志村けんの生い立ちと若い頃|厳格な父の家庭から付き人、ドリフ加入・東村山音頭まで

人物プロフィール

本名
志村康徳
生年月日
1950年2月20日
身長
166cm
血液型
A型
出身地
東京都 東村山市
コンビ・グループ名
ザ・ドリフターズ
相方・メンバー
高木ブー、いかりや長介、加藤茶、仲本工事
結成年
1964年
所属事務所
イザワオフィス
芸人活動開始年
1972年
師匠
いかりや長介

「バカ殿様」や「変なおじさん」、加藤茶さんとのコンビ芸など、志村けんさんは長い間、テレビの中でコントを演じ続けた人でした。

しかし、テレビで全国に知られるよりずっと前の志村さんは、東京都東村山で育ち、高校生のうちからプロの喜劇人を訪ねて弟子入りを頼みに行く少年でした。

高校卒業直前には、いかりや長介さんの自宅を訪ね、雪の降る日に長時間待ってドリフターズ入りを直接頼み込んでいます。

そこからすぐメンバーになったわけではなく、楽器を運ぶ付き人生活を送り、井山淳さんとの「マックボンボン」でコンビ活動も経験しました。

1974年にドリフへ正式加入してからもすぐには人気が定着せず、約2年間、客席の反応に悩む時期が続きました。

東村山の家庭でどんな少年時代を送り、学校でどのように人を笑わせ、付き人からどんな時間を経て「東村山音頭」にたどり着いたのか、若い頃から順番にたどります。

志村けんの生い立ちと家族|東村山の8人家族で育った幼少期

志村けんさんの本名は志村康徳(しむら・やすのり)で、1950年2月20日、現在の東京都東村山市に生まれました。

テレビで見せた自由奔放な姿とは対照的に、子どものころの家庭には厳しい父親の存在がありました。

3兄弟の末っ子・志村康徳として東村山で誕生

志村さんは3人兄弟の末っ子で、父・憲司さん、母・和子さん、兄2人に加え、祖父母や叔母も暮らす8人の家庭で少年時代を送りました。

生まれ育った東村山は、その後、芸人人生を大きく動かす「東村山音頭」にもつながる土地ですが、少年時代から将来のネタにしようと考えていたわけではありません。

近所の子どもたちと遊び、地元の学校へ通う一方、自宅でもカーテンを舞台幕のように使って一人で演じることがあったと、母・和子さんが後年語っています。

人前へ出る前から、家の中で「演じる」遊びをしていた少年でした。

厳格な教師の父と芸事が好きだった母

父・憲司さんは学校の教師で、柔道にも打ち込んだ厳格な人物として知られ、家の中にも父親を中心とした緊張感がありました。

一方の母・和子さんは芝居や芸事を好み、息子が人を笑わせたり舞台のまねをしたりすることにも比較的理解がありました。

志村さんは後に芸名を「志村けん」としていますが、「けん」は父・憲司さんの名前から取ったものとされています。

厳しかった父は志村さんが中学生のころ交通事故に遭い、その後、記憶機能に障害が残るようになりました。

父は志村さんがドリフターズの正式メンバーになる姿を見る前に亡くなっています。

父がテレビの喜劇を見て笑う姿がお笑いへの入口に

普段は重い空気のある家庭でも、テレビで喜劇が流れると雰囲気が変わりました。

とりわけ志村さんの記憶に残ったのが、普段ほとんど笑顔を見せない父が、榎本健一さんや三木のり平さんらの喜劇を見て笑っていた姿です。

「素直にお笑いっていいなって思った」

文藝春秋digital

厳格な父まで笑わせる喜劇を見たことが、志村さんにとって「笑い」を特別に意識する出来事になりました。

小中学生時代|すでに人前でコントを演じていた

家庭で喜劇を見る側だった志村さんは、学校へ入ると少しずつ自分が笑わせる側へ回っていきます。

後年のテレビで知られる身体を使った笑いも、学生時代の具体的な場面を追うと、そのずっと前から似た方向が見えています。

小学生で友達と酔っ払いのコントを披露

志村さん本人によると、小学4年生のころには友達と一緒に酔っ払いを題材にしたコントを演じていました。

