人物プロフィール
M-1グランプリで2年連続の決勝進出を果たし、ひと目見れば忘れられない大きな体と、独特のボケで存在感を放つママタルト・大鶴肥満さん。
本名は粕谷明弘(かすや・あきひろ)さん。現在の芸名だけを見ると、大鶴義丹さんやマルシアさんと何か親族関係があるのでは、と思う人もいるかもしれません。
しかし「大鶴肥満」という名前が生まれた背景にあるのは親族関係ではなく、大学時代に出演した『笑っていいとも!』でした。
そして意外なのが、もともと芸能界に入ることを目指して大学へ進んだわけではなかったことです。明治大学ではテレビ局など「メディアを作る側」への就職を考え、大学卒業後には小中学生を教える仕事にも就いていました。
テレビ局で働くことを考えていた青年が、なぜ自分自身が舞台に立つ芸人を選び、檜原洋平さんとママタルトを結成することになったのでしょうか。
その原点をたどると、練馬区関町で過ごした少年時代、やらなかったことへの後悔、大学のお笑いサークル、父親との衝突、そして売れない時代を支えたアルバイト生活まで、現在の大鶴肥満さんにつながる出来事が見えてきます。
大鶴肥満の生い立ちと家族|練馬・関町で育った少年時代
惣菜店を営む両親と、放課後を過ごした区立体育館
大鶴肥満さんは1991年7月20日生まれ。公式プロフィールでは出身地を「東京都」としていますが、本人は東京都練馬区の関町で育ったことを明かしています。
実家では両親がお弁当や惣菜を扱う店を営んでいました。両親が夜まで働いていることもあり、大鶴肥満さんは渡されたお金で自分の好きなものを買ったり、店にある料理を食べたりして過ごしていたそうです。
本人が挙げているのは、ガーリックチキンに白飯、ステーキに白飯、唐揚げに白飯といった組み合わせ。栄養バランスよりも「食べたいもの」を優先し、本人いわく満腹を通り越すくらいまで食べていました。
一方で、子どもの頃から家の中だけで過ごしていたわけではありません。
放課後には上石神井の区立体育館へ行き、友人たちと卓球やバドミントン。待合室では『白鳥麗子でございます!』や『おたんこナース』といった漫画を読んでいたと振り返っています。
現在の圧倒的な体格だけを見ると幼い頃から食べることだけが中心だったようにも見えますが、実際には友人とスポーツをして遊ぶ活発な少年でもありました。
中学で体が大きくなり、塾仲間と東伏見のコンビニへ
大鶴肥満さんの体格が大きく変わっていったのは中学生の頃でした。
実家の惣菜や好きな食べ物をしっかり食べる生活を続けるうちに、中学に入ってから体重が急激に増えていったと本人が語っています。
ただ、中学校時代の思い出として本人が語るのは体重のことばかりではありません。
中学3年生で塾へ通い始めると、授業後には仲間10人ほどで東伏見駅前のファミリーマートに集まるようになります。
ファミコロやブタメンを食べながら過ごし、店にいた「斎藤さん」という店員のレジさばきをみんなで真似する。そんな何気ない時間も、大鶴肥満さんの記憶には残っています。
テレビで見る強烈なキャラクターとは違い、この頃の姿はごく普通の中学生です。地元の友達と遊び、塾へ通い、コンビニに集まる。その日常の延長線上に、後の芸人・大鶴肥満がいました。
親の反対で少年野球を見送り、家族で焼肉店へ通った日々
少年時代の出来事の中で、後の人生に大きな影響を残したものがあります。
それが、少年野球をやらなかったことでした。
大鶴肥満さんは子どもの頃、リトルリーグに入りたいと思っていました。しかし車酔いをしやすく、遠征で周囲に迷惑をかける可能性があることなどから親に止められ、入団を断念します。
一度は親の言うことを受け入れましたが、「野球をやらなかった」という思いは、その後も心の中に残りました。
この「やらなかった後悔」が、十数年後に安定した仕事を辞めて芸人へ挑戦するとき、大きな判断材料になります。
家族との明るい記憶として残っているのが、地元の焼肉店「春香苑」です。
