人物プロフィール
霜降り明星の漫才では鋭いツッコミを入れ、ピンではフリップネタやYouTube、さらにロックミュージシャンとしても活動している粗品さん。
2018年には霜降り明星としてM-1グランプリを制し、翌2019年にはR-1ぐらんぷりでも優勝しました。
ところが、お笑いとの付き合いはプロになってから始まったものではなく、高校1年生ですでにアマチュアとしてR-1の予選へ出場しています。
高校では同級生と漫才コンビを組み、大学へ進むころには吉本興業のオーディションを受けてピン芸人として活動し始めていました。
しかも、霜降り明星を組む前にはピンで賞を獲得していたにもかかわらず、まだプロの芸人ではなかったせいやさんを長く誘い続けています。
大阪の飲食店を営む家庭で育った少年が、どのようにお笑いへ入り、なぜ大学を辞め、なぜせいやさんとコンビを組むことにこだわったのでしょうか。
粗品の生い立ちと家族|実家の飲食店で育った少年時代
粗品さんは1993年1月7日、大阪府で生まれました。
後に全国区のお笑い芸人となりますが、子どものころの生活には、現在までたびたび本人の話に登場する実家の飲食店がありました。
祖父母の寿司店から実家の焼肉店へ続いた家業
粗品さんの家族の飲食店は、最初から焼肉店だったわけではありません。
2026年に出演した読売テレビ「吉田と粗品と」で本人が明かしたところによると、祖父母の代には大阪市の野田で寿司店を営んでいました。
その寿司店が火事でなくなり、その後、家業は焼肉店へと形を変えていきました。
父親については、ブラックマヨネーズの吉田敬さんに尋ねられた際、お調子者の一面があったと話しています。
「身体大きくて太ってました」
スポニチ Sponichi Annex
テレビで見せる粗品さんの家族話には焼肉店がよく登場しますが、その前には祖父母の寿司店から続く家業の歴史がありました。
中学1年ごろから焼肉店を手伝っていた
家の店は、子どもの粗品さんにとって単に「両親が働いている場所」ではありませんでした。
2026年2月の「霜降り明星のオールナイトニッポン」では、中学1年生のころから実家の焼肉店を手伝っていたことを本人が明かしています。
学校へ通う一方で家業を手伝う生活が、中学生のころにはすでに始まっていました。
粗品さんは一人っ子で、後年には自身について母親の「1人息子」と話しており、兄弟がいるという情報とは区別する必要があります。
2歳でピアノ、13歳でギターを始めた音楽好きの少年時代
焼肉店を手伝う一方で、家庭の外にもう一つ、現在まで続くものがありました。
ユニバーサルミュージックの公式プロフィールによると、粗品さんは2歳からピアノを始め、13歳からギターを弾き、高校時代にはDTMにも触れています。
現在の本格的な音楽活動は、芸人として売れてから突然始めたものではなく、幼いころから楽器に触れてきた時間の延長にあります。
このころはまだ、音楽とお笑いのどちらも後の職業になるとは決まっていませんでした。
17歳で父と死別し、母と家業が残った高校時代
高校時代には、家族に大きな出来事が起こります。
粗品さんは17歳のときに父親を亡くしました。
2026年には、父親が亡くなる前日の夜、病室で2人きりで過ごしていたことも話しています。
普段は両親とハグをするような関係ではなかったものの、その夜は父親の布団へ入り、後ろから抱きしめたそうです。
翌朝、父親は亡くなりました。
この経験もあり、現在は母親について「できるときにハグしておこう」という感覚があると本人は説明しています。
父を亡くした17歳は、粗品さんが高校生としてお笑いの大会へ出始めていた時期とも重なります。
同志社国際の中学・高校時代|高校生でお笑い大会へ
家業を手伝いながら通っていた学校は、京都府にある同志社国際中学校・高等学校でした。
ここから、テレビを見るだけではなく、自分自身が人前でお笑いをする時間が増えていきます。
中学受験を経て同志社国際中へ
粗品さんは中学受験を経験し、同志社国際中学校へ進学しました。
2024年に「クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?」へ出演した際にも、自ら中学受験をしたことを話しています。
