人物プロフィール
バカリズムさんといえば、フリップや一人コント、大喜利だけでなく、『ブラッシュアップライフ』『ホットスポット』などの脚本でも知られています。
2026年にはフジテレビ『すぽると!』のキャプテンを務め、2027年度前期のNHK連続テレビ小説『巡るスワン』では脚本を担当する予定です。
現在の姿からは最初から一人で活動していたようにも見えますが、「バカリズム」はもともと升野英知さんと松下敏宏さんが組んでいたコンビの名前でした。
しかも芸人になる前は、福岡県田川市で育ち、飯塚高校の野球部で甲子園を目指していた高校球児でした。
野球部を終えた青年が日本映画学校へ進み、約10年間のコンビ活動を経てピン芸人となり、その後は脚本まで手がけるようになるまでを、昔から順番にたどります。
バカリズムの生い立ちと家族|福岡・田川で育った少年時代
バカリズムさんの本名は升野英知(ますの・ひでとも)さんで、1975年11月28日に生まれ、福岡県田川市で育ちました。
マセキ芸能社の公式プロフィールでも、現在まで出身地は福岡県田川市と記載されています。
田川で暮らした升野家と、幼少期の家族
2021年にはNHK『ファミリーヒストリー』で、田川に根を張った升野家と母方の家系が取り上げられました。
番組では父方の先祖が島根から九州へ渡ってきたことや、母方に福岡藩士の系譜があることなど、本人も詳しく知らなかった家族の歴史がたどられています。
父親については、かつて川崎市にあった光洋精機で働いていたことを同社自身が公表しており、後年の『ファミリーヒストリー』には当時の同僚も登場しました。
一方、バカリズムさん本人は後年、高校生のころから母子家庭だったことを明かしています。
2025年の『ホットスポット』脚本賞インタビューでも、自身の家庭環境に触れながら、母子家庭を特別な設定とは感じていないという趣旨を語っていました。
家族について必要以上にドラマチックな語り方をするのではなく、本人にとってはそれも高校時代の日常の一部だったことがうかがえる発言です。
小学校の教室で周囲の人間関係を意識した少年時代
子どものころの升野さんは、静かに人間観察だけをしていた少年だったわけではありません。
『Quick Japan』のインタビューでは、小学校時代について、自分には「ちょっと乱暴な部分」があり、同級生から必ずしも好かれていなかったと振り返っています。
「僕、同級生にあんまり好かれてなかったんです。」
OHTABOOKSTAND
クラスの中心にいた児童ともめたことで、周囲から一斉に話しかけられなくなったこともあったといいます。
そこで升野少年が見ていたのは、単純な「自分を嫌っている人」と「味方」の区別だけではありませんでした。
話さない相手も、本当に嫌っているからではなく、周囲との力関係の中でそうしている場合があると考え、「この人はいま何を考えているのか」を気にするようになったと本人は説明しています。
後年のコントやドラマには、何気ない会話の中で人物同士の微妙な距離や空気が描かれますが、本人はかなり早い時期から周囲の反応を細かく見る生活をしていました。
中学・飯塚高校時代|お笑いより野球に打ち込んだ青春
小学校を終えたあとも、すぐに芸人への道を考えたわけではありません。
中学、高校では野球に時間を使い、高校では現在の細身の姿からは想像しにくいほど本格的な運動部生活を送っていました。
中学から野球を続け、飯塚高校野球部へ
高校は福岡県飯塚市の飯塚高校へ進み、野球部に入りました。
2023年には飯塚高校の公式サイトにも、高校野球OB大会のためバカリズムさんが来校した様子が写真付きで掲載されています。
本人も2026年の『すぽると!』就任時に、中学と高校の両方で野球部に所属し、高校では甲子園を目指していたとあらためて明かしています。
ただ、入部してすぐ中心選手になったわけではありません。
高校時代を知る当時の監督の証言では、入部当初は体が小さく、野球の技術面でも目立つ選手ではなかったとされています。
野球部で自分にできる役割を探していた高校時代
転機になったのは高校2年のころでした。
足を痛めて思うように動けない期間ができると、その間に上半身のウエートトレーニングへ取り組みました。
当時の監督は、その後に打球の飛距離が伸び、3年生になると試合で使える選手になっていったと振り返っています。
「最後の夏の大会では、レフトでスタメン出場できる選手になりました」
FLASH/ライブドアニュース
高校最後の夏にはレフトでスタメンに入り、福岡大会を戦いました。
のちに2026年から『すぽると!』のキャプテンを任されることになりますが、この時点ではテレビのスポーツ番組どころか、芸能界へ進む道もまだ決まっていません。
高校卒業が近づき、就職とは違う進路を探し始める
