いかりや長介の生い立ちと家族|富士の工員・ベーシストからドリフのリーダーになるまで

人物プロフィール

本名
碇矢長一
生年月日
1931年11月1日
身長
175cm
血液型
A型
出身地
東京都
コンビ・グループ名
ザ・ドリフターズ
相方・メンバー
加藤茶、高木ブー、志村けん、仲本工事
結成年
1964年
所属事務所
イザワオフィス
芸人活動開始年
1962年

ザ・ドリフターズのリーダーとして「オイッス!」の掛け声で観客を沸かせ、晩年は『踊る大捜査線』の和久平八郎役でも親しまれたいかりや長介さん。

テレビではメンバーを仕切る強いリーダーの印象がありますが、その芸能生活は最初からコントで始まったわけではありません。

東京で生まれ、戦争をきっかけに静岡県富士へ移り、若い頃には製紙工場で働きながら音楽を続け、やがてプロのベーシストとして東京のステージに立つようになりました。

工員として働いていた青年が、音楽を仕事にし、その先でザ・ドリフターズのリーダーになったという経歴をたどると、いかりや長介さんがお笑いの世界へ入った道筋が見えてきます。

幼少期の家族との暮らしから、富士での工員生活、バンドマン時代、ドリフの再編、『8時だョ!全員集合』、そして俳優としての後半生まで、時間を追って見ていきます。

いかりや長介の生い立ちと家族|東京・本所から静岡県富士へ

いかりや長介さんは1931年11月1日、東京で生まれ、本名は碇矢長一です。

少年時代には家族との死別や戦争による疎開を経験し、東京から静岡へ生活の場所が大きく変わりました。

1931年に東京で誕生、父と祖母のいる家庭で育つ

生まれたのは現在の東京都墨田区にあたる地域で、父・一郎さんは築地の魚河岸で働いていました。

幼い頃に母を亡くした後は祖母に育てられ、家では祖母が好んでいた歌舞伎や講談、浪曲、ラジオドラマなどに触れていたと伝えられています。

ラジオから聞こえてくる物語を覚えるほどだったとされ、テレビが一般家庭へ普及するよりずっと前から、耳で聞く演芸や物語が身近にある暮らしでした。

一方の父も寄席や映画が好きで、後年テレビで見せるいかりやさんの姿とはまだ遠い少年期から、家庭の中にはさまざまな大衆芸能が入り込んでいました。

父に連れられて浅草の寄席へ通った少年時代

父は休みになると、いかりやさんを浅草の寄席へ連れて行くことがありました。

舞台の上では噺家や芸人が客の反応を受けながら芸を進め、笑いが起きたり、空気が変わったりする様子を子どもの頃から実際の客席で見ていたことになります。

後に父について紹介されたエピソードには、客を前にする芸について厳しい考えを持っていたことが分かる言葉も残されています。

「笑いをなめちゃいけねえ。お客さんあっての笑いなんだ」

TOKYO FM「yes!~明日への便り~」

この頃のいかりやさん自身が芸人を目指していたわけではありませんが、寄席へ足を運ぶ生活は、後の職業とは別に少年時代の具体的な一場面として残っています。

戦争で東京を離れ、静岡県富士へ疎開

戦況が厳しくなった1940年代、いかりやさんは東京を離れ、静岡県の富士へ疎開しました。

東京で生まれ、少年期から青年期にかけて富士で暮らしたため、出生地とその後長く生活した土地は分けて考える必要があります。

父・一郎さんもその後富士で暮らし、富士市の広報には1980年代、同市で生活する「いかりや長介さんのお父さん」として紹介されています。

東京の下町から富士へ移った少年は、その土地で学校生活を送り、やがて働きながら音楽へ近づいていきました。

富士で過ごした若い頃|工員生活から音楽の世界へ

いかりや長介さんの若い頃をたどるうえで外せないのが、芸能界へ入る前の製紙工場での生活です。

学校を終えてすぐに華やかな舞台へ進んだのではなく、富士の工業地帯で働く生活の中から音楽が少しずつ大きな存在になっていきました。

戦後の学校生活を経て製紙工場で働き始める

戦後、青年になったいかりやさんは富士市内の製紙関係の工場で働きました。

現在の製紙会社Kasugaも公式Xのプロフィールで、前身の会社でかつていかりや長介さんが働いていたことを紹介しており、富士で工員として過ごしていた時期があったことが確認できます。

