土屋伸之の生い立ちと家族|公認会計士志望から芸人へ、塙宣之との出会いと美大進学

人物プロフィール

本名
土屋 伸之
生年月日
1978年10月12日
身長
179cm
血液型
AB型
出身地
東京都
コンビ・グループ名
ナイツ
相方・メンバー
塙宣之
結成年
2001年
所属事務所
マセキ芸能社
芸人活動開始年
2001年
師匠
内海桂子

ナイツのツッコミとして、浅草の寄席からテレビ、ラジオまで活動を続けている土屋伸之さん。

2026年春には47歳で日本大学芸術学部美術学科へ進学し、漫才師として仕事を続けながら美術を学ぶ大学生にもなりました。

もともと美術の道を目指していたのかと思いきや、最初に入った創価大学で目標にしていた職業は画家でも芸人でもなく、公認会計士でした。

大学では1日約10時間勉強していた時期があり、息抜きに見に行っていた落語研究会で1学年上の塙宣之さんと接点が生まれます。

芸人を職業として意識したのは、塙さんから「一緒に漫才をやらないか」と声をかけられてからでした。

豊島区で生まれ、船橋で過ごした少年時代から、公認会計士を目指した大学生活、ナイツ結成、浅草での下積み、そして再び絵と向き合う現在まで、時間を追ってたどります。

土屋伸之の生い立ちと家族|豊島区で生まれ、船橋で育った少年時代

土屋さんは1978年10月12日に東京都で生まれ、幼いころに千葉県船橋市へ移りました。

現在の公式プロフィールでは東京都出身とされていますが、本人は船橋について語る際、2歳から中学校卒業まで北習志野周辺で暮らしていたと明かしています。

4,420グラムで誕生、1歳のころには約3か月入院した

母親が後年テレビ番組で読んだ手紙によると、出生時の体重は4,420グラムで、病院内でも大きな赤ちゃんとして知られていたそうです。

ところが1歳の誕生日ごろに高熱が出て受診すると、白血病の疑いがあるとしてがんセンターへ移り、そのまま入院しました。

採血を繰り返しても原因が分からない期間が続きましたが、約3か月後から体調が回復し、退院後は小学校へ上がるころには病院へ通う機会も減っていったといいます。

2歳から船橋へ|山や林、空き地で遊んだ子ども時代

2歳から暮らしたのは、船橋市の北習志野周辺でした。

駅前へ遊びに出るより、自宅の近くに残っていた山や林、空き地へ入り、外で時間を過ごすことが多かったそうです。

中学校は船橋市立古和釜中学校へ進み、本人は地元取材で「中学卒業まで船橋」と振り返っています。

一方で、家の中では漫画のキャラクターやウルトラマンをノートへ描くこともあり、小学生のころには漫画家になりたいと思った時期もありました。

元演歌歌手の母・津島明希と家族|小学1年で「宝物は妹」と作文

母親は「津島明希」名義で活動していた元演歌歌手で、現役時代にはマセキ芸能社へ所属していました。

土屋さんが後にナイツとしてマセキ芸能社へ入る際にも、母親と事務所とのつながりが一つの縁になっています。

家族については妹の存在も確認されており、小学1年生のころには妹について作文を書いていました。

「僕の宝物は妹です」

マイナビニュース

これは後年、母親が読み上げた手紙の中で紹介された、小学生だった土屋さんの言葉です。

10歳で考えた「消しゴムサッカー」を20歳ごろまで続ける

家の中で土屋さんが夢中になった遊びの一つが、10歳ごろに自分で考えた「消しゴムサッカー」でした。

