人物プロフィール
ストレッチーズの福島敏貴さんは、相方の高木貫太さんとともに漫才を続ける、太田プロダクション所属のお笑い芸人です。
埼玉県立浦和高校から慶應義塾大学総合政策学部へ進んだ経歴を持ちますが、学生時代から一直線に芸人だけを目指していたわけではありません。
高校では高木さんとバスケットボール部で知り合い、文化祭では妙な言葉を叫ぶ舞台に立ち、大学へ進むと一度はお笑いサークルを出禁になりながら、再び高木さんとコンビを組みました。
就職活動も経験しており、保険会社のインターンに参加した時期まで、会社員になる進路も残っていました。
ところが、そこで自ら考えたコント形式のプレゼンが大きな笑いを取ったことで気持ちが動き、高校時代には「1%」ほどだった芸人への思いが、大学時代に現実の進路へ変わっていきます。
現在まで続く高木さんとの関係は、ストレッチーズ結成よりずっと前の高校1年生までさかのぼります。
福島敏貴の生い立ちと家族|埼玉でスポーツに打ち込んだ子ども時代
福島さんは1992年3月19日生まれで、太田プロダクションの公式プロフィールでは埼玉県出身とされています。
現在は漫才に加え、日本酒やサウナ、バスケットボールなど幅広い趣味を持っていますが、子どものころ特に熱中していたのはドッジボールでした。
小学生時代はドッジボールに熱中し全国大会へ
福島さんは小学生のころ、学校の休み時間に遊ぶ程度ではなく、クラブチームで本格的にドッジボールへ取り組んでいました。
本人のインタビューによると、平日は週3日ほど練習があり、週末にも遠征へ出かける生活で、全国大会には3回出場しています。
テレビを見る時間もそれほど多くなく、ドッジボール中心の生活を送っていました。
現在も太田プロの公式プロフィールではドッジボールが特技として掲載されており、本人の公式Xプロフィールにも全国大会3回出場と記されています。
家ではネタ番組漬けではなかった少年時代
後に漫才師となる福島さんですが、子どものころから家族そろってお笑い番組を大量に見る家庭だったわけではありません。
本人は2019年のインタビューで、家ではネタ番組をほとんど見ておらず、『爆笑オンエアバトル』もプロになってから初めて見たと明かしています。
バラエティー番組や『エンタの神様』などは放送されていれば見る程度で、父親や母親も芸人にそれほど詳しくなかったといいます。
「僕は逆にネタ番組をほとんど見れなかった」
東京で考え中
少なくとも、幼いころから家族に芸人への道を勧められていたわけではなく、福島さんが芸人という職業を現実の進路として家族へ伝えるのは、ずっと後の大学卒業が近づいた時期でした。
浦和高校で高木貫太と出会い、2人で初めて人前へ
福島さんの芸人人生をたどるうえで欠かせない高木貫太さんとの出会いは、埼玉県立浦和高校への入学直後でした。
2人は同じバスケットボール部へ入り、授業や部活動だけでなく、休日にも長い時間を一緒に過ごすようになります。
バスケ部で出会った高木貫太の第一印象
福島さんが高木さんを初めて見たのは、バスケットボール部の1年生が集まっていたときでした。
廊下から集団を見た福島さんは、その中に一人だけ髪がかなり長く、ボブのように見える生徒がいることに気付きます。
それが高木さんでした。
一方の高木さんが覚えていたのは、連絡先を交換した後の福島さんから届いたメールでした。
当時の福島さんは、なぜかメールをギャル文字で送り、自分を「ギャル男」と言い張っていたといいます。
「ボケたい奴と言うか変な奴なんだなと思ってました」
慶應塾生新聞デジタル
練習後は「浦高ラーメン」を食べながら5〜6時間
同じバスケ部だった2人は、土日にも練習で顔を合わせていました。
練習後によく向かったのが、高校近くの中華料理店です。
そこで「浦高ラーメン」と呼ばれていた、当時1杯300円ほどの大盛りラーメンを食べ、そのまま5〜6時間ほど一緒に過ごすこともあったと福島さんは話しています。
バスケ部の仲間の輪にいながら、その中でも2人でふざけることが多く、高木さんとの関係は漫才を始める前からできていました。
