横澤夏子の生い立ちと家族|糸魚川の高校時代からM-1甲子園、芸人になるまで

人物プロフィール

本名
横澤夏子
生年月日
1990年7月20日
身長
172cm
血液型
A型
出身地
新潟県 糸魚川市
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2010年
養成所・スクール
NSC東京校 15期

テレビでは、身近にいそうな女性を切り取った「あるある」ネタや、共感のあるトークで知られている横澤夏子さん。

現在はバラエティー番組のMCやレギュラー出演に加え、3人の娘を育てる母として子育てを語る機会も増えています。

しかし、その出発点をたどると、最初から芸人だけを目指していたわけではなく、学校の先生になることも考えていた高校生でした。

高校時代には同級生とコンビを組んでM-1甲子園へ出場し、卒業後は大学へ進まずNSC東京校へ進んでいます。

さらにNSCでは相方が見つからなかったから仕方なく一人になったのではなく、同期からコンビに誘われながら、自分でピン芸人という道を選んでいました。

横澤夏子の生い立ちと家族|錦糸町で生まれ、糸魚川で育つ

横澤夏子さんの公式プロフィールでは新潟県糸魚川市出身となっていますが、生まれた場所と育った場所は少し異なります。

2021年にテレビ東京系『出没!アド街ック天国』へ出演した際には、東京都墨田区の錦糸町にある病院で生まれたことを本人が明かしており、その後、新潟県へ戻って糸魚川で育ちました。

教師の父と教育カウンセラーの母、3人きょうだいの長女として育つ

横澤さんの父親は中学校教諭、母親は上級教育カウンセラーとして働いていました。

本人も夫も3人きょうだいで、自身は3人きょうだいの長女だったことを東京新聞の子育てメディア「東京すくすく」で語っています。

教育に関わる両親のもとで育ち、子どものころは両親に褒めてもらいたい気持ちも強かったようで、その思いは学校での行動にも表れていました。

小学校と中学校では生徒会長を経験し、人前へ出ることについて、後年のインタビューでは恥ずかしいという感覚よりも、むしろ楽しかったと振り返っています。

「高校はワンランク下がって副会長です」

日商 Assist Biz

高校で副会長になったことまで自分で笑いに変えて話していますが、小学生のころから人前へ立つ経験を積み重ねていたことは確かです。

海のそばの小学校で翡翠を拾い、家族と過ごした糸魚川時代

横澤さんが育った糸魚川は、日本海と山に囲まれ、翡翠の産地としても知られる土地です。

本人の記憶には、その土地ならではの子ども時代の場面が残っています。

通っていた小学校は海のすぐ近くにあり、海辺で糸魚川特産の翡翠を拾って遊んでいたそうです。

授業中に教頭先生から全校児童へ屋上へ上がるよう放送が入り、何事かと思って行ってみると、海を泳ぐイルカの群れが見えたこともありました。

テレビに映る現在の横澤さんとは離れた、海の近くの学校で過ごしていた時期です。

人前に出ることが好きで、生徒会活動にも積極的だった子ども時代

横澤さん自身は、子どものころの自分について「目立ちたがり屋」だったと何度も話しています。

教師だった父や教育カウンセラーの母が身近にいたため、当初は自分も学校の先生という仕事を進路の一つとして考えていました。

先生は毎日たくさんの生徒から見られ、名前を覚えられる存在だったため、当時の横澤さんにとっては身近な「人前に立つ仕事」でもありました。

まだこのころは、学校で人前へ出ることと、お笑い芸人になることが一本につながっていたわけではありません。

横澤夏子の学生時代|糸魚川高校で「人を笑わせる」面白さを知る

中学校を卒業した横澤さんは、地元の新潟県立糸魚川高等学校へ進みました。

母校の糸魚川高校も2025年に横澤さんが卒業生であることを公式に紹介しており、日本テレビ系『アナザースカイ』のロケでは、本人の希望で当時過ごした教室を再訪しています。

