狩野英孝の生い立ちと家族|実家の神社を飛び出し芸人になったきっかけ、若い頃まで

人物プロフィール

本名
狩野英孝
生年月日
1982年2月22日
身長
175cm
血液型
A型
出身地
宮城県 栗原市
所属事務所
マセキ芸能社
芸人活動開始年
2000年

「ラーメン、つけ麺、僕イケメン!」のナルシストキャラで知られるようになり、現在はテレビだけでなくゲーム実況や音楽活動でも活躍する狩野英孝さん。

もう一つの顔が、宮城県で長く続いてきた実家の神社に立つ神職です。

ところが若いころの狩野さんは、その家業を継ぐ道に反発し、テレビの世界を目指して18歳で宮城から東京へ出ました。

俳優を目指して上京した青年が、日本映画学校の卒業間際に見た一度のお笑いライブをきっかけに、芸人へ進路を変えています。

しかも、芸人になってすぐ売れたわけではなく、東中野でアルバイトをしながら舞台に立ち、ネタが受けない時期を経て、あのナルシストキャラを作っていきました。

狩野英孝の生い立ちと家族|神社の長男として育った少年時代

狩野英孝さんは、宮城県栗原市で弟の狩野孝彦さんとともに育ちました。

実家は1500年以上続くと紹介されている神社で、父・勉さんは神職を務めていました。

弟とテレビやゲームで遊び、小学3年生ですでに「芸能人になる」

弟の孝彦さんによると、兄弟が子どもだったころの栗原で身近な娯楽といえば、テレビを見ることやゲームをすることでした。

兄弟だけで遊ぶことも多く、英孝さんは自分で遊びを考えることもあったそうです。

孝彦さんが特に覚えているのが、兄が考えた「カッパ」という遊びでした。

向かい合った二人が相手の腕を押さえ、先に顔をなめられた方が負けという独特な勝負で、時間があると兄弟で繰り返していたといいます。

その一方で、英孝さんが将来について口にしていた言葉は、神社とは別の方向を向いていました。

「兄は小学3年生の頃から『芸能人になる!』と断言していて」

マネーポストWEB

当時は東京の劇団の通信教育講座まで受けており、父も「経験になるから」と協力していたと孝彦さんは明かしています。

芸人になるよりずっと前の小学生時代から、まず「芸能人になりたい」という気持ちがあったことが分かります。

神職の父のもとで育ち、家には神社を継ぐ道があった

実家の神社で神職を務めていた父は、孝彦さんの記憶では厳格な人物でした。

英孝さんは長男だったため、家庭にはいずれ神社を継ぐという進路もありました。

ただ、本人が目を向けていたのはテレビや芸能の世界で、父と同じ道へそのまま進むつもりではありませんでした。

子どものころに父から神社でお祓いを受けていた少年が、後年は自分が同じ場所に立ってお祓いをすることになりますが、それはまだずっと先の話です。

築館高校時代|弓道とバンドに打ち込み、俳優を目指して東京へ

中学を経て進学したのが、地元宮城県の宮城県築館高等学校でした。

現在の築館高校も、狩野さんが卒業生であり、高校時代に弓道部へ所属していたことを公式サイトで紹介しています。

弓道部に所属する一方、バンドではギターを担当

狩野さんが通っていた当時の築館高校は男子校で、学校生活では弓道部に所属していました。

芸能活動を始めてからも当時の弓道部仲間との交流は続いており、本人の公式Xには「築館高校弓道部の忘年会」に触れた投稿も残っています。

学校の外ではバンドを組み、ギターも弾いていました。

後に50TAとして自作曲を歌う姿とはかなり先の時代ですが、音楽そのものは高校時代から身近にあったことになります。

高校3年生の夏には、テレビで見たヒッチハイク企画に影響され、自分も宮城から広島まで行こうと思い立ちました。

「高校3年の時に『俺もヒッチハイクの旅に行こう』」

テレビ朝日

母に「1カ月間行ってくる」と伝えて大通りで親指を立てると、最初に止まったトラックが偶然にも広島行きでした。

さらに運転手が荷物を下ろしたあと宮城へ戻る予定だったため、帰りも乗せてもらい、1カ月を想定していた旅は約3日で終わっています。

テレビで見たことを「自分もやってみよう」と決め、実際に宮城から出発してしまう高校生でした。

上京をめぐって両親と衝突し、1週間近く家出する

高校卒業が近づくと、子どものころから口にしていた「芸能人になる」という話が、具体的な進路になっていきました。

本人が希望したのは、神社を継ぐことではなく、俳優になるため東京へ出ることでした。

小学生の通信教育には協力していた父も、本当に高校卒業後の進路として上京する段階になると反対し、母も含めて両親から強く反対されたと弟の孝彦さんは証言しています。

父との対立が強くなった時期には、英孝さんが1週間近く家出したこともありました。

そのとき、駅まで兄を送ったのは弟の孝彦さんでした。

孝彦さん自身は、親に反対されても俳優になりたいと言い続ける兄を応援していたといいます。

18歳で日本映画学校へ進み、神社とは違う道を選ぶ