当時の富士は製紙業が盛んな土地で、いかりやさんもそこで働く若者の一人として毎日の仕事を続けていました。

芸能界へ入る前には、会社へ通って働く時期があったことは、後のテレビでの姿だけを知ると意外に感じられる経歴です。

工場で働きながら仲間とバンドを始める

仕事をする一方で、いかりやさんは職場の仲間たちと音楽を楽しむようになりました。

後年開かれた追悼展では、当時のバンド仲間が、職場で知り合ったいかりやさんと音楽の話で意気投合し、一緒に楽器を練習するようになったことを振り返っています。

仲間たちとはハワイアンバンドを組み、仕事が終わってから練習し、地元で演奏するようになりました。

テレビのお笑い番組とはまだ無関係の時期ですが、人前のステージに立つ生活はここから始まっています。

ダンスホールで演奏し、音楽を仕事にする道が見え始める

バンドはやがて地元のダンスホールでも演奏するようになり、会社員の趣味だけでは終わらない活動へ変わっていきます。

当時の仲間の証言によると、演奏の合間にはメンバーが休んでいても、いかりやさんは客のいるフロアへ出ていくことがあったといいます。

やがて、富士で工場へ通いながら音楽を続ける生活から、さらに本格的な演奏の世界へ進もうとする時期を迎えました。

次に選んだのは、お笑いの養成所ではなく、プロのミュージシャンとして東京へ進む道でした。

上京してプロのベーシストへ|マウンテン・プレイボーイズからドリフ加入まで

いかりや長介さんが芸能界へ近づいた入口は、コントでも漫才でもなく音楽でした。

富士で演奏していた青年は東京へ戻り、やがてベースを弾くプロのバンドマンとして活動します。

音楽を続けるため東京へ戻り、プロの世界へ

東京へ出た後はバンドを渡り歩きながら、ステージでベースを弾く生活へ入っていきました。

当時のバンドマンには、劇場だけでなくジャズ喫茶や米軍キャンプなどさまざまな演奏場所があり、客の前で音楽を届けることそのものが仕事でした。

いかりやさんも演奏だけを続けるのではなく、客を楽しませるために曲と曲の間へ笑いを入れるようになり、音楽とコメディが次第に近づいていきます。

ここでも「芸人になる」と一度に進路を変えたのではなく、バンドのステージで客を楽しませるうち、笑いの比重が増えていったという流れでした。

ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズでベースを担当

プロのバンドマンとして活動する中で参加したのが、カントリー&ウェスタンの人気バンドジミー時田とマウンテン・プレイボーイズでした。

いかりやさんはここでベースを担当し、本格的なプロミュージシャンとしてステージに立っています。

後にコントで見せる険しい顔つきや低い声とは違い、この頃の中心は楽器であり、若い頃の写真でもベースを抱える姿が残っています。

ただ、音楽だけを前面に出すバンドより、演奏の合間に客を笑わせるステージへの関心が強まり、次の所属先がその方向を決定的にしました。

1962年、桜井輝夫とザ・ドリフターズへ参加

1962年、いかりやさんは桜井輝夫とザ・ドリフターズへ参加しました。

当時のザ・ドリフターズは現在広く知られているコントグループとは異なり、音楽を演奏するバンドとしての色が濃く残っていました。

一方で、ステージでは演奏だけでなく笑いも取り入れており、いかりやさんがそれまで経験してきた「音楽を演奏しながら客も笑わせる」という仕事と重なる場所でもありました。

