人物プロフィール
モグライダーのともしげさんといえば、赤い衣装に身を包み、漫才の途中で言葉を間違えたり、相方の芝大輔さんが思わず予定外のツッコミを入れたりする姿がおなじみです。
ところが、その芸人人生をさかのぼると、現在の漫才からは想像しにくい学生時代や、相方がなかなか定まらなかった長い時期がありました。
埼玉県飯能市の大きな実家で育ち、聖望学園ではアメリカンフットボール部に所属し、大学を中退したあとにスクールJCAへ進んでいます。
JCAではすぐに現在の相方と出会ったわけではなく、複数のコンビを経験しながら相方を探し続け、その先で出会ったのが芝大輔さんでした。
ここからは、ともしげさんがどんな家庭や学校生活を経てお笑いを選び、モグライダーを結成してM-1の舞台へたどり着いたのか、時間を追って見ていきます。
ともしげの生い立ちと家族|飯能の「やしき」と呼ばれた実家
ともしげさんの本名は友繁良宣で、埼玉県飯能市で育ちました。
後年になって実家や父親の話がテレビで紹介されると、子どものころのあだ名にも、当時の家庭環境がそのまま表れていたことが明らかになっています。
埼玉県飯能市で育ち、小学校時代のあだ名は「やしき」
2026年6月放送の『水曜日のダウンタウン』では、ともしげさんの家族や地元の人々を取材する「クイズともしげ」が放送されました。
そこで明かされたのが、小学校時代に「やしき」と呼ばれていたことです。
本名の「良宣(よしき)」と、屋敷のように大きかった自宅を掛け合わせたあだ名で、同級生の記憶にも実家の大きさが残っていました。
小学生のころから、家の大きさをそのまま連想させる「やしき」という呼び名が付いていたことになります。
2024年の『相席食堂』では、ともしげさん自身が20歳まで暮らした飯能を歩き、学生時代を知る人物たちと再会していました。
父は元会社社長|養成所代や家賃も家族が支えていた
『水曜日のダウンタウン』では、芝さんから、ともしげさんの父親がもともと会社の社長だったことも明かされています。
ともしげさん自身も、若い芸人仲間との会話の中で、養成所へ通う費用や当時の生活を家族に支えてもらったことを話していました。
「養成所のお金も全部出してもらったし、家賃も出してもらった」
デイリースポーツ
のちにスクールJCAへ2年間通い、コンビを組んでは解散する時期を過ごしたともしげさんにとって、家族の援助は芸人を続ける生活の一部にもなっていました。
親は半導体に関わり特許も|2026年に本人が明かした実家の背景
実家についてさらに具体的な話が出たのは、2026年9月6日放送の『マルコポロリ!』でした。
実家が裕福だったという話題の中で、親がどのような仕事をしていたのかを聞かれたともしげさんは、こう答えています。
「半導体とかを作ってて、特許も持ってる」
ORICON NEWS
子どものころに「やしき」と呼ばれた大きな家、父親が会社経営に携わっていたこと、そして芸人を目指した時期の経済的な援助まで、家族について後年語られた話は一続きになっています。
聖望学園の学生時代|アメフト部で過ごした高校生活
飯能で育ったともしげさんは、地元の聖望学園高等学校へ進みました。
現在のおっとりした話し方とは少し違った一面が見えるのが、学生時代に取り組んでいたアメリカンフットボールです。
聖望学園でアメフト部へ|1999年の甲子園を防具姿で応援
高校時代はアメリカンフットボール部に所属し、2024年の『相席食堂』では当時の恩師とも再会しています。
在学中の1999年、聖望学園野球部が春のセンバツで甲子園へ初出場した際には、学校からバスで応援へ向かいました。
1学年上には、後にプロ野球で活躍する鳥谷敬さんがおり、当時はエース兼4番として野球部を引っ張っていました。
アメフト部員だったともしげさんには、ほかの生徒とは違う応援の格好が待っていました。
「炎天下で防具をつけて応援しました」
スポニチアネックス
高校時代のともしげさんは、アメフトの防具を着けたまま甲子園のスタンドで母校を応援していました。
『相席食堂』ではアメフト部時代の恩師から、試合前の部員たちがトラブルを避けようとした場面で、ともしげさんだけが相手側へ向かっていったという昔話も披露されています。
学生時代の友人・谷口が「いじられる」を笑いへ変えた
学生時代のお笑いとの接点で重要な人物になったのが、友人の谷口さんです。
ともしげさんは周囲からいじられることがありましたが、谷口さんは、それをただ嫌な出来事として受け取るのではなく、笑いの中では面白さになると教えてくれた人物でした。
