加藤茶の生い立ちと若い頃|福島の少年がドラマーを経てドリフの人気者になるまで

人物プロフィール

本名
加藤英文
生年月日
1943年3月1日
身長
163cm
血液型
A型
出身地
東京都 世田谷区
コンビ・グループ名
ザ・ドリフターズ
相方・メンバー
高木ブー(故人:志村けん、いかりや長介、仲本工事)
結成年
1964年
所属事務所
イザワオフィス
芸人活動開始年
1964年

「加トちゃんペッ!」や「ちょっとだけよ」で知られ、ザ・ドリフターズの顔として長く親しまれてきた加藤茶さん。

2026年に83歳を迎えても、ドリフのコント番組に出演し、若い出演者と同じ舞台に立ち続けています。

そんな加藤さんですが、若いころからコメディアンを目指していたわけではなく、最初に本気で目指していたのはプロのミュージシャンでした。

福島で過ごした少年時代には映画館で映写技師として働き、上京後はバンドボーイを経てドラマーとなり、そこからドリフターズへ入っています。

映画館の映写室にいた少年は、どのようにドラマーとなり、さらに日本中を笑わせるコメディアンへ変わっていったのでしょうか。

加藤茶の生い立ちと家族|東京に生まれ、福島で母と妹に育てられる

加藤茶さんは1943年、東京都世田谷区に生まれ、その後は父親の故郷でもある福島で少年時代を過ごしました。

後年も福島を「故郷」として何度も訪れており、テレビ番組では子どものころの友人たちと再会しています。

幼くして父を亡くし、母が加藤茶と妹を育てた

加藤さんの家庭では、幼いころに大きな変化がありました。

父親を病気で亡くし、その後は母親が加藤さんと妹を育てています。

加藤さん自身が公式ブログで母親について尋ねられた際、父親の顔を知らないほど幼い時期に亡くしたことを明かしています。

「母親は女で一つでオイラと妹を育ててくれた!」

加藤茶オフィシャルブログ「加トちゃんぺ」

生活には余裕がなかったものの、加藤さんは同じブログで母親から受けた愛情についても記しています。

後に多くの人から「加トちゃん」と呼ばれるようになる少年は、母と妹と暮らしながら福島で成長していきました。

阿武隈川や町を遊び場にした福島の少年時代

福島での少年時代については、2015年の故郷ロケでも具体的な思い出が紹介されています。

当時の仲間たちとは、阿武隈川を泳いだり、町の中を走り回ったりして過ごしていました。

番組では、そんな少年時代を一緒に過ごした友人とおよそ50年ぶりに再会し、上京したばかりのころ友人へ送った手紙も登場しました。

東京で生まれた加藤さんにとって、少年時代の記憶が残る場所は福島でした。

学生時代|映画館の映写室で「笑い」の面白さを知る

加藤さんがお笑いと深く接する最初の場所になったのは、学校の舞台でも寄席でもなく、福島にあった映画館の映写室でした。

ただし、この時点で本人にコメディアンになる考えはありませんでした。

新聞配達をしながら、16歳ごろには映画館で映写技師として働く

16歳ごろの加藤さんは、新聞配達をしながら映画館で映写技師のアルバイトをしていました。

本人によると、映画館の仕事を選んだ理由は「金になる」と聞いたからでした。

一緒に働いていた先輩が仕事を休むこともあり、その分、自分で映写機を扱う技術を身につけることになりました。

学校へ通う時間よりアルバイトに費やす時間が増え、やがて高校からも足が遠のいていきます。

チャップリンやジェリー・ルイスを見続け、客席の笑いに驚く

映写技師には、上映される映画を何度も見る機会がありました。

そこで加藤さんが触れたのが、チャールズ・チャップリン、ジェリー・ルイス、バスター・キートン、ダニー・ケイなどの喜劇です。

外国の作品でありながら、スクリーンの動きに合わせて劇場の客が一斉に笑う光景を映写室から見ていました。

「その時はコメディアンになろうなんて考えもしなかったんですが」

ハピすむ 特別インタビュー

本人は後年、当時見た喜劇のイメージが、コントのネタを考えるようになってから役立ったと語っています。

後に笑いを仕事にするとは考えていない16歳の時点で、客席が笑う瞬間を何度も映写室から見ていたのです。

高校へ通わなくなり、ミュージシャンを目指して東京へ

映画館で働く生活が続くうちに、高校へ通わなくなった加藤さんは福島を離れ、東京で仕事を探すようになります。

そのころ関心を向けていたのは、コメディアンではなく音楽の世界でした。

東京で仕事を探していたとき、ナイトクラブで目にしたのが「バンドボーイ求む」という募集です。

店なら楽器を練習できると考えた加藤さんは、そこで働きながらドラマーを目指す道へ踏み出しました。

上京後のバンドボーイ生活|ドラムを覚えてプロの音楽家へ