1962年のドリフ加入が、ベーシストだったいかりや長介さんと後のお笑い人生をつなぐ大きな分岐点になります。

1964年ザ・ドリフターズを再編|バンドから笑いのグループへ

ドリフに加わってから間もなく、グループは大きなメンバー交代の時期を迎えました。

その中心に立ったのがいかりやさんで、1964年以降はリーダーとしてメンバーをまとめていきます。

いかりやがリーダーとなり、高木ブー・仲本工事・荒井注らが集まる

メンバーが抜けていく中、いかりやさんは新しいドリフを作るために人を集めました。

高木ブーさんは後年、当時ジャズ喫茶で別のバンドとして出演していたところを、いかりやさんと桜井輝夫さんから誘われたと振り返っています。

そこへ高木ブーさん、仲本工事さん、荒井注さんらが加わり、加藤茶さんとともに後の『全員集合』へつながるメンバー構成が形作られていきました。

いかりやさんは演奏する一人のメンバーから、グループ全体を動かすリーダーへ立場を変えました。

ハナ肇が「いかりや長介」と命名

この頃まで本名の「碇矢長一」を使っていたいかりやさんに、「長介」という芸名を付けたのはハナ肇さんでした。

高木ブーさんによると、ハナさんはドリフのメンバーに芸名を付け、碇矢長一には響きのよさから「長介」という名前を選んだといいます。

こうして「いかりや長介」という名前と、新しいザ・ドリフターズがほぼ同じ時期に世に出ていきました。

テレビより先に使われていた「全員集合」の掛け声

「全員集合」という言葉は、1969年にテレビ番組が始まってから生まれたものではありません。

「『全員集合』って言葉は、番組が最初じゃないんですよ。」

文春オンライン・高木ブーインタビュー

高木さんによると、ジャズ喫茶時代、誰かが演奏を間違えると、中央にいたいかりやさんが「全員集合」と叫び、両側からメンバーが集まってくるギャグを行っていました。

後に国民的番組のタイトルとなる言葉が、すでにバンド時代のステージギャグとして使われていたわけです。

1966年、ビートルズ日本公演の前座にバンドとして立つ

1966年、ザ・ドリフターズは日本武道館で行われたザ・ビートルズの日本公演で前座を務めました。

この時点のドリフは、テレビコント専門のグループではなく、楽器を持ってステージへ上がるコミックバンドでした。

高木ブーさんも後年、自分がギタリストとしてビートルズと同じステージに立ったことを振り返っており、加藤茶さんも2026年に当時の舞台裏を語っています。

世界的ロックバンドの公演で前座を務めた3年後、ドリフの仕事の中心は、生放送で大掛かりなコントを見せるテレビ番組へ移っていきます。

高校生だった志村けんが自宅を訪ね、付き人を志願

1960年代後半、ドリフへ憧れていた高校生の志村けんさんが、いかりやさんの自宅を直接訪ねました。

志村さん自身の後年の回想では、アポイントも取らずに自宅へ行き、「付き人をさせてください」と直談判したといいます。

その場ですぐ採用されたわけではなく、約1週間後にいかりやさんから呼び出され、付き人としてドリフの世界へ入ることになりました。

志村さんは長い年月を経た2019年、いかりやさんについて涙を流しながら次のように語っています。

「師匠として間違いなかった」

スポニチ Sponichi Annex

ただし、この時点では志村さんはまだ正式メンバーではなく、舞台裏から先輩たちの仕事を見る長い時間が続きました。

1969年『8時だョ!全員集合』開始|毎週コントを作るリーダーになる

1969年10月、TBSで『8時だョ!全員集合』が始まりました。

ここから、ベースを弾いてきたいかりや長介さんの仕事は、毎週土曜日に観客の前でコントを成立させるリーダーの仕事へ大きく変わります。

音楽中心だったドリフがテレビコントの中心へ

番組開始時のメンバーは、いかりや長介さん、加藤茶さん、高木ブーさん、仲本工事さん、荒井注さんの5人でした。

舞台セットを大きく使うコント、歌やゲスト出演、会場の子どもたちとの掛け合いなどが一つの生放送へ詰め込まれ、ドリフは音楽バンドとして知られた時代からテレビコントのグループへ移っていきます。