柳家金語楼さんの落語レコードなどから覚えたものを材料にし、友達と人前で演じて笑いを取っていたと振り返っています。

家の中でカーテンを張って遊んでいた少年が、学校では友達と組んで観客の反応を受けるようになっていました。

中学文化祭ではセリフなしのコントで同級生を笑わせる

中学生になると、笑わせ方はさらに具体的になります。

幼なじみの角田英光さんは、文化祭で志村さんから誘われ、二人で殴り合いのような動きを見せる短いコントを演じたことを覚えていました。

そのコントにはほとんどセリフがなく、動きそのもので笑わせる構成だったといいます。

言葉をたくさん使わず、身体の動きで観客を笑わせるやり方を、中学生の文化祭ですでに試していました。

後の志村さんがコントで見せた表情や間、身体の使い方を考えるうえでも興味深い学生時代の一場面です。

ビートルズに夢中になり友人とバンド活動

中学時代の志村さんは、お笑いだけでなくビートルズにも強くひかれていました。

友人たちとバンドを組み、十分な楽器をそろえられないなかでも、身近な物を使いながら音楽を楽しんでいたと同級生が証言しています。

この音楽好きは、高校卒業時に進路を選ぶ際にも関わり、後に志村さん自身が、音楽を取り入れた笑いをしていたドリフターズへ興味を持った理由の一つとして語っています。

父の交通事故で変わった家庭の状況

学校で友人たちと笑いを作っていた時期、家庭では父・憲司さんが交通事故に遭いました。

事故後の父には記憶面の障害が残り、それまで教師として家庭を支えていた父親の状態は大きく変わっていきました。

志村さんはそのまま地元で中学校を卒業し、東京都立久留米高校へ進みます。

高校時代|由利徹への弟子入り志願で進路が固まる

高校へ進んでも、志村さんは大学進学を前提に学生生活を送っていたわけではありませんでした。

同級生たちが進学を考える時期に入るころには、プロのコメディアンになることを実際の進路として動き始めます。

都立久留米高校で学校行事やものまねに熱中

当時の東京都立久留米高校では、志村さんは友人たちと学校行事を楽しみ、テレビで人気だった芸人のものまねもしていました。

体育祭では同級生と一緒に加藤茶さんの「カトちゃんペ」をまねした写真が残っており、後に同じグループで活動する加藤さんの芸を高校生の時点ですでに演じています。

仲の良かった友人とは校内を白衣姿で歩くなど、学校生活の中でも周囲を楽しませるような行動をしていたことが、同級生の証言から分かっています。

本人によれば、進学校だった同校で、男子の中では大学進学を選ばない珍しい存在だったといいます。

高校2年で由利徹のもとを訪ねる

高校2年生になると、志村さんは担任教師のつてを頼り、喜劇俳優の由利徹さんを訪ねました。

目的は、単に会ってみたいというものではなく、弟子にしてもらうことでした。

由利さんにはすでに多くの弟子がいたため入門はかないませんでしたが、志村さんはそこで大学へ進むべきかも尋ねています。

「行ったら気が変わっちゃうぞ」

文春オンライン

まだ高校生の段階でプロの喜劇人を訪ね、大学ではなくお笑いへ進む選択を現実のものとして考えていました。

大学進学よりコメディアンの道を選ぶ

高校生活が終わりに近づくころ、志村さんの中では「卒業後に大学へ進み、それから将来を考える」という選択肢は薄くなっていました。

本人は後年、学校を出たあとに自分が進む道として、コメディアン以外をほとんど考えていなかったと語っています。

当時人気だったコント55号もいましたが、音楽好きだった志村さんは、バンドとしての出発点を持ち、音楽とコントを組み合わせていたザ・ドリフターズを選びました。

進学ではなく芸人になると決めた志村さんは、卒業を待たず、自分からいかりや長介さんのもとへ向かいます。

高校卒業直前、いかりや長介を訪ねてドリフの付き人へ

1968年2月、高校卒業を目前にした志村さんは、ドリフターズのリーダーだったいかりや長介さんの自宅を調べ、直接訪ねました。