東京へ出てからの加藤さんは、お笑いの舞台ではなく、バンドの現場で下働きをしながら演奏を覚えていきました。

現在の「加藤茶」という姿だけを見ると意外ですが、芸能活動の入口は徹底して音楽側にありました。

「渡辺弘とスターダスト」のバンドボーイから音楽の世界へ入る

公式プロフィールでは、1961年から「渡辺弘とスターダスト」のバンドボーイを務めたことが、加藤さんの音楽活動の出発点として記されています。

バンドボーイは演奏者の身の回りの仕事や楽器の準備などをしながら、プロの演奏現場を間近で見る立場でした。

加藤さんはそこでドラムを練習し、やがてロックバンド「クレージーウェスト」のドラマーとして演奏するようになります。

18歳ごろには、すでにプロの現場でドラムを叩く若者になっていました。

クレージーウェストのドラマーとなり、仲本工事と出会う

クレージーウェスト時代には、後にドリフターズの仲間となる仲本工事さんとも出会っています。

仲本さんは大学生だったころ、友人に誘われて訪れたジャズ喫茶で飛び入りで歌い、その場にいたクレージーウェストから声をかけられました。

そのバンドでドラムを担当していたのが、まだ10代だった加藤さんでした。

「まだ10代でさ。ドラムに一生懸命で、かわいらしい少年だったよ。」

文春オンライン・仲本工事インタビュー

テレビで国民的な人気を得るより前、仲本さんが最初に見た加藤さんは笑いを取るコメディアンではなく、ドラムに打ち込む十代の演奏者でした。

いかりや長介とドリフターズへ|ドラマーがコントを始めるまで

ドラマーとして演奏を続けていた加藤さんの進路を大きく変えたのが、ドリフターズとの出会いでした。

ただし、このころのドリフターズも、後に知られるコントグループとは違い、まず音楽を演奏するバンドでした。

旧ドリフへ誘われ、いかりや長介らと活動する

加藤さんによると、バンドでドラムを叩いていたところ、当時のドリフターズでドラマーが抜けることになり、声をかけられました。

そこにはすでにいかりや長介さんがおり、加藤さんもドラマーとして加わっていきます。

この段階でも本人の意識は、あくまでバンドマンでした。

「いや、俺らバンドマン」

スポニチアネックス

加藤さんが2026年にもこう振り返っているように、ドリフに入ったことと「芸人を目指したこと」は同じ出来事ではありません。

1964年の再編を経て「新生ドリフターズ」が動き出す

メンバー構成が変化する中、1964年にはいかりや長介さんと加藤茶さんを含む「新生ドリフターズ」が動き始めました。

後に仲本工事さん、高木ブーさん、荒井注さんらと知られる編成へ進み、ジャズ喫茶を中心にライブ活動を続けます。

転機になったのは、いかりやさんが音楽だけでなく本格的に笑いをやろうと提案したことでした。

当時、先輩にあたるハナ肇とクレージーキャッツは、演奏とコメディを組み合わせて人気を集めていました。

加藤さんの証言では、その姿を見ていたいかりやさんからコントへの提案があり、メンバーたちも取り組み始めたといいます。

ミュージシャンとして集まったメンバーが、ここから本格的に笑いへ足を踏み入れました。

ハナ肇から「加藤茶」という芸名をもらう

コメディへ進み始めたころ、加藤さんたちを後押しした一人がハナ肇さんでした。

加藤さんによれば、クレージーキャッツの笑いを参考にしていたドリフに対し、ハナさんはまねることを認め、メンバーの芸名まで考えてくれました。

加藤さんが普段から自分を「加藤ちゃん」と呼んでいたことから、ハナさんが「茶」を提案し、本名・加藤英文から「加藤茶」という芸名が生まれます。

この時期から、ドラマーの加藤英文と、コメディアンの加藤茶が重なり始めました。

バンドからお笑いへ|テレビデビューとビートルズ武道館公演

新生ドリフターズはコントへ比重を移しながらも、すぐに音楽を捨てたわけではありません。

1960年代半ばは、演奏もできるコミックバンドとして客前に立っていた時期でした。

1964年『ホイホイミュージックスクール』でテレビへ進出

テイチクの公式プロフィールでは、1964年9月に日本テレビ系『ホイホイミュージックスクール』でテレビデビューしたとされています。

ドリフがテレビへ出始めたころ、武器になったのは演奏だけでもコントだけでもなく、音楽そのものを笑いへ変えるスタイルでした。

加藤さんにとってドラムは、芸人になる前の経歴として終わったものではなく、そのままドリフの舞台を構成する一部になっていました。

ジャズ喫茶で音楽とコントを磨く日々

テレビへ出始めた後も、ドリフはジャズ喫茶を中心にライブを続けていました。