舞台上のいかりやさんは、4人を叱るリーダー役として前に立ち、ほかのメンバーが暴走すると顔をしかめたり声を張り上げたりする立場を担いました。

ベーシストから始まった芸能生活の中心が、ここで本格的に「笑い」へ移ります。

毎週の舞台とネタ作りを支えたいかりやの仕事

『全員集合』は完成したネタを何週間も使う番組ではなく、毎週新しい内容を作り、生放送で観客へ見せる番組でした。

仲本工事さんによると、メンバーは毎週木曜日にTBSへ集まり、午後からアイデアを出し合っていました。

「午後3時から始まって、長いときは翌日の朝まで会議してたこともあったな。」

文藝春秋・高木ブー、加藤茶、仲本工事座談会

木曜日にネタを固め、金曜日から稽古や準備を進め、土曜日には会場へ組み上がった大掛かりなセットを使って本番に臨みました。

放送作家の証言では、いかりやさんはセットや段取りまで細かく確認し、土曜の本番へ向けてコント全体を仕上げる中心にいました。

テレビに映る1時間の裏側では、毎週何日もかけて次の土曜日の笑いを作る生活が16年間続いていました。

荒井注の脱退後、1974年に志村けんが正式メンバーへ

『全員集合』開始から5年ほど経った1974年、荒井注さんがドリフを離れることになりました。

高木ブーさんによると、いかりやさんから「これからどうしようか」と相談を受け、4人では舞台上のバランスが悪いという話もしたといいます。

そこで正式メンバーへ入ったのが、かつて高校生のままいかりや宅を訪ね、付き人になった志村けんさんでした。

志村さんは途中でマック・ボンボンというコンビでも活動した後、再びドリフのそばへ戻っており、付き人志願からすぐ5人の一員になったわけではありません。

自宅へ押しかけた高校生が数年を経て、いかりや長介さんと同じ舞台に立つ正式メンバーになりました。

加藤茶・高木ブー・仲本工事・志村けんとの中で担ったリーダー役

志村さん加入後の5人では、それぞれのキャラクターがよりはっきりし、いかりやさんは全体をまとめる役として立ち続けました。

加藤茶さんと志村けんさんが前へ出て笑いを取る一方、いかりやさんが怒鳴る、止める、振り回されることでコントが進む形も多くなります。

「オイッス!」と客席へ呼びかける姿や、あきれた末の「だめだこりゃ」といった言葉も広く知られるようになりました。

舞台の外でもリーダーである関係は続きましたが、年齢差の大きかった志村さんとの間には師匠と弟子のような距離も残っていました。

16年間・全803回へ続いた『全員集合』

TBSの記録によると、『8時だョ!全員集合』は1969年10月から1985年9月まで約16年間放送され、放送回数は全803回に達しました。

最高世帯視聴率は50.5%を記録し、毎週各地の市民会館や体育館などから公開形式で放送されました。

番組終盤、いかりやさんが地方巡業先で志村さんを飲みに誘い、ドリフをまとめることについて弱音をこぼしたことも、志村さん自身が後年明かしています。

1985年9月に『全員集合』が終了すると、いかりや長介さんの仕事は、長く続いたコント中心の時代から再び大きく変化しました。

『全員集合』終了後は俳優へ|和久平八郎で新しい世代にも知られる

『全員集合』終了後もドリフとしての活動は続きましたが、いかりやさん個人の仕事では俳優の比重が大きくなっていきます。

コントで見せた大げさな表情とは違い、抑えた声や表情で人物を演じる仕事が増えました。

コントのリーダーからドラマ・映画の俳優へ

1980年代後半以降、いかりやさんはテレビドラマや映画への出演を重ねるようになります。

若い頃から俳優一本で歩んできた人物ではなく、工員、バンドマン、コメディアンを経た50代以降に、俳優として新しい役を増やしていった形でした。

それまで「ドリフの長さん」として知っていた視聴者とは別に、ドラマの出演者としていかりや長介さんを知る世代も生まれていきます。

『取調室』などで俳優としての仕事が広がる

俳優期を代表する仕事の一つが、日本テレビ系のサスペンスドラマ『取調室』です。

取り調べを通じて事件の真相へ近づく刑事役では、ドリフの舞台で見せていた激しい動きより、相手との会話や間を使う芝居が中心になりました。

