人物プロフィール
ザ・ドリフターズの歴史をたどると、志村けんさんが正式メンバーになる前、『8時だョ!全員集合』の舞台に立っていたのが荒井注さんです。
いかりや長介さんに食ってかかるような態度と「なんだ、バカヤロー」「This is a pen」などのギャグで、ドリフ初期の人気を支えました。
ところが若い頃の荒井さんは、お笑い芸人を目指していたわけではなく、文学を学びながら脚本家になることを考えていた青年でした。
音楽の仕事を始めた理由も、芸能界へ入るためではなく大学の学費を稼ぐためでした。
そのアルバイトがバンドマン生活へつながり、1964年にはいかりや長介さんから声をかけられ、ザ・ドリフターズの一員になります。
人気絶頂の1974年に自らドリフを離れた理由まで含めると、テレビで見せていたふてぶてしいキャラクターとは少し違う荒井注さんの歩みが見えてきます。
荒井注の生い立ちと家族|東京・四谷で生まれた文学青年
荒井注さんの本名は荒井安雄で、1928年7月30日に東京で生まれました。
後年の荒井さんを知る手がかりは芸能活動以降に多く残っていますが、少年期については本人が詳しく語った記録が少なく、学校を卒業して大学へ進むころから経歴がはっきりしてきます。
1928年に東京・四谷で誕生|幼少期は公開資料が少ない
荒井さんが生まれたのは東京・四谷で、昭和が始まって間もない1928年のことでした。
父親や母親、兄弟姉妹との日常を本人が詳しく振り返った資料はほとんど残っておらず、後年の人物資料でも幼少期について記される内容は限られています。
一方で、その後の荒井さんには文学や読書への強い関心があり、テレビの人気者になったあとも稽古場へ本を持ち込む姿が見られていました。
にぎやかなコントで知られる人物の若い頃には、本を読み、文章を書く仕事を考えていた時期があったのです。
高校卒業後に立教大学へ進み、数年後に二松學舍大学へ
高校を卒業した荒井さんは立教大学へ進みましたが、卒業までは在籍せず途中で大学を離れています。
その後、数年を経て二松學舍大学文学部国文学科へ入り直し、1958年に卒業しました。
20代の途中で再び大学へ進んだ経歴からも、芸能活動一直線の青年時代ではなかったことが分かります。
二松學舍大学では国文学を学び、中学校と高校の国語の教員免許も取得しました。
国語の教員免許を取りながら脚本家を目指した
大学時代の荒井さんが思い描いていた仕事の一つが脚本家でした。
部屋には文学作品が並び、後に『8時だョ!全員集合』へ出演するようになってからも、稽古場で太宰治や三島由紀夫を読んでいたと伝えられています。
舞台上では短い言葉と表情で笑いを取っていた荒井さんですが、その裏では国文学を学び、本を読む時間を持ち続けていました。
教員免許を持つ国文学科卒の脚本家志望という経歴は、のちの「なんだ、バカヤロー」のイメージとはかなり違います。
学費のために始めたバンド活動|スチールギターからピアノへ
荒井さんの人生が芸能界へ近づいていく入口は、お笑いではなく音楽でした。
しかも最初からプロのミュージシャンになろうとしていたわけではなく、大学生活を続けるための現実的な理由から楽器を手にしています。
ハワイアンバンドのアルバイトが音楽人生の入口になった
荒井さんがバンド活動を始めたのは、学費を稼ぐためのアルバイトがきっかけでした。
最初に参加したのはハワイアンバンドで、担当した楽器はスチールギターでした。
そこから途中でピアノへ移り、複数のバンドを渡り歩きながら演奏の仕事を続けるようになります。
大学の学費を得るために始めた演奏の仕事が、そのまま芸能界へ入る道になっていきました。
養成所へ入り、ネタ見せを受けながら芸人になる現在のルートとはまったく違い、荒井さんは昭和のバンド文化の中から笑いの世界へ入っています。
クレイジー・ウエストではジャズ喫茶の余興でも笑いを取っていた
ドリフターズ加入前にはクレイジー・ウエストに所属し、バンドマンとしてジャズ喫茶などの舞台に立っていました。
当時のジャズ喫茶は演奏だけでなく、合間の余興やトークも客を楽しませる重要な要素で、荒井さんはそこで童謡を歌って笑いを取ることもありました。