高校2年の文化祭で「耳毛」「猛打賞」を叫んだ初舞台
高校2年になると、福島さんと高木さんは文化祭で一緒にステージへ立ちます。
ただし、このとき披露したものは現在のような漫才ではありませんでした。
2人が面白いと思った響きの言葉を交互に口にするというもので、福島さんによると「耳毛」や「猛打賞」などをひたすら言い合っていたそうです。
「『耳毛』とか『猛打賞』とかただ言い合う」
テレビ朝日 logirl
客席の反応は厳しかったものの、2人にとって人前に出ること自体は楽しく、このあとも学校行事でステージへ上がるようになります。
女装ミスコンや卒業前の舞台で漫才らしい形へ
男子校だった浦和高校には、文化祭で男子生徒が女装するミスコンがありました。
福島さんと高木さんもワンピースを着て参加し、PUFFYの『愛のしるし』を歌いながら、漫才のようなやり取りも取り入れています。
さらに卒業が近づいたころには、校内の出来事を題材にしたネタを披露し、それまでより客席から笑いが起きました。
後に同級生から、当時の姿を見て芸人になると思っていたという趣旨の連絡が届いたことも、本人たちのインタビューで明かされています。
受験期にはすでに「1%くらい芸人になりたい」
高校3年になると、福島さんは大学受験と向き合います。
浦和高校では国公立大学を志望する生徒が多く、本人も当初は東京大学や旧帝国大学を含む国立大学を考えていました。
一方で部活動や学校行事にも力を入れており、理科や社会まで広く勉強する負担が大きくなっていきます。
浪人ではなく現役で進学したいという気持ちが強まったころ、福島さんの中にはすでに小さな別の選択肢もありました。
「そのときから1%くらい芸人になりたい気持ちがあって」
慶應塾生新聞デジタル
浪人すると、その「1%」を親へ言い出しにくくなり、0%になってしまうかもしれないとも考えた福島さんは、受験科目を絞って早稲田・慶應を目指しました。
そして慶應義塾大学総合政策学部へ進学します。
慶應義塾大学へ進学|一度出禁になったお笑いサークルへ戻る
高校を卒業した福島さんと高木さんは、ともに慶應義塾大学へ進みました。
ただし福島さんは湘南藤沢キャンパス、高木さんは理工学部で、大学入学直後から一緒に行動していたわけではありません。
総合政策学部へ進み、日吉寄宿舎で生活
福島さんは大学進学を機に実家を離れ、日吉寄宿舎で暮らしました。
湘南藤沢キャンパスまでは約1時間かかる一方、お笑いサークルの活動場所だった日吉には寮から通いやすい環境でした。
寮は3人部屋で、先輩へのあいさつや自治運営の仕事など独自の決まりもあり、福島さんは後年、寮の予定をかなり優先していた時期だったと振り返っています。
新歓でボケすぎてO-keisを出禁に
大学へ入った福島さんは、お笑いサークルO-keisの新入生向けの集まりにも顔を出しました。
ところが、初日から何とか印象を残そうとボケを重ね、周囲がゲームキューブで遊んでいる中にキューブを投げ込むような行動までしてしまいます。
本人によれば部長の怒りを買い、しばらくサークルへ来ないよう言われました。
その後はアカペラやバスケットボールのサークルに参加し、バーベキューなど一般的な大学生活も楽しみましたが、どこか物足りなさを感じていたといいます。
アカペラとバスケを経て、高校の同窓会で高木と再会
転機になったのは、大学1年の夏休みに開かれた浦和高校の同窓会でした。
そこで久しぶりに高木さんと会い、高木さんがO-keisで活動していることを知ります。
半年ほど時間もたっていたことから、福島さんは改めてサークルへ入り直し、そこからアカペラやバスケットボールのサークルへはほとんど行かなくなりました。
福島のネタ合わせ欠席で3人案が消え、ストレッチーズへ
当時、高木さんは浦和高校から同じ慶應へ進んだ、現在のひつじねいり・細田祥平さんともネタをしていました。
福島さんがO-keisへ戻ったことで、当初は高木さん・細田さん・福島さんの3人で文化祭に出る案が生まれます。
ところが最初のネタ合わせの日、福島さんが連絡をせず欠席しました。
