人物プロフィール
紅しょうが・熊元プロレスさんといえば、力強い声と赤いリップ、「女子〜!」から始まる呼びかけでも知られるお笑い芸人です。
相方の稲田美紀さんと挑んだ「女芸人No.1決定戦 THE W 2023」では5度目の決勝で優勝し、その後は漫才やコントだけでなく、声優やドラマ主演へも仕事を広げてきました。
一方、昔をたどると、小学生のころから「どうすれば男子に興味を持ってもらえるのか」を考え、髪をびしょ濡れにして学校へ行ったり、生のピーマンを食べたりと、周囲の目を引く方法を自分なりに試していた子どもでした。
高校卒業時には芸人への道を考えながらも、一度はNSCではなく大学進学を選んでいます。
そこから大学中退、NSC大阪35期、ゆりやんレトリィバァさんとの短いコンビ経験を経て、稲田さんから突然届いたDMが現在の紅しょうがへつながっていきます。
熊元プロレスの生い立ちと家族|神戸で育った子ども時代
熊元プロレスさんは1990年11月30日、兵庫県神戸市出身で、本名は熊元侑里恵さんです。
現在の大きな声や堂々とした舞台姿から幼いころから人前に立つタイプだったようにも見えますが、本人が語る子ども時代には「モテたい」というかなり率直な動機がありました。
小3で考え始めた「モテるには面白さ」|芸人への最初の原点
小学校3年生ごろの熊元さんは、どうすれば男の子からモテるのかを自分なりに考えていました。
本人によれば、当時の学校では体格について保健指導を受ける子どもたちを「肥満クラブ」と呼んでおり、自分もその対象になっていたそうです。
そこで見た目だけで勝負するのではなく、「一緒にいて楽しい」と思ってもらえる面白い方向へ行こうと考えるようになりました。
「モテたいからですね」
文化放送「おとなりさん」
芸人という職業を具体的に選ぶのはもっと後ですが、熊元さん自身は後年も、この「モテたい」という気持ちをお笑いへ向かった理由として繰り返し語っています。
『ドカベン』と生ピーマンで男子を引きつけた小学生時代
面白い方向へ行くと決めた熊元さんは、学校でも目を引く行動を始めました。
毎朝髪の毛をびしょびしょに濡らして登校したり、周囲がお菓子を食べているところで袋に入れた生のピーマンを食べたりしていたと文化放送で明かしています。
さらに好きだったのが、水島新司さんの野球漫画『ドカベン』でした。
同世代の女子では珍しい作品でしたが、男子とは話題を共有しやすく、「漫画が家にある」と声をかけて自宅へ遊びに来てもらうこともありました。
熊元さんは一人っ子でありながら、当時のゲーム機NINTENDO64のコントローラーを4つそろえていたため、友達は自分でコントローラーを持ってこなくても一緒に遊べました。
漫画、ゲーム、少し変わった行動を使って自分から人が集まる場所を作っていたのが、小学生時代の熊元さんでした。
母子家庭で育った一人っ子|母の存在が後の進路選択へ
熊元さんは母子家庭の一人っ子として育ちました。
子ども時代の話だけでなく、大学進学や芸人になる決断、売れる前の生活まで、熊元さんの昔話にはたびたび母親が登場します。
後に高校卒業後の進路を考えた際も、自分を一人で育ててくれた母親の気持ちが、すぐNSCへ進まなかった理由の一つになりました。
この母娘の関係は、熊元さんが大学を辞める場面でも、芸人として大阪で生活するようになった後にも、新しい出来事として続いていきます。
中学・高校時代|おちゃらけキャラから漫画60冊を運ぶ高校生へ
小学校で人を引きつける方法を考えていた熊元さんは、中学生になると周囲から「おちゃらけキャラ」と見られるようになります。
ところが高校へ進む直前、そのキャラクターを自分から大きく変えようとしました。
中学ではおちゃらけキャラ、ハンドボールのゴールキーパーも経験