そのまま同志社国際高校へ進み、高校生活の途中からお笑いの大会へ出場するようになりました。
高校1年でR-1に初挑戦、すでにフリップ芸を披露
粗品さんがR-1へ初めて出場したのは2009年、高校1年生のときでした。
まだ吉本興業には所属しておらず、アマチュアとしての参加でした。
しかも、このときに披露していたのは後の粗品さんを象徴するフリップネタです。
最初の2009年大会は1回戦敗退でしたが、その後も挑戦を続け、アマチュア時代に準決勝まで進む経験もしました。
「R-1はすべての大会の中で一番思い入れがある大会です」
マイナビニュース
後にプロとしてR-1を制する粗品さんにとって、この高校時代の挑戦は「芸人になってから挑んだ賞レース」ではありませんでした。
職業として芸人になる前から、R-1の舞台で自分のネタを試していました。
「スペード」でハイスクールマンザイ2009決勝へ
ピンだけでなく、漫才も高校時代から経験しています。
同級生と「スペード」というコンビを組み、2009年のハイスクールマンザイで決勝へ進出しました。
この結果によって「スペード」は、高校生のお笑い大会へ出ていた関西の学生たちの間で知られる存在になっていきます。
その名前を知っていた高校生の一人が、後の相方となるせいやさんでした。
2010年の大会でせいやと初めて出会う
粗品さんとせいやさんが初めて会ったのは、翌2010年のハイスクールマンザイでした。
後年の吉本興業のインタビューでは、当初「2009年に出会ったのでは」と聞かれた2人が、その場で記憶を確認しています。
粗品さんは2009年に決勝へ進んでいましたが、せいやさんが同大会へ出場したのは2010年だったため、2人が実際に顔を合わせたのも2010年でした。
せいやさんは前年から「スペード」の名前を知っており、粗品さんを意識して大会へ出場していました。
イオンモール高の原で行われた地区予選では、せいやさん側が賞を獲得し、せいやさんの記憶では客席側から粗品さんの声が聞こえてきたという、後の相方とは思えない始まり方もしています。
粗品さん自身はその場面を覚えていませんでしたが、高校時代の大会については短くこう答えています。
「青春でしたよ。」
よしもとニュースセンター
この時点では、2人がすぐにコンビを組んだわけではありません。
高校卒業後、それぞれ別の進路へ進みます。
同志社大学時代|吉本の一般オーディションからピン芸人へ
高校を卒業した粗品さんは、同志社大学へ進学しました。
一方で、高校時代から続けていたお笑いを止めることはなく、大学生活のかなり早い段階でプロの世界へ入っていきます。
大学進学後に吉本のオーディションを通過
進学先は同志社大学文学部国文学科でした。
大学1年生のとき、吉本興業のオーディションに合格し、ピン芸人としてプロの活動を開始します。
高校時代にR-1やハイスクールマンザイへ出ていたため、大学に入ってから初めてネタを作ったわけではありません。
学生生活と並行して、それまでアマチュアとして行っていたお笑いが仕事へ変わっていきました。
NSCには通常入学せず「一般33期扱い」で活動
粗品さんの芸歴で間違えやすいのが、養成所についてです。
吉本興業の公式プロフィールでは、出身・入社・入門欄に「2011年 一般 33期扱い」と記載されています。
そのため、一般的な意味で「NSC大阪33期へ入学し、授業を受けて卒業した」という経歴ではありません。
オーディションから吉本へ入り、同時期の芸人たちと活動するようになりました。
オールザッツ漫才に一度落ち、翌2012年に19歳で優勝
吉本へ入ったばかりのころ、粗品さんが強く意識していた番組の一つが、関西の若手芸人にとって大きな舞台だった「オールザッツ漫才」です。
芸歴1年目には「FootCutバトル」への出演を懸けたネタ見せで落選しました。
その年は自宅で番組を見ることになり、翌年は必ず出たいという気持ちを強くしたと後に話しています。
そして2012年、19歳だった粗品さんは高速フリップネタで「オールザッツ漫才2012」FootCutバトル優勝を果たします。
霜降り明星を結成する前に、粗品さんはピン芸人としてすでに大きな結果を残していました。
