ゆりやんレトリィバァの生い立ち|吉野の家族・関西大学から芸人になったきっかけまで

人物プロフィール

本名
吉田有里
身長
159cm
血液型
B型
出身地
奈良県 吉野町
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2013年
養成所・スクール
NSC大阪校 35期

アメリカ・ロサンゼルスへ活動拠点を移し、お笑いだけでなく俳優や音楽、映画監督へと活動の幅を広げているゆりやんレトリィバァ。

現在の堂々とした舞台姿からは少し意外ですが、奈良・吉野で育った幼いころは、人前に出ると恥ずかしがる子どもでした。

高校卒業後は芸人になるつもりだったものの、ある出来事から大学受験へ方向転換し、関西大学で映画、ダンス、英語と出会ってから、お笑いの世界へ入っています。

芸人への憧れが始まったのは小学2年生ごろで、きっかけは吉本新喜劇でした。

吉野の家庭で過ごした子ども時代から、高校・大学、NSCでの相方探し、ピン芸人になった経緯、売れない若手時代を経てアメリカへ向かうまでを、時間の流れに沿ってたどります。

ゆりやんレトリィバァの生い立ちと家族|奈良・吉野で育った子ども時代

ゆりやんレトリィバァは、奈良県吉野郡で生まれ育ちました。

両親と姉のいる家庭で過ごし、家の外では恥ずかしがり屋でも、家族や気心の知れた友人の前ではふざけることのできる子どもだったといいます。

幼いころは人見知り、家族で毎日続けていた「今日でき」

幼いころのゆりやんは、大人から声をかけられると母親の後ろへ隠れてしまうほど人見知りだったと、父親が後年振り返っています。

そんな吉田家では、幼稚園のころから夕食時に「今日でき」と呼ぶ習慣がありました。

家族が一人ずつ、その日に学校や仕事であった出来事を話す時間です。

「その日に起きた出来事を話す時間をとっていたんです」

週刊女性PRIME

特別な出来事がなかった日でも、何か一つ見つけて話すため、日常をよく見る習慣にもなっていました。

家では毎日の出来事を言葉にし、家の外では人前に出るのが苦手という二つの面を持っていた子ども時代でした。

小学2年生で吉本新喜劇に夢中、12人の同級生と翌日にまね

お笑いへの入口になったのが、家で見ていた吉本新喜劇です。

本人によると、小学校低学年当時の同級生は12人ほどで、みんなが新喜劇を見ていたため、翌日になると学校で前夜の場面をまねして遊んでいました。

家族でなんばグランド花月へ行くこともあり、テレビの中だけではなく、舞台のお笑いにも触れていきます。

特に憧れていたのが山田花子さんや島田珠代さんでした。

「いつか『吉本新喜劇』に入りたいな」

タウンワークマガジン

まだ具体的な進路を考える年齢ではありませんでしたが、「将来はお笑いの世界へ」という思い自体は小学生のころから存在していました。

中学時代の人間関係と『バック・トゥ・ザ・フューチャー』から広がったアメリカへの興味

中学生になると、学校での人間関係に悩む時期もありました。

本人は友人関係がうまくいかなかった時期について語っており、それでも学校へ通い続けるうえで家族の存在が支えになったとしています。

家へ帰れば「今日でき」で一日の出来事を話す時間があり、学校で起きたことも家族へ伝えていました。

このころ、もう一つ夢中になったのが映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でした。

DVDを繰り返し見るうちに、作品の舞台であるアメリカや英語そのものにも興味を持つようになります。

英語の授業が特別得意だったわけではありませんが、「アメリカへ行ってみたい」という感覚は、中学生のころにはすでに芽生えていました。

高田高校で人前に立ち始め、芸人志望から大学受験へ

中学校を卒業すると、奈良県立高田高校へ進学します。

小学生のころから持っていた芸人への憧れは続いていましたが、高校では人前へ出る経験が少しずつ増えていきました。

文化祭でダンスや先生のものまね、一人で約15分の舞台にも挑戦