学校生活の中で先生のものまねを始める

高校でも生徒会活動を続け、副会長を務める一方、友人たちの前では先生の特徴をまねして笑わせるようになっていきました。

後に代表的なネタの一つとなる「音楽の先生」も、まったく知らない人物を想像して作ったものではありません。

横澤さんはもともと合唱曲が好きで、地元の友人たちとカラオケへ行った際にも合唱曲を歌っていました。

そこで学生時代を思い出しながら歌っていたことから、合唱を指導する音楽教師の細かな動きをネタへ発展させています。

テレビで知られる「先生ものまね」の種は、糸魚川で過ごした学生生活の中にありました。

高校時代の友人との笑いが「もっと笑わせたい」という気持ちに変わる

高校時代には、身近な人の特徴を拾って友人の前でまねする時間そのものが、次第に横澤さんにとって大きな楽しみになっていきました。

2025年の『アナザースカイ』でも糸魚川高校を訪ね、高校時代の友人との思い出や、人を笑わせることに夢中になっていった時期を振り返っています。

学校内だけで終わっていた笑いは、高校生活の後半になると、実際に観客の前へ出る行動へ変わりました。

同級生と「にんまり」を組み、2008年M-1甲子園の新潟予選へ

高校時代、横澤さんは同級生と「にんまり」というコンビを組みました。

コンビ名については、後年のJ-WAVEで吉岡里帆さんと対談した際に本人自身が説明しています。

「にんまりみんなが笑ってくれるといいなと思って付けたコンビ名でした」

J-WAVE NEWS

2人は2008年のM-1甲子園新潟予選にも出場しました。

高校生の段階で「芸人になれたらいい」と考えるだけでなく、実際にコンビを作って大会の舞台へ立っています。

ただし、卒業後も「にんまり」が続いたわけではありません。

横澤さんは同級生と一緒に吉本興業へ進むことも考えていましたが、相方は地元へ残ることを選び、ここで別々の進路を歩くことになりました。

横澤夏子が芸人になったきっかけ|教師志望からお笑いの道へ

M-1甲子園へ出場する一方で、進路を決める時期まで横澤さんの中には教師になるという選択肢も残っていました。

そこから芸人一本へ気持ちが傾くまでには、テレビと実際のお笑いライブで見た二つの経験がありました。

『ちりとてちん』とタカアンドトシを見て芸人という職業を意識

学生時代からNHKの連続テレビ小説が好きだった横澤さんは、ヒロインが落語家を目指す『ちりとてちん』を見て、芸人という仕事を意識するようになります。

さらに大きかったのが、タカアンドトシのライブでした。

大勢の観客の前で楽しそうにステージへ立つ2人を見て、それまで学校のクラスほどの人数を「大勢」と考えていた横澤さんは、何千、何万人という人へ自分を見せられる仕事があることに気付きました。

