人物プロフィール
『世界の果てまでイッテQ!』などで、突然の無茶ぶりにも飛び込み、全身を使って笑いを生み出しているガンバレルーヤのよしこさん。
現在の姿からは意外ですが、子どものころは授業中に手を挙げることも、給食のおかわりへ行くこともできないほど人前に出るのが恥ずかしい少女でした。
そんなよしこさんが小学4年生で明石家さんまさんを知り、高校を卒業すると3年間の介護職を経験し、その後大阪のNSCへ向かいます。
そこで芸人としての人生を大きく変えたのが、養成所へ入る前から偶然同じマンションに住んでいた、現在の相方・まひるさんとの出会いでした。
愛知県豊田市で過ごした幼少期から、ギャルに憧れた10代、介護の仕事、NSC、ガンバレルーヤ結成、舞台にほとんど出られなかった若手時代まで、よしこさんが現在の場所へたどり着くまでを順番にたどります。
よしこの生い立ちと家族|豊田市で育った恥ずかしがり屋の少女
よしこさんは1990年10月24日、愛知県豊田市生まれです。
豊田市も市制70周年企画の中で、よしこさんを「豊田市生まれ」と紹介しており、本人も豊田市で生まれ育ったと語っています。
毎年楽しみにしていた地元の行事が豊田おいでんまつりでしたが、人前で踊るのは恥ずかしく、参加するよりも見に行く側だったそうです。
動物に囲まれ、4人きょうだいの末っ子として育つ
よしこさんは4人きょうだいの末っ子として育ち、実家は農家でした。
母親が大の動物好きで、家には犬や猫だけでなく、うさぎ、鳥、モグラ、カイコなどさまざまな生き物がいました。
本人によると犬と猫はそれぞれ5、6匹ほどいた時期もあり、友達が家へ遊びに来ると「よっちゃんち、ケモノくさいね」と言われるほどだったそうです。
特にお気に入りだったのは、水色のセキセイインコ「ひよちゃん」でしたが、家に来てわずか3日ほどで逃げてしまいました。
家の外では英会話や公民館のエアロビクス教室にも通い、近所の大人や幼なじみと一緒に体を動かしていました。
踊ること自体は好きだったものの、人に見られることへの恥ずかしさはかなり強く、友達の母親が迎えに来ても、自分で車のドアを開けることすらためらっていたといいます。
友達の母親が車から降り、外側からドアを開けてくれるまで待っていたほどでした。
小学4年生で明石家さんまを見て「こんな人になりたい」
学校でもその性格は変わらず、授業中に手を挙げられず、食べ盛りでも給食のおかわりへ行くことができませんでした。
当時の写真を見ると髪の毛を口に入れているものが多く、本人は後年、人から話しかけられたくないほど恥ずかしがり屋だったと説明しています。
その状態に変化が起きたのが小学4年生のころでした。
テレビで『踊る!さんま御殿!!』を見て、明石家さんまさんを知ります。
「こういう性格の人になりたい」
こども新聞
自分とは正反対に、誰とでも話しながら周囲を笑わせているさんまさんを見て、「性格を変えよう」と少しずつ人と話すようになりました。
2歳上の兄もお笑いが好きで、中学では応援団長を務めるような人物だったといい、よしこさん自身も兄から影響を受けたのかもしれないと話しています。
お笑い番組を見る時間は増え、学校の教室ではまだ目立てなくても、放課後に仲の良い友達と遊ぶときには、少しずつ面白いことを言うようになっていきました。
中学・高校時代|少しずつ殻を破り、ギャル文化にも憧れる
小学校を終えるころまで続いた強い恥ずかしさは、中学生になると少しずつ薄れていきました。
「さんまさんのようになるなら、いろいろな人と話さないといけない」と考え、自分から会話することを意識するようになります。
藤岡中学校へ進学し、友人の前では面白いことを言うように
出身中学校は、豊田市が公式に公表している豊田市立藤岡中学校です。
中学時代には、小学生のころとは違う一面も表に出始めました。
日本テレビ『嵐にしやがれ』で紹介されたエピソードでは、好きになった男子へ気持ちを伝えたくなり、相手がトイレに入ったタイミングにもかかわらず、外から告白しています。
結果は振られてしまいましたが、給食のおかわりにも行けなかった小学生時代を考えると、人に対する距離の取り方はかなり変わっていました。
高校ではギャルサーに憧れ、プリクラを撮っていた10代
高校生になると、よしこさんはギャル文化へ強く憧れるようになります。
本人は後年、ギャルサーへの憧れがあったと語り、日本テレビでは実際にギャルサーに入っていた時期も紹介されました。
茶色い髪につけまつ毛やカラコンを合わせたメイクを楽しみ、当時は現在よりかなり細身だったといいます。