テレビコントのリーダーという強い印象を残したまま、別の作品では一人の俳優として役の中へ入る出演が増えていきました。

『踊る大捜査線』の和久平八郎役で織田裕二と共演

1997年に始まったフジテレビ系『踊る大捜査線』では、湾岸署のベテラン刑事和久平八郎を演じました。

主人公・青島俊作を演じる織田裕二さんのそばで、長い現場経験を持つ刑事として言葉をかける和久は、シリーズの重要人物になっていきます。

いかりやさんが亡くなってから22年が経った2026年にも、織田さんはシリーズを振り返る中でその存在について語っています。

「いかりやさん抜きの『踊る』は考えられないな」

映画.com・織田裕二インタビュー

共演者にとっても、和久平八郎といかりや長介さんが切り離せない存在になっていたことが分かる言葉です。

映画版で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞

1998年公開の映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』でも和久平八郎を演じ、翌1999年の第22回日本アカデミー賞では最優秀助演男優賞を受賞しました。

60代後半で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞し、コメディアンとは別の評価を得ました。

若い頃に富士で楽器を手にし、長くドリフを率いたいかりやさんの芸能人生には、晩年になって俳優という大きな活動軸が加わりました。

いかりや長介の晩年|最後まで続いたドリフと俳優の仕事

俳優として仕事を続けていた2003年、いかりやさんの体に病気が見つかりました。

治療を受けながらも仕事へ戻り、その年の終わりには再びドリフの4人とスタジオに立っています。

病気の治療後も仕事へ復帰

2003年5月にがんが見つかり、いかりやさんは入院して治療を受けました。

同年7月には療養を続けながら『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の初日舞台あいさつへ登壇し、観客の前へ姿を見せています。

しかし治療の影響で声を出すことが難しくなり、秋以降も治療が続きました。

それでも12月8日、フジテレビのスタジオには、加藤茶さん、高木ブーさん、仲本工事さん、志村けんさんとともに5人が集まりました。

『40年だよ!!ドリフ大爆笑』の新しいオープニングとエンディングを収録するためで、いかりやさんにとってこれが最後の仕事となりました。

「悪い。俺、声出ないから、おまえら頼むな」

文春オンライン『ドリフターズとその時代』

最後の収録でも隣にいたのは、長年同じ舞台を作ってきたドリフの4人でした。

2004年3月20日、原発不明がん頸部リンパ節転移で72歳で死去

いかりや長介さんは2004年3月20日、東京都内の病院で亡くなりました。

72歳で、当時発表された死因は原発不明がん頸部リンパ節転移でした。

『全員集合』終了から約19年がたっていましたが、ドリフのリーダーとしての姿と、『踊る大捜査線』の和久平八郎としての姿の両方が知られた時期での訃報でした。

加藤茶ら4人が見送った「ドリフのリーダー」

3月24日に行われた葬儀・告別式には、加藤茶さん、高木ブーさん、仲本工事さん、志村けんさんの4人がそろって参列しました。

加藤さんは弔辞を読み、40年間にわたってグループを率いたいかりやさんへ言葉を送りました。

「ドリフはあんたが残した財産。」

日刊スポーツ

出棺では、加藤茶さん、仲本工事さん、高木ブーさん、志村けんさんの4人が棺を運びました。

東京の下町と富士で過ごした少年・青年期の先に、ベースを抱えて舞台に立つ生活がありました。

そこで音楽と笑いが交わり、ザ・ドリフターズのリーダーとして長いテレビの時代を歩くことになります。

晩年は和久平八郎として新しい世代にも知られ、いかりや長介さんの仕事はコントだけでは終わりませんでした。

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