中学時代は周囲を笑わせる「おちゃらけキャラ」で過ごし、部活動ではハンドボールのゴールキーパーも経験しています。
本人が後年、当時よく聴いていた音楽を振り返った際にも「中学の部活でハンドボールのゴールキーパーをしていた時代」と説明しており、高校ではなく中学時代の出来事として確認できます。
このころまでは、人と一緒に騒ぐ普段の自分をそのまま学校でも出していました。
高校ではクールキャラを目指して2か月孤立
高校入学を前にした春休み、熊元さんはそれまでの自分を変え、漫画に登場するような「一人でいるのに存在感がある謎めいた人物」になろうと決めました。
ところが、実際にクールな態度を続けると友人の輪へ入るきっかけがなくなります。
「2ヶ月くらいほんまにずっとひとりでした」
ch FILES
本来はみんなでにぎやかに過ごしたいタイプだったため、ここから自分で状況を変える方法を探し始めます。
『クローズ』『WORST』を60冊以上持参し友人の輪へ
そこで熊元さんが選んだのが、当時人気だった不良漫画『クローズ』でした。
『クローズ』全26巻を買い、毎日すべて学校へ持って行くと、漫画を読みたい男子が熊元さんの周りへ集まるようになります。
さらに続編の『WORST』全32巻も加わり、本人の表現では途中から「60何巻」を運ぶ状態になりました。
小学校では『ドカベン』、高校では『クローズ』『WORST』と、漫画が友人との接点になる場面が何度もありました。
大量の漫画を運び続けたことで、2か月ほど一人で過ごしていた熊元さんもグループへ入れるようになっていきました。
高校卒業を前にNSCと大学の間で迷う
高校生活が終わりに近づくころには、熊元さんの中に吉本興業の芸人養成所・NSCという進路がすでに浮かんでいました。
ただし当時は、「絶対に芸人になる」という職業としての決意よりも、「面白いと思われたい」「モテたい」という気持ちの方が大きかったと振り返っています。
高校生の段階でNSCを選択肢に入れながら、卒業後すぐにはお笑いの道を選びませんでした。
神戸女子大学から芸人へ|文化祭をきっかけに中退を決断
高校を卒業した熊元さんが選んだのは、NSCではなく神戸女子大学への進学でした。
ここから一度大学生活を経験したことで、高校時代にはまだ曖昧だった「芸人になる」という進路が具体的な行動へ変わっていきます。
母を思ってNSCではなく大学進学を選ぶ
熊元さんは歴史が好きで、大学では学芸員の資格を取ることも考えていました。
博物館など歴史に関わる仕事も進路の候補にありましたが、NSCを見送った理由には母親の存在もありました。
2026年のnon-noのインタビューでは、母子家庭で一生懸命育ててくれた母親の気持ちを考え、高校卒業時は大学進学を選んだと明かしています。
大学ではサークルへ入り、友人と遊びに出かけるなど、それまでとは違う学生生活も楽しんでいました。
大学の文化祭でお笑いを見て芸人への気持ちが再燃
大学へ進んだからといって、お笑いへの興味が消えたわけではありませんでした。
転機になったのは、大学の文化祭で見たお笑いステージです。
舞台を見たことで、高校時代にも考えていた「芸人になりたい」という気持ちが再び強くなりました。
大学で歴史を学び続けるのか、それとも一度見送ったお笑いへ進むのかという選択が、ここで現実のものになります。
大学中退を決めて母と大げんか
熊元さんは最終的に大学1年で中退し、お笑いの道へ進むことを選びました。
一度は母親のことを考えて大学へ進んだだけに、その大学を辞める決断を母がすんなり受け入れたわけではありませんでした。
「母親とは大げんかしました」
non-no web
高校卒業時には見送った芸人への道を、大学を中退することで今度は自分の進路として選び直しました。
スーパーの揚げ物売り場で約5年、「売れる声」を研究
芸人になる前から若手時代へかけて、熊元さんは地元のスーパーの揚げ物コーナーで約5年間働いていました。