脚本家を目指して大学へ通っていた人物が、夜には楽器を弾き、さらに余興では客を笑わせていたことになります。
後年、本人はドリフ時代を振り返った際、自分の中にあったものを短い言葉で語っています。
「人を笑わせることが好きだったんだろうね」
文春オンライン『ドリフターズとその時代』
ジャズ喫茶でのこうした経験を経たころ、荒井さんの前にいかりや長介さんが現れます。
1964年、いかりや長介に誘われザ・ドリフターズへ
1964年、荒井さんはクレイジー・ウエストで活動していたところから、ザ・ドリフターズへ移ることになります。
この時点のドリフは、後年のようなテレビのコントグループというより、音楽を土台に笑いも取り入れるコミックバンドでした。
バンドマンだった荒井注へ、いかりや長介から声がかかる
転機になったのは、1964年にいかりや長介さんと出会ったことでした。
荒井さんが余興でも笑いを取っていたバンドマンだった時期にいかりやさんから誘われ、ザ・ドリフターズへ加入します。
脚本家を夢見ていた荒井さんは、学費のために始めたバンド活動を経て、1964年にドリフのメンバーとなりました。
芸人になるための試験を受けたわけでも、誰かへ弟子入りしたわけでもなく、舞台で積み重ねていた音楽と余興の経験から誘われた形です。
楽器を演奏するメンバーから、人を笑わせる存在へ変化
ドリフへ入った荒井さんはキーボードを担当し、当初はあくまでバンドのメンバーとして活動していました。
当時のドリフはテレビ番組の伴奏やジャズ喫茶、営業など音楽の仕事を続けながら、演奏中の失敗やメンバー同士のやり取りを笑いへ変えていきます。
荒井さんは、いかりやさんから強く出られたときに素直に引き下がるのではなく、むっとした表情を返したり、言い返したりすることで客を笑わせました。
怒られている側なのに反省せず、逆に腹を立てる荒井注という関係が、次第に舞台上の持ち味になっていきます。
1966年にはビートルズ来日公演の前座を経験
ドリフ加入から2年後の1966年には、日本武道館で開催されたザ・ビートルズ来日公演の前座を務めました。
このころのドリフがまだ「人気コントグループ」ではなく、演奏ができるバンドだったことがよく分かる出来事です。
加藤茶さんは後年、当初20分と言われていた持ち時間が10分、さらに2分へ短縮され、舞台ではごく短時間にさまざまな要素を詰め込んで演奏したと振り返っています。
「1曲になんかいろんなもん入れて、それでやったんですよ」
スポニチアネックス
武道館の大舞台を経験したドリフは、その後さらに音楽と笑いを結び付けながらテレビへ進出していきました。
『8時だョ!全員集合』で確立した荒井注の笑い
1969年になると、ザ・ドリフターズを全国的な存在へ押し上げた『8時だョ!全員集合』がTBS系で始まりました。
荒井さんにとっても、バンドマンからコメディアンとして知られる人物へ大きく変わっていく時期です。
1969年から毎週続いた公開生放送と体を張るコント
『8時だョ!全員集合』は各地の会場へ観客を入れ、大がかりなセットの中でドリフがコントを行う番組でした。
番組そのものは1969年から1985年まで続き、放送回数は全803回に及びますが、荒井さんが出演したのは1974年春までの初期です。
水をかぶったり、走ったり、転んだり、巨大なセットを使ったりするコントでは、台詞だけでなく身体そのものを使った反応が求められました。
それまで楽器の前に座っていた荒井さんも、毎週の公開舞台でいかりやさんや加藤さんたちと体を張る側へ移っていきます。
「なんだ、バカヤロー」はリハーサル中のNGから生まれた
荒井注さんを象徴する言葉として長く残ったのが、「なんだ、バカヤロー」です。
最初から決めギャグとして台本に用意されていたのではなく、リハーサル中に荒井さんがNGを出した際、カメラへ向かって思わず口にした言葉が始まりでした。
失敗した本人が謝るのではなく、逆に怒ってみせるところが荒井さんの舞台上のキャラクターによく合い、そのまま人気の言葉になっていきます。