最終的には両親から許しを得て、18歳で上京し、日本映画学校へ進学しました。

現在の日本映画大学につながる学校で、当時はウッチャンナンチャンや出川哲朗さんが卒業生として知られ、映画監督の今村昌平さんが理事長を務めていました。

高校卒業前の狩野さんは「何かしら芸能の道に進みたい」という段階で、その学校の存在を知り、興味を持ったと後年の公式ブログに記しています。

この時点で目指していたのは、お笑い芸人ではなく俳優を含む芸能の世界でした。

日本映画学校時代|俳優志望からお笑いへ進路が変わる

東京へ出たことで、狩野さんの周囲には同じように芸能界を志す学生が集まりました。

ここで経験した授業と友人関係が、卒業を目前にした進路変更へつながっていきます。

福島での田植え実習と3か月の漫才実習を経験

入学して間もないころには、「米作りと映画作りは一緒」という考えから、福島県の農家へ10日間ホームステイし、田植えに取り組む授業がありました。

映画学校という名前から想像する授業とは違い、本人も後年のブログで驚きを込めて思い出しています。

さらにカリキュラムには、3か月間の漫才実習がありました。

学生自身がネタを作って披露するもので、狩野さんはそこで「お笑いって面白い」と感じたそうです。

ただし、漫才を経験したからといって、その場で芸人になることを決めたわけではありません。

本人も、漫才実習を終えた段階ではお笑いの世界へ行こうとは思っていなかったと書いています。

新百合ヶ丘で路上ライブを続け、母と弟も見に来る

日本映画学校時代も、高校から続いていた音楽は身近な存在でした。

学校のある新百合ヶ丘駅の近くで路上ライブを行っており、あるときは宮城から母と弟が見に来ています。

弟の孝彦さんの記憶では、その路上ライブには100人ほどの人が集まっていたそうです。

高校でバンドを組みギターを弾いていた兄を見てきた孝彦さんは、その光景を見て「本当に福山雅治みたいになるぞ」と思ったと話しています。

まだ、家族が想像していた未来にも「お笑い芸人」という言葉はありませんでした。

卒業間際に見たマセキのライブで「芸人ってカッコイイ」と決断

進路が大きく動いたのは、日本映画学校3年生の卒業間際でした。

映画学校15期の友人から、マセキ芸能社のお笑いライブを見に行こうと誘われます。

会場ではナイツ、いとうあさこさん、パッション屋良さんらが舞台に立っていました。

それまで漫才実習でお笑いの面白さを感じても芸人になるとは思っていなかった狩野さんの見方が、このライブで変わります。

「芸人って、、カッコイイ」

狩野英孝オフィシャルブログ「狩野とアルいてく」

本人は「その瞬間」に、お笑いの世界へ進むと決めたと振り返っています。

小学3年生から抱いていた芸能界への憧れは、俳優志望での上京を経て、卒業直前に「芸人になる」という具体的な進路へ変わりました。

狩野さんは後年、このライブへ誘ってくれた日本映画学校15期の仲間がいたから現在の自分があると、公式ブログに書いています。

卒業後も15期のつながりは続き、公式Xでは同窓会の様子も公開しています。

2003年にピン芸人デビュー|東中野で始まった下積み生活

日本映画学校を卒業すると、狩野さんはコンビではなく一人で芸人活動を始めました。

マセキ芸能社の公式プロフィールでは、デビュー年を2003年としています。

マセキのオーディションを受け、ピン芸人としてスタート

芸人養成所へ入り、そこで相方を見つけたタイプではありません。

映画学校を卒業したあと、進路を決めるきっかけになったマセキ芸能社の若手ライブへ出るためのオーディションを受け、ピン芸人として舞台に立つようになりました。

ところが、芸人になったばかりのころからネタで高い評価を得ていたわけではありません。

若手時代から狩野さんを見ていたマセキ芸能社のマネージャー・嘉山拓磨さんは、後年のインタビューで当時をこう振り返っています。

「狩野英孝はネタは本当に面白くなかったです(笑)」

ORICON NEWS

嘉山さんは同時に、若手の時点でネタが完成していなくても、トークやキャラクターに面白い部分があれば伸びることがあるという話の中で、狩野さんを例に挙げています。

後に広く知られるナルシストキャラも、この時点ではまだ完成していませんでした。

最初の仕事は舞台の黒子、ネタが受けない日々が続く

若手時代に暮らしていた街の一つが、東京の東中野です。

2026年に東中野を訪れた企画では、マセキ芸能社に入ってから最初の仕事が、マギー審司さんの舞台で黒子を務める仕事だったことを振り返っています。

自分のネタだけで生活できる状態には遠く、芸人の仕事があるのは、ときどきライブへ出演する程度でした。

先輩から急に翌日のライブを手伝ってほしいと頼まれるとアルバイトを休み、それが何度か続いて勤務先から来なくていいと言われ、また別のアルバイトを探したこともあったと本人は話しています。