キッチンで揚げ物を作り、地元で人気だった「ぼっかけコロッケ」が揚がると売り場へ出て、「揚げたてですよ」と客へ呼びかけていました。
単純に大きな声を出せば商品が売れるわけではないと気づき、熊元さんは客へ届く「売れる声」を研究したといいます。
「その時の『売れる声』が今の発声のベースになっているんですよ」
DOMOぱど
現在の舞台で響く大きな声には、スーパーの売り場で客を振り向かせようと試行錯誤した時間がそのまま残っています。
NSC大阪35期時代|熊元プロレスという芸名とゆりやんとの元コンビ
大学を離れた熊元さんは、吉本興業のNSC大阪校35期へ進みました。
吉本興業の公式プロフィールでは2013年にNSC大阪35期を卒業しており、翌2014年の紅しょうが結成より前に芸人としての活動が始まっています。
「熊元プロレス」と「熊元肉饅頭」の二択から芸名を決める
本名の熊元侑里恵ではなく「熊元プロレス」という芸名を使うようになった背景には、周囲からなめられたくない、強く見られたいという考えがありました。
同期で村上ショージさんの娘でもある「つみき」さんへ相談したところ、候補として出てきたのが「熊元プロレス」と「熊元肉饅頭」でした。
熊元さんは「肉饅頭」は画数が多く、テレビに出る芸名としての字面も考え、「熊元プロレス」を選択しました。
ちなみに本人は、芸名とは対照的に当時からプロレスが特別好きだったわけではありません。
ゆりやんと「稲妻パンティーズ」を結成するも予定が合わず解散
NSC大阪35期には、後にTHE W初代女王となるゆりやんレトリィバァさんもいました。
2026年にゆりやんさんが『A-Studio+』で明かしたところによると、養成所時代に熊元さんと一度コンビを組み、その名前を「稲妻パンティーズ」としていました。
ところが「いつネタ合わせをするか」と2人で予定帳を開くと、一方がアルバイトの日はもう一方が学校という具合に予定が合いませんでした。
ネタ合わせの日程を決める段階で「バイト」「学校」が続き、短期間で解散することになりました。
ゆりやんさんとのコンビは続きませんでしたが、後にそのゆりやんさんが、熊元さんと現在の相方を結びつける人物になります。
NSC卒業後、ピンネタも経験し相方探しの時期へ
NSC卒業後の熊元さんは、現在の紅しょうがをすぐに結成したわけではなく、ピンでネタをする時期も経験しています。
当時すでにNSCの先輩だった稲田美紀さんは、熊元さんが一人でネタをしている姿を見たことがありました。
「声大きいな、力強いな」
ch FILES
女性芸人で芸名を使っている人が当時は少なかったこともあり、「熊元プロレス」という名前も稲田さんの記憶に残っていました。
稲田美紀との出会い|インドカレー店から紅しょうが結成へ
熊元さんがNSC大阪35期なのに対し、稲田さんはNSC大阪33期で2期先輩にあたります。
同じ吉本の芸人ではあっても、最初から親しい間柄だったわけではなく、熊元さんにとって稲田さんはむしろ「怖そうな先輩」でした。
ゆりやんの「熊元プロレスっていう子、面白いですよ」から始まった
稲田さんはそれ以前に別のコンビで活動していましたが、解散後、新しい相方を探していました。
そこで相談したのが、自分より2期下の芸人ともつながりがあったゆりやんレトリィバァさんです。
2026年の『かまいたちの知らんけど』で稲田さんが振り返ったところによると、「2個下ぐらいでいい子はいないか」と尋ねた際、ゆりやんさんから熊元さんを薦められました。
NSC時代に一度コンビを組んだゆりやんさんの推薦が、今度は熊元さんと稲田さんをつなぐきっかけになりました。
怖い先輩・稲田美紀から突然届いたDM
ゆりやんさんから名前を聞いた稲田さんは、熊元さんのX、当時のTwitterへ直接DMを送り、食事に誘いました。