野球部生活が終わると、次に考えなければならなかったのが卒業後の進路でした。
本人によると、当時の飯塚高校は男子校で、そのまま就職して学生生活を終えることには抵抗がありました。
大学進学を前提に勉強を重ねていたわけでもなく、別の進路を探す中で見つけたのが日本映画学校でした。
ここで野球中心だった高校生活から、のちのお笑いにつながる進路へ初めて方向が変わります。
バカリズムが芸人になったきっかけ|日本映画学校を選んだ理由
日本映画学校を選んだ理由は、「昔から絶対に芸人になると決めていたから」という一本線ではありませんでした。
本人が何度も語っているのは、もっと10代らしい複数の事情です。
男子校から「共学へ行きたい」も進学理由の一つだった
2012年のインタビューで、日本映画学校を選んだ理由を聞かれたバカリズムさんは、非常に簡潔に答えています。
「筆記試験がなくて共学だったから(笑)。」
チケットぴあ
2025年のニッポン放送出演時にも、男子校からそのまま社会へ出る前に「共学へ行きたい」という気持ちがあったことを語っています。
さらに日本映画学校には一般的な筆記試験とは異なる入試があり、卒業生にはウッチャンナンチャンがいました。
映画監督や俳優を目指して入った学校というより、お笑いも好きだった升野さんにとって、現実的に選べる進路の中に日本映画学校が現れたという順序でした。
ドリフからダウンタウンまで、お笑いが変わる時代を見て育った
もちろん、それまでお笑いと無縁だったわけではありません。
子どものころからテレビのお笑い番組が好きで、漫画家やプロ野球選手に憧れた時期もありながら、最終的にはお笑いへの興味が強く残っていました。
「小さい時からずっとお笑いは好きで」
ORICON NEWS
小学校から高校までの間には、ドリフターズ、『オレたちひょうきん族』、とんねるず、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンと、テレビのお笑いの中心が次々に変わっていきました。
その流れをリアルタイムで見ていた本人は、新しい笑いを持つ人が次々に出てくるのを見て、芸人になるなら自分なりのものが必要だと考えるようになったと話しています。
日本映画学校へ入り、お笑いを仕事にする道が現実になる
高校卒業後に上京し、日本映画学校俳優科へ進学しました。
現在の日本映画大学も、バカリズムさんを日本映画学校9期・1997年卒業の卒業生として紹介しています。
学校には漫才を発表する授業があり、その成績によって芸能事務所へ進む可能性もある環境でした。
「共学へ行きたい」という入り口から入った学校で、お笑いを職業にする道が具体的なものへ変わっていきます。
日本映画学校で松下敏宏と組み、コンビ「バカリズム」を結成
現在は「バカリズム」という名前そのものが升野英知さん一人を指しますが、最初の10年ほどは違いました。
日本映画学校在学中に松下敏宏さんと組み、二人で活動を始めます。
漫才の授業をきっかけに松下敏宏とコンビへ
松下さんとの接点になったのは、日本映画学校で行われていた漫才の授業でした。
学校で一緒になり、その授業でコンビを組んだことが、プロとして二人で活動する入口になりました。
初めから幼なじみ同士で芸人を目指して上京したコンビでも、高校の同級生同士でもありません。
専門学校の授業で組んだ二人が、そのまま約10年間続くコンビになりました。
1995年に「バカリズム」を結成
マセキ芸能社の公式プロフィールでは、1995年に「バカリズム」を結成したことが現在も経歴の最初に記されています。
当時の「バカリズム」は升野さんの芸名ではなく、升野英知さんと松下敏宏さんによるコンビでした。
升野さんがネタ作りを担い、二人でコントを中心に活動しながらライブやテレビの舞台へ出ていきます。
日本映画学校を1997年に卒業した後もコンビは続き、20代のほとんどを二人組として過ごすことになりました。
検索しても他に出てこない造語をコンビ名に選んだ
「バカリズム」という名前には、特定の単語を組み合わせた壮大な意味があるわけではありません。
本人はテレビ番組で、コンビ名を考える際に「この世にない言葉」にしたかったと説明しています。
既に存在する言葉では、検索したときに別のものまで表示されてややこしくなるため、造語を選びました。
まだインターネット検索が今ほど生活の中心ではなかった時代に付けた名前ですが、その「バカリズム」が後にコンビ名から一人の芸名へ変わり、さらに脚本家名としても表示されることになります。
コンビ時代の若手生活|バイトとライブを続けた20代
1995年にコンビを組んだからといって、すぐテレビの人気者になったわけではありません。
バカリズムさん自身、20代についてはアルバイト生活が大変だった時期として振り返っています。
テレビに合わせるより、自分たちのライブを続けた時期