その客前の舞台で、曲の合間に笑いを入れ、音楽を使ったコントを繰り返していきます。

養成所の授業でコントを学んだのではなく、演奏する現場そのものが加藤さんたちの笑いを作る場所になりました。

映画館で海外の喜劇を見続けた経験も、バンドで身につけたリズムも、客を目の前にするライブも、別々の時期に加藤さんの中へ蓄積されていきました。

1966年、ビートルズ武道館公演の前座に立つ

1966年には、ドリフターズがビートルズの日本武道館公演で前座を務めました。

加藤さんが2026年に明かしたところでは、当初は約20分と聞いていた出演時間が10分へ減り、本番直前にはさらに約2分になったといいます。

メンバーは用意していた要素を一曲の中へ詰め込み、短い時間でステージを終えました。

後にテレビのコントで知られる5人が、このころは世界的ロックバンドの前で楽器を手にステージへ立っていたことになります。

『全員集合』が始まる3年前、加藤茶さんはまだ「ドリフのドラマー」として大舞台に立っていました。

『8時だョ!全員集合』でブレイク|アドリブから名物ギャグが生まれる

バンドとコントを行き来していたドリフターズの仕事を大きく変えたのが、1969年に始まった『8時だョ!全員集合』でした。

ここから加藤さんの名前は、ドラマー以上にコメディアンとして全国へ広がっていきます。

1969年に『8時だョ!全員集合』が始まり、毎週客前でコント

『8時だョ!全員集合』は1969年10月から1985年9月まで、およそ16年間放送されました。

TBSの記録では全803回に及び、体育館や市民会館などに観客を入れ、大掛かりなセットを使った公開形式のコントが毎週繰り広げられました。

映画館の映写室から客席の笑いを見ていた加藤さんは、今度は自分の動きで大勢の観客を笑わせる側にいました。

「本当に青春だよね。」

スポニチアネックス

加藤さんは後年、16年間があっという間だったと振り返り、スターになった実感よりも、目の前の客に受けることがうれしかったと語っています。

落ちそうな付けひげといかりや長介の説教から「加トちゃんペッ!」

加藤さんの代表的な動きとなった「加トちゃんペッ!」も、最初から計画して作られたギャグではありませんでした。

コントでハゲヅラと小さな付けひげを着けていると、汗でひげが外れそうになり、加藤さんは鼻の下を2本の指で押さえていました。

その仕草をいかりや長介さんに注意されても、説教の最中に「ペッ、ペッ」とやってみたところ、いかりやさんをからかっているように見える動きが笑いにつながりました。

衣装のトラブルと、いかりやさんとのやり取りから偶然生まれた動きが、加藤茶を象徴するギャグになりました。

広島で耳にした言葉から「ちょっとだけよ」が誕生

もう一つの代表的なフレーズ「ちょっとだけよ」にも、地方営業中の出来事がありました。

広島で仕事をした際、興行主に案内されたショーをメンバー5人で見に行き、そこで出演者がお客に返した「ちょっとだけよ」「あんたも好きねえ」といった言葉を加藤さんが耳にします。

その言い回しをコントへ持ち込むと客席で受け、やがて長く使われる持ちネタになりました。

加藤さんはこのギャグを24年間続けたと話しています。

『全員集合』で知られる代表ギャグの多くは、完成した台本からではなく、本番や日常の中で拾ったアドリブから育っていました。

志村けん加入後のドリフ|若手からグループを支える側へ

『全員集合』の人気が続く中、1974年には荒井注さんがドリフターズを離れ、志村けんさんが正式メンバーに加わりました。

このころの加藤さんは、十代で先輩たちの現場へ飛び込んだドラマーではなく、新しく入ったメンバーへ言葉をかける側になっています。

志村けんに「やりたいことを長さんへ言え」と助言

志村さんは加入すると、前任の荒井注さんと比較され、最初の1年半から2年ほど思うように受けない時期が続いたと加藤さんは振り返っています。

番組後に一緒に酒を飲む中で、加藤さんは志村さんへ、自分がやりたいことをいかりやさんへ自分の口で伝えるように助言しました。

その後、志村さんは自分から意見を出すようになり、「東村山音頭」などの人気ネタが生まれていきます。

かつてドラムに夢中だった十代の加藤さんは、ドリフの中で後から入った志村さんを支える先輩になっていました。

『全員集合』終了後は『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』へ

1985年9月に『8時だョ!全員集合』が終了すると、翌1986年1月から『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まりました。