お笑いナタリーのインタビューでは、前年に落選した悔しさをこう振り返っています。
「これは絶対出なあかん」
お笑いナタリー
テレビ出演を家族も喜んだ一方、粗品さんの中では大学と芸人活動を両方続けることが難しくなっていきました。
大学よりお笑いを選び、同志社大学を中退
大学へ進学した時点で、お笑いを趣味のまま終えるつもりではなくなっていました。
仕事と試験の日程が重なる可能性もあり、粗品さんは大学側へ相談へ行きます。
2025年の「アメトーーク!」では、当時の気持ちをこう明かしました。
「大学行ってる時間もお笑いしたい」
スポニチ Sponichi Annex
追試などで仕事との両立ができる可能性を尋ねたものの、学部長から芸人として売れることに否定的な言葉を返されたといいます。
その日のうちに大学を辞める決断をしました。
高校1年でR-1に出場してから数年、アマチュアの大会、吉本のオーディション、ピンでの優勝を経て、お笑いを優先する選択がここで明確になります。
「佐々木」か「粗品」かを先輩に相談した若手時代
ピン芸人として使っていた「粗品」という名前も、この時期にはまだ現在ほど定着していませんでした。
芸名は「つまらないものですけど、よろしくお願いします」と粗品を渡すときのように、謙虚な気持ちでお笑いをしたいという意味から付けています。
ただし本人には、変わった名前だけに「粗品」で本当に売れる姿が想像しにくいという迷いもありました。
若手時代に食事へ連れて行ってくれていた先輩、ガクテンソクの奥田修二さんへ、本名の「佐々木」と「粗品」のどちらで活動すべきか相談しています。
奥田さんは「粗品」を勧め、その答えを聞いた粗品さんは以後も芸名を使い続けました。
奥田さんは実家の焼肉店にも足を運び、閉店後に粗品さんを食事へ誘うことがあった先輩でもあります。
せいやを約1年誘い続け、2013年に霜降り明星を結成
大学生活と並行してピン芸人として先に結果を出していた粗品さんですが、漫才を一人ですることはできません。
その相手として頭にあったのが、高校時代のハイスクールマンザイで出会ったせいやさんでした。
ピン活動の中で「せいやが一番面白い」と感じる
2人は高校卒業後、すぐ同じ道を歩いたわけではありません。
粗品さんは吉本へ入りピンで活動し、せいやさんは近畿大学へ進学して学校教師になることも考えていました。
粗品さんには、吉本で知り合った芸人の中から相方を探す選択肢もありました。
それでも選んだのは、高校時代の大会で知っていたせいやさんでした。
「他の誰よりも、せいやが一番面白かったから」
TBS「人生最高レストラン」
自分がすでにピンで結果を出していたことよりも、一緒に漫才をしたい相手としてせいやさんを選びました。
教師を目指していたせいやへ何度もコンビ結成を持ちかける
問題は、せいやさんがまだプロの芸人ではなかったことでした。
せいやさんは学校の先生になることを考えており、粗品さんから誘われてもすぐにはコンビを組みませんでした。
それでも粗品さんは連絡を続けます。
2025年にせいやさんが明かしたところでは、粗品さんがモノマネのオーディションに落ちた際にも、せいやさんが一緒ならという趣旨のメールが届いていました。
誘いは一度きりではなく、約1年間続きました。
周囲に止められても誘い続け、せいやが決断
当時の粗品さんは、オールザッツ漫才で優勝したピン芸人です。
一方、せいやさんはまだプロとしての芸歴がない大学生だったため、粗品さんの周囲にはコンビ結成を止める声もあったといいます。
せいやさん自身も、すでに結果を出している粗品さんと組むことにはためらいがありました。
それでも誘われ続けるうち、考え方が変わっていきます。
「こんなに必要としてくれる人おらんかも」
日刊スポーツ
ピンで先に結果を出していた粗品さんが約1年間誘い続けたことが、せいやさんを芸人の道へ動かしました。
2013年1月に霜降り明星を結成
こうして2人は2013年1月、霜降り明星を結成します。
高校時代に初めて顔を合わせてから、約3年がたっていました。
出会った時点では別々の高校生コンビで競い合い、卒業後は一人がピン芸人、一人が大学生として別々の時間を過ごした末の結成です。