コンビ時代は、他の芸人と同じ型へ自分たちを合わせるより、「変わったことをやりたい」という意識がかなり強かったと後年語っています。
その一方で本人は、昔のネタを見返すと、当時は客観視や伝える技術が足りず、売れない理由を環境や相方のせいにしたこともあったと振り返っています。
テレビのオーディションだけを追うのではなく、自分たちのライブでネタを続ける時期もありました。
「売れない若手」という一言ではなく、自分たちの笑いをどう見せればいいのか試し続けていた約10年でした。
日村勇紀の家で暮らしながら、売れていく芸人たちを見ていた
そのころの生活がよく分かるのが、バナナマン・日村勇紀さんとの同居です。
若手だった20代のころ、バカリズムさんは日村さんの家に居候し、本人によれば2〜3年ほど一緒に暮らしていました。
きっかけは特別な相談ではなく、芸人仲間で集まった帰りに日村さんから「泊まっていけば」と声を掛けられたことでした。
翌日も特に仕事がなく、そのままもう一泊し、荷物を持ち込むようになって同居生活へ変わっていったと話しています。
当時は周囲で『ボキャブラ天国』に出演した芸人たちが次々に知られるようになっていました。
一方のバカリズムと日村さんはまだ仕事が少なく、テレビを一緒に見ながら、先に売れていく芸人について話していたといいます。
日村さんだけは自分を面白いと言ってくれたという当時の話も残っており、若手芸人同士の距離の近さが見える時期です。
コンビで約10年活動し、2005年に大きな転機を迎える
コンビ「バカリズム」は1995年から活動を続けましたが、2005年にその形が終わります。
升野さん自身も、コンビ時代について「コンビはコンビで面白いと思ってやっていた」と話しており、後からすべてを否定しているわけではありません。
それでも二人で活動を続ける中では、お互いのせいにしてしまう時期もあったと率直に語っています。
2005年、約10年間続いたコンビ活動が終了し、升野英知さん一人が「バカリズム」という名前を引き継ぎました。
コンビ解散からピン芸人へ|トツギーノとR-1で知られる存在に
30歳前後でコンビが終わり、ここから現在につながる「一人のバカリズム」が始まります。
マセキ芸能社は現在も、2005年12月からピン芸人として活動と公式プロフィールに記載しています。
2005年末、一人で「バカリズム」を名乗り始める
一人になったことで、升野さんはネタだけでなく、スタッフとの連絡など、相方に任せていたことも自分で行うようになりました。
後年『Quick Japan』でピン転向時の感触を聞かれると、こう答えています。
「やっててこっちのほうが見やすいだろうなと思いました。」
OHTABOOKSTAND
二人だったときには分散していた「バカリズム」というキャラクターが、一人になると何者なのか見せやすくなったと感じたそうです。
コンビがなくなった寂しさもあった一方、本人は一人になったことで「自立した」とも語っています。
2006年R-1決勝と「トツギーノ」でピン芸人として注目される
ピン転向の直後に大きな機会となったのがR-1ぐらんぷり2006でした。
決勝では、フリップに描いた絵を見せながら「〜しーの」「トツギーノ」と展開するネタを披露します。
R-1公式記録では、バカリズムさんは418点で決勝4位でした。
優勝ではありませんでしたが、「トツギーノ」はピンになったばかりのバカリズムを広く知られる存在へ押し上げたネタの一つになりました。
ただし本人は、一つの代表ネタを延々と繰り返す方向には進みませんでした。
後年には「トツギーノ」について、当時は当時でよかったとしながらも、今は同じものをやる気にはならず、その感覚があるから新しいネタを作ると話しています。
ピン転向後も単独ライブを続け、2006年以降は長年にわたって新作を作り続けてきました。
『アイドリング!!!』と『IPPONグランプリ』で仕事の幅が変わる
同じ2006年には、フジテレビのアイドル育成番組『アイドリング!!!』でMCを担当するようになりました。
番組は2006年10月に始まり、その後約9年にわたってメンバーと共演しました。
ピンネタだけでなく、複数の出演者を相手に番組を進める仕事が長く続いた時期です。
さらに2009年末に始まったフジテレビ『IPPONグランプリ』では、第1回大会で優勝しました。
フジテレビの公式記録でも、第1回のグランプリがバカリズムさんだったことが確認できます。
フリップネタで名前を知られたあとに、MC、大喜利、単独ライブと、「一つの代表ネタを持つピン芸人」だけではない仕事へ少しずつ領域が広がっていきました。
仕事が少ない時期に始めた架空OLブログが脚本へつながる
テレビの仕事が増えていく一方で、後の脚本家としてのキャリアにつながるものは、壮大な企画として始まったわけではありません。
