人物プロフィール
演劇とコントの両方で活動する8人組「ダウ90000」で、舞台に立つ忽那文香さん。
2026年にはダウ90000として4度目のABCお笑いグランプリ決勝へ進み、全国10都市を巡る単独ライブ「40000」にも出演しています。
テレビドラマやCM、ラジオなど個人の仕事も広がっていますが、子どものころから芸人を目指していたわけではありません。
中学時代は毎朝のように陸上の練習へ通い、高校から芝居を始め、大学では卒業を機に演技をやめることまで考えていました。
そこから、なぜ現在のダウ90000へたどり着いたのでしょうか。
忽那文香の生い立ちと家族|ドラマに憧れ、陸上に打ち込んだ小中学生時代
忽那文香さんは1999年4月10日生まれ、兵庫県出身です。
現在の舞台で見せる姿からは意外ですが、子ども時代の生活で大きな割合を占めていたのは、お笑いよりもテレビドラマと陸上競技でした。
小学3年ごろ、テレビドラマを見て演技に憧れる
芝居への興味が芽生えたのは、小学3年生ごろでした。
当時からテレビドラマが好きで、曜日ごとにどんな作品が放送されるのかを書き出し、ほぼ毎日のようにドラマを見ていたといいます。
物語だけを追っていたわけではなく、画面の中で役を演じる俳優たちが楽しそうに見え、その姿に惹かれていきました。
「自分もあの中に入りたい」という感覚が生まれたのが、このころでした。
ただし、この時点ですぐ芸能活動を始めたわけではありません。
その後の中学校生活で夢中になったのは、テレビや芝居とはまったく違う陸上競技でした。
小学6年で転入|みらんと出会い、中学では一緒に陸上部へ
小学6年生のときに転入した学校で、後にシンガーソングライターになるみらんさんと出会います。
みらんさんも前年の小学5年生で同じ学校へ転入していましたが、小学校ではクラスが違い、当時からずっと一緒だったわけではありません。
距離が縮まったのは中学校へ進んでからでした。
2人はそろって陸上部へ入り、最初は同じ走り幅跳びに取り組みます。
中学校は1学年に9クラスあり、3年間一度も同じクラスにはなりませんでしたが、家が近かったこともあり、登下校はほぼ毎日一緒でした。
走り幅跳びでは忽那さんのほうが記録を伸ばし、みらんさんは途中から円盤投げへ移っています。
みらんさんは、砂場の横で忽那さんの跳躍記録を測っていた当時の様子まで覚えています。
走り幅跳び一筋だった中学時代|毎朝の朝練と幼なじみとの日々
忽那さんの中学生活は、本人が後に「陸上一筋」と表現するほど部活動中心でした。
自由参加だった朝練にも毎朝のように参加し、走り幅跳びの練習を続けています。
県大会出場まではあと1センチ届かなかった時期もあり、部ではキャプテンも務めました。
みらんさんから見た忽那さんは、部活動へ真面目に取り組む側の人物で、後に人前へ出る仕事をするとは想像していなかったといいます。
それでも部活以外では、中学2年の夏に2人だけで四国へ4泊ほど出かけるなど、学校の外でも一緒に過ごしていました。
四万十川では、みらんさんが高い場所から川へ飛び込む一方、忽那さんは怖くて飛び込めず、その姿を見ていたという思い出も残っています。
中学校を卒業するころまで、生活の中心にあったのは陸上でした。
高校進学前、親へ相談せず劇団ひまわりのオーディションを受ける
大きく方向が変わったのは、高校進学を考える時期です。
それまで部活ばかりしてきた自分を振り返り、「このまま部活だけでいいのか」と考えるようになりました。
そこで思い返したのが、小学生のころから好きだったテレビドラマと芝居でした。
忽那さんは自分で劇団ひまわりのオーディションを見つけると、先に両親へ相談することなく応募します。
中学まで続けてきた陸上から離れ、芝居へ進む最初の行動を自分で起こした瞬間でした。
突然の選択でしたが、両親は一度決めたら簡単には引かない娘の性格を知っており、やれるところまで挑戦することを認めています。
高校時代|知り合いのいない環境で始めた芝居
中学校までの環境をそのまま引き継ぐのではなく、高校では人間関係から生活まで大きく変えています。
ここから、子どものころに抱いていた演技への興味が、実際の活動へ変わっていきました。
知人がいない高校を選び、過去の連絡先も一度リセット
高校選びでも、忽那さんはそれまでの環境から離れる道を選びました。