英語の初歩的な例文をそのまま言う「This is a pen」も荒井さんを代表するギャグとなり、真顔で短い言葉を発するだけで客席が反応する存在になりました。
いかりや長介に反抗する“ふてぶてしさ”が笑いの型になる
いかりや長介さんは後年、荒井さんがドリフの笑いのパターンの一つを作ったと振り返っています。
荒井さんは殴られたり叱られたりしたときのリアクションがうまく、そのうえ素直に困るのではなく、相手へ反抗するような態度を返しました。
どれほどひどい目に遭っても必要以上にかわいそうに見えず、むしろ「文句あっか」と言い返しそうな顔で立っているため、いかりやさん側も遠慮なく荒井さんを攻撃できます。
いかりや長介が仕掛け、荒井注が逆ギレする関係そのものが笑いになるという形が出来上がりました。
荒井注がドリフを脱退した理由|けがと慢性疲労による体力の限界
『全員集合』で人気を得た荒井さんは、仕事が減ったからドリフを辞めたわけではありません。
むしろグループの人気が続いていた時期に、自分から離れる意思を伝えています。
手のひら7針・眉4針|激しいコントで重なったけが
脱退を考える背景には、『全員集合』で続けていた激しいコントによる身体への負担がありました。
荒井さんには、右手のひらを7針、眉の中を4針縫った跡が残るほどのけががありました。
毎週の舞台では、一度成功した動きを再現するだけではなく、その場の客の反応へ合わせたテンポや身体のリアクションも必要です。
荒井さんが脱退を考えたころには45歳となっており、10歳以上年下の加藤茶さんや仲本工事さんたちと同じように舞台を走り回ることが難しくなっていました。
寝汗や微熱が続き、年下メンバーとの舞台に不安を感じる
けがだけでなく、脱退のおよそ3年前からは強い疲労も続いていました。
夜中になると寝汗をかき、微熱がなかなか引かない状態となり、医師へ相談すると病気ではなく慢性的な疲労が原因とされました。
さらに荒井さん自身は、舞台で求められるリアクションのテンポが遅れていくことにも不安を持っていました。
荒井注さんのドリフ脱退理由の中心にあったのは、激しい舞台を続けることへの体力的な限界でした。
人気や収入への不満から突然辞めたというより、この先も同じコントを続けられるのかを本人が身体の状態から判断した結果です。
いかりや長介が何度引き止めても脱退の意思は変わらなかった
脱退の意思を伝えられたいかりや長介さんは、荒井さんと何度も話し合い、考え直すよう説得しました。
5人の関係で出来上がっていた笑いから1人が抜ければ、舞台上の力関係そのものを作り直さなければなりません。
加藤茶さんも後年、荒井さんと一緒に辞めるつもりだったと証言しており、一人の脱退で済まない可能性までありました。
それでも荒井さんは脱退の意思を変えませんでした。
ただし即座に舞台を降りるのではなく、後任を育てる時間を取るため、実際に辞める日は約半年後の1974年3月末に設定されます。
志村けんとの交代|脱退決定後に生まれた「6人ドリフ」
荒井さんの脱退が決まると、ドリフでは次のメンバーを誰にするかが大きな問題になりました。
その候補として最終的に浮上したのが、すでにドリフの周辺で仕事をしていた若い志村けんさんでした。
見習いの志村けんが加わり、一時は荒井注と同じ舞台へ
いかりやさんは当初、バンドマスターの豊岡豊さんを新メンバー候補に考えていましたが、加藤茶さんはグループを若返らせるべきだと考え、当時23歳だった志村けんさんを推薦しました。
志村さんは1973年10月ごろから『全員集合』で端役として舞台へ出るようになり、同年12月8日の台本では「見習い」として名前が記されます。
そのため、荒井さんが3月末に去るまでには、荒井さんと志村さんが同じコントに参加する短い時期がありました。
「荒井注が辞めた翌日から志村けんに入れ替わった」のではなく、二人が同じ舞台にいた移行期間が存在しました。
TBSが発売した『8時だョ!全員集合』の公式DVDにも、荒井さんと志村さんが同時参加した「ドリフの港町ブルース」「ドリフの警察日記」が“6人ドリフ”として収録されています。
