さすらいラビー中田和伸の生い立ちと家族|一橋大から芸人へ、母の反対と宇野慎太郎との出会い

人物プロフィール

本名
中田和伸
生年月日
1991年9月9日
身長
185cm
血液型
A型
出身地
東京都 文京区
コンビ・グループ名
さすらいラビー
相方・メンバー
宇野慎太郎
結成年
2014年
所属事務所
太田プロダクション
芸人活動開始年
2014年
養成所・スクール
太田プロエンタテイメントカレッジ 8期

さすらいラビーの中田和伸さんは、漫才やコントで活動する一方、2026年にはR-1グランプリで初めて決勝へ進出し、ピンでも大きな舞台に立ちました。

身長185cmの大柄なボケとして舞台に立つ現在の姿からさかのぼると、東京都文京区で育ち、筑波大学附属中学・高校を経て一橋大学商学部へ進んだ学生時代があります。

大学卒業を控えたころには企業から内定も得ていましたが、就職できる状況にありながら、お笑いを続ける道を選びました。

その決断までには、子どものころからテレビのお笑いをまねしていた時間、一橋大学のお笑いサークル、宇野慎太郎さんとの出会い、そして芸人になることへ強く反対した母親とのやり取りがありました。

中田和伸の生い立ちと家族|文京区の母子家庭で育った子ども時代

中田さんの昔をたどると、現在の「高学歴芸人」という紹介だけでは見えてこない、文京区でのかなり具体的な子ども時代が残っています。

本人が2024年に寄稿した文章では、住んでいた街や児童館、公園、学校まで、自分の記憶を細かく振り返っています。

御茶ノ水で生まれ、文京区の実家で育つ

中田さんは東京都文京区出身で、本人によると御茶ノ水にある順天堂医院で生まれ、その後も人生の大半を文京区の実家で過ごしてきました。

大学時代には約3年間、大学のある地域に近い立川で一人暮らしをした時期がありましたが、卒業すると再び文京区の実家へ戻っています。

子どものころに育ったのは母子家庭で、父親が家にいない家庭環境だったことも本人が明かしています。

ただ、中田さん自身の記憶では、父親がいないことを意識することはあっても、毎日の生活で寂しさを感じていたわけではなく、むしろ友人たちとの時間をよく覚えています。

鍵っ子として児童館の「育成室」で過ごした放課後

母親が働いていたため、小学生だった中田さんはいわゆる鍵っ子でした。

学校が終わると近所の児童館に設けられていた「育成室」と呼ばれる学童保育へ行き、平日は17時ごろまで友人たちと過ごしていました。

ドッジボールで動き回る日もあれば、モノポリーで遊び、一人で過ごしたいときには児童館に全巻そろっていた『地獄先生ぬ〜べ〜』を読んでいたそうです。

児童館の近くにあった公園でも缶蹴りや砂遊びをし、帰宅時間になると友人たちと一緒に帰るという生活でした。

学校が終わってから夕方まで、地域の友人たちと遊ぶ時間が日常になっていました。

小学4年生から塾へ通い、母親に支えられて中学受験へ

遊びだけでなく、勉強も身近な環境でした。

中田さんが通っていた公立小学校では、中学受験をする同級生が多かったといい、本人も小学4年生から塾へ通い始めます。

当時は周囲に合わせるように勉強していたものの、大人になって振り返るなかで、母親が教育を受けられる環境を整えてくれていたことを意識するようになりました。

中学受験を経て進んだのが、同じ文京区にある筑波大学附属中学校でした。

筑波大学附属中高時代|お笑い好きとバスケ部の日々

筑波大学附属中学校から筑波大学附属高校へ進んだ中田さんは、このころすでにテレビのお笑いを熱心に見ていました。

一方で高校ではバスケットボール部に入り、放課後は部活動にもかなりの時間を使っています。

M-1や爆笑オンエアバトルを見て芸人のまねをしていた

中田さんがよく見ていた番組として挙げているのが、『M-1グランプリ』と『爆笑オンエアバトル』です。

テレビを見て終わるのではなく、小学校から中学校にかけては芸人のまねをして、クラスメートの前で披露することもありました。

本人は足が遅かったことから「正攻法ではモテない」と感じるようになり、面白いことを言えば周囲が笑ってくれると気づいたことで、お調子者の方向へ進んでいったと話しています。