細田さんは初回から来ない福島さんとは組めないと考え、結果として高木さんと福島さんの2人で舞台に立つことになります。
福島さん自身は欠席した理由を覚えておらず、後年のインタビューでは寮の仕事を優先した可能性を挙げています。
現在まで続くストレッチーズの2人組は、最初から計画されたものではなく、このネタ合わせをめぐる出来事を経て形になりました。
日高屋でネタを作った大学での初漫才
2人で文化祭へ出ることになってからも、最初から机に向かって真剣に台本を作っていたわけではありません。
日高屋で食事をしながら話し、たばこを吸いながらネタを考えるという作り方で、大学での最初の漫才『道案内』を完成させました。
高校時代と同じく変な言葉を口にしたい気持ちが強く、ネタの後半では意味の分からない言葉を次々と入れていく内容でした。
それでも2人とも声が大きく、熱量で押した結果、お笑いサークル内ではある程度笑いが起きました。
学生M-1優勝とインターン|福島敏貴が芸人になると決めるまで
大学内では笑いが取れるようになったストレッチーズですが、外部の観客を前にすると同じようにはいきませんでした。
この時期から、福島さんにとって「学生のお笑い」と「仕事としてのお笑い」の距離が少しずつ縮まっていきます。
外部ライブでの敗戦から日吉のマクドナルドでネタ作り
大学2年のころ、2人は学校の外で行われる大会へ出場しました。
大学内では受けていたものの、外の観客を相手にするとほとんど笑いが起きず、福島さんはその差を悔しく感じました。
大学生M-1グランプリへ挑戦するころになると、これまでの「食事をしながら」のネタ作りを変え、日吉駅のマクドナルドへ集まってネタだけに向き合うようになります。
このとき使っていたコーヒーのクーポン券を、福島さんは後になっても自宅に保管していました。
2012年の大学生M-1グランプリで優勝
本腰を入れてネタを作った2人は、2012年の大学生M-1グランプリで優勝します。
高木さんにとっては、優勝できればプロを目指してもよいと認めてもらえるのではないか、あるいは大学最後の思い出になるかもしれないという思いもあった大会でした。
なお、2人が学生時代から一緒に漫才をしていた時期と、プロとしての結成年は分けて考える必要があります。
M-1グランプリ公式プロフィールでは結成年を2014年4月1日としており、学生コンビとして活動した期間を経て、大学卒業後にプロとして歩み始めています。
保険会社のインターンで披露したコントが進路を変える
福島さんは大学生M-1で優勝する一方、一般企業への就職も現実的な選択肢として考えていました。
保険会社やクレジットカード会社のインターンへ参加し、業界研究の本も読むなど、就職活動そのものを避けていたわけではありません。
その中で大きかったのが、三井住友海上の5日間のインターンでした。
学生5人のグループで保険への加入を促す方法を発表することになり、福島さんは普通のプレゼンではなく、コント形式で発表することを提案します。
学生だけでなく社員も賛成し、実際に披露すると大きな笑いが起こりました。
「それが嬉しくて、『お笑いをしたい』と思うようになりました」
学生新聞オンライン
自分で考えたものによって、その場にいる人が笑う経験が、福島さんを就職ではなく芸人へ向かわせる直接的な出来事になりました。
就職と芸人で迷う中、両親からは強く反対される
芸人への気持ちが強まっても、家族がすぐ賛成したわけではありません。
福島さんは大学卒業後にプロの芸人になると伝えた際、両親から強く反対されたことを複数のインタビューで語っています。
家でネタ番組をほとんど見なかったころから芸人に詳しくなかった両親にとって、慶應を卒業した息子がお笑いの世界へ進むという選択は受け入れやすいものではありませんでした。
福島さんは後年、母親からも反対された当時、好きだった清木場俊介さんの生き方や楽曲にも背中を押されたと話しています。
慶應を卒業して一般企業へ進む道を残しながら、それでも芸人を選びました。
高木も芸人を選び、2人でプロへ進む
高木さんも就職活動と芸人の間で迷っていました。
