人物プロフィール
コントトリオ「や団」でネタ作りを担い、キングオブコントでは2022年から4年連続で決勝へ進んでいる本間キッドさん。
現在はコント師として知られていますが、芸人になるまでには、格闘技や音楽に夢中になった学生時代があり、大学卒業時には一般企業へ就職する道もすぐ目の前まで来ていました。
就職活動では約3社から内定を得て、そのうち1社では研修まで受けながら、卒業直前の3月に就職を取りやめて芸人になる道を選んでいます。
しかも養成所には通わず、中学時代からの友人だった中嶋享さん、大学時代に加わった海野健太郎さんと、誰でも出演できるお笑いライブから活動を始めました。
その後はメンバー交代を経てロングサイズ伊藤さんが加入し、現在の3人になってからキングオブコント初決勝まで15年以上の時間を重ねています。
本間キッドの生い立ちと家族|富士見市で育った少年時代
本間キッドさんは、本名を本間徹哉といい、埼玉県富士見市で育ちました。
家族や子ども時代をたどると、後に芸名にもつながるプロレスとの出会いや、現在まで一緒に活動する中嶋享さんとの関係が、かなり早い時期から始まっています。
真面目に働く父、母、7歳上の兄がいた家庭
父親は経済学を学んだのち経営コンサルタントとして働き、著書がベストセラーになったこともある人物だったと、本間さん自身が明かしています。
父は自宅へ帰ってきても、食事をする前にまず書斎へ入り仕事をするような生活をしており、家の中でも仕事に向き合う姿を子どもの本間さんは見ていました。
母親はよく話す人で、家庭には本間さんのほかに7歳年上の兄がいました。
「すごいちゃんとした家、真面目な家ですね」
Rooftop
芸人になることを最初から前提とした家庭ではなく、父が仕事へ向かう姿を身近に見る環境で少年時代を過ごしていました。
兄の影響でプロレスと格闘技に夢中になる
7歳離れた兄から本間さんが強く影響を受けたものの一つが、プロレスと格闘技でした。
年齢差があったため兄弟でいつも一緒に遊んでいたわけではありませんが、兄を通じてプロレスを見るようになり、その興味は柔道や格闘技へ広がっていきます。
現在のSMA公式プロフィールにも、特技として柔道弐段、趣味としてプロレス・格闘技観戦やブラジリアン柔術が記されており、格闘技は子どものころから長く続いている関心事です。
芸歴の途中で使うようになった「本間キッド」という活動名も、先輩のハリウッドザコシショウが名付けたもので、「キッド」はプロレスラーのダイナマイト・キッドに由来しています。
小学6年ごろ中嶋享と出会い、後の相方との関係が始まる
後にや団のメンバーとなる中嶋享さんとは、小学6年ごろにはすでに知り合っていました。
2人の関係がより近くなったのは中学校へ進んでからで、同じ学校で同じ部活動に入り、放課後も一緒に過ごすようになります。
まだ芸人としてコンビやトリオを組む話が具体化するよりずっと前ですが、このころ知り合った2人は、大学進学で離れてからも関係を保ち続けることになります。
中学・高校時代|中嶋享と「ヤ団」を名乗ったバスケ仲間
中学から高校にかけて、本間さんの生活にはバスケットボール、お笑い、柔道、音楽が次々と入ってきました。
そして現在の「や団」という名前も、芸人になってから会議で考えたものではなく、中学生だった本間さんたちの遊びの中から生まれています。
日大付属の男子校へ進み、中嶋とバスケットボール部へ
本間さんは東京・護国寺にある日本大学付属の男子校へ進学し、中嶋さんと同じバスケットボール部に入りました。
当時は本間さん、中嶋さん、もう一人の背の高い友人という3人で行動することが多く、学校の中でも一つのまとまりとして過ごしていたそうです。
中嶋さんはもともと本間さんほどお笑いに詳しかったわけではなく、本間さんからビデオを借りたり、一緒に芸人のネタについて話したりするうちに、お笑いを見るようになっていきました。
中学3年の3on3大会で友人3人を「ヤ団」と命名
中学3年のころ、3人でバスケットボールの3on3大会に出ることになり、チーム名を登録する場面がありました。
そこで本間さんが書いた名前が「ヤ団」でした。
当時はもちろんプロのお笑いグループの名前ではなく、友人3人で大会へ出るためにつけた名前にすぎませんでしたが、大学時代になって本間さんと中嶋さんがお笑いを始めようとしたとき、この名前が再び使われます。
現在まで続く「や団」という名前の原型は、中学3年のバスケットボール仲間3人につけた「ヤ団」でした。
『ボキャブラ天国』とネプチューンを見て芸人を意識する
お笑い芸人という職業が進路の候補として現れたのも、中学生のころです。
当時放送されていた『ボキャブラ天国』を見ており、中でも本間さんが好きだったのがネプチューンでした。
ネプチューンを見た中学生のころから、本間さんは「芸人になりたい」と考え始めています。
後に所属事務所を選ぶ場面でもネプチューンへの憧れがもう一度登場するため、本間さんにとって一時的なテレビの好みではありませんでした。
柔道と文化祭バンド、AIR JAMにも夢中だった高校時代