芸人になると決めるよりずっと前から、人を笑わせたときの反応を自分で経験していました。

バスケ部の仲間と過ごした放課後と厳しかった夏合宿

高校ではバスケットボール部に所属し、自転車で学校へ通っていました。

練習後には部員たちとカレー店「クラウンエース」やラーメン店「きなり屋」などに立ち寄り、とにかく腹を満たしてから帰ることが多かったそうです。

本人は自分を体力のある運動部員だったとは振り返っておらず、練習試合で監督を怒らせた際には相手校から自校まで走って戻ることもありました。

4泊の夏合宿が終わった日には、自転車通学の先輩たちとコンビニへ寄り、合宿から解放された安心感で涙が出てしまったといいます。

その姿を先輩たちに笑われたことまで、中田さんは高校時代の印象深い場面として覚えています。

一橋大学で学生芸人に|塾講師をしながらお笑いサークルへ

高校を卒業した中田さんは、一橋大学商学部へ進学します。

ここで、テレビを見る側だったお笑いとの関係が、自分でネタを作って舞台へ出るものへ変わっていきました。

一橋大学のお笑いサークルに入り「このよの」で活動

大学に入って「お笑いをやりたい」と考えた中田さんは、一橋大学お笑いサークルIOKで活動を始めました。

現在の宇野さんと組む前には、「このよの」という別のコンビで学生お笑いの大会やライブへ出演しています。

当時を知る宇野さんは、大会で「このよの」を見る前から中田さんが面白いという評判を耳にしていました。

「めちゃくちゃ漫才もうまくて」

TVガイドWeb

宇野さんから見ると、中田さんは外見や表情を見ただけでもボケ側だと分かり、同学年の学生芸人のなかでも強く印象に残る存在でした。

別の学生芸人が後年振り返った記録にも、「このよの」で青いジャージを着て漫才をする中田さんの姿が残っています。

塾講師と学生お笑いを掛け持ちした大学生活

大学生活でお笑い以外に多くの時間を使っていたのが、個別指導塾の講師でした。

担当していたのは中高生で、国語だけではなく数学や英語も教えていました。

塾では授業が複数のコマに分かれており、授業と授業の間に空き時間ができると、その時間を使ってネタ合わせへ向かうこともありました。

教え子を合格させることと、自分がお笑いの大会で結果を出すことを並行していた大学生活でした。

宇野慎太郎との出会い|別々のコンビの敗退から「さすらいラビー」へ

中田さんが一橋大学、宇野慎太郎さんが青山学院大学と、2人は別々の大学で学生お笑いをしていました。

しかも出会った時点では、それぞれ別の相方と漫才をしていました。

互いの元相方が別の進路へ向かうなか、2人とも大会で敗退

中田さんは「このよの」、宇野さんも青学のお笑いサークルで別の相方とコンビを組み、学生芸人として活動していました。

しかし進級や卒業後の進路を考える時期になると、中田さんの相方は大学院へ、宇野さんの相方は就職へ向かうことになります。

そんな時期に2組がそれぞれ挑んだのが、プロへの足掛かりとして学生芸人が意識していた「わらいを愛する学生芸人No.1決定戦」でした。

ところが中田さんのコンビも宇野さんのコンビも予選で敗退します。

同じ大会に別々のコンビで出て、2人とも落ちたことが現在のコンビを生むきっかけになりました。

悔しさを語ったSkypeからコンビ結成へ

結果発表の日、中田さんと宇野さんはSkypeで大会について話しました。

大会名が「わらいを愛する学生芸人No.1決定戦」だったことから、中田さんは自分たちのほうがお笑いを愛しているのに、という悔しさを口にしています。

先輩世代では真空ジェシカが大学をまたいでコンビを組んでいたことも、別大学の2人が組む選択を現実的なものにしました。

どちらか一人が一方的に誘ったのではなく、互いに声をかけ合い、プロを目指す前提で新しいコンビを組むことになりました。

2人の説明では、大学3年生になるころには「さすらいラビー」として組み始めています。

一方、M-1グランプリ公式サイトに登録されている結成年は2014年4月1日となっているため、学生時代に2人で活動を始めた時期と、公式記録上の結成年は分けて見る必要があります。