ゴム製の人形をサッカー選手に見立て、ノック式ボールペンではじき、サイコロをボール代わりにして試合を進めます。

実際のサッカー経験はなく、中学・高校で所属したのはテニス部でしたが、消しゴムサッカーには大学の落語研究会へ入る20歳ごろまで約10年間熱中しました。

大人になってから再開したこの一人遊びは、2019年にはYouTubeチャンネル「世界消しサカ協会」で発信する活動へ変わっています。

中学・高校時代|テニスと競馬、絵に熱中した10代

中学から高校へ進むころの土屋さんには、現在まで続いている二つの趣味が形を見せ始めます。

一つは競馬で、もう一つが絵でした。

古和釜中から創価高校へ|中学・高校ではテニス部に所属

船橋市立古和釜中学校を卒業した後、土屋さんは創価高校へ進学しました。

中学と高校ではともにテニス部に所属しており、後年に自ら考案した消しゴムサッカーで知られるようになったものの、学生時代にサッカー部へ所属した経験はありません。

創価大学のインタビューでは、高校から大学1年ごろまでの自分について、人との会話が得意ではなかった時期だったとも明かしています。

「特定の友人以外とは全然しゃべれない性格だった」

創価大学ニュース「SUN」

高校で『ダービースタリオン』に出会い、初めて東京競馬場へ

高校時代、友人と競走馬育成ゲーム『ダービースタリオン』を遊んだことから、本物の競馬場へ行ってみようという話になりました。

高校生だったため馬券を買う目的ではなく、友人たちと東京競馬場へ向かい、そこで初めて実物のサラブレッドを目の前で見ます。

約500キロある馬体や息遣い、毛色を間近で見たことで競走馬そのものに興味を持ち、競馬博物館では1977年有馬記念のトウショウボーイとテンポイントの映像にも夢中になりました。

ビワハイジを追いかけ、競走馬の絵を描き始める

1995年、デビュー前から応援する馬を決めようと出馬表を見ていた土屋さんの目に留まったのが、黒い牝馬のビワハイジでした。

そのビワハイジが新馬戦から勝ち進む姿を追いかけるうち、競馬週刊誌に載っていた写真を見て、自分でも馬を描くようになります。

小学生のころから絵や図工は好きだったものの、現在まで続く「馬を描く」という習慣がはっきり始まったのは高校時代でした。

創価大学で公認会計士を目指す|落研ライブが唯一の息抜きだった

高校卒業後は創価大学経済学部へ進学しました。

この時点で芸人を目指していたわけではなく、大学生活の最初に力を入れていたのは資格の勉強でした。

公認会計士を目指して1日約10時間勉強

大学へ入った土屋さんが目指していたのは公認会計士で、本人によれば1日約10時間勉強する生活を送っていました。

そんな生活の中で数少ない息抜きになっていたのが、大学の落語研究会が開いていたライブでした。

最初から部員だったわけではなく、土屋さんはまず客として落研のライブを見に通っていたのです。

大学2年後半で落研へ|客席から舞台を作る側へ移る

大学2年になると公認会計士の勉強についていくことが難しくなり、土屋さんはそれまで客席から見ていた落語研究会へ入ります。

当時の創価大学落研は部員が大勢おり、名前に「落語研究会」と付いていても、実際には漫才やコントを積極的に行う環境でした。

高校から大学1年ごろまで限られた友人としかあまり話せなかった土屋さんは、落研へ入ってから多くの部員と会話するようになったと大学公式インタビューで振り返っています。