このころのギャルへの憧れは、芸人になってから最初に目指した「ギャル漫才師」というスタイルにも、そのまま持ち込まれることになります。
高校卒業後は介護職へ|3年間働いても消えなかったお笑いへの思い
高校卒業が近づいても、よしこさんはすぐに芸人の世界へ飛び込んだわけではありませんでした。
一度社会へ出て、介護の仕事を始めます。
介護の仕事を3年間続ける
高校卒業後、よしこさんは介護の仕事を3年間続けました。
現在の吉本興業公式プロフィールにも介護福祉士免許が特技・資格の一つとして掲載されており、芸人になる前に介護の現場で働いていた経歴が確認できます。
一方で、小学生のころから抱いていたお笑いへの興味が消えたわけではありませんでした。
愛知では毎週土曜日に吉本新喜劇を見ており、明石家さんまさんだけでなく、関西のお笑いそのものへの憧れも強くなっていました。
東京ではなく大阪を選んだ理由についても、吉本新喜劇が好きで、関西弁にも憧れていたと本人が明かしています。
「どうしてもお笑いをやりたい」と大阪NSC35期へ
介護の仕事を始めてから3年がたったころ、よしこさんは進路を変えます。
「どうしてもお笑いをやりたくて」
週プレNEWS
21歳前後で仕事からお笑いへ進路を切り替え、大阪のNSCへ入ることを決めました。
入ったのはNSC大阪校35期で、同期にはゆりやんレトリィバァさん、熊元プロレスさん、からし蓮根、ラニーノーズなど、後にさまざまな場所で活動する芸人たちがいました。
ただ、養成所へ入ったからといって、長年の恥ずかしがり屋が急になくなったわけではありません。
周囲には人前で次々と話せる生徒もいる中、よしこさんはネタ以前に「前へ出る」こと自体に苦労していました。
NSC時代とまひるとの出会い|同じマンションのエレベーターから始まった
NSCへ入るため大阪へ移ったころ、まだ養成所の授業も始まっていない時期に、後の相方との出会いがありました。
鳥取県から大阪へ出てきたまひるさんも、偶然まったく同じマンションへ引っ越していたのです。
腹痛でうずくまるまひるへ、きんぴらごぼうを届ける
初めて顔を合わせた場所はマンションのエレベーターでした。
便秘で腹痛を起こし、エレベーター内でうずくまっていたまひるさんを見つけたよしこさんが「大丈夫ですか?」と声をかけます。
さらに約1時間後、腸内環境に良さそうだからと、皿いっぱいのきんぴらごぼうを作って、まひるさんの部屋まで届けました。
まひるさんは部屋番号を教えたあとで「知らない人に教えてしまった」と不安になり、よしこさんが扉をノックしても最初は居留守を使っていたそうです。
それでも2人は急速に親しくなり、食事を一緒にするようになりました。
面白いのは、この時点で互いにNSCへ入ろうとしていることを明かしていなかったことです。
養成所の入学式で再び顔を合わせ、ようやく同じ目的で大阪へ来ていたことが分かりました。
NSC入学式で再会するも、よしこはギャルトリオを結成
ここでそのまま2人がコンビを組んだわけではありません。
よしこさんはNSCで知り合ったギャルの女性2人と3人組を作り、まひるさんも別の相方とコンビを組みました。
まひるさんはすでによしこさんを「相方だったらいいのに」と思っていたものの、よしこさんが先にトリオを組んでいたため、自分からは誘えなかったといいます。
ところが、よしこさんのトリオではメンバーの1人がラッパーを目指すことになり、結成から約1か月で解散しました。
ほぼ同じ時期にまひるさんのコンビも解散し、2人とも相方がいない状態になります。
トリオ解散後、歩道橋でまひるから「コンビを組んでください」
NSCから帰る途中の歩道橋で、まひるさんがついに気持ちを伝えました。
「私とコンビを組んでください!」
VOCE
よしこさんには一つ心配がありました。
友人としてあまりにも仲が良かったため、仕事のパートナーになれば関係が悪くなるのではないかと考えたのです。
さらに、誘われてすぐOKすると「軽い女」だと思われるのが嫌だったという独特の理由もあり、その場では「ちょっと待って」と返しました。
しかし、答えを出すまでに長い時間はかかりませんでした。
翌日にはまひるさんへOKを伝え、2人で芸人として歩くことを決めます。
マンションのエレベーターで偶然会った2人が、別々の組を経験した末に相方になりました。
ガンバレルーヤ結成|ギャル漫才師を目指した初期からコントへ
吉本興業の現在の公式プロフィールでは、ガンバレルーヤの結成日は2012年6月12日となっています。
現在の2人を見慣れていると最初から同じスタイルだったように感じますが、結成当初はかなり違う方向を目指していました。