「さすらい」と「ラビー」を組み合わせたコンビ名

コンビ名もSkypeで話している最中に決まりました。

2人は互いに単語を一つずつ出して組み合わせることにし、中田さんが「さすらい」を提案します。

宇野さんは「ラビー」と「メロン」の2候補を出し、そのうち「さすらい」と組み合わせやすかった「ラビー」が採用されました。

「ラビー」は、そのとき宇野さんが使っていたNECのパソコン「LAVIE」が目に入ったことから出てきた言葉でした。

結成直後の関東大学生漫才グランプリ優勝で得た手応え

新しく組んだ2人は早い段階から学生お笑いで結果を残します。

太田プロ公式プロフィールには、2012年「関東大学生漫才グランプリ」優勝、2013年「第11回笑樂祭」優勝という記録が掲載されています。

現在のさすらいラビーにつながる組み合わせで大会に勝てたことは、卒業後も2人でお笑いを続ける選択を考える材料になっていきました。

就職内定を断って芸人へ|母親の反対を受けた進路決断

コンビを組んだ時点で即座に就職を捨てたわけではなく、大学生だった2人は就職活動もしています。

中田さんは実際に企業から内定を得たうえで、会社員と芸人のどちらへ進むかを考えることになりました。

一橋大の同級生が就職へ進むなかで感じた違和感

一橋大学へ入った中田さんの周囲には、早い時期からインターンへ参加したり、将来の仕事を意識して動いたりする学生がいました。

その一方で、自分はお笑いサークルでネタ作りに時間を使っていました。

その差を見ながら、同じように企業へ就職して10年後に再会したとき、自分だけ大きく差をつけられているのではないかという感覚を持つようになったといいます。

そこで出てきたのが、自分が好きで、得意だと思えるお笑いを突き詰めるという選択でした。

内定を得ても「お笑いを続けたい」と決めた理由

中田さんは就職活動で1社から内定を得ていました。

それでも気持ちは芸人へ向かっており、宇野さんにプロで一緒にやろうと持ちかけます。

宇野さんは、就職できなかったから芸人になると思われたくないという気持ちから、自分も内定を取ったうえで親へ芸人になることを伝えたいと考えていました。

中田さんは宇野さんの就活の結果を待ちながら、自分の内定先へ進む道を手放すことになります。

内定先の社員との面談で、相手から好きな芸人としてZAZYさんの名前を聞いたこともあり、後年になってZAZYさんを見ると「内定を断った会社」を思い出してしまうという話まで残っています。