「人前に立ちたい」という子どものころからの感覚に、「お笑い芸人」という具体的な職業が重なった時期でした。

高校3年の三者面談前日に両親へ「芸人になりたい」と告白

高校卒業後の進路を決める時期になると、横澤さんは大学ではなく吉本興業の養成所へ進むことを選びます。

両親へ伝えたのは、学校で行われる高校3年生の三者面談の前日でした。

「打ち明けたのは、高校3年生の三者面談の前日です」

日商 Assist Biz

教師だった父親にも、かつて小説家を目指していた時期があり、夢を追おうとする娘に自身を重ねた部分があったといいます。

母親も本人が望む道を応援しました。

ただ、無条件ではなく、「3年たっても舞台に立てなければ諦める」という約束がありました。

両親との「3年」の約束を胸に18歳で東京へ

高校を卒業した横澤さんは大学へ進学せず、新潟を離れて東京へ向かいました。

進んだのはNSC東京校15期です。

吉本興業の公式プロフィールでも東京NSC15期生であることが確認されており、高校卒業直後の18歳でお笑いの世界へ入りました。

地元の同級生と組んでいたコンビはすでに終わっていたため、東京では新しい形で芸人としてのスタートを探すことになります。

NSC東京15期時代|同期から誘われてもピン芸人を選んだ理由

現在までピン芸人として活動している横澤さんですが、NSC入学時から「絶対に一人でやる」と決めていたわけではありません。

むしろNSCでは、コンビを組まないかと同期から声を掛けられる時期がありました。

高校を卒業したばかりの18歳でNSCへ入り、年上の同期に囲まれる

高校を卒業してすぐ上京した横澤さんに対し、NSCには大学を卒業してから入った人や、社会人経験を経て入学した年上の同期もいました。

地元を離れたばかりだった横澤さんは、同期たちから「なっちゃん」と呼ばれ、かわいがられていたと後年のインタビューで振り返っています。

同じNSC東京15期には、その後それぞれテレビや劇場で活動する芸人が多く、横澤さんもその環境でネタ見せの授業へ積極的に参加しました。

「国語の先生」のものまねが早くから評価される

横澤さんがNSCで特に力を入れていたのが、作ったネタを講師の前で披露するネタ見せでした。

後年にはネタ見せの授業について「皆勤賞」と話すほど参加し、その中で披露した「国語の先生」のものまねが早い段階で評価されました。

本人によれば、授業で2回目に披露したピンネタですでに手応えを得ています。

高校時代に友人を笑わせていた先生のものまねが、プロを目指す養成所でも通用する形になり始めました。

コンビの誘いを受けながら、一人で活動する道を自分で選ぶ

ネタ見せで結果を出し始めると、同期からコンビを組まないかと声を掛けられるようになります。

その時期を本人は後に「人生最大のモテ期」と表現しました。

それでも横澤さんが選んだのはコンビではありませんでした。

一人なら相方とネタ合わせの時間を調整する必要がなく、練習場所を借りる必要もなく、アルバイトの時間も確保しやすいと考えたからです。

「ピン芸人って効率的だなって思ってました」

VOCE

横澤夏子さんは、相方を作れなかった結果としてではなく、自分に合った活動方法としてピン芸人を選びました。

渋谷駅から劇場まで電話のふりをしながらネタを練習

一人で活動するメリットは、実際の練習方法にも表れていました。

NSC時代には、渋谷駅で降りて劇場へ向かう道を歩きながら、電話をしているふりをして一人でセリフを練習していたそうです。

カラオケ店などを借りて相方と待ち合わせる必要がないため、移動時間そのものを稽古に使えました。

2025年にはNSC東京15期の同期である鬼越トマホークのYouTubeにも出演し、18歳でNSCへ入ったころからブレイクまでの出来事を同期とともに振り返っています。

19歳でデビュー|単発仕事と多くのアルバイトを経験した若手時代

NSCでピンという形を固めた横澤さんは、19歳で芸人としてデビューしました。

両親とは「3年たっても舞台に立てなければ諦める」と約束していましたが、実際には早い段階から舞台だけでなくテレビやイベントにも出演しています。

テレビや舞台には出られても、次の仕事へつながらない日々

デビュー直後から仕事がまったくなかったわけではなく、レギュラー番組が決まった時期もありました。

ところが本人にとっては、出演してもその次の仕事へなかなか結び付かず、単発の仕事が続くことへのもどかしさがありました。

テレビへ一度出たことよりも、「もう一度呼ばれること」の難しさを感じる時期が続きます。

後に柳原可奈子さんと一緒にネタを披露する仕事が決まった際には、自身の公式Xで「高校生の私に自慢したい仕事がまたひとつ増えた」と投稿していました。

ベビーシッターや飲食店など20〜30種類以上の仕事を経験

芸人の仕事と並行して、横澤さんは数多くのアルバイトを経験しています。

本人が挙げているだけでも、バスの添乗員、ベビーシッター、うどん店、イタリアン、中華料理店など職種は幅広く、20〜30種類以上に及びます。

2024年には、はとバスの添乗員を選んだ理由について、いちご狩りへ行きたかったもののお金がなかったため、添乗員なら仕事として行けると思ったというエピソードもテレビで話しています。

大学へ進まなかったことを気にしていた時期もあり、その分、さまざまな仕事や習い事を経験して違う世界を知ろうとしていました。

「違う世界を知っておきたい。ネタのためじゃなく自分のため。」

MANTANWEB

アルバイトはネタ探しだけを目的に始めたものではありませんでしたが、多くの場所で人と接した経験は、後の細かな人物観察とも重なっていきました。

上京後に働いた錦糸町のうどん店では、当時を知る店長がテレビ番組の取材に応じています。

「真面目にコツコツと作業はしていました」

デイリースポーツ

店長から見た当時の横澤さんは、アルバイト中から店内を盛り上げ続ける芸人タイプではなく、黙々と仕事をする姿だったようです。

友人やアルバイト先での人間観察が「あるあるネタ」へ広がる

一方、横澤さんは日常の中で目にした人物の言葉や動きを細かく覚えていました。

飲食店で働いていたころには、店員が料理を置きやすいよう自然にテーブルを空ける女性など、客として訪れる人の振る舞いも見ていました。

友人との女子会、アルバイト先、習い事、婚活など、生活する場所が増えるほど観察する人物も増えていきます。

「音楽の先生」のように昔の経験から生まれたネタもあれば、その後に出会った女性たちの細かな口調や仕草から作られたネタもあり、「どこかにいそうな人」を一人で演じるスタイルが広がっていきました。

横澤夏子のブレイクまで|2012年に見つけた「一言ネタ」の見せ方

仕事には出ているものの次へつながりにくい時期を過ごした横澤さんにとって、2012年はネタの見せ方を変える出来事があった年でした。

その舞台となったのが、フジテレビ系『とんねるずのみなさんのおかげでした』の人気企画「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」です。

『細かすぎて伝わらないモノマネ』で短いネタの生かし方を発見

横澤さんには、人を観察して生まれた短いネタが数多くありました。

しかし、一言で終わるような細かなものまねを通常の数分間のコントとして成立させるのは簡単ではありません。

「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」では、その短さが逆に武器になりました。

「一言だけのネタが、タイトルをつけることによって生き返った感覚がありました」

日商 Assist Biz

長いコントへ引き延ばすのではなく、一瞬の人物描写に具体的なタイトルを付ける方法を見つけたことが大きな手応えになりました。

学校、アルバイト、友人関係などで見てきた人物が、短い一人ものまねとして次々に生かせるようになっていきます。

2015年「彩」優勝と『ものまねグランプリ』初出場優勝

2012年の出演後、横澤さんは劇場でもネタを磨き続けました。

大きな結果が重なったのが2015年です。

若手芸人が競う「彩~irodori~East Championship」では女性芸人として初優勝を果たし、同じ年には日本テレビ系『ものまねグランプリ ザ・トーナメント』へ初出場して優勝しました。

