人物プロフィール
日常の一場面を細かく切り取ったコントで知られるかが屋で、ネタ作りを担っているのが加賀翔さんです。
マセキ芸能社の公式プロフィールでは岡山県備前市出身、備前中学校卒業と紹介されており、芸人として活動する一方で写真撮影も大きな活動の一つになっています。
ただ、学生時代から一直線に芸人を目指していたわけではなく、高校を辞めたあともしばらくは、お笑いとは別の「創作的な仕事」を考えていました。
芸人になるよう誘ってくれた友人が途中でその道を離れ、NSCで出会った別の相方候補とも組めないまま上京した末に待っていたのが、東京のコンビニで働いていた賀屋壮也さんとの出会いでした。
幼少期の家庭環境から高校中退、NSC大阪校、賀屋さんとの初対面、なかなか笑いを取れなかった若手時代まで、現在のかが屋へ続く時間を順番にたどっていきます。
加賀翔の生い立ちと家族|岡山県備前市で育った幼少期
加賀翔さんは1993年5月16日生まれで、マセキ芸能社のプロフィールでは岡山県備前市出身とされています。
現在のコントでは細かな表情や人の動きを見せることがありますが、本人が語っている子ども時代には、その表現につながって見える具体的な出来事がいくつもあります。
幼少期に両親が離婚し、祖母の家で暮らした時期
加賀さんは幼いころに両親が離婚し、しばらく祖母の家で生活していました。
後年のインタビューでは、父親が酒に酔うと母親や自身へ暴力を振るうことがあり、人が争ったり傷つけ合ったりする場面が苦手になったことも明かしています。
両親の離婚後は母子家庭となり、周囲の人がどんな表情をしているのかを細かく見る癖が身についたと本人は振り返っています。
人の顔色やわずかな変化を見ることは、かなり早い時期から日常の一部になっていました。
人の表情を見る癖と、三面鏡で変顔をしていた子ども時代
周囲の表情を見る一方で、家では三面鏡に顔を突っ込み、いろいろな角度から自分の変顔を見るという遊びもしていました。
学校でも先生の話に「へえ」「ほお」と顔だけで反応していたところ、隣の席の女子から突然「顔うるさっ」と言われたことがあったそうです。
気にして表情を動かさないようにしてみても、それはそれで顔に力が入ってしまい、やはり目立ってしまったといいます。
現在のかが屋で見せる表情を後から意味づけする必要はありませんが、少なくとも子どものころから、人の顔を見ることと、自分の顔を動かすことの両方が身近にありました。
中学・高校時代にラジオやお笑いへ惹かれていった
中学生から高校生のころには、TBSラジオの深夜番組『JUNK』をかなり頻繁に聴くようになります。
住んでいた場所では電波が安定しないこともあり、部屋の中で受信しやすい場所を探しながら聴いていました。
「中学・高校時代は『JUNK』(TBSラジオ)をほぼ毎日聴いてました。」
CREA WEB
なかでもバナナマンは後の人生でも何度も名前が登場する存在で、『バナナマンのバナナムーンGOLD』へ送ったメールが読まれた夜には、うれしさのあまり朝日が昇るまで外を歩き回ったこともあったそうです。
このころからお笑いは好きでしたが、まだ自分自身が芸人になるとは考えていませんでした。
高校へ行かなくなり、アルバイト中心の生活へ
加賀さんの学歴について、現在のマセキ芸能社公式プロフィールに記載されているのは「備前中学校卒業」までです。
高校には進学しましたが、その学校で過ごすうちに強い違和感を覚え、やがて通えなくなっていきました。
クラスの笑いについていけず「あ、無理だ」と感じた高校時代
両親の離婚後に母子家庭で育った加賀さんは、母親へ負担をかけたくないという気持ちから、自宅から徒歩で通える県立高校を選んだと後年語っています。
ところが入学してみると自分には合わず、クラスメートたちが盛り上がっているものを自分だけ面白いと思えない場面もありました。
あるとき、クラス内で回ってきた悪ふざけの紙を周囲が笑う中で一人だけ笑えず、その場で学校との距離を強く感じたといいます。
「『あ、無理だ』と思いました。」
@DIME
本人はこの時期を後に「引きこもり」ではなく、正確には高校へ行けなくなった時期だったと説明しています。
高校2年生で始めた業務スーパーのアルバイト
学校生活とは別に、高校2年生のころから業務スーパーでアルバイトを始めました。