プロ野球選手のサインが並ぶ店内で家族と焼肉を食べながら育ち、芸人になってからは「自分で稼いだお金で家族とここへ来る」ことが一つの目標になったといいます。
高校時代|軽音楽部と「痩せていた頃」の実像
高校入学時には約100キロ、軽音楽部でドラムやサックス
大鶴肥満さんは、高校へ入学した時点ですでに体重が100キロほどあったと語っています。
高校2年生の頃には学校の検診で体重について医師から強い注意を受けたこともあり、現在のような巨体が突然できあがったのではなく、中学から高校にかけて少しずつ大きくなっていったことが分かります。
一方、高校では軽音楽部に所属していました。
現在も特技として知られるドラムやサックスは、この音楽好きの一面につながるものです。2026年にはテレビ番組でも高校時代に軽音楽部だったことが改めて紹介されています。
「大鶴肥満の痩せていた頃」と聞くと、細身だった時期を想像するかもしれません。しかし後に『笑っていいとも!』へ出演した大学時代でさえ120~130キロ前後だったと本人が振り返っています。
つまり、大鶴肥満さんの場合の「痩せていた頃」は、あくまで現在と比較するとかなり細かったという意味に近いでしょう。
※出身高校について:複数の二次情報では錦城高校と紹介されていますが、今回確認した本人・学校による一次性の高い資料では学校名を確定できなかったため、本記事では断定していません。
学校で受けた嫌がらせを、後年のドキュメンタリーで語る
高校時代には、楽しい思い出だけでなく苦い経験もありました。
大鶴肥満さんを追ったドキュメンタリー映画『まーごめ180キロ』では、高校時代にいじめを受けていたことを本人が振り返っています。
ただし、それを単純に「つらい過去があったから芸人になった」という物語にまとめることはできません。
大鶴肥満さん自身が後に語ったように、お笑いは自分の中にある不満や感情を、誰かを傷つけるだけのものにせず、笑いへ変える場所にもなっていきました。
高校を卒業すると、次に進んだのが明治大学情報コミュニケーション学部です。ここで、それまでの人生にはなかった「自分が人前に立って笑いを取る」という経験に出会います。
明治大学時代|テレビ局志望から木曜会Zの演者へ
情報コミュニケーション学部へ進み、2年次に木曜会Zへ
大鶴肥満さんが明治大学の情報コミュニケーション学部を選んだ理由の一つは、テレビ局などメディア関係の仕事に就きたいという思いでした。
当時考えていたのは、テレビへ「出る人」ではなく「作る人」になることです。
ところが大学でメディアについて学ぶ中で、少しずつ演者側への興味が芽生えていきます。
転機となったのが大学2年生で入った、お笑いサークル「木曜会Z」でした。
きっかけは少し変わっています。以前Mixiで知り合った女性が木曜会Zに入っていたことを思い出し、連絡を取ったことから入会したと本人は明かしています。
最初から「プロの芸人になるぞ」と意気込んでいたわけではありません。
合宿へ行き、先輩たちと遊び、ディズニーランドへ行く。大鶴肥満さんはどちらかといえばサークル活動そのものを楽しむ側でした。
それでも初めて舞台で笑いを取ったときの感覚は特別でした。
本人は当時を振り返り、「演者としてお笑いをやった時にすごく楽しくて」と語っています。
「カステラ」で野球漫才に挑み、明大祭ではワッフル店を出す
木曜会Zでは、本名の粕谷明弘として活動していました。
大学時代に組んでいたコンビは「カステラ」。相方のテラオカさんと、好きだった野球をテーマにした漫才を続けていたといいます。
学生お笑いのオーディションで野球漫才を披露した際には、審査員から厳しい言葉を受けたこともありました。
それでも、大学でのお笑い生活は楽しい時間でした。
明大祭では木曜会Zのメンバーとワッフル店「笑っフル」を出店。ギャグを披露してウケるとワッフルを追加するという、お笑いサークルらしい企画も行っていたそうです。
『笑っていいとも!』出演から「大鶴肥満」の芸名が生まれる
大学時代には、その後の芸人人生を象徴する名前も誕生します。