2012年に結成し「頑張れるように」からコンビ名が生まれる
コンビ名の「ガンバレルーヤ」は、最初は文字通り「頑張れるように」という意味から付けられました。
後から「ハレルヤ」の響きも良いと考え、その意味も加えたと2人はインタビューで明かしています。
現在では、2人自身が頑張る意味だけでなく、周囲を「頑張れ」と応援する意味も込めていると説明しています。
ツッコミが合わず、2人の持ち味を生かすコントへ方向転換
よしこさんが当初思い描いていたのはギャル漫才師でした。
高校時代からのギャルへの憧れを引きずりながら、まひるさんがボケ、よしこさんが勢いよくツッコむ漫才をしていました。
ところが実際に舞台で試すと、よしこさん自身が関西出身ではなく、強いツッコミを自然に出すことが難しかったといいます。
さらに、まひるさんがどこでボケているのか分からなくなり、ツッコミを入れるタイミングまで見失っていきました。
そこで漫才から、明確なツッコミ役を置かないコントへと方向を変えます。
2014年12月、よしもと漫才劇場のお披露目公演では、すでに2人によるコントを見ることができます。
同期・熊元プロレスを加えた「幻のトリオ」も試していた
初期のガンバレルーヤには、さらに別の形を試した時期もありました。
2026年に熊元プロレスさんが明かしたところでは、2人がツッコミ役を探していた時期に、同期だった熊元さんを加えて3人でネタを作ったことがあったそうです。
実際に3人でコントを作り、インディーズライブへ出演したこともありました。
長く続く正式なトリオにはなりませんでしたが、ガンバレルーヤが現在の2人の形へ固まるまで、試行錯誤していたことが分かるエピソードです。
若手・下積み時代|月収1500円とスナック勤務から舞台へ
コンビを組んでも、すぐに劇場でネタを披露できたわけではありません。
結成したばかりのころは舞台へ出る機会がほとんどなく、2人ともアルバイトをしながら芸人を続けていました。
よしこは週5でスナック、まひるは川の清掃で生活費を稼ぐ
日本テレビで紹介された当時の芸人としての収入は、月に約1500円でした。
よしこさんは週5日ほどスナックで働き、チーママを務めていました。
一方のまひるさんは、川を掃除する「どぶさらい」のアルバイトなどで生活費を得ていました。
大阪では6畳一間ほどの部屋で一緒に暮らしていた時期もあり、売れてからも続く2人の同居生活は、この若手時代から始まっています。
スナックでは、よしこさんに「絶対に売れない」と言う客もいました。
その客から数年後、テレビに出るようになったよしこさんへ「売れたな。頑張ってんな」と連絡が届き、そのとき初めて自分たちが売れたことを実感したと話しています。
アキナとたむらけんじに舞台へ呼ばれ、出演機会が増えていく
舞台にほとんど出られない状況を変えるきっかけを作ったのは、先輩芸人たちでした。
最初にアキナが2人を舞台へ誘い、そこからたむらけんじさんが主催するライブへ出演する機会が生まれます。
一度出演した2人を見たたむらさんは、毎週ライブへ出るよう声をかけました。
「たむけんさんはじつは私たちにとっていちばんの“恩人”」
女性自身
舞台へ継続して出るようになると、ネタを作る必要も増え、やがて大阪の深夜番組などにも呼ばれるようになりました。
アルバイト中心だった生活の中へ、少しずつ芸人としての仕事が入り始めました。
東京進出の転機|ダイアンの推薦から『内村てらす』へ
大阪で活動を始めて数年たつと、2人は東京へ行きたいと考えるようになります。
ただし、当時のガンバレルーヤは大阪の劇場へ常に出演しているような位置にはまだいませんでした。
大阪5年目、東京へ行きたくても劇場の常連ではなかった
よしこさんによると、東京進出を考えていたころは芸歴5年目ほどでした。
大阪ではコントをする芸人たちが東京へ移る流れもあり、ガンバレルーヤも以前から上京を希望していましたが、若手だった2人には簡単に決められる状況ではありませんでした。
そこへ思いがけないところから話がつながります。
ダイアンの推薦で内村光良と出会い、『内村てらす』レギュラーへ
2017年、日本テレビ系『内村てらす』でダイアンが「おすすめの若手」としてガンバレルーヤを紹介しました。
最初はVTR出演でしたが、その後スタジオへ呼ばれ、内村光良さんの前でネタを見せる機会が生まれます。
初対面の内村さんが大きく笑ってくれたことを、よしこさんは後になっても覚えていました。
「『内村てらす』でレギュラーが決まって、それで東京に行くことができた」
VOCE
『内村てらす』のレギュラー決定が、2人が大阪から東京へ拠点を移す直接のきっかけになりました。