ある企業の一次面接の日、夜勤明けで寝過ごしてしまい、母親から注意された際に「お笑い芸人になる」と口にしたことで、自分の進路をはっきりさせています。
決断した時期は別々でしたが、2人とも芸人になるのであれば、そのまま一緒に続けようという認識になりました。
こうして高校時代からふざけ合い、大学で漫才を始めた2人は、大学卒業後もストレッチーズとして活動を続けます。
大学卒業後はタイズブリックへ|仕事が回ってこなかった若手時代
ストレッチーズは大学卒業後、現在の太田プロダクションへすぐ所属したわけではありません。
最初の所属先はタイズブリックでした。
『学生HEROES!』出演から芸人部門へ誘われる
大学3年の冬に大学生M-1で優勝した後、2人はテレビ朝日『学生HEROES!』のオーディションに合格しました。
大学4年の春から約1年間、番組へ準レギュラーとして出演し、その制作に関わっていたタイズブリックから卒業後も一緒に活動しないかと声をかけられます。
タイズブリックが新たに立ち上げた芸人部門へ入り、プロとしての活動を始めました。
オーディションが来ない現実を知り、事務所を退所
ところが、活動を始めると一つの問題が見えてきます。
新設されたばかりの芸人部門だったため、テレビ番組などのオーディション情報が事務所へほとんど届かなかったのです。
福島さんたちは当初、それがどれほど大きな問題なのか分かっていませんでした。
ライブで仲良くなった芸人たちへ状況を話したところ、「それはまずい」という反応を受け、初めて危機感を持つようになります。
その後、2人はタイズブリックを退所しました。
ヤマザキモータースの言葉で太田プロ養成所へ
タイズブリック時代、2人は太田プロ所属のヤマザキモータースさんが主催していた若手ライブへ出演していました。
事務所を辞めたことをヤマザキモータースさんへ報告すると、太田プロの養成所へ来ないかと誘われます。
当時の2人には養成所へ通う金銭的な余裕もありませんでしたが、ヤマザキモータースさんから費用についても配慮する言葉をかけてもらいました。
直接ネタ見せを受けて所属する方法もあったものの、養成所を卒業する正規のルートを通った方が周囲から信頼されやすいという助言を受け、養成所へ進みます。
福島さんは養成所から芸人人生を始めたのではなく、すでにプロとして活動した後、太田プロへ入るために養成所へ通っています。
太田プロ8期からライブ中心の日々|M-1で少しずつ状況が変わる
ストレッチーズは太田プロエンタテイメント学院で学び、卒業後に太田プロダクション所属となりました。
テレビ出演が一気に増えたわけではなく、その後も中心にあったのはライブと漫才でした。
太田プロエンタテイメント学院を8期生として卒業
太田プロ公式プロフィールでは、ストレッチーズは2016年9月に太田プロエンタテイメント学院8期を卒業したと掲載されています。
それ以前にタイズブリックでプロ活動を経験していたため、養成所ではまったくの未経験者として漫才を始めたわけではありません。
ヤマザキモータースさんはその後もネタを見て助言する存在となり、若手期の2人と長く関わることになります。
2015年3回戦、2016年2回戦、2017年にM-1準々決勝へ
M-1グランプリが復活した2015年、ストレッチーズは3回戦まで進みました。
翌2016年は2回戦で敗退しましたが、2017年には準々決勝へ進出します。
このころからライブへの出演依頼も増え、若手芸人として立つ舞台の幅が広がっていきました。
後年のインタビューでは2017年以降、M-1準々決勝での敗退が続いた時期についても語っており、決勝へ向かう前に長く越えられないラインがありました。
K-PROでライブ出演が増え、ネタを作り続ける
若手時代のストレッチーズを支えた場所の一つが、東京のお笑いライブを数多く手がけるK-PROでした。
福島さんによると、芸歴1年目のころからK-PRO代表の児島気奈さんがストレッチーズを評価し、少しずつライブへ呼んでくれたといいます。
M-1準々決勝へ進むとさらに出演が増え、ハナコ、トンツカタン、東京ホテイソンらと同じユニットライブへ出る機会もありました。