本人によると、毎日のように大量の酒類を運び、ブラジル産の鶏肉が入った20キロの段ボールも扱っていたため、当時は現在から想像できないほど体に筋肉がついていたそうです。
接客もしっかりこなし店長からかわいがられ、店長の車で岡山から大阪まで服を買いに出かけたり、近所の八百屋の人とも親しくなったりしていました。
学校から離れていた時期にも、アルバイト先では人と関わりながら働く生活を続けていました。
高校中退後は「創作的な仕事」をぼんやり考えていた
高校を辞めたあとも、すぐに「芸人になろう」と決めたわけではありません。
絵を描いたり何かを考えたりするような創作的な仕事には興味があったものの、具体的に何をするのかまでは定まっていませんでした。
本人の言葉では「すごいと思われたい」という気持ちはあったものの、その向かう先がまだ決まっていなかった時期です。
友人に誘われて芸人を目指し、NSC大阪校35期へ
高校中退後の加賀さんに、初めて「芸人」という具体的な進路を持ち込んだのは友人でした。
ここから先もすんなりコンビを組めたわけではなく、何度か相手がいなくなる出来事を経ながら一人でお笑いの道を進むことになります。
「面白くなりたい」から始まった芸人への進路
友人から「NSCに入ってお笑いをやろう」「コンビを組もう」と誘われたとき、加賀さんはもともとお笑いを見ることは好きでも、自分自身を面白い人間だとは考えていませんでした。
「面白くなりたいなと思って、芸人を目指し始めました。」
文春オンライン
「面白いから芸人になる」のではなく、「面白くなりたい」から芸人を目指し始めたというのが、加賀さんの出発点でした。
誘った友人が辞めても、1人で大阪へ
ところが、一緒にコンビを組む予定だった友人は、その後芸人を目指すことをやめてしまいます。
誘ってくれた相手がいなくなっても加賀さん自身は進路を変えず、お金を貯めてNSC大阪校35期へ一人で入りました。
漫才ではなくコントを選んだのはもともとコントが好きだったことに加え、当時の加賀さんには「漫才は関西弁」というイメージが強く、岡山出身の自分が関西弁で漫才をする姿を思い描けなかったためでした。
最初にコンビを組むはずだった友人が辞めたあとも、加賀さんは一人でNSCへ進みました。
ゆりやんら同期に圧倒され、母へ「帰りたい」と電話
NSC大阪校35期にはゆりやんレトリィバァさんや、からし蓮根らがいて、加賀さんは同期の実力を目の当たりにします。
自分には無理なのではないかという気持ちが強くなり、母親へ「帰りたい」と電話をしたこともありました。
すると母親から、お笑いの道へ進んだのなら「燃え尽きて灰になるまで」やってみるよう背中を押され、もう一度コントを続ける気持ちを立て直します。
幼いころから生活を支えてきた母親が、今度は芸人を続ける局面でも加賀さんを送り出す側になりました。
コントを続けるため大阪を離れ、東京へ向かった
NSCへ通っていたころ、若手が漫才を中心に活動することになるという噂が流れ、コントを続けたい加賀さんは東京へ行くことを考えるようになります。
その噂自体は事実ではなかったと後に分かったものの、当時の加賀さんは「大阪でコントができないなら東京へ行く」と決断しました。
NSC時代にはコンビニ、ポスティング、引っ越し、ライブ設営など複数のアルバイトをしながら生活し、その途中ではピンネタも行っていました。
そして東京行きを決めたころ、NSCの別の同期から「一緒に組みたい」と声をかけられます。
東京のコンビニで賀屋壮也と出会い、かが屋結成へ
加賀さんが現在の相方である賀屋壮也さんと出会うまでには、もう一度「組むはずだった相手がいなくなる」という出来事がありました。
その待ち時間に始めた東京のアルバイトが、結果として現在のかが屋につながっていきます。
もう一人の相方候補を1年間待った末の「芸人を辞める」連絡
NSCで声をかけてきた同期へ東京へ行くことを伝えると、その人物もお金を貯めて上京するので1年間待ってほしいと話しました。
加賀さんは先に上京し、相方候補を待ちながら東京のコンビニで働き始めます。
しかし約1年後、その人物からも「やっぱり芸人を辞める」と連絡が入りました。