自分がいじられる状況を「お笑いとしてはおいしい」と見る考え方を知ったことが、お笑いへ近づく一つの入口になりました。
2024年の『相席食堂』では、ともしげさんにお笑いを教えた「初代相方」との再会も実現しています。
このころはまだ、後にモグライダーとしてM-1決勝へ進むような未来が決まっていたわけではなく、友人との間で笑いを共有するところから始まっていました。
大学中退から芸人の道へ|スクールJCAを2年間
高校を卒業したともしげさんは大学へ進学しましたが、卒業までは在籍せず中退しています。
その後に選んだのが、芸人を育成するスクールJCAでした。
「同志社大学中退」を本人が否定|電子工学を学んだ大学時代
ともしげさんの大学については、かつてネット上で「同志社大学中退」という情報が広がったことがありました。
本人は2022年10月、自身のXでその情報を否定し、大学について自ら「玉川学園大学電子工学部中退」と表現して訂正しています。
同じ投稿では、大学だけでなく、その後にスクールJCAへ2年間通ったことも本人が説明しています。
20歳頃に谷口と養成所オーディションへ挑戦
お笑いへの最初の具体的な行動は、いきなり一人で養成所へ入ったことではありませんでした。
20歳頃、ともしげさんは学生時代から交流のあった谷口さんと組み、養成所のオーディションへ挑戦しています。
結果は不合格で、その後、谷口さんは別の進路へ進みましたが、ともしげさんはお笑いから離れませんでした。
最初の相方との挑戦が終わったあとも、ともしげさんは一人で芸人になる道を選びました。
2004年にスクールJCAへ|相方を探すため2年間通う
2004年、ともしげさんは人力舎が運営するスクールJCA13期へ入りました。
本人が後年語ったところでは、ピン芸人として活動する自信はなく、養成所へ通う目的には「一緒に組んでくれる相方を見つける」こともありました。
相方を探しながらJCAへ2年間通り、コンビを組んでは解散する時期を過ごしています。
芸人になることについて、家族は最初から賛成していたわけではありません。
「そもそも家族はお笑い芸人になることを大反対していました」
THE CHANGE
その一方で、養成所代や一時期の家賃は家族が支えており、進路への反対と生活面の援助が同時に存在していました。
JCA時代から続く三四郎・小宮との20年以上の縁
JCA13期には、後にマセキ芸能社で同じ事務所になる三四郎もいました。
小宮浩信さんとはJCA時代からの付き合いになり、2026年の『水曜日のダウンタウン』でも、ともしげさんを昔から知る芸人として登場しています。
ただし、この時点でともしげさんがマセキ芸能社へ入っていたわけではなく、所属先が決まるのはモグライダー結成後です。
コンビ解散を繰り返した末、芝大輔と出会う
JCAを出たあとも、ともしげさんは何人かの相方とコンビを組みましたが、長く続く相手にはなかなか巡り合えませんでした。
同じころ、芝さんも複数のコンビを経験し、25歳が近づく中で芸人を辞めることまで考えていました。
芝が中野のライブでともしげを見つける
2008年末ごろ、芝さんは「最後に自分で相方を探してみたい」と考え、これまで担当していたボケからツッコミへ回ることも視野に入れていました。
そこで探していたのが、ツッコミどころが多く、予測できない動きをするタイプの相手です。
中野で開かれていたお笑いライブを見に行った芝さんの目に、ともしげさんが入りました。
舞台上のともしげさんは客席を大きく沸かせていたわけではありませんでしたが、舞台袖では違う反応が起きていました。
「お客さんはウケていないけど、なんとなく袖が笑っている」
THE CHANGE
芝さんは、舞台で演じている姿よりも、その奥にある普段のともしげさんのほうが面白いのではないかと気になりました。
次に会ったときにはコンビ解散済み|打ち上げで初めて会話
芝さんが次に同じライブへ行くと、ともしげさんは舞台ではなく客席にいました。
前に組んでいたコンビは、その短い間にすでに解散していたのです。
ライブ後の飲み会で二人は初めてまともに話し、芝さんは食事中のともしげさんの動きや、それに反応する周囲の様子まで見ていました。
舞台のネタだけでなく、普通に食事をしているときまで周囲に何かが起きるところを、芝さんは相方候補として見ていました。
芝が別の相方と別れるのを待ち、2008年末に「2人でやろう」
ただ、芝さんはその場ですぐにともしげさんと組んだわけではありません。