多い時期には1カ月で数多くのライブへ出演し、新しいネタを次々と舞台にかけています。
パンクブーブーとの『笑あがき』で漫才を磨く
2017年には、NHKのドキュメンタリー番組『笑あがき』へ出演しました。
若手芸人が先輩芸人から約1カ月にわたって指導を受ける企画で、ストレッチーズはパンクブーブーから漫才を学びます。
高木さんは、ボケの面白さだけでなく、客が笑いやすいリズムを考え、せりふを短くすることを教わったと振り返っています。
それ以前の2人は、自分たちは漫才が上手ではないから変わった仕掛けを入れなければいけないと考えていましたが、M-1王者のパンクブーブーから正面から漫才をやっても勝負できると言われたことが、ネタ作りにも影響しました。
上島竜兵から「今はネタを頑張れ」と励まされる
太田プロ所属後、福島さんには事務所の大先輩である上島竜兵さんとの交流も生まれました。
きっかけはヤマザキモータースさんの紹介でした。
最初は上島さんと共通の話題が少なかったため、福島さんは上島さんが好きだった映画『男はつらいよ』を約1カ月で一通り見て、自分から話せる話題を増やしています。
月に1〜2回ほど会う時期もあり、ダチョウ倶楽部の舞台を見るため、福島さんが夜行バスで名古屋の御園座まで出かけたこともありました。
「まずはネタ頑張ろう」
東京で考え中
上島さんは売れる前の2人へ繰り返し声をかけ、福島さんにとって漫才を続ける時期の身近な先輩になっていました。
コント漫才からしゃべくりへ|ストレッチーズの芸風が定まる
高校時代に変な言葉を叫ぶところから始まった2人は、プロになってからも一つの型だけを続けていたわけではありません。
漫才コント、福島さんが変人になる設定、高木さん側が変わった人物になる設定など、さまざまな形のネタを試しました。
若手時代はさまざまな型の漫才を試していた
一時期は「○○すぎ」というツッコミを繰り返したり、ネタに入る前に客席へ「メモの準備はいいですか?」と呼びかけたり、センターマイクの前に福島さんだけが立ち、高木さんが真後ろから頭をたたく形まで試しています。
ネタの最後に「ごきげん養老孟司」と言うフレーズを流行らせようとしたこともありましたが、本人たちによればほとんど受けませんでした。
さまざまな型を作り続ける一方、周囲からは「ストレッチーズが何者なのか分かりにくい」という反応も出るようになります。
M-1敗退をきっかけに「会話」の漫才へ
大きく変わったのは、2020年のM-1で再び準々決勝敗退となったころでした。
福島さんと高木さんは、それまでのネタを振り返り、自分たちの漫才では2人が意外なほど「会話」をしていなかったことに気付きます。
福島さんが一方的に話し、高木さんがそこへコメントを入れる形が多く、2人のやり取りそのものが中心になるネタは少なかったのです。
そこで一度、設定へ入るコント漫才を封印し、2人の会話だけで進むしゃべくり漫才を集中的に作ることにしました。
「怒ってる?」などを経て現在につながるスタイルが固まる
その試行錯誤の中から生まれたネタの一つが『怒ってる?』でした。
「怒ってる?」「怒ってないよ」という単純な会話の構造からネタを広げる形で、それまでのストレッチーズとは違う手応えがありました。
高木さんが日常で起こりうるすれ違いを膨らませ、福島さんとの会話で展開する形が増え、2022年の大きな賞レースでもその漫才をぶつけることになります。
ツギクル芸人GP2022優勝|アルバイトを辞め、仕事が変わり始める
プロとして活動を始めてから約8年、ストレッチーズに大きな結果が出たのが2022年でした。
5月21日に行われた『ツギクル芸人グランプリ2022』で優勝します。
漫才2本でツギクル芸人グランプリを制覇
ストレッチーズは決勝で、これまでライブやM-1へ向けて磨いてきた漫才を2本用意して大会へ臨みました。
決勝前の取材では、福島さんは自分たちの強みについて「漫才なら誰にも負けない」と答え、高木さんも漫才で優勝して売れることを目標に掲げていました。
「漫才なら誰にも負けない」
TVガイドWeb