1学年上の部長・塙宣之は「憧れの先輩」だった

その落研で1学年上にいたのが、後に相方となる塙宣之さんです。

塙さんは部長を務め、コントや漫才ではボケの中心になり、単独ライブを企画して周囲を巻き込んでいく存在でした。

土屋さんにとっては、まだ相方ではなく、自分より先にお笑いの舞台へ立っていた憧れの先輩でした。

塙宣之からの誘いで初めて芸人を職業として考える

落研に入ったからといって、土屋さんがすぐ芸人を目指したわけではありません。

人生の進路が変わったのは、塙さんが一緒に組んでいた先輩とのコンビを解散した後でした。

旧「ナイツ」解散後、塙が土屋へ「一緒に漫才をやらないか」

塙さんは大学時代、別の先輩とすでに「ナイツ」という名前のコンビを組んでいましたが、プロとして続けることが難しいと考えた先輩とは解散しました。

次の相方として声をかけたのが土屋さんでした。

それまで土屋さんに本格的なツッコミ経験はありませんでしたが、塙さんは合同コントでの動きや、お互いが何を面白いと感じるかを見ていました。

現在のナイツは、経験豊富なツッコミを探して始まったコンビではありませんでした。

自信はなかったが「塙さんについていこう」と決める

土屋さん自身は、子どものころにウッチャンナンチャンの南原清隆さんを見て大笑いした記憶はあっても、芸人になることを具体的な将来像にはしていませんでした。

塙さんから声をかけられたことで、初めてお笑いを職業として考え始めます。

「塙さんに誘われてからですね、職業としてアリなのかなと思うようになったのは」

マイナビニュース

公認会計士を目指していた大学生が芸人へ進んだ直接のきっかけは、塙さんから相方に誘われたことでした。

2000年ごろに組んだ直後、塙が交通事故に遭う

2人は2000年ごろに現在の組み合わせでコンビを組みましたが、まだ十分にネタを作る前に塙さんが交通事故に遭い、脚を骨折します。

松葉杖を使いながらマセキ芸能社のオーディションを受けて合格したものの、塙さんが回復するまでには時間がかかり、現在の2人で本格的に活動できるようになったのは約1年後でした。