高校の文化祭では、友人たちとモーニング娘。の曲を踊るなど、観客の前へ出るようになります。

さらに、友人と一緒にお笑いの出し物へ参加する予定だったときには、本番直前に相手が出られなくなり、一人で舞台へ立つことになりました。

空いた持ち時間は約15分あり、ギターを弾いたり、学校の先生のものまねをしたりしながら、一人で舞台をつないだといいます。

誰かと一緒に出る予定だった舞台を、一人で最後までやるという経験は、のちにピン芸人となる本人にとって印象的な高校時代の一場面です。

山と川に囲まれた地元のコンビニでアルバイト

高校時代には、地元のコンビニでもアルバイトをしていました。

店は山と川に囲まれた場所にあり、夏の夜になると明かりを目がけて虫が集まり、窓一面が虫で覆われることもあったそうです。

そのときは外から水をかけて虫を流す仕事まであり、現在の華やかなテレビ出演とはかなり違う高校生活を送っていました。

音楽も好きで、アルバイト代をためてエレキギターを購入しています。

文化祭でのダンスやギター、先生のものまねなど、後にネタへ取り込んでいく要素のいくつかは、この時期から本人の生活の中にありました。

高校卒業後はNSCの予定が、野球部員への恋から関西大学受験へ

高校卒業後については、もともと大学へ行くつもりではなく、お笑いの道へ進むことを考えていました。

ところが高校時代、一学年下の野球部員を好きになったことで進路が変わります。

夏には勉強をするふりをしながら野球部の練習が見える場所へ行くほど思いを寄せていましたが、その相手には別の交際相手がいることを知りました。

そこで、「大学へ進んで賢くなれば見直してもらえるかもしれない」と受験勉強へ向かったと本人は振り返っています。

高校卒業後に芸人になる予定だった進路は、ここで一度「大学進学」へ変わりました。

受験の末に合格したのが、関西大学文学部でした。

関西大学で映画・ダンス・英語が現在につながる

芸人になるまでの寄り道になるはずだった大学生活ですが、ここで出会ったものは後の活動へ何度も登場します。

映画、ストリートダンス、海外経験のある友人たちとの交流が、大学の4年間に重なりました。

文学部で映像文化を専攻し、大学時代は数多くの映画を見る

関西大学では、文学部で映像文化を学びました。

映画を見ることが好きだった本人にとって、大学で映画そのものを研究できることは大きな魅力でした。

奈良の実家から大学へ通い、本人の後年の説明では片道約3時間かかる通学時間にも携帯型のプレーヤーで映画を見続けていたといいます。

ゼミでも映画を扱い、卒業論文ではスタンリー・キューブリックについて書きました。

「芸人になる前の4年間」に映画を大量に見て、作品を研究する時間を持ったことは、後に映画を撮る側へ回ったときにも残りました。

「関大に行っていなかったら、『禍禍女』は生まれていません」

関西大学 HEADLINES

ストリートダンスサークルで「ゆりやん」として過ごした4年間

大学ではストリートダンスサークル「Soul Beat Crew」にも参加しました。

そこで周囲から自然に呼ばれていたのが、本名の「有里」から生まれた「ゆりやん」という呼び名でした。

小中学生のころには人間関係で悩む時期もありましたが、大学では自分をそのまま受け入れてくれる友人たちと出会えたと本人は語っています。

ダンスは後にテレビやネタでもたびたび披露する特技となりますが、当時は芸人になるための訓練として始めたものではなく、大学生活そのものの一部でした。

帰国子女の友人との交流が後の英語ネタへ

関西大学では、帰国子女や海外経験のある友人とも親しくなりました。

英語で大きくリアクションする友人の姿が面白く、「Oh my God」のような言い回しや発音をまねするようになったといいます。

中学生のころに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』から始まったアメリカへの興味に、大学では実際に英語を使う友人との交流が加わりました。