結果は優勝となり、ストレッチーズはツギクル芸人グランプリ2022の3代目王者になりました。
優勝翌日に塾のアルバイトへ退職を連絡
優勝時点でも、福島さんはお笑いの仕事だけに集中できる生活ではありませんでした。
医学部専門予備校でチューターのアルバイトを週2回ほど続けており、優勝会見でも、その年にはアルバイトを辞めてお笑いへ集中したいと話しています。
そして優勝の翌日、実際に予備校へ辞める連絡を入れました。
退職届を提出する日には『サンデー・ジャポン』の撮影が入っていたことも、後の慶應塾生新聞のインタビューで明かしています。
賞レースのタイトルだけでなく、長く続けていたアルバイトを辞められるところまで仕事の状況が動いたことが、2022年の大きな変化でした。
同じ2022年のM-1で準決勝・敗者復活戦へ
ツギクル芸人グランプリ優勝後も、2人が大きな目標としていたのはM-1でした。
2017年から何度も準々決勝で止まっていたストレッチーズは、2022年に初めてその壁を越え、M-1グランプリ準決勝へ進みます。
準決勝では敗退しましたが、12月18日の敗者復活戦へ出場し、決勝最後の1枠をかけて漫才を披露しました。
テレビ・ラジオ出演が増えた大きな転機
ツギクル芸人グランプリ優勝後は、それまでライブ中心だった活動にテレビやラジオの仕事が加わっていきます。
2022年7月には初単独ライブ『ヘマル』を開催し、その後も単独ライブやラジオ、ネタ番組など活動の場が広がりました。
優勝から間もない時期、福島さんは上島竜兵さんが生前、会うたびに自分たちへ「売れる」「今はネタを頑張れ」と声をかけてくれていたことも明かしています。
高校の文化祭から始まり、大学、最初の事務所、太田プロ、ライブ中心の若手時代を経て、漫才で得た結果が仕事の変化として表れ始めました。
福島敏貴の現在|高校時代から続く高木貫太との漫才
ツギクル芸人グランプリ優勝後も、ストレッチーズの活動の中心から漫才がなくなったわけではありません。
2026年も太田プロの定期ライブ『月笑』G1へ継続して出演しており、6月ROUNDでは2位、7月ROUNDでもG1で舞台に立っています。
ストレッチーズとしてライブと漫才を継続
高校時代に浦和高校のバスケ部で知り合った福島さんと高木さんは、大学時代からプロ生活を経て、30代になってもコンビで漫才を続けています。
M-1についても挑戦を続け、2025年大会では準々決勝まで進出しました。
若手時代のようにただ変わった言葉を並べる形から、試行錯誤の末に会話を軸とした漫才へ変化しましたが、2人で新しいネタを舞台へかける活動自体は変わっていません。
日本酒など福島個人の得意分野にも活動が広がる
福島さん個人では、酒蔵巡りを趣味とし、日本酒検定1級を取得しています。
日本酒に深く興味を持つようになった背景にも上島竜兵さんとの交流があり、上島さんが好きだった『男はつらいよ』を見始めたことから酒にまつわる話へ広がり、やがて日本酒そのものへ詳しくなっていきました。
家族との関係にも、芸人になった直後とは違う出来事がありました。
大学卒業後に芸人へ進んだことで父親から反対され、2023年のテレビ番組では約2年間連絡を取っていなかった時期があることも語っていましたが、2026年7月には本人の公式Xで父親と14年ぶりに富士山へ登ったことを報告しています。
下山中には雹が降る天候になったものの、山頂で父親から「肩組むか」と言われたことを一番の思い出として投稿しました。
埼玉でドッジボールやバスケットボールに打ち込み、浦和高校で高木さんとふざけながら人前へ立ち始めた福島敏貴さんは、慶應で就職と芸人の間を行き来した末に、お笑いを仕事に選びました。
インターンで自分のコントが笑いを生んだ経験を経てプロへ進み、事務所移籍やライブ中心の時期を重ねながら、2022年には漫才でツギクル芸人グランプリを制しました。
高校時代から隣にいる高木貫太さんと、現在もストレッチーズとして舞台に立ち続けています。












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