進学したのは知っている人が一人もいない高校でした。
みらんさんとの後年の対談では、高校へ進む際にそれまでの連絡先を削除し、LINEも変更していたことを明かしています。
そのため、中学まで毎日のように一緒だったみらんさんとも連絡が途切れました。
みらんさんはその後、忽那さんが高校、大学、就職という進路を普通に進んでいるものだと思っていたそうです。
昔の知り合いがいない場所へ進み、そこで芝居を始めるという選択でした。
劇団ひまわりで初めて芝居を経験し「これだ」と感じる
高校時代は劇団ひまわりに所属し、本格的に芝居へ触れるようになります。
初めて実際に演じたとき、それまでテレビ越しに見ていた世界へ自分が入る感覚があり、芝居の面白さにはっきりと手応えを感じました。
中学時代には「芝居をやりたい」と周囲へ言う自信がなかったそうですが、高校で実際に演じ始めてからは活動が途切れていません。
高校卒業後の進路にも、演技を続けるという選択がそのまま反映されました。
日芸へ上京|蓮見翔の会話劇に惹かれ「はりねずみのパジャマ」へ
高校を卒業すると、忽那さんは兵庫を離れて東京へ向かいます。
進学先での一つの観劇が、その後長く一緒に活動する人たちとの接点になりました。
日本大学芸術学部へ進学し、上京して芝居を続ける場所を探す
進学したのは日本大学芸術学部映画学科です。
上京後も芝居を続けたいと考えていた忽那さんは、大学内で活動できる場所を探していました。
そこで観客として足を運んだのが、ダウ90000の前身にあたる演劇企画団体「はりねずみのパジャマ」の公演です。
この団体には、すでに蓮見翔さんや園田祥太さんらが関わっていました。
道上珠妃の舞台を見て、蓮見翔の会話劇に惹かれる
忽那さんが初めて見た「はりねずみのパジャマ」の舞台は、後にダウ90000で一緒になる道上珠妃さんにとっても初舞台でした。
そこで特に惹かれたのが、蓮見翔さんが書く会話劇です。
もともと脚本家の坂元裕二さんが好きだった忽那さんは、大学生だった当時から蓮見さんの脚本をかなり高く評価していました。
笑わせるためのネタだけではなく、人同士の会話そのものから場面が動いていく作品に、自分がやりたい芝居を重ねていったようです。
ダウ90000との最初の接点は「芸人になりたい」ではなく、「この人の会話劇に出たい」という思いでした。
知り合いゼロで加入を直談判|先輩ばかりの中で隅にいた日々
公演を見終えた忽那さんは、「はりねずみのパジャマ」に知り合いが一人もいない状態から、自分で加入したいと申し出ました。
ところが、いざ入ってみると周囲は年上の先輩ばかりでした。
失礼なことをしてはいけないと緊張し、最初は一人で隅にいることも多かったといいます。
そんな忽那さんへ気軽に話しかけたのが道上さんで、敬語を使い続ける後輩に対して、もっと普通に話していいと声をかけました。
現在では長く一緒に活動している蓮見さんとも、加入したころは1対1でほとんど話したことがないほど距離がありました。
後に蓮見さんは、当時から忽那さんと上原佑太さんを使ったコントを書くことが好きだったと振り返っています。
2018年には舞台へ出演|中島百依子を蓮見との“マック面談”につなぐ
2018年9月には、「はりねずみのパジャマ」第4回公演『夜は寿司を食べた。』へ忽那さんが出演していたことが公演記録にも残っています。
この大学時代には、もう一人の現在のメンバーをグループへつなぐ出来事もありました。
日芸で忽那さんと友人だった中島百依子さんが、忽那さんの出演する舞台を見て「自分も入りたい」と興味を持ったのです。
相談を受けた忽那さんはすぐ動き、中島さんと蓮見さんが話せる場を設定しました。
場所はマクドナルドで、中島さんは蓮見さんと食事をしながら話した後、グループへ加わります。
現在のダウ90000の人間関係ができていく途中には、忽那さんがメンバー同士をつないだこんな小さな場面もありました。
大学3年の迷いからダウ90000へ|就職より芝居を続ける道を選ぶ
大学へ入り、希望していた会話劇にも出演できるようになった一方で、忽那さんの中には卒業後も芝居を続けるという確信が最初からあったわけではありません。
むしろ大学3年生ごろには、演技そのものから離れる未来を考えていました。
卒業したら芝居を辞めるかもしれないと考えていた
忽那さんは大学3年生ごろになると、卒業したら自然に芝居をやめるのではないかと考えるようになりました。