後に知られる英語ネタも、英会話のために一から作ったキャラクターではなく、大学時代の身近な友人の話し方をまねしたことから形になっていきました。

関西大学4年でNSC大阪35期へ|漫才師志望からピン芸人になるまで

大学生活が終わりに近づくと、小学生のころから持ち続けていた「芸人になる」という進路へ戻ります。

関西大学4年生のとき、NSC大阪校35期へ入り、大学とお笑いの養成所を並行する生活が始まりました。

M-1に憧れて友人を相方に誘うも断られる

幼いころの目標は吉本新喜劇でしたが、成長する中でM-1グランプリを見るようになり、今度は漫才師への憧れを持つようになりました。

「漫才師カッコえーなー」

GQ JAPAN

そこで高校時代から親しかった友人をNSCへ誘いましたが、相手からは断られます。

NSCへ入ってからも漫才の相方を探し続け、最初からピン一本でやろうと決めていたわけではありませんでした。

35期には大勢の生徒がおり、周囲の面白さを目の当たりにして自信を失うこともありました。

授業で面白かった生徒の名札へ先生が貼るシールと同じものを自分で買い、自分の名札の裏側へたくさん貼って「自分は面白い」と思い込ませたという、NSC時代らしいエピソードも本人が明かしています。

熊元プロレスと「稲妻パンティーズ」を結成するも短期間で解散

相方を探していた時期には、現在「紅しょうが」で活動する同期の熊元プロレスさんとコンビを組んだこともありました。

コンビ名は「稲妻パンティーズ」。

2026年に二人が当時を振り返ったところでは、予定を合わせようとしても、一方に学校、一方にアルバイトが入るなど生活時間が合わず、活動は長く続きませんでした。

熊元さんは後年、当時のゆりやんについて、面白すぎてどうツッコめばいいのか分からなかったという趣旨の話もしています。

現在はピン芸人として知られるゆりやんにも、NSC時代には実際に相方とコンビを組んで漫才をしようとしていた時期がありました。

一人でネタを始め、「ゆりやんレトリィバァ」の芸名が誕生

相方探しを続ける一方で、誰かが作ったネタを演じるとうまくできず、友人とコンビを組むことで関係までぎくしゃくしてしまうことがあったと本人は話しています。

そこで、次第に自分一人でネタを作り、自分一人で演じる方向へ進みました。

漫才師になりたくて相方を探していたNSC生が、コンビ経験を経てピン芸人へ変わったのがこの時期です。

芸名を決める際には、大学時代から呼ばれていた「ゆりやん」に、友人との間で印象に残っていた「ゴールデンレトリーバー」という言葉を組み合わせました。

表記も独特の「ゆりやんレトリィバァ」となり、現在まで使われています。

NSC卒業ライブを「好きすぎて」で制し首席卒業

2013年2月に行われた「NSC大ライブ2013」では、大阪35期の168組が参加する中、ゆりやんが優勝しました。

決勝で演じたのは、恋をする女性を題材にした一人コント「好きすぎて」でした。

大学へ通いながらNSCへ入り、漫才の相方を探していたところから、最後は一人のネタで頂点に立っています。

NSC大阪35期を首席で卒業し、ピン芸人・ゆりやんレトリィバァとしてプロの活動へ進みました。

優勝後にもらったスケジュール帳には、4月の予定が仕事で埋められており、卒業直後から仕事が用意されるスタートとなりました。

NSC首席でも売れ続けなかった|劇場の最下層からR-1初決勝へ

NSCの卒業ライブで優勝したことで、デビュー時から名前を知ってもらえる機会には恵まれました。

ただし、その勢いがそのまま長く続いたわけではありませんでした。

卒業直後は4月の予定が仕事で埋まるスタート

NSC首席という肩書きがあったため、卒業直後から仕事が入り、周囲からも大阪の若手ピン芸人として注目されました。

本人も当初は「このまま進めるのではないか」と感じるほどのスタートだったといいます。