知人から紹介された別の芸人と一度コンビを試したものの短期間で解散し、その間、ともしげさんは芝さんが再び一人になるのを待っていました。
やがて二人だけで会う機会を作り、2008年の暮れごろ、一緒にやっていく話がまとまります。
何度も相方が変わっていたともしげさんが、ここで芝大輔さんと組むことになり、2009年にモグライダーが始動しました。
最初のライブで約30組中2位|当時はともしげがツッコミだった
二人で初めて舞台に立ったのは、年が明けた2009年初めのなかのZEROホール視聴覚ホールでのライブでした。
初めて二人で合わせたネタにもかかわらず、約30組が出演する中で結果は2位でした。
「一発目のライブでウケるなんてことありませんでしたから」
THE CHANGE
それまでコンビを組み直してきたともしげさんにとって、最初から手応えが出たのは珍しい経験でした。
さらに現在と違うのが役割で、結成当初はともしげさんがツッコミ、芝さんがボケを担当し、さまぁ〜ずのようなコントを目指していました。
現在知られているモグライダーとは、ボケとツッコミの立ち位置が逆だった時代から始まっています。
フリーの若手時代|三四郎の紹介でマセキ芸能社へ
モグライダーを結成しても、すぐに芸能事務所へ所属できたわけではありませんでした。
約2年間はフリーでライブへ出演しながら、二人に合うネタの形を探していきます。
なかのZEROのライブで音響・照明も担当
若手時代には、ライブへの出演料を払う代わりに、会場で音響や照明のスタッフを担当することもありました。
ある日のライブでは、ともしげさんが暗い会場で音を出すためのボタンを見失い、予定していた効果音が流れなくなります。
客席がざわつく中、それでもボタンを見つけられず、最後は流すはずだった音を自分の声で歌うという出来事まで起きました。
舞台上だけではなく、裏方を担当している最中にも予定外のことが起きる時代でした。
約2年間フリーで活動し、2011年にマセキ芸能社へ
転機を運んだのは、JCA時代から縁のあった三四郎です。
先にマセキ芸能社へ入っていた三四郎から事務所を紹介され、モグライダーは2011年にマセキ芸能社へ所属しました。
JCAを出てから約2年間フリーで活動した末、同期との縁から現在まで続く所属事務所へ入っています。
人力舎の養成所出身でありながら、芸人として長く所属することになったのはマセキ芸能社でした。
台本通りにいかないともしげを生かすネタへ変化
事務所へ所属したころの二人は、テレビの短いネタ番組へ出るためのオーディションにも挑戦していました。
『爆笑レッドカーペット』のオーディションでは、ともしげさんがカレーの作り方をうまく説明できないことをネタにしましたが、その日に限って手順をほぼ正しく言えてしまいます。
間違えるはずの部分がなくなったため予定より早くネタが終わり、スタッフから注意される結果になりました。
芝さんは、細かく決めた台本へともしげさんを合わせる方法では、同じ面白さを毎回出すことが難しいと感じるようになります。
一方、ともしげさんも当初はネタ作りへ意見を出していましたが、やがて芝さんが構成を主に担当する形へ変わりました。
芝さんが流れを作り、その場で起こるともしげさんの言い間違いや予想外の反応を拾う形へ、少しずつモグライダーの漫才が変わっていきます。
2014年THE MANZAI認定漫才師で最初の浮上
ネタの作り方を試し続けたモグライダーは、2014年にTHE MANZAI認定漫才師50組へ選ばれました。
この時期には少しずつ仕事が増え、それまでライブ中心だった二人にとって一度目の浮上になります。
ただ、そのまま全国的なブレイクへ進んだわけではなく、仕事量は再び落ち着きました。
2014年に一度注目されても、テレビの仕事が継続的に増えるまでには、さらに数年を要しています。
2014年後も続いた下積み|周囲が次々と売れていった時代
THE MANZAIで名前が出るようになったあとも、モグライダーはライブを中心とした活動を続けました。
その間に、普段から交流していた芸人たちが次々とテレビで知られるようになっていきます。
一度仕事が増えたあと、再びライブ中心の生活へ
同じライブシーンで活動していた周囲では、カミナリ、メイプル超合金、トム・ブラウン、ぺこぱなどが順番に売れていきました。
モグライダーもM-1へ挑戦していましたが、何年も準々決勝付近で敗退する時期が続きます。
それでも二人はライブへ出続け、長めの持ち時間の中で、ともしげさんがどこへ転ぶか分からない漫才を続けていました。