木曜会Zの先輩から何度も「大鶴義丹さんに似ている」と言われた大鶴肥満さんは、大学3年生の春休み、『笑っていいとも!』のそっくりさん企画へ参加することにしました。
出演には紹介者として友人を一人連れていく必要があり、サークルのメーリングリストで同行者を募集します。
ところが、ほとんど誰も名乗り出ませんでした。
そんな中、たった一人だけ先輩が同行してくれます。
オーディションへ行くと予想以上に反応がよく、そのまま番組出演が決定。大鶴義丹さんのそっくりさんとして全国放送に登場しました。
この出演をきっかけに生まれたのが「大鶴肥満」という芸名です。
当時は現在よりかなり細く、本人の過去のインタビューでは約120キロ、2026年のテレビ番組では約130キロと紹介されています。測定時期などで差はありますが、現在より数十キロ軽かったことは確かです。
なお、大鶴義丹さんや元妻のマルシアさんと大鶴肥満さんに親族関係があるわけではありません。
おなじみの「まーごめ」も、大鶴義丹さんがかつて謝罪会見で口にした「まーちゃん、ごめんね」を縮めたもの。現在では大鶴肥満さんを象徴するフレーズになっています。
大学4年秋の受賞で、芸人を仕事として意識する
木曜会Zに入った当初は、あくまでサークルを楽しんでいた大鶴肥満さん。
しかし大学4年生の秋ごろ、お笑いの大会で賞をもらったことで気持ちが変わります。
「趣味として楽しい」だけだったお笑いが、仕事として挑戦できるものに見え始めました。
とはいえ、大学を卒業してそのまま芸人の世界へ飛び込んだわけではありません。
一度は社会人になる道を選びます。
塾講師を約1年で辞め、太田プロの養成所へ
小中学生へ英語を教え、パズドラをめぐる授業が起きる
大学卒業後、大鶴肥満さんは小中学生向けの塾で働きました。
本人によれば正社員として働いた期間は約1年。英語の授業も担当していました。
ところが、現在の穏やかな雰囲気そのままに、生徒からはかなり親しみを持たれていたようです。
当時流行していたスマートフォンゲーム『パズル&ドラゴンズ』では、ゲーム内イベントと授業時間が重なることもありました。
授業が始まると何人かがトイレへ行き、戻ってくると別の生徒がトイレへ。大鶴肥満さんは事情を察し、生徒へゲームの成果を確認していたという、なんとも大鶴肥満さんらしいエピソードも残っています。
ただ、笑い話だけではありません。
子どもたちの人生に関わる仕事だからこそ、教える側として責任を持ち続けることへの重さも感じていました。
少年野球の後悔を繰り返さず、仕事を辞めてお笑いを選ぶ
この頃、大鶴肥満さんの中では大学時代に芽生えた「芸人になりたい」という思いが消えていませんでした。
そこで思い出したのが、少年時代の野球です。
親に止められたことでリトルリーグへ入らず、そのことを後になってずっと後悔した。
同じことを、今度はお笑いで繰り返したくない。
「挑戦しなかったこと」を後悔するくらいなら、一度お笑いへ飛び込もう。
そう考え、大鶴肥満さんは安定した仕事を辞めて太田プロエンタテイメント学院へ進みました。
少年野球を断念した小学生の経験が、十数年後、人生の大きな決断へつながったことになります。
父親の反対で実家を出て、養成所では別のコンビを組む
しかし、家族全員が芸人への挑戦を応援したわけではありません。
特に父親は、息子が芸能の道へ進むことに強く反対しました。
その後、大鶴肥満さんは実家を離れます。この父子のすれ違いは長く続き、後にドキュメンタリーでも大きく扱われることになります。
養成所では、現在のママタルトではなく別の相方とコンビを組んでいました。
ただ、そのコンビ活動は順調とはいえませんでした。
そんな時期に参加した一つの大喜利ライブが、大鶴肥満さんの人生を大きく変えます。
檜原洋平との出会い|ママタルト結成まで
大喜利ライブ「ギリマシーン」で檜原洋平と出会う
大鶴肥満さんと檜原洋平さんが出会ったのは、キズマシーンが主催していた大喜利ライブ「ギリマシーン」でした。
当時の大鶴肥満さんは太田プロの養成所で別のコンビを組んでいました。