養成所もオーディションも経ず、「本人に会って頼む」という入り方でした。

雪の日にいかりや長介宅を訪ね、長時間待ち続ける

東村山市立図書館の資料や本人の回想によると、その日は雪が降る寒い日で、志村さんはいかりやさんの帰宅を長時間待ちました。

待った時間は約12時間に及び、ようやく本人に会うと、ドリフターズへ入れてほしいと頼み込みました。

その場ですぐ正式採用されたわけではありませんが、約1週間後、付き人を意味する当時の呼び方である「ボーヤ」として入ることになります。

高校卒業前の18歳が、自分で住所を調べ、長時間待ってリーダー本人へ直接頼み込んだことから、ドリフとの生活が始まりました。

卒業前から巡業に同行し、楽器を運ぶ生活が始まる

志村さんは「高校を卒業してから」と考えていましたが、いかりやさんから間もなく東北への仕事があると告げられ、卒業を待たず現場へ入っていきました。

付き人の仕事は、メンバーの世話だけではありません。

当時のドリフターズは音楽活動の色も強く、志村さんたちは楽器や機材をトラックや新幹線で運び、ステージの裏側を支えていました。

収入はごくわずかで、食事にも困るような生活だったことを、志村さん本人が後年のインタビューで振り返っています。

華やかなテレビ出演より先に、移動、荷物運び、メンバーの身の回りの世話が日常になりました。

加藤茶との距離が縮まった付き人時代

付き人として働くうち、志村さんはメンバーの中でも加藤茶さんと近い関係になっていきます。

加藤さんは後年、東村山から通う志村さんを自宅へ泊めるようになったことを明かしており、志村さんは加藤家の母親や妹とも日常をともにした時期がありました。

食事を用意してもらい、家族のように過ごした時間もあったと加藤さんは振り返っています。

その一方で、仕事場では付き人でありながら加藤さんの頭をたたいて笑いにすることもあり、加藤さんは早い段階から志村さんの大胆さを見ていました。

井山淳とマックボンボン結成|ドリフ加入前のコンビ時代

志村さんの若い頃を追ううえで抜かせないのが、ドリフ正式加入前に活動したマックボンボンです。

「付き人からそのまま荒井注さんの後任になった」という一本道ではなく、志村さんは一度、コンビ芸人として自分たちの笑いを客前へ出しています。

付き人仲間の井山淳と風呂なしアパートで共同生活

相方となった井山淳さんは志村さんより5歳年上で、井山さんもいかりや長介さんへ直接頼み込んでドリフの付き人になった人物でした。

二人は付き人仲間として働きながら親しくなり、やがて風呂のないアパートで共同生活を始めます。

仕事から離れれば若者らしくふざけることもあり、二人で追いかけっこをしながら「泥棒」と叫んでいたところ、通行人に本物の泥棒だと思われ、止められたこともあったと井山さんが明かしています。

銭湯掃除と楽器運搬をしながら舞台へ

風呂のない部屋で暮らしていた二人は、近所の寿美浴場を利用していました。

ただ入浴するのではなく、銭湯の掃除を手伝う代わりに無料で風呂へ入れてもらっていたと、テレビ朝日の再会企画で紹介されています。

昼夜を問わずドリフの仕事を手伝い、楽器を運び、その合間に自分たちが舞台へ立つ準備を続ける生活でした。

風呂なしアパートで暮らしながら付き人仕事をこなし、その同じ仲間とコンビを組んで演者側へ進んでいきました。

マックボンボンでテレビレギュラーを経験

1972年ごろ、志村さんと井山さんはマックボンボンとして本格的に活動を始めました。

舞台だけでなくテレビのレギュラー番組も持つようになり、付き人として裏側にいた志村さんが、自分の名前で客前へ立つ時期に入ります。

当時の舞台を知る人物からは、志村さんが身体を使った強いツッコミを見せていたという証言も残っており、言葉だけに頼らない笑いはこのころにも続いていました。

高木ブーさんは後年、若い志村さんがマックボンボンとして活動していたころの写真を自身の公式Instagramで公開しており、長髪だった20代前半の姿も残っています。