しもふりチューブでは、本人たち自身が高校生だったころの大会と出会いを振り返っています。
若手・下積み時代|結果が出ず、解散を考えた時期
粗品さんが強く望んで組んだ霜降り明星でしたが、結成すればすぐに仕事が増えたわけではありません。
大阪の若手芸人としてネタを試しながら、結果が出ない時間が続きました。
大阪の劇場で漫才を続けるも仕事につながらない
結成初期の2人は、当時の大阪の若手劇場5upよしもとなどで活動していました。
後にせいやさんは、まだ劇場の上位に入る前について、さまざまなネタを試してもネタ見せで落とされることが続いたと話しています。
一度かなり客席が沸いた回でも審査員票が低かったことがあり、粗品さんもその出来事を覚えていました。
高校時代から大会へ出ていた2人でも、プロの劇場ではもう一度下から結果を積み重ねる必要がありました。
2015年、進路を考える時期に2人で解散を決めかける
結成3年目の2015年になると、結果が出ないことが現実的な進路の問題と重なります。
大学へ通いながら芸人をしていたせいやさんには、卒業後に就職するのかという選択がありました。
粗品さんにも、実家の焼肉店を継ぐという選択肢がありました。
その年に復活したM-1グランプリへ出場したものの、結果は3回戦敗退でした。
大会後、2人は大東市の居酒屋「酔虎伝」へ入り、飲みながら今後について話します。
そこで泣きながら、コンビを解散して芸人を辞めようというところまで話が進みました。
粗品さんが約1年かけて誘って作ったコンビは、結成3年目で一度終わりかけています。
最後の試みでボケとツッコミを入れ替える
そのまま解散する前に、2人は一つだけ試してみることにしました。
それまでボケだったせいやさんをツッコミへ、ツッコミだった粗品さんをボケへ入れ替えたのです。
役割を逆にした状態で約3か月活動しましたが、結果は思うように出ませんでした。
ただ、相手の役割を自分で経験したことで、それまで見えていなかった互いの仕事や持ち味を知る時間にはなりました。
最終的には再び、せいやさんがボケ、粗品さんがツッコミという形へ戻ります。
元の役割へ戻り、2016年M-1で初の準決勝へ
解散を考えた翌2016年、霜降り明星はM-1グランプリで準決勝まで勝ち上がりました。
決勝進出には届きませんでしたが、公式記録にも敗者復活戦出場コンビとして名前が残っています。
前年の3回戦敗退から一段進み、若手コンビとして賞レースで存在感を見せ始めました。
ここから数年間で、仕事の状況が大きく変わっていきます。
2017年から賞レースで流れが変わり、M-1王者へ
2016年までの霜降り明星は、M-1決勝へまだ届いていない大阪の若手コンビでした。
翌2017年から、賞レースで目に見える結果が続き始めます。
2017年ABCお笑いグランプリでコンビ初の大きな優勝
2017年、霜降り明星は第38回ABCお笑いグランプリで優勝しました。
高校時代の2人を取り上げた吉本興業のインタビューが公開されたのも、このABCお笑いグランプリ優勝後です。
その中で2人は高校生だったころの対抗心や初対面を笑いながら振り返っており、高校の大会で知り合った2人が、プロの賞レースを制するところまで来ていました。
2018年ytv漫才新人賞を経てM-1初決勝・初優勝
2018年2月には第7回ytv漫才新人賞で優勝します。
同じ年のM-1グランプリでは、ついに初の決勝進出を果たしました。
決勝のファーストラウンドでは、せいやさんの動きの大きいボケに粗品さんが短い言葉で次々ツッコミを入れる漫才を披露し、662点で1位通過します。
最終決戦ではジャルジャル、和牛と争い、審査員7人のうち4票を獲得しました。
2018年12月2日、霜降り明星はM-1グランプリ2018で初決勝にして優勝しました。
M-1公式によると、結成5年での優勝で、当時の史上最年少王者でもありました。
高校生のころ別々のコンビで競っていた2人が、同じ舞台で漫才日本一になります。
M-1優勝後に東京進出、仕事量が一気に変化
M-1優勝を、その日のトロフィーだけで「ブレイク」と判断する必要はありません。
実際に大きいのは、その後の仕事がどう変わったかです。