一方の檜原さんは、以前組んでいた「サンストレンジ」を解散し、新しい相方を探していました。
そして2人が出会う直前、檜原さんはZAZYさんと飲みに行っています。
そこで話題になったのが、コロコロチキチキペッパーズの結成エピソードでした。
能力だけを見るのではなく、声や見た目など、一度見たら忘れない特徴を持つ相方を探した方がいい。
そんな話をした翌日、檜原さんの目の前に現れたのが大鶴肥満さんでした。
「王にさせたい」と誘われ、2016年4月1日にコンビを結成
檜原さんは大鶴肥満さんを見て、すぐに動きます。
当時まだ別のコンビを組んでいた大鶴肥満さんへ、こう伝えました。
「俺は大鶴肥満を王にさせたい」
自分を「王にする」とまで言ってくれる人が現れた。
しかも当時のコンビはうまくいっていませんでした。
大鶴肥満さんは前のコンビを解散し、檜原さんと組む道を選びます。
こうして2016年4月1日、ママタルトが結成されました。
現在では自然に並んでいるように見える2人ですが、出会って長い時間をかけて組んだわけではありません。
ZAZYさんとの会話の翌日に大鶴肥満さんを見つけ、そこから一気にコンビ結成へ進んだという、かなり偶然性の高い出会いでした。
太田プロの所属審査を経て、サンミュージックへ
ママタルトを組んだ2人は、まず太田プロで所属を目指しました。
しかし所属には至りません。
その後、サンミュージックのネタ見せへ行ったところ、大鶴肥満さんは担当者から「こんな清潔感のあるデブは初めて見た」と言われたと振り返っています。
体の大きさだけではなく、見た目の清潔感や愛嬌も含めてキャラクターとして評価されたのでしょう。
こうしてママタルトはサンミュージックプロダクションで活動していくことになりました。
檜原がネタを書き、大鶴肥満が一度の読み合わせで覚える
コンビのネタ作りは、基本的に檜原さんが担当しています。
本人たちはネタ作りの比率を「100対0」と表現したこともあります。
その代わり、大鶴肥満さんには別の強みがありました。
檜原さんによると、台本を渡して一度練習すると驚くほど早くネタを覚えてくるそうです。
大鶴肥満さんの大きな体、表情、声、動きと、檜原さんのテンポのいいツッコミ。
結成当初から、現在のママタルトにつながる役割分担が少しずつ作られていきました。
若手・下積み時代|月50本のライブと金券ショップ
ライブの合間に店へ戻り、Excelで価格管理を変える
サンミュージックに所属したからといって、すぐに芸人だけで生活できたわけではありません。
大鶴肥満さんは塾の仕事を辞めた後、カードゲーム関連の仕事、ラブホテルの清掃、ゲームのデバッグなど、さまざまな仕事を経験しています。
その中で長く続いたのが、新宿西口の金券ショップでした。
勤務期間は約5年。
ライブが入れば途中で店を抜けて舞台へ向かい、終演するとレジ締めや施錠のために店へ戻ることもありました。
「アルバイトのあとに芸人をする」のではなく、アルバイトとライブを一日の中で何度も行き来する生活だったのです。
しかも、大鶴肥満さんは単にシフトへ入っていただけではありません。
大学時代に触れていたExcelを使い、他店の金券価格を調査・整理して価格決定に役立つ仕組みを作りました。
店側から高く評価されるほど仕事を任され、本人は新宿西口の金券相場を自分がかなり動かしていたと振り返っています。
月50本のライブに出ても、舞台収入は月約2万円
若手時代のママタルトは、とにかくライブへ出演しました。
一時期は月50本ほどの舞台に立っていたにもかかわらず、ライブから得られる収入は月約2万円だったと2人は明かしています。
大鶴肥満さんは金券ショップ、檜原さんはピザ店などで働き、生活費を稼ぎながらライブやオーディションへ向かいました。
売れていない芸人生活というと「苦しいアルバイト」と表現されがちですが、2人の場合は少し違います。
大鶴肥満さんは金券ショップの仕事そのものをかなり気に入っていました。