自分は芝居に向いていないのかもしれないとも感じていたそうです。
高校時代に自分から劇団ひまわりへ飛び込み、上京してまで演技を続けてきましたが、その先を職業として続けられるかどうかは別の問題でした。
一方で、蓮見さんが書く作品への思いは残っていました。
ほかの場所で無理に芝居を続けるより、蓮見さんの脚本で演じられなくなるなら、そこでやめてもいいと考えるほどでした。
2020年、ダウ90000旗揚げへの誘いで気持ちが変わる
2020年、新型コロナウイルスの影響で「はりねずみのパジャマ」の活動も止まりました。
活動を再開するタイミングで、蓮見さんはそれまでの学生団体をそのまま続けるのではなく、本気で仕事として活動するグループへ作り直そうとします。
「これからマジで売れるので、就職するつもりの人は抜けてください。」
テレビ朝日 logirl「First Stage」
大学卒業後の進路を考えるメンバーがいる中で出された、かなり明確な意思表示でした。
その新しい活動へ誘われたとき、芝居を辞めることも考えていた忽那さんの気持ちは変わります。
「まだ蓮見さんの脚本でお芝居できるんだ!」
Steenz「気になる10代名鑑 忽那文香」
芝居を続けるか迷っていた時期に、現在のダウ90000へ参加することを決めました。
つまり、忽那さんの場合は「芸人になろう」と養成所へ入ったわけではなく、蓮見さんの脚本で芝居を続ける選択が、そのまま現在のお笑い活動へつながっています。
服に関わる仕事も考えたが、食べていける保証のないダウを選ぶ
もし普通に就職していたら、忽那さんは服に関わる仕事も考えていました。
服屋で働くことも進路の一つとして頭にあったといいます。
一方、立ち上がったばかりのダウ90000には、参加すれば生活できるという保証はありませんでした。
それでも、目の前に自分が面白いと思える選択肢があるのに、そこで諦めるのは早いと考えました。
就職という安定した進路より、もう一度、蓮見翔の脚本で芝居をする道を選んだのです。
NSCなどのお笑い養成所を経ていない忽那さんにとって、ここが芸人としての活動へ入っていく大きな分岐点になりました。
ダウ90000の若手時代|30人規模のライブから現在の8人へ
ダウ90000として活動を始めたからといって、すぐ大きな会場が埋まったわけではありません。
最初期には、知り合いへ声をかけながら小さな会場の客席を埋め、新作コントを大量に作る日々が続きます。
最初のコントライブ「あの子の自転車」|4か月続いた月15本の新ネタ
2020年9月にダウ90000として再スタートすると、翌年の演劇公演へ観客を集めるため、月例コントライブ「あの子の自転車」を始めました。
ダウ90000として最初に人前へ立ったのも、この「あの子の自転車」でした。
驚くのは、その時期に作っていたコントの本数です。
1か月に新作15本を作り、それを4か月連続で続けました。
現在では動画が広く見られるダウ90000ですが、当時YouTubeへ公開したコントは200再生ほどだったと蓮見さんは振り返っています。
ライブ会場も約30人規模で、メンバーそれぞれが知り合いを誘い、なんとか客席を埋める状況でした。
現在の8人が最初から注目されていたのではなく、小さな会場で毎月大量の新作を試すところから始まっています。
大人数コント『フロント』でダウ90000らしい形が見え始める
大量にコントを作る中で、後のダウ90000につながる一本が生まれます。
「あの子の自転車」第2回で披露された『フロント』です。
蓮見さんにとって、それまでより多くのメンバーを一つのコントへ入れた作品で、客席から返ってきた独特な笑いを見て、大人数で行う形に手応えを感じたといいます。
後に知られる『顔合わせ』『AED』『まちがいさがし』などの集団コントも、この時期の試行錯誤から続いていきました。
演劇の会話を好んで「はりねずみのパジャマ」へ入った忽那さんが、その延長線上にある大人数コントへ出演するようになった時期でもあります。
『旅館じゃないんだからさ』直前の脱退と区民館での話し合い
現在の8人体制が固まる直前には、グループそのものが揺れる出来事もありました。
演劇公演『旅館じゃないんだからさ』を控えた約3週間前、当時のメンバー2人が抜けることになります。