ピンになったばかりで、まだ時間に余裕があった2006年ごろ、一つの架空ブログを書き始めました。
友人を笑わせるために書いた『架空升野日記』
そのブログが『架空升野日記』です。
当時は自分がバカリズムであることを伏せ、銀行で働くOLになりきって、日常の出来事を更新していました。
「当時、仕事がなく暇だったので、友人を笑わせるためにブログでも書こうかなと。」
シネマトゥデイ
最初からドラマ化や書籍化を狙ったものではなく、友人5〜6人を笑わせるための趣味に近いものでした。
ところが名前を伏せていたため、本物のOLだと思った読者から「自分にも同じことがあった」といった反応が届くようになります。
その状況自体がおかしくなり、更新を続けているうちに読者が広がっていきました。
仕事として頼まれた脚本より先に、暇な時間に友人を笑わせるため書いた架空の日記が、後の代表作の一つになりました。
ブログはのちに書籍化され、さらに2017年にはバカリズムさん自身が脚本と主演を担当するドラマ『架空OL日記』へ発展します。
同作では第36回向田邦子賞を受賞しました。
芸人のコントとは違う連続ドラマ脚本『素敵な選TAXI』へ
『架空OL日記』が映像化されるより先に、バカリズムさんはテレビドラマの脚本へ進んでいました。
2014年には関西テレビ系『素敵な選TAXI』で初めて1時間の連続ドラマ脚本を担当します。
それ以前に『世にも奇妙な物語』で脚本を経験していましたが、連続ドラマの依頼を受けたときは、本人もなぜ自分に声が掛かったのか驚いたと話しています。
ここでも、芸人をやめて脚本家へ転身したわけではありません。
単独ライブのネタを作りながら、テレビではMCや大喜利を続け、その横にドラマ脚本という仕事が加わりました。
本人は後年、脚本家として扱われることで芸人側が「先生」のような存在になることには抵抗があり、芸人と脚本の両方でそれぞれ評価される仕事をしたいと語っています。
『架空OL日記』『ブラッシュアップライフ』『ホットスポット』へ広がる
その後も脚本作品は増えましたが、出演番組のように数を並べるより、評価が変化した節目を見る方が分かりやすいでしょう。
『架空OL日記』では原作・脚本・主演を担当し、第36回向田邦子賞を受賞しました。
2023年放送の『ブラッシュアップライフ』では、東京ドラマアウォード2023の脚本賞など複数の賞を受け、日本映画大学も卒業生の受賞を公式に伝えています。
2025年の『ホットスポット』では、第51回放送文化基金賞の脚本賞を受賞しました。
さらに文化庁は2026年3月、『ホットスポット』の成果を対象として、バカリズムさんを令和7年度芸術選奨・放送部門の文部科学大臣新人賞に選んでいます。
高校卒業後に入った日本映画学校の卒業生が、約30年後には「脚本家・お笑い芸人」として文化庁から顕彰されるところまで活動を広げました。
高校野球から『すぽると!』、そして2027年朝ドラ脚本へ
現在まで来ると、昔の出来事と意外な形でつながる仕事も出てきました。
2026年4月からは、フジテレビ『すぽると!』で新キャプテンを担当しています。
就任発表では本人自身、「バカリズム=スポーツ」というイメージはほとんどないだろうと話しながら、中学・高校で野球部だったことを説明しました。
「“スポーツ愛”はかなり強いんです。」
フジテレビ
高校時代には甲子園を目指して野球部でプレーしていた経験が、50歳を迎えた後にスポーツ番組の仕事として再び表に出ました。
そして脚本では、2027年度前期のNHK連続テレビ小説『巡るスワン』を担当することが発表されています。
物語は生活安全課で働く女性警察官の日常を描くオリジナル作品で、派手な事件だけを追うのではなく、何も起こらない日常を題材にする作品です。
福岡で野球をしていた少年が、日本映画学校の漫才の授業でコンビを組み、ピン芸人となり、やがて朝ドラの脚本を任されるところまで来ました。
一方で2026年現在も、マセキ芸能社の公式プロフィールには単独ライブやテレビ出演と並んで活動が掲載されており、脚本だけへ仕事を移したわけではありません。
「バカリズム」というコンビ名で始まったお笑いを一人で引き継ぎ、ネタを作り続けながら、その書く仕事がブログ、ドラマ、映画へ広がってきたのが現在までの歩みです。
田川で育ち、飯塚高校で野球を続けていたころには、現在の仕事を一本の職業名で想像することは難しかったはずです。
高校卒業後に選んだ日本映画学校で松下敏宏さんと出会い、約10年のコンビ時代を経て一人になったことが、その後の活動を大きく変えました。
それでも現在まで残っているのは、ピン芸人、MC、脚本家と肩書が増えても、自分で面白いものを考えて形にする仕事を続けているという部分です。












コメントを残す