芸人として売れることを目指しながら、アルバイトでも「自分の店を一番にしたい」と本気で働いていたのです。
檜原の言葉を受けて、ライブへの向き合い方が変わる
ただし、大鶴肥満さんは最初から「ライブは多ければ多いほどいい」と考えていたわけではありませんでした。
大きな体で電車移動を繰り返し、一日に何本もライブへ出演するのは身体的にも負担があります。
そんな大鶴肥満さんへ、檜原さんは「この生活が40代、50代まで続くと思うからしんどい。あと1~2年で売れなかったら辞めるくらいの気持ちで挑めばいい」という趣旨の話をしました。
そして大鶴肥満さんの心に強く残ったのが、
「このままだったらブサイク労働者になって終わる」
という言葉でした。
かなり乱暴な言い方ですが、大鶴肥満さんには響きました。
いつ終わるか分からない下積み生活をただ続けるのではなく、期間を区切るくらいの覚悟でお笑いへ集中する。
ここからライブへ向き合う姿勢が変わっていきます。
ピザ窯を持って初台のシェアハウスへ入る
若手時代の生活を語るうえで欠かせないのが、芸人たちとの共同生活です。
大学の後輩との生活やサツマカワRPGさんとの東中野での暮らしなどを経て、大鶴肥満さんは初台にあったシェアハウスへ移ります。
そこにはオズワルド・伊藤俊介さん、蛙亭・イワクラさん、森本サイダーさんらが暮らしていました。
そして入居時のエピソードが実に大鶴肥満さんらしいものです。
シェアハウスの面接へ、ピザ窯とピザを持参しました。
その後、同居している芸人がM-1、キングオブコント、R-1などの決勝へ進むたび、大鶴肥満さんはピザを焼き、くす玉を用意して祝いました。
当時は仲間の決勝進出を見送る側。
しかし、その家で過ごした仲間たちから決勝当日の経験を教えてもらう日が、後に大鶴肥満さん自身にも訪れます。
「大食いトーナメント」からM-1初決勝へ
代表ネタをYouTubeへ公開し、ライブ外でも名前が広がる
ママタルトにとって大きな転機の一つとなったのが、漫才「大食いトーナメント」です。
2019年5月、ママタルトはこのネタをYouTubeで公開しました。
現在では芸人がネタ動画をYouTubeへ公開することは珍しくありませんが、当時は「賞レースで使うネタをネットへ出すのはもったいない」という考えも強く残っていました。
それでも大鶴肥満さんは、面白いネタなら広く見てもらった方がいいという流れを感じて公開を決断。
本人によれば反響は大きく、単なる「大きな体の芸人」ではなく、漫才そのものを評価してもらうきっかけになっていきました。
ラフターナイト月間王者とキングオブコント準決勝
ライブでの評価も少しずつ結果に表れます。
2019年にはTBSラジオ『マイナビ Laughter Night』で月間チャンピオンとなり、同年のチャンピオンLIVEへ出場。
さらに2021年12月にも月間チャンピオンに選ばれています。
漫才だけでなく、2020年には漫才を座った形のコントへ作り替えるなどしてキングオブコント準決勝にも進出しました。
大きな一発で突然売れたというより、漫才、大喜利、コント、ライブと試行錯誤を続けながら、少しずつ評価を積み上げていった時期です。
2021年4月に金券ショップを辞め、芸人の仕事へ絞る
そして2021年4月、大鶴肥満さんは長く続けてきた金券ショップを辞めます。
きっかけは、檜原さんとの「2人ともバイトを辞めて芸人へ集中しよう」という話でした。
芸人としての収入だけでも何とか生活できるようになり始めていた一方、大鶴肥満さんは金券ショップの仕事が好きだったため、辞めることには迷いもあったそうです。
それでも約5年間働いた店を離れ、お笑いを生活の中心にすることを選びました。
塾講師を辞めて養成所へ入ったときとは違い、今度は「芸人になるため」ではなく「芸人として生きていくため」に安定した仕事を手放した瞬間でした。
漫才を変えながら、2024年と2025年のM-1決勝へ
ママタルトはM-1グランプリでも、少しずつ上のステージへ進んでいきました。