そのため、本人たちが「組んだ」とする時期と、マセキ芸能社が公式プロフィールで示している「2001年活動開始」には違いがあります。

ナイツの第一歩|相方を待ちながら一人で120ステージ

コンビを組んだ直後に相方が舞台へ出られなくなったため、土屋さんの芸人生活は2人での漫才とは別の仕事から始まりました。

ここから浅草へたどり着くまでにも、現在のナイツからは想像しにくい仕事が続きます。

塙の療養中、栃木の牧場へ3か月住み込み

塙さんが骨折を治している間、事務所から土屋さんへ持ち込まれたのが、栃木県にある「ファミリー牧場」での司会の仕事でした。

約3か月住み込み、子どもたちを相手にビンゴ大会などを進行し、1日4ステージを30日間、合計120ステージ経験したといいます。

本人によれば、その仕事でもらった報酬は8万円でした。

東京でアルバイトをした方が稼げると感じる金額でしたが、その経験で芸人として置かれている立場を初めて実感したそうです。

母・津島明希の縁もありマセキ芸能社へ

ナイツが所属したのは、現在も所属しているマセキ芸能社です。

土屋さんの母・津島明希さんがかつて同社に所属しており、母親から「社長も知っている」と事務所を紹介してもらったことを土屋さん自身が明かしています。

ここで芸人として事務所には所属できましたが、すぐテレビの仕事が増えたわけではありませんでした。

2002年ごろ漫才協会へ|内海桂子の弟子として浅草へ

2002年ごろ、事務所の方針で2人は漫才協会へ入り、内海桂子さんの弟子になります。

テレビに出たいと考えていた若い2人に対し、活動の中心として与えられたのは浅草の寄席でした。

当時の浅草東洋館への出演は最初から毎日あったわけではなく、土屋さんによれば月に3日ほど舞台へ立ち、それ以外の日は裏方も担当しました。

東洋館では呼び込み、お茶出し、舞台袖の音響も担当

浅草東洋館では法被を着て外で客を呼び込み、楽屋では師匠たちへお茶を出し、本番中は舞台袖で音響を操作していました。

仕事で呼ばれる場所も若者向けのテレビ番組ばかりではなく、敬老会などが多かったといいます。

内海桂子さんから「一つ芸を身につけなさい」と言われたことをきっかけに、2人は南京玉すだれも覚えました。

一度は『エンタの神様』のネタ見せに南京玉すだれを持ち込み、番組スタッフから番組の方向性との違いを指摘されたこともありました。

2007年、寄席を増やすため三遊亭小遊三一門へ

漫才協会の興行だけでなく、さらに寄席へ出演したいと考えた2人は、2007年に落語芸術協会へ入り、三遊亭小遊三さんの一門に加わります。

落語家の名前や師弟関係を覚える必要があり、土屋さんは「誰が誰の弟子か」を整理するため、家系図のような表まで作りました。

テレビへ出るために始めた漫才でしたが、若手時代の多くの時間は寄席の舞台とその裏側で積み重なっていきました。

若手・下積み時代|浅草で試行錯誤し「ヤホー漫才」へ

寄席には立てるようになっても、ナイツの漫才がすぐ現在の形になったわけではありません。

若者の多いライブと浅草の寄席では客層が大きく異なり、2人はどちらでどう笑いを取るのかを探し続けました。

漫才コントを試しても、自分たちにはしっくりこなかった

当時人気だった芸人のスタイルを参考に、設定へ入って演じる漫才コントにも取り組みました。

しかし、他の芸人が面白く見せている型を自分たちがやっても、思うほど突き抜けた笑いにはなりませんでした。

一方で、漫才の冒頭に入れる短いつかみは客席の反応が良く、塙さんの言い間違いを土屋さんが訂正する短いやり取りには手応えがありました。

「全部をつかみにする」発想から言い間違い漫才が固まる

そこで塙さんが考えたのが、設定へ入っていくのではなく、短い言い間違いのボケを次々に続ける方法でした。

「全部をつかみのようなボケにすればいい」

マイナビニュース

塙さんが固有名詞などを少しずつ間違え、土屋さんが大きく騒がず正しい言葉へ直していく形ができていきます。

寄席へ持っていったところ客席の反応が良く、2人はこの型なら長く続けられるという感触を得ました。

塙のボケを正確に拾う、土屋独自のツッコミ

土屋さん自身は、大きなボケに強く反応するツッコミよりも、突然出てくる小さな間違いをその場で処理する方がやりやすかったと話しています。

野球にたとえると、派手なフライを捕る外野手より、内野で次々に飛んでくるゴロを処理するイメージでした。

言い間違いを重ねる塙さんと、それを淡々と正す土屋さんという現在まで続く形が、浅草での試行錯誤から固まっていきます。

『爆笑レッドカーペット』からM-1決勝へ|仕事が変わった2008年

2008年は、ナイツにとって賞レースだけでは説明できない変化が起きた年でした。

後年2人が「人生が変わった」と振り返ったのは、M-1より先にテレビで放送された短い漫才でした。

『爆笑レッドカーペット』の1分で営業の仕事が入る

ナイツはフジテレビ系『爆笑レッドカーペット』へ出演し、約1分の短いネタの中で言い間違いを連続させるスタイルを見せました。

総合演出の藪木健太郎さんから、短い時間の中で言い間違いを続ける形への助言を受けたことも、その後の「ヤホー漫才」を磨く材料になりました。

レッドカーペット賞を獲得すると、翌日に営業の仕事が決まり、それまで続けていたアルバイト中心の生活にも変化が出ます。

「われわれは『爆笑レッドカーペット』の1分で人生が変わりました」

フジテレビ

ナイツ自身が後年、食べていけるようになった転機として挙げたのは『爆笑レッドカーペット』でした。

2008年M-1初決勝|最終決戦へ進み3位

同じ2008年には、お笑いホープ大賞とNHK新人演芸大賞の演芸部門大賞も受賞し、年末にはM-1グランプリで初めて決勝へ進出しました。

M-1公式記録では、ファーストラウンドを突破して最終決戦へ進み、NON STYLE、オードリーと優勝を争った結果、ナイツは3位でした。

土屋さんは後年、浅草の師匠たちから「東洋館だと思っていつも通りに」と送り出されたものの、ステージへ出ると豪華なセットや審査員を前に強い緊張を感じたと明かしています。