「芸人の予定を優先するとアルバイトが続かない」という生活の中で、それでもライブへ出る日々を続けていました。

コンビニで夜10時から朝8時まで週5日働いて生活する

若手時代に長く続けた仕事の一つが、東中野にあったコンビニ「サンクス」でのアルバイトでした。

2009年、本人は公式ブログに当時の写真を載せ、勤務時間まで具体的に振り返っています。

「夜10時~朝8時まで、週5で働いてたよ」

狩野英孝オフィシャルブログ「狩野とアルいてく」

芸人の仕事が増え始めたあともしばらくは辞めておらず、『爆笑レッドカーペット』の収録が終わると急いでサンクスへ向かい、そのまま朝まで働いていました。

収入が安定しない時期には生活費が足りなくなり、本人によれば借金が約200万円まで膨らんだこともありました。

さらに電気、ガス、携帯電話、水道まで止まり、その時期にインフルエンザにもかかり、近所の友人に助けてもらっています。

テレビで「僕イケメン」と知られる直前まで、東中野では芸人の仕事と深夜のアルバイトを並行する生活が続いていました。

「僕イケメン」はどう生まれた?花輪くんから見つけたナルシスト芸

若手ライブへ出ながらネタを作る中で、狩野さんは後の代表的なキャラクターになるヒントを、自宅に持ってきていた漫画から見つけました。

それが、子どものころから好きだった『ちびまる子ちゃん』です。

ネタ作りに行き詰まり『ちびまる子ちゃん』を読み返す

狩野さんは『ちびまる子ちゃん』が好きで、宮城から上京するときには単行本を全巻持ってきたほどでした。

芸人になってからネタ作りの休憩中に読み返していると、長く愛されている作品なのに、一人ひとりの登場人物のキャラクターがはっきり分かれていることに気づきます。

その中で目に留まったのが、花輪くんでした。

ナルシストで少し鼻につくところがありながら、周囲から嫌われるだけの人物ではなく、作品の中で愛されているキャラクターでした。

「嫌われないナルシスト」を一人コントへ持ち込んでみようと考えたことが、狩野英孝さんの芸風を変えます。

花輪くんをヒントにナルシストの一人コントを作る

花輪くんをイメージして一本ネタを作り、実際にライブで披露すると、それまでとは違って客席から笑いが起きました。

ネタがなかなか受けなかった若手が、自分のキャラクターを前面に出す一人コントで初めて手応えをつかみます。

後にこの話を雑誌などで語ったところ、原作者のさくらももこさんにも伝わりました。

ある日、事務所には、さくらさんの直筆サイン色紙と手紙、さらに狩野さんにサインを書いてもらうための空の色紙が届いたそうです。

自分がキャラクター作りの参考にした漫画の作者から、今度はサインを求められるという出来事も起きました。

白いスーツと「僕イケメン」が形になり、舞台の反応が変わる

ナルシストキャラは、長めの髪に全身白のスーツ、胸元には赤いバラという姿へまとまっていきました。

自動車学校の教官やラーメン店の店主などに扮し、「君、仮免。僕、イケメン!」「ラーメン、つけ麺、僕イケメン!」と自分の格好よさを押し出す一人コントです。

マセキ芸能社の現在の公式プロフィールにも、この白いスーツと自称イケメンのナルシスト芸がデビュー期を説明する代表的なスタイルとして残されています。

俳優になりたくて上京した狩野さんが、芸人になって見つけた最初の大きな武器が「演じるナルシスト」でした。

『爆笑レッドカーペット』を境に仕事が増え、ブレイクへ

ナルシストキャラが形になっても、すぐにアルバイトが必要なくなったわけではありません。

テレビで名前と顔が広がり始めた大きな機会が、フジテレビ系の『爆笑レッドカーペット』でした。

2007年前後に初めて全国放送のゴールデンで大きな反応を得る

本人は25~26歳だった2007年前後、『爆笑レッドカーペット』の特番で初めて全国放送のゴールデン番組に出演し、ネタで大きな笑いが起きたと振り返っています。

ただ、放送翌日に仕事の依頼が一斉に押し寄せたわけではありませんでした。

番組出演を境に、少しずつ別のテレビ番組からも呼ばれるようになっていきました。

そのころもコンビニの勤務は続いており、本人のブログでは収録後にサンクスへ向かった時期があったことが分かります。

「狩野英孝」より「僕イケメンの人」と呼ばれるようになる

テレビに出始めたころ、街中では芸名よりもギャグの方が先に覚えられていました。

「あ、僕イケメンの人だ!」

文春オンライン

当時は小島よしおさん、髭男爵、藤崎マーケットなど、短い時間で印象を残すショートネタやリズムネタが注目されていた時期でもありました。

「ラーメン、つけ麺、僕イケメン」という短いフレーズとナルシストの姿が、狩野英孝さんを全国へ知らせる入口になります。

テレビで求められる役割が、ナルシスト芸から“いじられる狩野英孝”へ広がる

番組出演が増えると、別の難しさも出てきました。

出演先では「ラーメン、つけ麺」以外の新しいフレーズを求められ、「赤貝・ミル貝・ナイスガイ!」や「スタッフゥー」などレパートリーを増やしていきます。

『ロンドンハーツ』などでは、次長課長、有吉弘行さん、山崎弘也さん、千原ジュニアさん、チュートリアルら、テレビ経験の豊富な先輩芸人と一緒になる機会も増えました。

一方の狩野さんは、それまでライブで一人ネタをすることが中心で、本人によればフリートークの経験はほとんどない状態でした。

話を振られてもうまく返せず、先輩との差を感じて落ち込むこともあったといいます。

それでもテレビへ出続けるうちに、本人が用意したナルシストのセリフだけでなく、周囲から振られたときに起こる予想外の反応そのものが番組で使われるようになっていきました。