最初に芸人へ誘ってくれた友人に続き、二度目の相方候補もいなくなった時点で、加賀さんがお笑いをやると決めてからすでに約2年が経っていました。
勤務時間の違う2人を店長が「バナナマン」でつないだ
同じコンビニには賀屋さんも働いていましたが、2人は勤務時間帯が違っていたため、普段のシフトではほとんど顔を合わせませんでした。
加賀さんが店長へバナナマンが好きだと話すと、店長は別の時間帯に働いていた賀屋さんもバナナマン好きだと教え、その後は互いの好きなコントについて言ったことを勤務のたびに伝えるようになります。
「店長を介してチャットをするような状況になったんです。」
QJWeb
まだ直接ほとんど話していない2人をつないでいたのは、共通して好きだったバナナマンと、勤務時間をまたいで話を運んでいた店長でした。
忘年会で初対面、「バナナマン、好きなんだって?」
やがて店長が、普段は顔を合わせない従業員も参加できるようにコンビニのバックヤードで長時間の忘年会を開きました。
上京したばかりでその場になじめなかった加賀さんが外へ出ていると、賀屋さんが近づき、耳元で「バナナマン、好きなんだって?」と声をかけます。
かなり近い距離から突然声をかけられたため、加賀さんから見た賀屋さんの第一印象は決して良いものではなかったそうです。
それでも話してみるとお笑いという共通点があり、当時の賀屋さんは放送作家にも興味を持っていたため、芸人を目指している加賀さんとの距離が少しずつ縮まっていきました。
2014年4月13日の初舞台で2万円以上かけて大スベり
当時の2人には相方がいませんでしたが、どちらも2人組を想定したネタを書いていたため、最初は互いの「相手役」として一度舞台へ出てみることになりました。
2014年4月13日、なかの芸能小劇場のフリーライブへ出たのが、正式結成前の2人にとって最初の舞台です。
小道具や衣装、カツラまで準備し、合計で2万円以上をかけて「絶対にウケる」と思って舞台へ出たものの、結果は思うように笑いを取れませんでした。
終演後、加賀さんは使った小道具を抱えたまま中野の街を歩き、自宅から劇場へ向かい、準備し、舞台に出てスベるまでの一日が頭の中で高速再生されたと語っています。
最初の舞台で成功したからではなく、失敗したまま終わるのが悔しくて「もう一回」と舞台へ出続けたことが、2人をコンビへ近づけました。
「このままでは終われない」と舞台を重ね、2015年マセキ所属へ
次の舞台も簡単にはうまくいきませんでしたが、再挑戦を繰り返しているうちに2人で活動することが当たり前になり、正式にかが屋として組むことになります。
マセキ芸能社へ入るためにはオーディションを通過して月1回のライブへ出続け、そこから所属を認めてもらう必要がありました。
初舞台を踏んだ2014年と事務所プロフィール上の結成年は同じではなく、正式結成・マセキ芸能社所属は2015年として整理されています。
NSC入学、賀屋さんとの初舞台、かが屋の正式結成は、それぞれ別の時期に起きた出来事です。
売れない若手時代|朝から夜まで一緒にネタを作った2人
マセキ芸能社へ所属できても、すぐにライブで笑いを取れるようになったわけではありませんでした。
加賀さん自身の振り返りでは、所属後も約1年、結成から数えると約2年にわたって、思うような反応が得られない時期が続いています。
コンビニ8時間、ファミレス2時間、ライブ後は大学で反省会
2人はネタ作りの時間を増やすため、出会ったコンビニの店長へ頼み、同じ7時から15時の勤務にしてもらいました。
「8時間一緒に働いて、そのあとファミレスで2時間ネタ作りしてライブ出て。」
テレビ朝日 logirl
ライブが終われば賀屋さんが通っていた大学へ移動し、23時ごろまで反省会をして帰宅し、眠って起きればまた同じコンビニで会うという日々でした。
中学校卒業が公式プロフィール上の最終学歴になっている加賀さんは、賀屋さんとネタ合わせをすることで大学のキャンパスへ入れること自体もうれしかったと話しています。
ネタだけを書き続けていたわけではなく、好きな音楽やアルバイト先の出来事を話しただけで一日が終わることもありました。
仕事、ネタ作り、ライブ、反省会まで、起きている時間の大部分を2人で過ごす生活でした。
「声が小さい・展開がない」と言われ続けた初期のコント