本人の中では完全燃焼とは言えない感覚も残った一方、全国放送のM-1で3位になったことは、その後の仕事を考えるうえで大きな出来事になりました。

2009・2010年もM-1決勝、2011年はTHE MANZAI準優勝

ナイツは2008年だけで終わらず、2009年、2010年もM-1決勝へ進み、3年連続でファイナリストになりました。

2011年には『THE MANZAI 2011』でファイナルラウンドへ進出し、パンクブーブーに次ぐ準優勝となります。

寄席で何度も短いボケを試し、客層によって言葉を調整してきた漫才は、テレビの短いネタ番組と全国規模の賞レースの両方で知られるようになりました。

2010年には漫才協会で真打に昇進し、若いころには呼び込みやお茶出しをしていた浅草東洋館で、トリを任される立場にもなっていきました。

高校時代から続いた「描くこと」が47歳の美大進学へ

テレビや寄席で仕事が増えた後も、土屋さんの生活から絵がなくなることはありませんでした。

高校時代にビワハイジを描いたところから始まった競走馬の絵は、芸人として活動する中で再び大きな趣味になっていきます。

馬の写真をマス目で区切り、何十時間もかけて描く

土屋さんは長く専門的な美術教育を受けたわけではなく、2022年のインタビュー時点では、絵の技法について基本的に独学だと話していました。

馬の写真へデジタルで罫線を入れ、紙にも同じようにマス目を作り、位置を一つずつ合わせながら下書きを進める方法を使っています。

1枚の馬の絵を描くのに20〜30時間ほどかけることもあり、制作中の絵をスマートフォンで撮影して、移動中にも筋肉や陰影を見直していました。

「ナイツ土屋はなぜ絵が上手いのか」という疑問の前には、高校時代から長く馬を観察し、繰り返し描いてきた時間があります。

漫才と絵は、本人にとってまったく違う時間だった

内海桂子さんからは「漫才は言葉で絵を描くもの」という教えを受けたものの、土屋さん自身は絵と漫才を無理に同じものとは考えていませんでした。

相方としゃべりながら客席へ届ける漫才に対し、絵を描くときは長い時間ほとんどしゃべらず、一人で集中できます。

子どものころから一人遊びが好きだった土屋さんにとって、消しゴムサッカーや絵は、大人になっても続けられる時間でした。

仕事を続けながら2年間予備校へ通い、美大を受験

その土屋さんが40代半ばになって始めたのが、美術大学へ入るための受験勉強でした。

本人が2026年4月に公表したところでは、仕事を続けながら約2年間予備校へ通い、デッサンなどに取り組んでいました。

新作の油彩画「壺」では、漫才の客席で笑いのツボに入り、苦しそうなほど笑っている観客を題材にしています。

自分が舞台から見てきた光景を、もっと人へ伝わる絵にしたいと考え、美術を教わる「師匠」を求めて大学を目指したと説明しました。

2026年、日本大学芸術学部美術学科へ進学

2026年春、土屋さんは日本大学芸術学部美術学科へ進学しました。

4月13日のラジオでは、朝から大学の授業を受けた後、有楽町のニッポン放送へ移動し、番組終了後には再び大学へ戻って5限の授業を受ける予定だと話しています。

大学の新入生歓迎式では若い学生に交じってサークル勧誘を受け、かつて創価大学で人生の進路が変わった落語研究会にも再び入ったことを明かしました。

20代では落研への入部から漫才師になり、47歳では再び大学へ入り美術を学び始めました。

「もちろん漫才をもっともっとやりながら」

日刊スポーツ

少年時代には船橋の山や林で遊び、家に戻れば漫画や消しゴムサッカーに夢中になり、高校では競走馬を見て絵を描き始めました。

大学では公認会計士を目指していましたが、落研へ入り、塙宣之さんから誘われたことで漫才師としての生活が始まりました。

浅草で客を呼び込み、短いボケを何度も試した時間を経てナイツの漫才が形になり、現在はその漫才を続けながら、10代から続いてきた絵を大学でも学んでいます。

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