TBS公式のDVD収録情報には、荒井さんの脱退と志村さんの加入を発表した映像も収められています。
残り半年で「何だバカヤロー」「This is a pen」が大ウケ
脱退まで残り半年となった荒井さんは、意外にも舞台で勢いを増していきます。
「なんだ、バカヤロー」や「This is a pen」が客席で大きくウケ、いかりやさんが「気が変わるのではないか」と期待したほどでした。
辞めることが決まりながら人気が落ちるどころか、荒井注らしいキャラクターが最後の時期にさらに強く出たことになります。
それでも脱退そのものが撤回されることはありませんでした。
1974年3月30日、荒井注が最後の『全員集合』を終える
1974年3月9日の『全員集合』では、後半のコント終了後にドリフの5人が横一列に並び、荒井さんが休養することが視聴者へ発表されました。
いかりやさんから促された荒井さんは、コントでかぶっていたカツラを外して客席へ挨拶しています。
「ひとつ、休ませていただきたいと思います」
文春オンライン『ドリフターズとその時代』
続いてタキシード姿の志村さんが呼び込まれ、後継メンバーとして紹介されました。
翌週からは荒井さんと志村さんを含む6人体制で舞台に立ち、1974年3月30日の生放送を最後に荒井注さんはドリフを離れました。
表向きは「休養」という発表でしたが、荒井さんはそのまま正式メンバーへ戻ることなく、志村さんを加えた新しい5人体制へ移っていきます。
ドリフ脱退後は引退するつもりだった|半年後に俳優として復帰
荒井さんがドリフを離れた直後に始めたのは、新しい芸能活動ではありませんでした。
『全員集合』の毎週の舞台から離れた荒井さんは、しばらくテレビの仕事そのものと距離を置きます。
海外旅行と釣りの日々を送り、芸能界から離れる
脱退後はまず海外旅行へ出かけ、その後は沼津で釣りをしながら過ごしました。
釣りはドリフ時代から好きで、多忙だったころにも、わずかな時間ができると夜中に車を走らせて出かけることがあったと本人が振り返っています。
荒井さんはドリフを辞めた時点では、芸能界そのものから退くつもりでした。
人気番組を離れてすぐ別番組へ移るのではなく、まず仕事から離れて釣りや旅行へ時間を使ったところにも、荒井さんが脱退時に考えていた生活が表れています。
久世光彦に請われ『時間ですよ 昭和元年』へ出演
その生活が変わったのは、ドリフ脱退からおよそ半年後でした。
TBSのプロデューサー久世光彦さんから声をかけられ、1974年秋に始まったドラマ『時間ですよ 昭和元年』へ出演します。
荒井さんは自分からテレビへ戻る仕事を探していたのではなく、久世さんに請われる形で俳優として芸能活動を再開しました。
ドリフを離れたことは芸能界からの完全な引退にはならず、コメディアンとは違う俳優という仕事へつながりました。
バラエティ中心から俳優・タレントへ活動の幅を広げる
復帰後は単独のタレントとしてバラエティーへ出演する一方、ドラマや映画でも仕事を続けました。
『ムー一族』や『江戸川乱歩』シリーズなどにも出演し、ドリフ時代のように毎週5人で同じコントを作る活動とは異なる道を歩きます。
俳優としては主役だけを追うのではなく、作品の中に入り込む個性的な脇役として出演する機会も増えました。
ドリフを辞めた1974年は、荒井さんにとって芸能活動の終点ではなく、グループ活動から一人で仕事をする時期への境目になりました。
伊豆で過ごした荒井注の晩年
ドリフ時代から都会の忙しさを離れて釣りへ出かけていた荒井さんは、年齢を重ねてから生活の拠点そのものを東京から離していきます。
テレビ出演を続けながらも、仕事と私生活の距離を取った暮らしへ変わっていきました。
釣りを楽しみ、仕事のときだけ東京へ向かう生活へ
晩年の荒井さんは静岡県伊東市へ移り、好きだった釣りを楽しみながら、仕事があるときに東京へ向かう生活を送っていました。
荒井さんはドリフ在籍時から忙しすぎる生活を好まず、わずかな空き時間でも釣りへ出かけていました。
人気絶頂期に体力の限界を感じてドリフを離れ、晩年には東京を離れて釣りのできる土地で暮らしたという流れは一貫しています。