今度は加藤さんと志村さんの組み合わせが番組の中心となり、1992年3月まで放送されます。

『全員集合』の生放送・公開舞台中心の形から、スタジオセットやロケを使った収録スタイルへ移り、「探偵物語」など映像を作り込むコントも展開されました。

客前で瞬間的に笑いを取る『全員集合』から、撮影によって作り込むコメディへ、加藤さんの活動する場所も変化していきました。

コメディアンになっても続いた音楽|こぶ茶バンドで再びドラムへ

テレビではコメディアンとして知られるようになっても、加藤さんの経歴から音楽が消えたわけではありません。

ドリフそのものがバンドから始まったこともあり、メンバー同士の関係には長く音楽が残っていました。

1999年に高木ブー、仲本工事と「こぶ茶バンド」を結成

1999年には、加藤さんが高木ブーさん、仲本工事さんとともに「こぶ茶バンド」を結成しました。

グループ名は3人の名前から取られ、各地でコンサート活動を行っています。

仲本さんとは十代のころにクレージーウェストで出会い、高木さんとは新生ドリフで活動し、数十年後には3人で再び楽器を持ってステージへ立つ関係になりました。

コントで全国区になった後にも、加藤さんは「元ドラマー」だけで終わらず、音楽の舞台へ戻っています。

ドラマーとコメディアン、二つの経歴を持ち続ける

2014年には福島で行われた『題名のない音楽会』の公開収録でもドラムを演奏し、本人はジャズの曲を演奏するのは約20年ぶりかもしれないと話していました。

2023年に80歳でドラムについて聞かれた際には、若いころのようなソロ演奏は難しいとしながらも、演奏する程度ならできると答えています。

映画館のアルバイトから東京へ出て、バンドボーイとして覚えたドラムは、コメディアンとして知られるようになった後も加藤さんの中に残り続けました。

83歳の現在もドリフのコントへ|若い世代へ受け継ぐ「笑いの間」

2024年にはザ・ドリフターズが新生ドリフ結成から60周年を迎え、ミュージシャン時代からコメディアンへ進んだ歩みをたどる展覧会も各地で開かれました。

そして2026年になっても、加藤さんは過去映像だけに登場する存在ではなく、本人が新しいコントの現場へ出ています。

2026年も『ドリフに大挑戦スペシャル』へ出演

2026年8月11日に放送されたフジテレビ系『ドリフに大挑戦スペシャル』には、83歳の加藤茶さんと高木ブーさんが出演しました。

番組では若い芸人やタレントたちがドリフの名作コントへ挑戦し、加藤さん自身も出演者として現場に加わっています。

さらにスタッフ欄では、本名の「加藤英文」名義で監修にもクレジットされています。

十代で映画館の映写機を回し、18歳ごろからドラマーとして活動した加藤さんが、83歳になった今は若い世代が演じるドリフのコントを監修しています。

95歳まで舞台コントを続けたいと語る現在

加藤さんが次の世代へ伝えようとしているものの一つが、長年の客前コントで身につけてきた「笑いの間」です。

本人は、間は言葉だけで教えるのが難しく、動きまで含まれるコントではさらに伝えるのが難しいと話しています。

だからこそ『ドリフに大挑戦』では監修だけに回らず、自分もコントへ出て実際に見せる形を続けています。

「僕は95歳まで舞台でコントをやりたいですね」

ハピすむ 特別インタビュー

加藤茶さんの芸人人生は、コメディアンを目指したところからではなく、福島の映画館と東京のドラムから始まりました。

バンドマンとして入ったドリフターズでコントを始め、『8時だョ!全員集合』では客席の反応を受けながら数々のギャグを生み出しました。

そして83歳になった現在も、若い出演者と同じコントの現場に立ちながら、自分が長い舞台生活で身につけた笑いを次の世代へ渡し続けています。

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