熊元さんは稲田さんの存在自体は知っていましたが、当時の稲田さんは金髪で、ネタ見せの場でも地べたに座っている印象があり、年上の先輩でもあったため怖く見えていたそうです。
それまでほとんど話したことのない先輩から突然「ご飯へ行かないか」と連絡が来たため、熊元さんには気軽に断るという選択肢がありませんでした。
相方を探していた稲田さんと、何の誘いなのか分からないまま食事へ向かった熊元さんが、ここで初めてまともに話すことになります。
インドカレー店でコンビを誘われ、ラッシーを吹き出す
2人が向かったのはインドカレー店でした。
熊元さんは家で食べるカレー以外があまり得意ではなく、辛さにも苦戦していたと後に振り返っています。
そんな食事の途中、稲田さんは好きな芸人などを尋ねながら、熊元さんへコンビを組まないかと切り出しました。
「組まへん?」
FANY Magazine
熊元さんは突然の話に驚きながらも、その場で一緒にやることを承諾しました。
それまで怖い先輩という印象だった稲田さんの誘いを受けた瞬間、現在まで続く紅しょうがの2人が相方になりました。
さらに2026年に明かされた話では、食事で満腹になった熊元さんが最後に濃いラッシーを飲み、思わず吹き出してしまったそうです。
その姿を見た稲田さんは熊元さんと一緒にいることを「楽しい」と感じ、新しい相方としての手応えを持ちました。
2014年10月に紅しょうが結成|先輩後輩から相方へ
2人は2014年10月に「紅しょうが」を結成しました。
コンビ名について熊元さんは、大阪で活動するにあたり「大阪の人は紅しょうがが好き」というイメージから、地元の人に愛されるようにという思いを込めたと文化放送で話しています。
NSC35期の熊元さんと33期の稲田さんは、友人同士ではなく先輩後輩の関係からコンビを始めました。
2014年10月の結成後、2人は大阪の劇場を中心に漫才を続けていきます。
紅しょうがの若手・下積み時代|会話からネタを作りTHE W決勝へ
紅しょうがを組んだからといって、すぐテレビの仕事が増えたわけではありませんでした。
予定の空いている時間が多かった結成当初、2人はまず会うことからネタ作りを始めています。
仕事が少なかった結成当初、会って話すところからネタ作り
稲田さんは後に、コンビを組みたてのころは仕事が少なかったため、とりあえず熊元さんと会い、普段の会話からネタにできるものを探していたと説明しています。
どちらか一人だけがネタを書く形ではなく、現在までネタ作りは2人で半々です。
暇な時間に顔を合わせて話すところから始まったネタ作りが、その後の漫才とコントの両方へ続いていきました。
熊元さんの大きな声や「女子〜!」という呼びかけだけでなく、稲田さんとのやり取りそのものが紅しょうがのネタの軸になっていきます。
大阪時代、家賃を母に頼み「絶縁」を告げられた日
まだ売れていなかった大阪時代には、熊元さんが家賃を払えなくなったこともありました。
当時、熊元さんは大阪、母親は兵庫で暮らしており、助けを求めると母親は大阪まで来て家賃を払ってくれました。
ただし、その場で母親から告げられたのは、これ以上お金を頼らないよう求める厳しい言葉でした。
「きょうで絶縁します」
Narinari.com
熊元さんはその後、劇場のリハーサルへ向かい、帰宅して休んでいると再び母親が家へやって来ました。
母親は別れた後にパチンコで家賃と同じくらいの金額を取り戻したとして、「絶縁なし」にすると伝えたそうです。
子ども時代や大学中退の場面とは別の、芸人になってからの母娘の出来事でした。
2018年にTHE W初決勝、2020年には準優勝
劇場で活動を続けた紅しょうがに、大きな賞レースで結果が見え始めたのは結成から数年後でした。
