧れていたダウンタウン、ウッチャンナンチャン、とんねるずらが、コントだけでなくドラマや映画でも演じていた姿を見て育っています。
若手時代には何もない舞台で人物や場所を見せる練習をし、自分たちの芝居を撮影しては客観的に確認していました。
ショーパブではステージを回すMCを経験し、シソンヌではじろうさんが作る人物を受け止めるツッコミを続けてきました。
それぞれの経験の後に、テレビで司会や進行を務めたり、俳優として作品に出演したりする仕事が増えています。
それでもシソンヌとしての軸は現在も単独ライブにあります。
2013年に赤坂RED/THEATERから始まった「シソンヌライブ」は続き、2026年には第15回「quinze」を東京、静岡、青森の3都市で開催しました。
静岡公演の会場には長谷川さんの地元・浜松が、青森公演にはじろうさんの地元・弘前が選ばれています。
20歳で浜松から東京へ出て、どこから芸人になればいいのか分からなかった長谷川さんは、26歳でNSCへ入り直し、そこで出会ったじろうさんと現在までコントを続けています。
その途中には、旧相方との別れ、劇場オーディションに通らない時期、5〜6年ほど仕事が少なかった時期、キングオブコント王者になっても急には状況が変わらなかった時間がありました。
それでも2013年に始めた単独ライブを止めず、コントを続けた先に『有吉の壁』や現在のMC・俳優の仕事まで活動の場が広がっています。












コメントを残す