初期のかが屋は、周囲から「声が小さい」「展開がない」と繰り返し指摘されていました。
素材はよくても基本ができていないという評価を受け、マセキへ入ったあともしばらくライブで結果が出ませんでした。
リアルな会話を意識するほど加賀さんの声量は小さくなり、もともと人前で大きな声を出すことが得意ではなかったことも重なります。
弱点だった声の小ささから「しゃべらないコント」が生まれた
そこで加賀さんは、声を無理に大きくするのとは反対に、「だったら黙ってしまおう」という方向からネタを作りました。
本人が手応えを感じたネタとして挙げているのが、電車内のカップルを題材にし、賀屋さんが大きく動く一方で加賀さんがほとんどしゃべらないコントです。
それまで弱点だった声量を消すのではなく、役の違いとしてネタの中へ組み込んだことで客席の反応が変わりました。
「声が小さい」という弱点を無理に隠さず、コントの仕組みに変えた時期から手応えが生まれ始めます。
先輩芸人の反応をきっかけに、ライブで注目され始める
同じころ、事務所の先輩である寺田寛明さんも、かが屋のコントを早い時期から評価していました。
寺田さんの投稿などをきっかけに周囲の芸人からも見られる機会が増え、ライブへ呼ばれる場面が少しずつ増えていきました。
加賀さんが自分たちの手応えとして挙げる「電車」のネタと、寺田さんが早くから評価した「大富豪」は公開時期の語られ方が資料によって前後するため、どちらか一つだけを突然のブレイク地点とはせず、2017年前後に複数のネタを通じて反応が変化していった時期として見るのが自然です。
キングオブコント2019決勝へ|仕事が広がり始めた時期
ライブで周囲から名前を知られるようになると、2018年から2019年にかけてテレビや賞レースでもかが屋を目にする機会が増えていきました。
それまでアルバイトとライブを往復していた2人にとって、全国の視聴者へコントを見てもらう機会が急速に増えた時期です。
2018〜2019年にライブとテレビで名前が広がる
2018年には中京テレビ『前略、西東さん』で初めてテレビ収録を経験し、のちにはNHK『バナナマンの爆笑ドラゴン』の収録にも参加しました。
『爆笑ドラゴン』ではシソンヌがかが屋を選んだことで出演が決まり、学生時代からラジオを聴いていたバナナマン本人と仕事の現場で会うことになります。
2019年にはテレビ東京『ゴッドタン』の若手芸人企画でも名前が挙がり、ライブだけでなくテレビを通して知られる場面が増えました。
コンビニ店長を介して話題にしていたバナナマンと、今度は芸人として同じ収録現場に立つところまで進んでいました。
キングオブコント2019で初の決勝進出
2019年、かが屋はキングオブコントで初めて決勝へ進出しました。
TBSの大会公式記録では、かが屋は2019年大会の決勝で6位タイとなっています。
賞レースだけで突然活動が始まったわけではなく、初舞台から約5年、声の小ささに苦戦したライブ時代やネタ作りの日々を経たうえで到達した初の決勝でした。
キングオブコント2019の決勝進出は、かが屋を全国規模で知る人が増える大きな節目になりました。
2020年の休養と、2021年の復帰
仕事が広がっていた2020年、加賀さんは体調を崩し、同年8月から芸能活動を休養することになります。
所属先から公表された理由は体調不良による療養で、後年の本人インタビューでは、休養前に眠れない日が続いていたことなどが語られています。
眠れない状態が続き、芸能活動を休養
加賀さんによると、高校へ行けなくなったころと似たように眠れない状態が続き、2020年は新型コロナウイルスの影響でライブがほとんどできなくなったことも精神的な負担になっていました。
自分ではそこまで深刻な状態だと考えていなかったものの、医療機関を受診したことをきっかけに仕事を離れ、療養する時間を取ります。
休養期間は約8か月に及び、その間はかが屋として2人でネタを披露する活動も止まりました。
2019年にキングオブコント決勝へ進んだ翌年、加賀さんはいったん舞台から離れることになりました。
賀屋がピンで活動を続けた期間と、かが屋としての復帰
加賀さんが休んでいる間も、賀屋さんは「かが屋」の名前を残したまま一人で活動を続け、2021年にはR-1グランプリの決勝にも進出しました。