2018年に「女芸人No.1決定戦 THE W」で初めて決勝へ進出し、2020年には準優勝まで進みます。
さらに2021年、2022年も決勝へ進出し、THE Wでは何度も優勝へ近づきながら届かない年が続きました。
2022年までの時点で決勝は4回を数え、それでも2人は大阪を離れるタイミングを「優勝した後」に置いていました。
2022年ごろからコントも増え、芸風の幅が広がる
紅しょうがは漫才だけを続けていたわけではなく、2022年ごろから舞台でコントをする機会も増えていきました。
熊元さんによれば、2022年のTHE Wでは漫才とコントの両方を披露しており、翌2023年には普段の舞台で最も客席の反応が大きかったネタを大会へ持っていくことになります。
賞レース用に急に別の芸風を作ったのではなく、劇場で試して受けていたコントが2023年の勝負ネタになりました。
そして2022年のTHE Wでも優勝を逃したことで、2人はそれまで考えていた活動拠点の移し方そのものを変えます。
2023年の東京進出とTHE W優勝|熊元プロレスの現在
紅しょうがは長く「賞レースで優勝してから東京へ行く」と考えていました。
しかし、絶対に優勝するつもりで臨んだ2022年のTHE Wで敗れた翌日、2人の考えは変わりました。
2023年4月、紅しょうがが活動拠点を東京へ
2022年大会の翌日、新大阪から劇場へ向かうタクシーの中で、熊元さんと稲田さんは優勝を待たず東京へ行く気持ちが一致していました。
「東京に行ってから優勝しようと切り替えました」
WANI BOOKS NewsCrunch
そして吉本興業の公式経歴どおり、2023年4月に紅しょうがは活動拠点を東京へ移しました。
「優勝してから東京」ではなく「東京へ行って優勝する」へ順番を変えた年になりました。
5度目の決勝でTHE W 2023優勝、仕事量が変化
東京へ移って約8か月後の2023年12月9日、紅しょうがはTHE Wの決勝へ進みました。
2018年、2020年、2021年、2022年に続く5度目の決勝で、この年は舞台で手応えを得ていたコントを選びました。
Bブロックを突破した後、最終決戦ではスパイク、エルフと競い、審査員6票のうち4票を獲得しました。
紅しょうがはTHE W 2023で優勝し、結成10年目にして7代目女王となりました。
優勝後の年末には休みがないほど仕事が入り、それまで何度も決勝へ進みながら届かなかった賞レースが、仕事量を大きく変える結果になりました。
大阪で何年も舞台へ立ち、東京へ活動拠点を移した同じ年に、5度目の決勝で優勝をつかみました。
声優や主演ドラマへ広がったTHE W後の活動
THE W後も紅しょうがとして劇場やテレビ、ラジオなどで活動する一方、熊元さん個人の仕事にも変化が出ています。
ディズニー映画『ズートピア2』では、日本版でイノシシのホグボトム警部の声を担当しました。
2026年4月にはテレビ朝日のドラマ『大丸愛は選択する』で主演を務め、訳ありの男性たちと出会う刑事・大丸愛を演じています。
スーパーの売り場で研究した「売れる声」を現在の発声のベースだと話していた熊元さんが、舞台だけでなく声の仕事やドラマにも活動の範囲を広げるようになりました。
小学生のころ、男子に振り向いてもらうため「面白い方向へ行こう」と考えていた熊元プロレスさんは、一度大学へ進んだ後、自分でその進路を離れてNSCへ向かいました。
ゆりやんレトリィバァさんとの短いコンビ経験を経て、稲田美紀さんから届いた一通のDMをきっかけに紅しょうがを結成し、大阪の若手時代から何度もTHE Wへ挑みました。
2023年の優勝後も紅しょうがとして舞台へ立ちながら、現在は声優やドラマへも仕事を広げています。












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