就職先がなかったからではなく、就職できる状態から芸人を選んだことが、中田さんの進路の大きな分岐点でした。

母親との大きな衝突を経てプロの道へ

さらに難しかったのが、長く中田さんを育ててきた母親へ芸人になることを伝える場面でした。

母親は息子が一橋大学まで進みながら芸人になることへ強く反対しました。

「大反対です。母は泣いちゃって、炊飯器を投げてきました。」

WLUCK Park

中田さんは、投げられたのは炊飯器本体ではなく内釜だったと付け加えていますが、進路についてかなり大きな話し合いになったことは伝わります。

それでも最終的には芸人として進むことを受け入れてもらい、大学卒業後には立川での一人暮らしを終えて文京区の実家へ戻りました。

「どうせ生活も苦しいんだからそのまま家にいなさいよ」

SUUMOタウン

強く反対した母親のいる実家が、芸人人生を始めた中田さんの生活拠点にもなりました。

大学卒業後はタイズブリックへ|フリーを経て太田プロ8期生に

一橋大学を卒業したからといって、すぐ現在の太田プロダクションへ入ったわけではありません。

学生お笑いからプロへ変わる時期にも、所属先を変えながら活動を続けています。

学生HEROES!の縁から最初の事務所へ

学生時代から中田さんたちはテレビ朝日系の『学生HEROES!』などに出演する機会があり、大学お笑いの仲間たちとプロの現場へ触れていました。

卒業後、さすらいラビーは最初の所属先としてタイズブリックに入ります。

学生時代に大会で実績を残していた2人でしたが、ここからは学生芸人ではなく、仕事としてお笑いを続ける生活になりました。

約2年で退所し、フリー期間を経験

タイズブリックには約2年間所属したのち、2人は事務所を離れます。

その後すぐ次の大手事務所へ移ったわけではなく、フリーで活動する時期を挟みました。

新しい所属先を考えるため、ライブを見たり、先輩芸人へ事務所について話を聞いたりしていたと宇野さんは振り返っています。

太田プロエンタテイメント学院を選び直して8期生に

いろいろな芸人へ所属事務所の話を聞くなかで、太田プロ所属の芸人からは事務所について前向きな話を聞くことが多かったそうです。

ちょうど太田プロの養成所へ通わないかという話もあり、2人はすでにプロとして活動した経験を持ちながら、改めて養成所へ入ります。

太田プロ公式プロフィールでは、2016年9月に太田プロエンタテイメント学院8期を卒業したことが記録されています。

大学卒業後に最初の事務所で約2年活動し、フリーになってから改めて養成所へ入るという経路でした。

若手時代のさすらいラビー|テレビのチャンスが続いてもブレイクには届かず

太田プロ所属後は、テレビやラジオで大きな仕事が入る機会も出てきます。

しかし本人たちが後年振り返ると、「これで状況が変わるかもしれない」と思った仕事が、そのまま継続的なブレイクへ結び付くとは限りませんでした。

『新しい波24』で訪れた大きなテレビ出演

若手時代の大きなテレビ出演の一つが、フジテレビの『新しい波24』でした。

若手芸人がまとまって出演する番組で全国放送へ出る機会を得ましたが、さすらいラビーの場合、その出演だけで仕事が一気に変わったわけではありませんでした。

オールナイトニッポン0、7Gと続いた「売れるかもしれない」機会

さらにニッポン放送『オールナイトニッポン0』への単発出演では、放送後にトレンド入りする反響も経験しています。

中田さんはこのとき、自分たちはラジオで大きく広がるかもしれないと思ったものの、その後すぐ次の出演が続いたわけではなかったと話しています。

その後にはKing & Princeの元メンバーやSnow Manなど若い世代の出演者と共演したフジテレビ系『7G〜SEVENTH GENERATION〜』にも参加し、番組は複数回放送されました。