2017年5月ごろに東京へ移り、ヨシモト∞ホールのランキングでは最下位のランクから改めて挑戦を始めています。
大阪で舞台に呼んでくれたアキナやたむらけんじさん、その舞台などで2人を見ていたダイアン、そして東京で出会った内村さんへと、人とのつながりが次の仕事へ続いていきました。
『イッテQ!』出演を境に全国で知られる存在へ
東京へ移ったあと、ガンバレルーヤの仕事は大きく増えていきます。
2017年の上京時には、2人自身がいつか出演したい番組の一つとして『世界の果てまでイッテQ!』の名前を挙げていました。
その後、実際に同番組へ出演するようになり、よしこさんとまひるさんが海外でさまざまな企画へ挑戦する姿が定着していきます。
2018年には前年同時期と比べて仕事が大幅に増え、テレビ出演本数も急増しました。
賞レースの優勝を境に突然知られたコンビではなく、大阪で先輩たちに舞台へ引き上げられ、ダイアンの推薦で東京の番組へつながったことが大きな転機でした。
ブレイク直後の2018年|下垂体腺腫の治療で一時休養
全国の番組で姿を見る機会が急増した2018年、よしこさんは一度仕事を離れることになりました。
11月、人間ドックを受けた際に腫瘍が見つかり、治療へ入ります。
人間ドックで良性腫瘍が見つかり、手術のため活動を休止
所属事務所の発表で明らかになった病名は下垂体腺腫でした。
事務所は、人間ドックで「ホルモン産生の良性の腫瘍」が見つかり、医師と相談した結果、腫瘍を取り除く手術を受けることになったと説明しています。
よしこさんは2018年11月16日から仕事を休み、治療に専念しました。
この時期には『女芸人No.1決定戦 THE W』の決勝進出が決まっていましたが、出場を辞退しています。
約1か月で仕事へ復帰し、再び2人で活動を始める
治療を終え、よしこさんが仕事へ戻ったのは2018年12月15日でした。
TBS系『ドリーム東西ネタ合戦2019』の収録に参加し、約1か月ぶりに仕事へ復帰しています。
「これから、より一層頑張ります」
ORICON NEWS
まひるさんも再び2人で力を合わせていくとコメントし、ガンバレルーヤとしての活動が再開しました。
幼少期の経験から現在へ|ダンス、テレビ、そしてMyM
復帰後もガンバレルーヤとしてテレビや舞台へ出演し、よしこさんは映画『Bの戦場』の主演やドラマ出演など、芸人以外の仕事にも活動を広げていきました。
現在の仕事をたどると、豊田市で過ごした子ども時代と重なるものもあります。
公民館のエアロビクスから『イッテQ!』の世界各地のダンスへ
小学生のころ、よしこさんは公民館でエアロビクスを習っていました。
当時は台を上り下りするような動きが中心だったそうですが、本人はそこでリズム感が身についたと感じています。
現在の『イッテQ!』では、世界各地の踊りやパフォーマンスへ挑戦する機会があります。
本人も小学生時代のエアロビクスと、現在のダンス企画には通じる部分があると感じています。
「恥ずかしくて豊田おいでんまつりでは踊れなかった」という少女時代から長い時間がたち、人前で体を動かすことが仕事の一部になりました。
大島美幸・まひるとのMyMでアーティスト活動も始まる
2024年には、森三中・大島美幸さん、まひるさんとの3人で音楽ユニットMyM(マイムー)を結成しました。
ユニット名はMiyuki、Yoshiko、Mahiruの頭文字から取られており、2024年5月22日に「ASOBOZE」でアーティストデビューしています。
よしこさんによると、大島さんからオーディション番組を教えてもらい、その影響を受けたことから、大島さんのYouTubeで一緒に歌うようになったことが始まりでした。
MyMでは歌うだけでなく、メンバー3人が作詞にも参加し、ライブではダンスを含むパフォーマンスを行っています。
2026年現在も、ガンバレルーヤとして『世界の果てまでイッテQ!』『冠ルーヤ』『花咲かタイムズ』などへ出演しながら、MyMではYoshiko名義で音楽活動を続けています。
給食のおかわりにも行けなかった豊田市の小学生は、明石家さんまさんを見たことから少しずつ人と話すようになりました。
高校卒業後の3年間の介護職を経て大阪へ向かい、同じマンションで偶然出会ったまひるさんとガンバレルーヤを結成します。
舞台にほとんど出られなかった時期から東京へ進み、現在はテレビだけでなく、芝居や歌、ダンスまで活動の幅を広げています。












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