結成直後からすぐ決勝へ進んだコンビではありません。
漫才の形を試し、ライブでネタを磨き、時には大鶴肥満さんの体格を前面に押し出しながらも、それだけに頼らない会話主体の漫才へ変化していきます。
そして2024年、M-1グランプリで初の決勝進出。
結成9年目にして、ついにM-1決勝の舞台へ立ちました。
結果は10位。
翌2025年にも再び決勝へ進み、今度は9位となりました。
優勝には届かなかったものの、2年連続で決勝進出。月50本ものライブへ出ながらアルバイトをしていた時代から考えれば、仕事の景色は大きく変わりました。
M-1後に広がった仕事と、父親との再会
草野球と投球動画が、2025年の東京ドーム始球式につながる
大鶴肥満さんの人生では、少年時代にできなかった野球が何度も姿を現します。
芸人になってからは草野球を続け、自身のYouTubeでも投球練習を公開してきました。
その動画を読売ジャイアンツの関係者が見たことから、夢のような仕事につながります。
2025年6月20日、東京ドームで行われた巨人対西武戦。
大鶴肥満さんがピッチャー、檜原さんがキャッチャーを務め、ファーストピッチセレモニーへ登場しました。
大鶴肥満さんの背番号は当時の体重にちなむ「190」。子どもの頃から巨人ファンだった本人にとって、特別な一日になりました。
親に止められて少年野球へ入れなかった少年が、芸人になり、東京ドームのマウンドへ立った。
幼い頃の後悔と現在が、思わぬ形でつながった瞬間でした。
始球式を見た父親と、約4年半ぶりに向き合う
東京ドームでの始球式は、仕事だけでなく家族との関係にも影響を与えます。
芸人になることへ強く反対した父親とは長年関係がこじれ、実家ロケの依頼も断り続けていました。
2026年2月、『相席食堂』の企画でママタルトが大鶴肥満さんの地元を訪れることになります。
そこで大鶴肥満さんは、父親と約4年半ぶりに直接向き合いました。
父親は過去の言動について反省を口にしたうえで、2025年の東京ドームでの始球式を見ていたことを明かします。
父子ともに巨人ファン。
父親は、息子が東京ドームのマウンドまでたどり着いた姿を見て感動したと話し、「よく頑張った」と認めました。
大鶴肥満さんにとって、ただ仕事が増えたこと以上に大きな出来事だったのかもしれません。
芸人を選んだことで家を離れ、長く距離ができていた父親。
その関係を動かしたのが、幼い頃から好きだった野球と、自分で選んだお笑いの仕事でした。
漫才・ラジオ・映像へ活動が広がった現在
現在の大鶴肥満さんは、ママタルトとして漫才やライブを続けながら、テレビ、ラジオ、YouTube、映像作品など活動の幅を広げています。
公式プロフィールでは身長182センチ、体重188キロとされていますが、体重は時期によって変動し、2026年には195キロ前後として紹介される場面もあります。
しかし、大鶴肥満さんの歩みを振り返ると、現在の魅力は「体が大きい芸人」という一言だけでは説明できません。
練馬の惣菜店で育ち、少年野球を諦め、テレビ局を目指して明治大学へ入り、そこで舞台の楽しさを知った。
一度は塾で子どもたちを教えながらも、「挑戦しなかった後悔をもう繰り返したくない」という思いから芸人へ。
そして檜原洋平さんから「王にさせたい」と誘われたことで、ママタルトが始まりました。
金券ショップと月50本のライブを往復していた時代を経て、2024年と2025年にはM-1決勝へ。
さらに、できなかった少年野球への思いは東京ドームでの始球式という形で実を結び、その姿を見た父親との関係まで動かしました。
大鶴肥満さんの人生をつないでいるのは、最初から迷いなく夢を追い続けた強さではありません。
一度見送ったことを後悔したからこそ、次に「やりたい」と思ったことからは逃げなかったこと。
その選択の積み重ねが、現在の大鶴肥満さんとママタルトにつながっています。












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