劇場だけでなく、全国放送の番組でも横澤さんの「身近にいる人」のものまねが知られる機会が増えていきました。

一つの賞レースだけで突然売れたのではなく、劇場とテレビの両方で結果が重なった時期でした。

R-1決勝進出を重ね、2016年ごろからテレビでの存在感が拡大

さらに2016年には、ピン芸人の大会『R-1ぐらんぷり』決勝へ進出しました。

R-1の公式記録でも2016年大会への出場が確認でき、吉本興業の公式プロフィールでは2016年と2017年の2年連続ファイナリストとされています。

2016年春には『バイキング』や『王様のブランチ』などテレビのレギュラーが増え、ネタ番組以外でも横澤さんを見る機会が広がりました。

2017年に再びR-1決勝進出が決まった際には、本人も公式Xで喜びを報告しています。

2012年に短いものまねの見せ方をつかみ、2015年に劇場とものまね番組で結果を残し、2016年以降にレギュラー番組が増えるという順番で知名度が広がっていきました。

若手時代の経験から現在へ|観察する芸風と子育ての仕事

テレビ出演が増えた後も、若手時代にしていたことが完全に過去になったわけではありません。

特にベビーシッターの仕事と、人の日常を細かく見るネタ作りは、その後の活動にも残っています。

ベビーシッター経験から資格取得、劇場の託児所へ

横澤さんは若手時代からベビーシッターとして働き、芸人の仕事が増え始めた2016年にも仕事の合間に続けていました。

20代前半のころには、すでに「劇場と託児所を一緒に作りたい」と周囲へ話していたといいます。

その後、『女芸人No.1決定戦 THE W』で優勝した場合には賞金を使って託児所付きの劇場を作りたいと公言しました。

大会は準優勝でしたが、その発言をきっかけに保育関係の企業から声が掛かり、2019年に大宮ラクーンよしもと劇場で簡易託児所が開設されました。

横澤さん自身もチャイルドマインダー資格を取得し、保育士を支えるサポートスタッフとして託児に参加しています。

売れる前にしていたベビーシッターの仕事が、芸人として劇場に立つようになった後には「観客が子どもを預けられる場所を作る」という活動へ変わりました。

3児の母となった現在も、人を観察して言葉にする活動が続く

横澤さんは2017年に結婚し、2020年に長女、2021年に次女、2023年に三女が誕生しました。

2026年現在は、テレビ朝日系『夫が寝たあとに』で藤本美貴さんとMCを務め、フジテレビ系『ぽかぽか』にも月曜レギュラーとして出演しています。

『夫が寝たあとに』では、自身も3児の母である立場から、育児中の出来事を細かな場面まで拾って言葉にしています。

これはネタの内容が昔と同じという意味ではありませんが、誰かの日常にある小さな言葉や仕草を見つけて話すという部分は、先生ものまねや若手時代の人物観察とも共通しています。

子育て中もネタを完全に離れたわけではなく、日常で気になった言葉や人物をメモしながら、再び単独ライブを行う時期を見据えています。

糸魚川との交流を続けながら、2035年の単独ライブを目標に

芸人になって東京で活動するようになった後も、横澤さんと故郷・糸魚川との関係は続いています。

現在は新潟県観光大使や糸魚川市観光大使なども務め、2024年には母校の糸魚川高校で後輩たちを前に講演を行い、2025年の『アナザースカイ』でも糸魚川へ戻りました。

その一方で、3人の子どもを育てながら仕事を続ける現在は、ネタ作りや稽古にまとまった時間を使うことが難しいとも話しています。

「2035年をピークに迎えて、絶対に単独ライブをすると決めました」

QJWeb

横澤さんはこの目標を「2035計画」と呼び、子育てが少し落ち着くと考えている時期まで、日々の経験をためていく時間として捉えています。

糸魚川で先生のものまねをしていた高校生は、18歳で上京し、NSCで自らピン芸人を選びました。

単発仕事と数多くのアルバイトを経験した後、短い人物ものまねの見せ方をつかみ、劇場やテレビで結果を重ねながら現在の活動へ進んでいます。

そして今も、学生時代から続いてきた人間観察と「人前に立ちたい」という感覚を持ちながら、次に自分のネタをまとめて見せる舞台を2035年に置いています。

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