カラオケ店でアルバイトをしながら芸人を続ける
テレビだけで生活できる状態ではなく、ともしげさんはカラオケ店でアルバイトをしながら芸人を続けていました。
モグライダーを結成して10年以上が過ぎても、ライブへ出演し、アルバイトへ向かう生活が残っていました。
その状況を大きく変える直前に起きたのが、2020年から続いた新型コロナウイルスの感染拡大です。
コロナ禍で仕事もバイトも止まり、芝と公園で話す
2020年から2021年にかけてライブや仕事が相次いでなくなり、ともしげさんはカラオケ店からも出勤しないよう言われました。
芝さんと会って話そうとしても、店へ長時間入る余裕はなく、二人は昼間の公園で会うことがありました。
「芝くんと公園で日中ちょっとだけ会って話す」
THE CHANGE
仕事もライブも減った時期に、二人は公園で今後について話しながら、次に作る漫才を考えていました。
同世代より上の年齢でM-1を制した錦鯉の存在もあり、年齢を重ねてから結果が出る道を現実のものとして見るようになります。
M-1 2021へ向けて漫才を作り直す
ライブで長く続けてきたモグライダーの漫才は、そのままM-1へ持っていけばよいものではありませんでした。
2021年、二人は大会で結果を出すため、ネタの長さから衣装まで改めて整えていきます。
衣装・ネタ時間・再現性までM-1仕様へ変更
それまでのライブでは、ともしげさんが裸足で舞台へ出たり、8分ほどかけてネタを展開したりすることもありました。
M-1へ向けてはジャケットを着用し、短い時間でも形になるようにネタを作り直していきます。
「3分で完結するネタとか、再現性の高いネタにしよう」
THE CHANGE
ヤーレンズらライブで交流する芸人たちとネタを見せ合う機会も作り、大会用の漫才を詰めていきました。
長いライブで起きる偶然を楽しむだけでなく、限られた時間の中でもモグライダーらしさが出る形へ作り直した時期です。
2021年に初のM-1決勝|トップバッターで637点
2021年12月、モグライダーは結成後初めてM-1グランプリ決勝へ進出しました。
決勝では最初にネタを披露するトップバッターを引き、得点は637点で最終順位は8位でした。
結成から12年以上を経て、モグライダーは初めてM-1決勝の舞台に立ちました。
優勝したのは錦鯉でしたが、モグライダーもトップバッターとして当時の大会史上最高得点を記録し、一夜で多くの視聴者に名前を知られることになります。
M-1 2021は優勝した大会ではありませんでしたが、仕事量が大きく変わるきっかけになりました。
テレビ出演が急増し、長いライブ生活から仕事が変化
M-1決勝の翌年となる2022年、モグライダーのテレビ出演は大幅に増えました。
THE CHANGEのインタビューでは、テレビ出演本数が前年の7本から198本へ増えたデータが紹介され、ともしげさんの生活からも長く続けていたアルバイトが離れていきます。
番組では芝さんが進行やコメントを担い、ともしげさんの予測しにくい返答へその場でツッコミを入れる場面も増え、長いライブの中で作ってきた二人の関係がテレビでも知られるようになりました。
養成所へ入り、何度も相方を探し直していたころから数えると、テレビの仕事が一気に増えるまでには長い時間が流れています。
2023年に再びM-1決勝へ|現在まで続くモグライダーの活動
2023年には再びM-1グランプリ決勝へ進み、632点で7位となりました。
2021年の一度だけで終わらず、2度目の決勝進出を果たしたあとも、二人はテレビとライブの両方で活動を続けています。
さらに2026年には、若手時代にオーディションでネタが予定通りにいかず敗退した『爆笑レッドカーペット』にも、長い年月を経てモグライダーとして初出演しました。
若手時代に一度は届かなかった番組へ、M-1後に仕事が広がったモグライダーとして戻る形になりました。
2026年現在も、ともしげさんはマセキ芸能社所属のモグライダーとして、芝さんとともにライブやテレビなどで活動しています。
飯能で「やしき」と呼ばれていた少年は、大学中退後にJCAへ入り、何度も相方を探しながら舞台に立ち続けました。
その途中で芝さんと出会い、二人に合う漫才を試し続けた末、2021年のM-1決勝で仕事の景色が大きく変わりました。
現在のモグライダーの漫才は、2009年の初舞台から長く積み重ねてきた二人のやり取りの延長にあります。












コメントを残す