しかし、若手芸人が競いながら舞台へ立つ劇場では、ネタの評価がそのまま順位や出演機会に響きます。

首席卒業の肩書きだけで舞台に残り続けることはできませんでした。

若手劇場の順位が最下層まで落ち、トイレで泣いた日

若手時代には、舞台へ出ても客席が笑わず、ネタが思いつかない、チケットが売れない、仕事が増えないという時期を経験しています。

劇場内のランキングでも順位を落とし、本人によれば最下層まで落ちたことがありました。

「一番下まで落ちたこともあるし」

タウンワークマガジン

バトルライブで負けたあと、劇場のトイレへ入り、悔しさから泣いた日もあったといいます。

「NSC首席」という華々しい出発のすぐ後ろに、劇場で一から評価を取り直す若手時代が続いていました。

8.6秒バズーカーの活躍に焦り、夜の劇場でネタを研究

大きな危機感を持ったきっかけの一つが、一年後輩にあたる8.6秒バズーカーが急速に注目されたことでした。

自分はNSC首席として先に活動を始めていたのに、後輩が一気に全国へ知られていく姿を目の前で見ます。

「これじゃあかん」

WEBザテレビジョン

作家へ相談し、先輩芸人の舞台を見たり、夜に一人で劇場へ行って録画されたネタ映像を見直したりしながら、自分のネタを研究しました。

「首席だった自分」に頼るのではなく、売れている人の舞台と自分のネタを見比べる時間が始まりました。

英語やダンスを自分の武器にし、2015年R-1初決勝へ

ネタを考える中では、以前からできた英語、ピアノ、ダンスなども試すようになります。

最初は、それらを「自分だけの武器」とは考えていませんでしたが、英語を使ったネタを舞台へ持っていくと客席の反応がありました。

大学時代に友人の英語リアクションをまねした経験や、ストリートダンスで身につけた動きが、ここで一人コントの材料になっていきます。

2015年、芸歴3年目でR-1ぐらんぷりの決勝へ初進出しました。

劇場の順位を落とした時期を経たあと、自分がすでに持っていたものをネタへ入れ始めたことで、再び大きな舞台へ進みました。

同じ2015年にはテレビ企画でニューヨークに約3か月滞在する機会もあり、中学生のころから憧れてきたアメリカで実際に生活する経験もしています。

2017年に転機が重なる|NHK上方漫才コンテストからTHE W初代王者へ

R-1決勝や劇場での活動を重ねたあと、2017年には賞レースで大きな結果が続きます。

このころには東京での仕事も増え、大阪との往復が多くなっていました。

NHK上方漫才コンテスト優勝時にはすでに「ハリウッド」を口にする

2017年2月、第47回NHK上方漫才コンテストで優勝しました。

女性ピン芸人として初の優勝で、本人にとってテレビで放送される大きな賞レースで初めて手にしたタイトルでもありました。

まだ大阪を拠点に東京の仕事へ通っていた時期ですが、このころのインタビューですでに、将来はアカデミー賞を取りたい、俳優や映画監督もやりたいと話しています。

後年突然アメリカや映画を目指し始めたのではなく、テレビで広く知られる前から「ハリウッド」という行き先を口にしていました。

THE W初代王者となりテレビで知られる存在へ

同年12月には、初開催された「女芸人No.1決定戦 THE W」で優勝し、初代王者となります。

英語を使った独特のキャラクター、一人コント、ダンスを交えた動きなど、若手時代に試してきた要素もテレビで広く知られるようになりました。

2017年は大阪に住みながら東京へ通う回数が大きく増え、仕事の規模が変化していった年でもあります。

NSC首席から一度劇場の最下層まで落ちたゆりやんが、2017年に二つの大きな大会で優勝し、全国で名前を知られる段階へ進みました。

アメリカへの憧れを行動へ|AGT、R-1優勝からLA移住と映画監督まで

テレビの仕事が増えてからも、中学生のころに芽生えたアメリカへの興味は消えませんでした。