高木ブーさん公式Instagramのマックボンボン時代の写真

井山淳の離脱でコンビ活動が終わり、ドリフ見習いへ

マックボンボンは約1年半活動しましたが、井山さんが芸能界から離れることになり、二人での活動は終わりました。

テレビのレギュラーまで経験していた志村さんにとって、ここでコンビとしての道はいったん途切れます。

その後は再びドリフターズの近くで活動し、やがて正式メンバー候補として名前が挙がることになります。

1974年ドリフ正式加入|荒井注の後任として始まった苦戦

転機が訪れたのは1974年、長くドリフターズを支えてきた荒井注さんが脱退することになったときでした。

新メンバーをどうするかという話の中で、付き人時代から志村さんを見ていた加藤茶さんが名前を挙げます。

加藤茶の「志村、いるじゃない」で正式メンバー候補に

加藤さんによると、いかりやさんは当初、荒井さんと同年代の人物を入れることも考えていました。

そこで加藤さんは、もっと若い人を入れてはどうかと提案します。

「志村、いるじゃない」

スポニチアネックス

付き人のころからドリフのコント作りやメンバー同士の空気を知り、加藤さん相手にも臆せず笑いを取りにいっていたことが、その推薦につながりました。

長い付き人生活を間近で見ていた加藤茶さんの推薦が、志村さんを正式メンバーへ押し上げる大きな一手になりました。

1974年4月1日にドリフターズへ正式加入

志村さんは1974年4月1日、ザ・ドリフターズの正式メンバーになりました。

1968年に付き人として入ってから約6年が経っていました。

『8時だョ!全員集合』という人気番組の舞台に、今度は裏方ではなく5人のメンバーの一人として立つことになります。

本人は後年、正式加入後最初の『全員集合』について、緊張が強く、舞台で何をしたのかほとんど覚えていないほどだったと振り返っています。

荒井注の後を継いでも約2年間は笑いを取れず悩む

正式メンバーになれば、それまでの下積みが一気に報われたわけではありませんでした。

荒井注さんにはすでに強いキャラクターと人気があり、客席には「荒井注の後任を見る」という空気もありました。

志村さん自身も、舞台で何をやっても客席が引いていくように感じる時期が続いたと語っています。

ドリフ加入後のおよそ2年間は、付き人時代より目立つ場所に立ちながら、自分の笑いがなかなか届かない時間でした。

「そんな根性で入ってないですもん、この道」

日刊スポーツ

うまくいかないから辞めようとはせず、客前に立ち続けました。

1976年「東村山音頭」でブレイク|地元が大きな転機に

ドリフ正式加入から2年ほど経った1976年、志村さんはようやく自分の名前を全国へ強く印象づけるネタにたどり着きます。

その題材になったのは、子どものころから暮らしてきた東村山でした。

加藤茶へ「俺には才能がない」と漏らした時期

加藤茶さんは、思うように笑いが取れなかった志村さんから、荒井注さんには勝てない、自分には才能がないという悩みを聞いたと後年明かしています。

そこで加藤さんは、何をやりたいのかを自分からいかりやさんへ伝えるよう促しました。

「お前のやりたいことを長さんにじかに言え」

スポニチアネックス

後任として与えられた場所で何とかしようとする時期から、自分がやりたい笑いを前へ出す時期へ変わっていきます。

自分のやりたい笑いから生まれた「東村山音頭」

その流れの中で生まれたのが、地元の民謡をコントへ取り入れた「東村山音頭」でした。

『8時だョ!全員集合』で披露すると、それまでとは客席の反応が変わり、志村さんの存在が一気に知られていきます。

子どものころから暮らした地元の名前を前面に出した「東村山音頭」が、加入後の長い苦戦を終わらせる大きな転機になりました。

1976年は、付き人から数えれば約8年を経て、志村けんという名前が全国へ広がった年になりました。

東村山市から感謝状を贈られるほどの人気へ

「東村山音頭」で市の名前まで全国へ広がったことから、1976年には東村山市から志村さんへ感謝状が贈られました。

地元で育った少年が、その地名をテレビの笑いへ持ち込み、今度はテレビを通して東村山そのものを全国へ知らせる形になりました。

以後も志村さんと東村山の関係は途切れず、本人の死後まで続くことになります。

ヒゲダンスなどへ広がり、ドリフの中心メンバーになる

「東村山音頭」で客席をつかんだあと、志村さんは『全員集合』の中でさらに多くのコントやギャグを生み出していきます。

加藤茶さんとのヒゲダンスなど、細かな会話よりも動き、表情、リズムで伝える笑いは、子どもにも分かりやすく、番組を代表する場面になりました。

本人は後年、笑いを作る際に言葉以上に動きを重視していることを語っており、中学文化祭でセリフのないコントを作っていたころから続く姿勢も見えます。

『8時だョ!全員集合』は1969年から1985年まで続き、公開形式の舞台で毎週コントを見せる番組として全803回放送されました。

「全員集合」後もコントを作り続けた志村けん

『8時だョ!全員集合』が1985年に終了しても、志村さんがテレビでコントを作る時間は終わりませんでした。

ドリフの集団コントから、加藤茶さんとの番組、さらに自身のキャラクターを中心にした番組へと活動の形が変わっていきます。

加藤茶との『加トちゃんケンちゃん』へ

『全員集合』終了の翌1986年1月には、加藤茶さんと志村さんを中心とした『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まりました。