加賀さんは2021年3月5日、2人のレギュラー番組だったRCCラジオ『かが屋の鶴の間』へ生出演し、仕事への復帰を伝えます。
「戻ってまいりました。本当に元気になりまして」
ORICON NEWS
復帰直後には、久しぶりに賀屋さんと公園を歩きながら話す時間が、若手時代に大学のキャンパスで夜遅くまで一緒にいたころを思い出させたとも語っています。
加賀さんは約8か月の休養を経て、再び賀屋さんと2人でコントを作る生活へ戻りました。
復帰後もコントを続け、写真家としても活動が広がる
復帰後の加賀さんはかが屋として再びライブや賞レースへ出る一方、地元・岡山県備前市や、以前から続けていた写真撮影とも仕事を通して関わるようになりました。
ここでも、若いころの生活とは切り離せない出来事が現在の活動へ続いています。
2022年にびぜん特別観光大使へ、地元とのつながりも仕事に
2022年4月22日、備前市は市出身の加賀さんを「びぜん特別観光大使」に任命しました。
幼少期から学生時代を過ごした備前市は、芸人として活動するようになってからも加賀さんの仕事とつながる場所になっています。
公式プロフィールでも出身地は現在まで岡山県備前市と記載されており、地元との関係は芸人になる前だけの話ではなくなりました。
キングオブコント2022で2度目の決勝進出
同じ2022年、かが屋はキングオブコントで2度目となる決勝進出を果たします。
大会公式が発表した10組のファイナリストには、いぬ、クロコップ、コットン、最高の人間、ニッポンの社長、ネルソンズ、ビスケットブラザーズ、や団、ロングコートダディとともに、かが屋の名前が並びました。
2019年の初決勝から、その翌年の休養、2021年の復帰を経て、再び同じ大会の決勝舞台へ戻った形です。
休養をはさんでも、かが屋は2人でコントを作り続け、2022年に再びキングオブコント決勝へ進みました。
コンビをつないだ店長が、カメラとの出会いにも関わっていた
現在はマセキ芸能社の公式プロフィールにも「写真撮影」が特技として記載されていますが、カメラとの出会いも東京のコンビニで働いていた20歳ごろまでさかのぼります。
きっかけを作ったのは、賀屋さんとの間でバナナマンの話を運んでいた、あのコンビニ店長でした。
「バイト先のコンビニの店長にカメラを勧められて触ってみたら楽しくて、すぐにハマりました。」
CREA WEB
きちんと撮るなら良い機材をそろえたほうがいいという雑誌の記事を読み、当時の最新機種だったNikon D800、MacBook Pro、85ミリのレンズを合わせて約50万円で購入しました。
支払いは24回払いで、「ローンを払い終わるまでは飽きない」と決めて始めたカメラが、その後も長く手元に残ることになります。
賀屋さんとの縁をつないだ店長は、加賀さんとカメラが出会うきっかけも作っていました。
芸人と写真家、二つの活動を続ける現在
写真は単なる昔の趣味で終わらず、芸人仲間を撮影した企画や連載などへ広がり、加賀さん個人の仕事の一つになりました。
2026年9月現在もマセキ芸能社に所属し、かが屋としてテレビ、ラジオ、ライブなどで活動しながら、加賀さん個人では写真やラジオの仕事も続いています。
中学・高校時代に部屋の中でラジオの電波を探していた加賀さんが、現在はJ-WAVE『GURU GURU!』などで自らラジオのマイクの前に座るようになりました。
かが屋としてもRCCラジオ『かが屋の鶴の間』、TBSラジオ『かが屋の亀の間』など、2人で話す仕事が続いています。
高校中退後に進路が定まっていなかった時期から、コントと写真、ラジオという複数の活動を並行する現在までつながっています。
岡山県備前市で周囲の表情をよく見るようになった加賀翔さんは、高校を辞めたあと、友人から誘われたことをきっかけに一人でもNSCへ進みました。
東京のコンビニで賀屋壮也さんと出会い、最初の舞台で失敗しても再挑戦を繰り返すうちに、2人はかが屋として活動するようになりました。
休養と復帰を経た現在も、2人でコントを続けながら、加賀さん自身は写真やラジオにも活動の幅を広げています。












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