うち一人はすでに脚本の中にも登場する予定だったため、作品側にも影響する急な変化でした。
残ったメンバーは区民館へ集まり、これからどう活動するのかを全員で話し合います。
普段とは違う忽那さんの姿を、蓮見さんはよく覚えていました。
「あのときの忽那が今までで一番まじめにしゃべってた。」
テレビ朝日 logirl「First Stage」
その公演を現在の8人でやり切り、『旅館じゃないんだからさ』は現在のメンバーによる最初の演劇公演になりました。
M-1 2021準々決勝へ|演劇から始まった8人がお笑いでも注目される
ダウ90000は演劇だけでなく、お笑いの賞レースにも出場するようになります。
2021年のM-1グランプリには、蓮見翔さん、道上珠妃さん、忽那文香さん、中島百依子さん、吉原怜那さんの5人編成で出場しました。
一般的な漫才コンビとは違う5人組で挑み、準々決勝まで進出します。
ここで重要なのは、M-1公式プロフィール上の「結成年」と、ダウ90000という団体が生まれた年を混同しないことです。
ダウ90000そのものは2020年に旗揚げされ、M-1へはその活動の途中から挑戦しています。
翌2022年には8人でABCお笑いグランプリの決勝へ進み、演劇だけでなくお笑いのグループとしても名前が広がっていきました。
ABCお笑いグランプリ決勝へ|幼なじみ・みらんとの再会
ダウ90000が知られるようになっていく時期、忽那さんの人生では中学時代の友人との時間も再び動き始めます。
高校進学時に連絡が途絶えていたみらんさんと、およそ10年近い時間を経て再びつながりました。
映画『愛なのに』の主題歌で、忽那がみらんの歌声に気づく
再会の少し前、忽那さんは映画『愛なのに』を見ていました。
エンディングに流れてきた歌を聞いたとき、どこか聞き覚えのある声だと感じます。
調べてみると、歌っていたのは中学時代に毎日のように一緒に登下校していたみらんさんでした。
みらんさんは18歳ごろから音楽活動を始めていましたが、高校進学後に連絡手段を失っていた忽那さんは、そのことを知りませんでした。
偶然の再発見に驚きながらも、長いあいだ連絡を取っていなかったことから、忽那さん側からすぐ連絡することはできなかったといいます。
2022年ABC決勝を見たみらんが涙|SNSのDMから再会へ
先に動いたのは、みらんさんでした。
2022年、ダウ90000がABCお笑いグランプリ決勝へ進出した際、みらんさんは出場者の集合写真の中に見覚えのある顔を見つけます。
高校卒業後は普通に大学へ進み、就職しているものだと思っていた幼なじみが、テレビの賞レースで舞台に立っていたのです。
「忽那が舞台の真ん中で大きい声を出しただけで涙が出てきちゃった」
NiEW「みらん×忽那文香」
面白いかどうかを考えるより先に、中学時代を知る友人が大勢の前に立っていることへの驚きが込み上げました。
ABC決勝を見たみらんさんがSNSを探してDMを送り、途切れていた2人の連絡が再び始まりました。
忽那さんも、映画のエンディングで聞いた声がみらんさんだったことを伝えています。
再び連絡を取るようになった後、忽那さんはみらんさんのライブにも足を運びました。
みらんさんが東京へ引っ越した日には、大雨の中を忽那さんがびしょ濡れになって新居までやって来たこともあります。
まだ家具もほとんどなく、部屋にあったのはギターとスーツケースほどで、2人はスーツケースの上へ食べ物を置き、何もない壁を見ながら食事をしました。
中学時代に一緒に登校していた2人が、それぞれ舞台と音楽の仕事を始めた後で再び会うようになったのです。
ダウ90000を「心の拠り所」と感じ、自分の役割も意識するように
ダウ90000が始まったころ、忽那さん自身もこの活動がどこまで続くのかは見えていませんでした。
まず目の前にある公演や仕事を一つずつやる時期が続き、知られるようになるにつれて、より多くの人にグループを見てもらいたいという意識が生まれていきます。
蓮見さんの脚本は、出演者本人の性格や話し方を取り込む「当て書き」も特徴の一つです。
活動を重ねるうちに、自分が日常で発した言葉や振る舞いも作品へ影響することに気づき、忽那さん自身もグループの中での役割を意識するようになりました。
大学時代には1対1で話すことにも緊張していた蓮見さんとの距離も縮まり、メンバーについては後年「心の拠り所」と表現しています。