二人が探偵に扮する「THE DETECTIVE STORY」など、スタジオだけでなくロケーション撮影も使った大がかりなコントが作られています。

高校時代に加藤さんのものまねをし、付き人時代には加藤家に泊まり、正式加入時には加藤さんから推薦された志村さんが、今度は加藤さんと二人で番組の中心に立ちました。

バカ殿・変なおじさんなど自身のコント世界を広げる

その後は『志村けんのだいじょうぶだぁ』など、自身の名前を冠した番組でもコントを作り続けました。

バカ殿様や変なおじさんをはじめ、強い見た目と決まった動き、間を組み合わせたキャラクターが次々に定着していきます。

志村さんは実在する人物の癖や動きをよく観察し、そこからキャラクターの動きを作ることがあったと語っています。

テレビで自由に見える動きの裏では、台本を書き、人物を観察し、どう動けば笑いになるかを細かく組み立てていました。

舞台『志村魂』でも生の笑いを続ける

テレビで長く活躍した後も、志村さんは映像だけに活動の場を限定しませんでした。

2006年から始まった舞台『志村魂』では、バカ殿様、コント、津軽三味線、芝居などを一つの公演に組み込み、自ら客席の反応を受けながら演じました。

明治座のインタビューでは、舞台は稽古で作ったものが本番を重ねるにつれて変化していくところが面白いと話しており、テレビとは違う生の客席を大切にしていました。

付き人として舞台の荷物を運んだ青年は、晩年まで自分でコントを作り、生の舞台へ立ち続けました。

母・和子が舞台を見守り続けた晩年の家族エピソード

幼い志村さんが家の座敷で演じていたころから息子を見ていた母・和子さんは、晩年まで『志村魂』を観劇していました。

志村さんは母を「一番のファン」と紹介しており、舞台を見に来た和子さんが、客席が静まった瞬間に息子へ声をかけたこともありました。

「けんちゃん頑張って!!」

スポニチアネックス

志村さんはその声で緊張し、三味線を間違えてしまったことまで明かしています。

少年時代に自宅で演じる姿を見ていた母は、息子が長い芸歴を重ねた後も客席から舞台を見続けていました。

2020年の死後も残り続けるコントと東村山とのつながり

志村けんさんは2020年3月29日に亡くなりましたが、その後もドリフ時代や自身の番組で作ったコントは繰り返し放送されています。

生まれ育った東村山との関係も、1976年の「東村山音頭」だけで終わりませんでした。

東村山市名誉市民となり、故郷に残った足跡

死後の2020年、志村さんは東村山市の名誉市民となりました。

小中学校へ通い、友達とコントやバンドを楽しみ、高校卒業前まで暮らした町は、ブレイクのきっかけとなった「東村山音頭」を経て、本人を象徴する土地の一つになっています。

芸名の「けん」に父の名前を残し、代表的なネタには故郷の名を残したまま、志村さんのコントは世代を越えて放送されるようになりました。

2026年にも新たな特番が放送される志村けんのコント

亡くなってから6年が経った2026年にも、志村さんのコントを中心にした番組は新たに編成されました。

2月23日にはフジテレビで『志村けんのコント総選挙ザ・ワールド!世界が決めたTOP30』が放送され、日本だけでなくアメリカ、フランス、台湾など海外の人々による投票も行われました。

さらに5月4日にはTBSでもドリフターズのコントを振り返る特番が放送され、『8時だョ!全員集合』をはじめとする過去の映像が再びテレビに登場しています。

1970年代に客席の前で磨いた身体の動きや表情を使うコントが、半世紀近くたった2026年にも新しい番組として放送されています。

東村山の家庭で喜劇を見ていた志村康徳少年は、学校で人を笑わせる側へ回り、高校卒業直前には自分の足でいかりや長介さんを訪ねました。

付き人、マックボンボン、ドリフ加入後の苦戦を経て「東村山音頭」をつかみ、その後もテレビと舞台でコントを作り続けました。

その笑いは、志村けんさんがいなくなった後も、過去の映像だけに閉じることなく現在のテレビで繰り返し届けられています。

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