舞台用に作った「ナルシストの狩野英孝」から、本人自身の反応でも笑いが生まれるタレントへ仕事の幅が広がっていきます。

2009年に50TAが誕生し、高校時代から続けた音楽が別の活動軸になる

テレビでの活動が広がった2009年には、『ロンドンハーツ』のドッキリ企画から50TAが誕生しました。

番組企画として始まった名義でしたが、狩野さん自身が曲を作り、歌う活動はその後も続いていきます。

高校時代にはバンドでギターを弾き、日本映画学校時代には新百合ヶ丘で路上ライブをしていた音楽好きの青年が、今度は50TAとして観客の前に立つことになりました。

活動開始から15周年を迎えたプロジェクトでは、2025年3月に横浜アリーナでライブを開催し、テレビ朝日は約1万人の観客が集まったと伝えています。

高校時代から続いていたギターと歌は、芸人として売れたあとに「50TA」というもう一つの仕事になりました。

売れた後、再び実家の神社と向き合う

芸能界へ行くために離れた宮城の実家は、狩野さんがテレビで活動するようになってからも変わらず神社でした。

その神社との距離が大きく変わったのが、2011年以降です。

2011年の東日本大震災で実家の神社も被災する

2011年3月11日の東日本大震災では、宮城県にある実家の神社も被害を受けました。

狩野さんが2026年の『徹子の部屋』で語ったところでは、灯籠が倒れ、鳥居が傾き、屋根が落ちるなどの被害がありました。

その後、家族や地域の氏子、ファンらの協力によって神社は復興していきました。

高校卒業時には離れることを選んだ場所でしたが、30歳を前にした時期に、故郷の神社が大きな被害を受ける出来事が起きています。

父の急逝を機に、弟と神社を守る道へ進む

神社が震災から立ち直り始めたあと、さらに大きな出来事が起きました。

2012年、神職を務めていた父・勉さんが60歳で急逝します。

2026年の『徹子の部屋』では、父が脳梗塞で突然亡くなり、気持ちの準備もできていなかったことを語っています。

父を失ったあとには神社をどうするかという現実が残り、狩野さんは芸人を続けながら神職の道にも進みました。

弟の孝彦さんも神社に関わり、兄弟で家を守る形になっていきます。

神職資格の取得年については公的・公式系の資料でも表記が分かれていますが、父の死後に必要な学びを経て神職を務めるようになったことは複数の資料で確認できます。

高校卒業時には継ぐことに反発した家業へ、父の死をきっかけに自分から向き合う時期が訪れました。

子どものころ父にお祓いされた場所で、今度は自分がお祓いをする

神職になった後の本人公式Xには、父との時間と現在が一つにつながる投稿があります。

子どものころ、七五三の際に父からお祓いをしてもらった場所で、今では自分がお祓いをする側になったという内容です。

正月には自ら御朱印を書くこともあり、2026年の三が日を終えた際には、周囲のスタッフに支えられながら1200枚の御朱印を書いたことを公式Xで報告しています。

芸能界へ出るため一度は離れた神社で、現在は父がしていた仕事を自分がする場面が生まれています。