一級小型船舶操縦士の資格も持っており、釣りは単なるテレビ用の趣味ではなく、長く続いた私生活の一部でした。
妻との生活と伊豆への移住
荒井さんは晩年、妻とともに伊豆で暮らしながら芸能活動を続けました。
テレビへ毎日顔を出す生活からは離れていましたが、俳優やタレントとして必要なときには上京し、仕事を完全にやめたわけではありません。
『全員集合』時代には全国の会場を回り、生放送や収録に追われていた生活が、晩年には伊豆を拠点に必要な仕事へ出向く形へ変わっていました。
若いころから一人で本を読み、ドリフ時代にも短い休みに釣りへ出ていた荒井さんにとって、静かな土地で暮らす時間が増えていきます。
カラオケボックスをめぐる有名な逸話
荒井注さんの晩年を語る際によく登場するのが、伊豆で計画したカラオケ店をめぐる話です。
店は開業に至らず、後年には「完成した建物の入口が狭く、カラオケ機器を中へ搬入できなかった」という逸話が広く知られるようになりました。
ただし、この細かな経緯は後年の紹介記事によって説明に差があり、設計上の問題だけが開業できなかった原因だったのかまで一つの事実として確定できる資料は限られています。
「カラオケ機器が入らなかった店」という話そのものが、荒井注さんの晩年を代表する有名な珍エピソードとして残りました。
「なんだ、バカヤロー」の人物らしい話として繰り返し紹介されてきましたが、ギャグとして面白く整えられた部分と確認できる事実は分けて見る必要があります。
1999年、フジカラーCMで歴代ドリフの顔ぶれと再共演
荒井さんが亡くなる少し前の1999年末には、フジカラーの「お正月を写そう」CMに出演しました。
七福神を題材にしたCMで、ドリフのメンバーと再び同じ仕事をする機会となり、荒井さんと、その後任だった志村けんさんも同じ企画へ参加しました。
1974年にメンバーが入れ替わってから長い年月が過ぎたあと、荒井注と志村けんを含む歴代ドリフの顔ぶれが同じCMにそろったことでも注目されました。
ドリフを離れてから約25年がたっていましたが、荒井さんとグループとの縁が完全に切れていたわけではありませんでした。
2000年に71歳で死去|ドリフ初期を作った荒井注
フジカラーのCMで久しぶりにドリフの顔ぶれと仕事をした翌年、荒井さんは人生の最期を迎えました。
ドリフ脱退からは約26年が過ぎていました。
2000年2月9日に死去|死因は肝不全
荒井注さんは2000年2月9日、静岡県伊東市で亡くなりました。
1928年7月30日生まれだったため、亡くなったときは71歳でした。
死因は肝不全と伝えられています。
ドリフを離れたあとも26年にわたって俳優・タレントとして活動し、晩年は好きだった伊豆と釣りのある生活を送っていました。
脱退後も残った「荒井注の笑い」とドリフとの関係
一般によく知られるザ・ドリフターズは、いかりや長介さん、加藤茶さん、仲本工事さん、高木ブーさん、志村けんさんの5人ですが、その形になるまでの初期には荒井注さんがいました。
いかりやさんから攻撃されても反省せず、ふてくされて言い返す荒井さんのキャラクターは、メンバー同士の関係そのものを笑いにするドリフの一つの型となりました。
2024年にドリフが結成60周年を迎えた際には公式の「ザ・ドリフターズ展」も開催され、高木ブーさんは荒井さんを含む亡くなった仲間へ言葉を寄せています。
「きっと長さん、荒井さん、仲本、志村も空の上から覗きに来るんじゃないかな。」
結成60周年記念 ザ・ドリフターズ展 公式サイト
荒井注さんの出発点は、コメディアンになるための養成所ではなく、国文学を学びながら学費を稼ぐために始めたバンドでした。
そのバンド生活でいかりや長介さんと出会い、ドリフの人気が高まる時代を支えながら、体力の限界を感じた1974年に自分から舞台を降りました。
その後は俳優として仕事を続け、晩年には好きだった釣りのできる伊豆で暮らしながら、荒井注という名前をドリフ初期の笑いとともに残しました。












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