2019年のM-1公式決勝リポートには、前年王者として登場した霜降り明星が、その1年間に東京へ進出し、メディア露出を大きく増やしたことが記録されています。
「今日まで休み全然なかった」
M-1グランプリ公式サイト
同じ場で、給料についても前年から10倍以上になったと話していました。
M-1優勝後の2019年に東京へ進み、仕事量と収入が実際に大きく変わっています。
高校1年から挑み続けたR-1を2019年に制覇
M-1優勝から約3か月後の2019年3月、粗品さんは今度は一人でR-1ぐらんぷりの決勝へ立ちました。
初めてR-1へ出たのは2009年、高校1年生のときです。
その後、何度も出場し、2018年には決勝まで進みながら優勝には届きませんでした。
そして初挑戦から足掛け10年となった2019年に優勝します。
高校生のころに一人で始めたR-1で、M-1王者になった翌年に頂点へ立ちました。
M-1とR-1を続けて制したことで、コンビの漫才とピン芸の両方で大きな結果を残すことになります。
賞金で父の墓を購入し、母も喜んだ
父親と死別してから約9年がたった2019年、賞レースの賞金の使い道について尋ねられた粗品さんは、父親の話をしました。
「父ちゃんの墓を買いました」
スポニチ Sponichi Annex
母親も喜んでいたと本人は話しています。
幼少期の家族の章では17歳で父を亡くしたところまででしたが、この出来事はM-1とR-1で賞金を得た後に起きています。
家業を手伝っていた中学生、高校時代の父との別れを経て、芸人として結果を出した後に父親の墓を購入しました。
高校時代から続くお笑いと音楽|粗品の現在
M-1とR-1の後も、粗品さんの活動はテレビ出演だけにまとまりませんでした。
振り返ると、現在の仕事には高校時代以前から始まっているものが複数あります。
高校生から続くピン芸と霜降り明星の漫才
粗品さんは現在も霜降り明星として活動する一方、一人でネタをする機会を持ち続けています。
2022年には、ルミネtheよしもとで新作のフリップネタを1時間披露するライブ「電池の切れかけた蟹」を開催すると本人の公式Xで告知しました。
高校1年のR-1初挑戦で使っていたフリップという形式が、M-1とR-1の優勝を経た後もライブの軸として残っています。
霜降り明星を結成したことでピン芸をやめたのではなく、漫才と一人のネタを並行してきました。
2歳のピアノ、高校のDTMが本格的な音楽活動へ
もう一つ、長く続いているのが音楽です。
2歳で始めたピアノ、13歳からのギター、高校時代のDTMは、大人になってから本格的な制作活動へ移っていきました。
2020年にはボーカロイドを使った楽曲を発表し、2021年には自身の音楽レーベル「soshina」を設立しました。
2024年には1stアルバム「星彩と大義のアリア」、2025年には本名をタイトルにした2ndアルバム「佐々木直人」を発売しています。
バンドでは粗品さん自身がボーカルとギターを担当し、作詞・作曲やプロデュースも手掛けています。
2026年8月には新作「怪獣と鬼」も発表され、9月以降には「怪獣こやけ」「覚悟の鬼」と題したツアーが予定されています。
幼少期から触れてきた楽器が、30代になった現在はアルバム制作と全国ライブへ広がっています。
テレビ・ラジオ・YouTube・ライブへ広がった現在地
現在は、霜降り明星としての漫才やラジオに加え、YouTube、一人でのネタライブ、音楽ライブなど、複数の場所で活動しています。
その入口をたどると、高校生のR-1、ハイスクールマンザイの「スペード」、大学時代のピン芸人という時期まで戻ります。
そして粗品さんがすでにピンで結果を出していたころ、約1年誘い続けた相手がせいやさんでした。
高校時代に別々のコンビで出会った2人は、2013年に霜降り明星を組み、解散を考えた時期を経て2018年のM-1王者になりました。
実家の店を手伝いながらお笑いの大会へ出ていた学生時代から、大学を辞めてお笑いを選び、せいやさんと漫才を始めた時間が、現在の粗品さんまで途切れず続いています。












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