ピン芸人の経験がゲーム実況へ|狩野英孝の現在

芸人、50TA、神職と活動が増えたあと、狩野さんにはもう一つ大きな仕事が加わりました。

公式YouTubeチャンネル「EIKO!GO!!」で知られるゲーム実況です。

2019年にYouTubeを始め、2020年からゲーム実況が新たな柱になる

狩野さんは2019年にYouTubeを始めましたが、開設直後から現在のようにゲーム実況を中心にしていたわけではありません。

本人によると、当初は何をしても再生数が伸びず、自分の企画の引き出しを使い切ったように感じていました。

子どものころからゲームは好きで、大人になってからも一人でゲームショーへ行くほどでしたが、自分はゲームが上手ではないという理由から実況には消極的だったそうです。

それでも他の企画を出し切ったところで残っていたのがゲームで、2020年2月ごろからゲーム実況を始めました。

得意だから選んだのではなく、「自分は下手だから」と避けていたゲームが新しい活動の入口になりました。

一人で進めるゲーム実況に、ピンの街ブラロケ経験が生きる

実際に配信を始めたあと、狩野さんはゲーム実況にそれまでの仕事との共通点を感じました。

「ピンの街ブラロケに近い感覚があったんですよ」

ORICON NEWS

テレビの街ブラでは、次に何が起きるか分からない場所を一人で歩き、目の前の出来事へ反応しながら視聴者へ話しかけます。

本人は、ピン芸人としてテレビなら視聴者へ、ライブなら客席へ向け、長く一人でしゃべってきたことにも後から気づいたと話しています。

2003年から一人で舞台に立ってきた経験が、画面の向こうへ一人で話し続けるゲーム実況でも使われることになりました。

50TA、神職、宮城での番組まで、若い頃の経験が別々の仕事として残る

2026年現在、マセキ芸能社の公式プロフィールには、テレビのレギュラーに加えて「EIKO!GO!!」などの配信活動も掲載されています。

地元宮城ではサンドウィッチマンと出演する『かのサンド』や、仙台放送の『仙台市青葉区 かのおが便利軒』など、故郷と接点のある番組にも出演しています。

音楽では50TAとして横浜アリーナに立ち、年末年始には実家へ戻って神社の仕事をしています。

子どものころに遊んでいたゲームは実況の仕事になり、高校時代から弾いていたギターは音楽活動に残り、宮城を離れて始めた芸人人生の一方では神社にも戻りました。

狩野英孝さんの現在の活動は、テレビだけに一つの形でまとまるのではなく、若いころから続いてきた別々の経験がそれぞれ仕事になっています。

栗原の神社で育った少年は、18歳で東京へ出て、映画学校の仲間に誘われて見た一夜のライブから芸人になりました。

一人で始めた舞台でナルシストキャラを作り、テレビで仕事を広げながら、音楽やゲームにも活動の場所を増やしてきました。

現在は、かつて離れようとした実家の神社にも立ちながら、ピン芸人として活動を続けています。

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