蓮見さんが掲げていた「全員がダウ90000の仕事だけで生活できる状態」という目標も、2022年末には達成したと本人が語るところまで仕事が増えました。
約30人規模のライブから始まった活動が、メンバー全員の仕事になった時期でした。
俳優・CM・漫才へ広がった現在|子どものころの夢のその先へ
ダウ90000で知られるようになった後、忽那さんの仕事はグループでの演劇やコントだけにとどまらなくなりました。
高校時代に始めた演技、ダウ90000で身につけてきた会話劇やコントの経験が、個人の仕事にも広がっています。
ドラマ出演で、小学生のころ憧れた仕事を経験
フジテレビの『ダウ90000 深夜1時の内風呂で』やHuluのショートドラマ『今日、ドイツ村は光らない』など、映像作品への出演も経験しました。
小学生のころ、曜日ごとのドラマを書き出して見ていた忽那さんにとって、自分がドラマへ出演することは、当時思い描いていた仕事の一つでした。
小学3年ごろに画面の向こう側へ抱いた憧れが、実際のドラマ出演までつながりました。
一方で、ダウ90000以外の場所でも自分に何ができるのか試してみたいという意識も持つようになり、俳優、ラジオ、バラエティーなど活動の幅を広げています。
CMや個人活動へ広がり、蓮見翔とは漫才コンビ「2000」も結成
CMでは、2024年から森永乳業のシリーズに園田祥太さん、上原佑太さんとともに出演し、浅田真央さんと共演しています。
2025年のCMでは3人が森永乳業の社員役となり、スケートリンクで撮影された「レッスン」篇や「アイスショー」篇にも登場しました。
さらに2024年12月15日には、大学時代から脚本に惹かれてきた蓮見翔さんと2人で「2000(ニセン)」を結成しています。
M-1グランプリ公式でも、蓮見さんと忽那さんによる2人組として登録されています。
学生時代には1対1で話すことにも緊張していた相手と、後には2人で漫才をする関係になりました。
演劇から始まり、大人数コントを経て、さらに2人で漫才へ挑むという順番は、最初から「漫才師」を目指していた経歴とは大きく異なります。
2026年、幼なじみ・みらんとの共演から新曲「ギターのはじめ」が生まれる
中学時代の幼なじみ・みらんさんとの関係も、2026年には仕事の場へ広がりました。
3月27日の東京公演と4月20日の京都公演で行われた、みらんさんのEP『くるみ』リリース記念イベント「くるみのなかみ」に、忽那さんがスペシャルゲストとして出演しています。
公演へ向けて2人で練習を重ねる中から、みらんさんの新曲「ギターのはじめ」が完成しました。
曲は京都公演でサプライズ披露され、その後ミュージックビデオも制作されています。
MVが撮影されたのは、2人が実際に練習していた駒沢公園でした。
中学時代に走り幅跳びの記録を測ってもらっていた幼なじみと、大人になって同じステージへ立つことになりました。
ダウ90000「40000」で全国10都市へ|演劇とコントを続ける現在
グループとしても、ダウ90000は2026年まで演劇とお笑いの両方を続けています。
2026年のABCお笑いグランプリでは4度目の決勝進出を果たしました。
同年7月3日からは、単独ライブ「40000」が大阪を皮切りにスタートしています。
大阪、東京、札幌、仙台に続き、8月28日から30日までは福岡・西鉄ホールで公演が組まれ、その後も広島、鹿児島、金沢、名古屋、横浜へ巡る全国10都市のツアーです。
所属先も2024年9月からオフィスカニバブルとなり、8人での活動と並行して、それぞれが個人の仕事を持つ形が続いています。
高校で初めて芝居をした忽那さんは、演劇、コント、ドラマ、CM、漫才と、活動する場所を少しずつ増やしてきました。
中学時代には砂場で走り幅跳びを繰り返していた少女が、高校進学を前に自分で劇団ひまわりのオーディションへ応募しました。
大学では蓮見翔さんの会話劇に惹かれ、卒業後に芝居をやめる可能性まで考えながら、最後はもう一度その脚本で演じるためダウ90000を選びました。
2026年現在も、8人の舞台に立ちながら、子どものころ憧れた映像の仕事や漫才、そして中学時代の友人との共演まで活動の範囲を広げています。












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