「売れ損ねたのはその3つです。」

ドカント

本人自身が『新しい波24』、オールナイトニッポン0、『7G』を、状況が変わる可能性を感じた仕事として挙げています。

テレビへ出る機会は何度も来ましたが、一つの出演を境にそのまま売れ続ける形にはなりませんでした。

2019年「月笑」年間王者になるまでライブを重ねる

テレビの仕事と並行して続けていたのが、劇場やライブでのネタです。

太田プロの事務所ライブ「月笑」では、アルコ&ピースやタイムマシーン3号など先輩芸人が出ていた上位ライブを見ながら、自分たちもその場所で戦うようになりました。

そして2019年に「月笑」年間チャンピオンを獲得し、2022年にも年間チャンピオンになっています。

テレビの単発出演だけではなく、ライブでネタを作り続ける時間が長く続きました。

漫才の形を変えながら賞レースへ|中田和伸のキャラクターが変化

さすらいラビーは大学時代から漫才を続けてきましたが、同じ形をそのまま繰り返していたわけではありません。

特に中田さんが演じる人物のキャラクターは、賞レースへ挑むなかで何度か大きく変わっています。

2017年ごろから磨いたアメリカ風キャラクター

中田さんは漫才を続けるうちに、いろいろな人物を演じることが自分の得意分野かもしれないと感じるようになりました。

そのなかで2017年ごろから前面に出したのが、アメリカのアニメや映画に登場しそうな人物を思わせるキャラクターです。

ほかの芸人とは違うことができているという手応えがあり、ショートネタや特技としても使えるため、一時期はその方向に絞って漫才を作っていました。

ところが数年間続けても、M-1では望んでいたところまで結果が伸びませんでした。

封印していた「キモいキャラ」で2021年ABC決勝へ

次の手掛かりになったのは、以前に小さなライブで偶然演じた人物でした。

アドリブから生まれた、いわゆる「キモいキャラ」が予想以上に受けたものの、中田さんは当初、賞レースで使うようなものではないと考えて封印していました。

それでも「人と違うこと」を探し直すなかで2021年にそのキャラクターを再び使い始めます。

その2021年、さすらいラビーはABCお笑いグランプリの決勝へ進出しました。

漫才だけでなくコントにも力を入れたライブ活動

その後は漫才だけに絞らず、コントにも本格的に取り組むようになります。

2023年のインタビュー時点では1カ月に30〜40本ほどのライブに出演しながら、新ネタライブも定期的に開催していました。

2024年には太田プロの「月笑」でコントを披露して1位を獲得するなど、漫才とコントの両方を実戦で試す活動が続きます。

2025年のツギクル芸人グランプリでは決勝のファーストステージを通過してファイナルへ進出し、豆鉄砲、スタミナパンと優勝を争いました。

同年のM-1グランプリでも準々決勝まで進み、学生時代から始めた漫才を継続しています。

R-1グランプリ2026決勝へ|初単独「ヒトバカ」につながった現在地

コンビの賞レースを長く追いかけてきた中田さんに、2026年は個人として大きな結果が加わりました。

過去最多6,171人がエントリーしたR-1グランプリ2026で準決勝を突破し、9人のファイナリストに入りました。

コンビ活動を続けながら中田個人でR-1初決勝

中田さんにとってR-1は、コンビで挑む賞レースとは少し違う感覚で参加していた大会でした。

「びっくりが100パーセントでした。」

カンテレ公式エンタメNEWS「みよか」

コンビの賞レースでは人生を懸けるような重圧を感じることもあった一方、R-1は「当たって砕けろ」という気持ちで臨めたため、ファイナリストとして名前を呼ばれた瞬間は頭が真っ白になったと明かしています。

3月21日の決勝では5番手で登場し、野球のロッカールームを舞台にした一人コントを披露しました。

ファイナルステージ進出には届きませんでしたが、学生時代から漫才を続けてきた中田さんが、34歳でR-1の決勝まで進みました。

結成以来初の単独ライブを2026年7月に開催

R-1決勝から約4カ月後の2026年7月17日、さすらいラビーは東京・座・高円寺2で初の単独ライブ「ヒトバカ」を開催しました。

漫才とコントの両方を長く続けてきた2人が、約250人の観客を前に漫才2本とコントを組み合わせた公演を行い、チケットは完売しました。

「ヒトバカ」というタイトルには、怪物や幽霊ではなく人間の怖さを扱う「ヒトコワ」から発想し、人間が起こす「バカだなあ」と感じる瞬間を笑いにする考えが込められていました。

大学時代に大会で組んだ2人が、長いライブ活動を経て初めて単独ライブを開いたのは結成から10年以上が過ぎてからでした。

漫才・コント・ラジオを続ける現在

現在もさすらいラビーは、漫才とコント、新ネタライブ、YouTube、音声番組『さすらいラビーのオーライパパ』など複数の場所で活動しています。

中田さん自身もnoteで文章を書き続け、ネタを作り、コンビとは別にピンの舞台にも立つようになりました。

文京区の児童館で友人たちと遊び、筑波大学附属中高ではバスケットボール部に入り、一橋大学では塾講師の授業の合間にネタ合わせへ向かっていた中田さんは、内定を断ってお笑いを仕事にする道へ進みました。

別々のコンビで大会に落ちた宇野慎太郎さんと組んだ学生時代の選択から、漫才・コント、そしてR-1決勝まで活動は続いています。

大学卒業時に大反対した母親から実家に残るよう言われて始まった芸人生活は、2026年の初単独ライブを終えた現在も、文京区で育った中田和伸さん自身の言葉やネタとともに続いています。

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