ここからは「いつか行きたい」と話す段階から、実際に自分で応募し、移住し、現地の舞台へ立つ段階へ変わっていきます。

2019年、自分で応募したAmerica’s Got Talentに出演

2019年、アメリカのオーディション番組『America’s Got Talent』に出演しました。

事務所から用意された海外仕事ではなく、本人が募集ページを見つけ、自分で応募フォームへ入力して映像を送ったところから始まっています。

すでに海外へ活動を広げていた芸人たちを見て、「自分もアメリカへ行きたいと言い続けているだけではないか」と感じたことが行動のきっかけでした。

「私、口ばっかりやん」

ORICON NEWS

応募時にはピアノを使ったネタも考えていましたが、現地でより伝わりやすい見せ方を考え、星条旗柄の衣装やかつらを使った視覚的なパフォーマンスへ変更しました。

中学時代に映画を見ながら憧れていたアメリカへ、2019年には自分で応募して舞台へ立つところまで進みました。

2021年R-1優勝と、映画監督という次の目標

2021年には、若手時代から何度も決勝へ進んできたR-1グランプリで優勝しました。

2015年の初決勝から数年をかけて届いた優勝で、2017年のTHE Wと合わせ、二つのピン芸人賞レースを制したことになります。

ただし、その時点で本人が口にしていた次の目標は、テレビ出演本数をさらに増やすことだけではありませんでした。

「将来の夢はアカデミー賞です」

ANA『翼の王国』

お笑いの賞レースで結果を残したあとも、目線は中学生のころから憧れてきたアメリカと、大学で学んだ映画の方向へ向いていました。

アメリカへ拠点を移し、音楽・スタンドアップ・映画へ活動を広げる

2024年12月、活動拠点をロサンゼルスへ移しました。

すでに日本では賞レース優勝やテレビ出演を経験していましたが、アメリカでは再び小さなコメディクラブへ足を運び、英語のスタンドアップに挑戦しています。

2026年にも、現地の舞台で短い持ち時間をもらい、自分の英語ネタがどこまで客席へ届くのか試す生活を続けていることを明かしています。

日本で売れた状態をそのまま持ち込むのではなく、ロサンゼルスでは再び「初めて見る客にネタを試す芸人」として舞台へ立っています。

2025年にはYURIYAN RETRIEVER名義で音楽のメジャーデビューも果たし、大学時代から続けてきたダンスや音楽も別の活動へ広がりました。

ロサンゼルスへ移ったあとも両親とは頻繁に電話し、その日にあったことを話しているといいます。

奈良の食卓で家族一人ひとりが一日の出来事を話していた「今日でき」と似たやり取りが、海を隔てた現在にも残っています。

関西大学で映画を学んだ学生が2026年『禍禍女』で監督デビュー

もう一つ形になったのが、高校卒業後の進路変更によって出会った映画です。

関西大学では映像文化を専攻し、長い通学時間にも映画を見続け、卒業論文まで映画を題材にしました。

芸人として活動を始めたあとも映画監督への希望を口にしていたところ、その発言を見た映画関係者との縁から監督企画が動き始めます。

そして2026年2月6日、初監督映画『禍禍女』が全国公開されました。

高校卒業後にそのままNSCへ行かず、関西大学で映画を学んだ4年間が、十数年後に「映画監督」という仕事として戻ってきました。

奈良・吉野で家族に一日の出来事を話していた子どもは、吉本新喜劇に憧れ、高校と関西大学を経てNSCへ入りました。

漫才師を目指して相方を探した末にピン芸人となり、劇場で順位を落とした時期を越えて、日本の賞レースとアメリカの舞台へ進みました。

現在はロサンゼルスを拠点にスタンドアップへ挑みながら、音楽や映画にも活動を広げています。

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