高校へ進むと、本間さんはバスケットボールだけでなく柔道にも力を入れるようになります。
一方で音楽も好きになり、文化祭に合わせてバンドを組み、ギターを弾いたりギターボーカルを担当したりしていました。
高校3年ごろには音楽イベント「AIR JAM」を初めて体験し、その楽しさから、その後もさまざまな音楽フェスへ足を運ぶようになったと語っています。
好きだったのはHi-STANDARD、HUSKING BEE、BRAHMANなどで、当時の本間さんにとって、お笑いだけが唯一の興味ではありませんでした。
お笑い、格闘技、音楽という三つの好きなものがあり、そのどれかに関係する仕事ができないかと考える時期へ入っていきます。
大学時代|静岡で柔道を続けながら「表現者」への道を探す
高校卒業後、本間さんは日本大学へ進学し、静岡県で大学生活を送りました。
中嶋さんとは通う場所が離れましたが、ここで関係が途切れることはなく、卒業後に一緒に芸人になる話が少しずつ具体化していきます。
日本大学へ進学し、中嶋とは別々の場所で大学生活を送る
本間さんが静岡で大学生活を送る一方、中嶋さんは東京で学生生活を続けていました。
離れていても中嶋さんは何度も静岡へ遊びに行き、本間さんと将来お笑いをやることを考えていました。
本間さん自身は、この時点でお笑い一本に絞っていたわけではなく、舞台役者やミュージシャンなども含めた「表現者」になることを考えていました。
両膝の大けがを経験し、格闘技以外の道も考える
大学でも柔道を続けていましたが、競技生活では大きなけがに見舞われています。
まず右膝の前十字靱帯を断裂し、手術とリハビリを経て約1年かけて復帰しました。
ところが復帰から数か月ほどで、今度は反対側の左膝も同じように負傷し、再び手術を受けています。
格闘技は大好きでしたが、競技者として将来を描くことは難しくなり、音楽や舞台、お笑いといった別の表現へ意識が向いていきました。
ジョビジョバに惹かれ「3人以上でお笑いをやりたい」と考える
高校から大学にかけて、本間さんが強く惹かれたグループがジョビジョバでした。
一人ひとりに違うキャラクターがありながら、大勢が集まったときに別の面白さが生まれるスタイルが好きで、ザ・ドリフターズやネプチューンにも同じ魅力を感じていたそうです。
「絶対3人以上がよくて」
Rooftop
本間さんは最初から2人組よりも、3人以上の集団でお笑いをすることに強く惹かれていました。
このこだわりは数年後、初代や団から一人が抜けたときにも、そのまま本人の選択として現れます。
「ヤ団」から「や団」へ、高田馬場で表記を変えた大学4年
大学4年になるころには、本間さんが東京へ来た際に中嶋さんと会い、2人でくだらない映像を撮って遊ぶこともありました。
ある日、高田馬場にあるラーメン店「渡なべ」へ立ち寄った際、漢字とひらがなが交じった店名の見た目から、かつての「ヤ団」もひらがなを使ったほうがいいと考えます。
ここで表記が「ヤ団」から「や団」へ変わり、現在まで続く名前になりました。
中嶋が海野健太郎を本間へ引き合わせ、3人での活動が現実になる
東京で大学生活を送っていた中嶋さんは、そのころ大学で海野健太郎さんと知り合っていました。
本間さんと3人でお笑いをやることを考えた中嶋さんは、まず2人を仲良くさせようと動きます。
海野さんの父親を通じて人気音楽フェスのチケットを手に入れ、ロック好きだった本間さんと海野さんをつなぐ機会を作りました。
そこで2人も親しくなり、本間・中嶋・海野という初代や団の3人がそろいます。
本間キッドが芸人になったきっかけ|内定を断って東京へ戻る
大学卒業が近づくと、子どものころから抱いていた「芸人になりたい」という気持ちと、現実の就職先を選ぶ時期が重なります。
本間さんは就職活動を避けたわけではなく、実際に一般企業から内定を得たところまで進んでいました。
親の手前で就活し、約3社から内定を得て研修にも参加
大学4年の本間さんは、家族にも進路を示すため就職活動を行い、約3社から内定を得ました。
そのうち一つの会社では入社前の研修にも参加しており、卒業後に会社員として働き始めてもおかしくないところまで準備が進んでいました。
一方、中嶋さんと海野さんとの間では、卒業後に3人でお笑いを始める話も進んでいました。
大学卒業直前の3月、就職を取りやめて芸人になる
進路を決めたのは大学卒業を目前にした3月でした。
本間さんは内定先へ就職することを取りやめ、静岡から東京へ戻って芸人になることを選びました。
「芸人になるぞ! と決めて、とっとと東京に戻ったんです」
Cocotame
芸人になる決断は、就職先が見つからなかった末の選択ではなく、内定と研修を経たうえで進路を切り替えたものでした。
養成所へ行かず、3人でフリーのお笑いライブに立つ
東京へ戻った本間さんたちは、NSCなどのお笑い養成所には入りませんでした。
最初に選んだのは、プロとして所属していなくても参加できるフリーのお笑いライブでした。
誰でも出演できるライブへ1〜2回ほど出て、その時点ですでに3人でコントを演じています。
授業でネタ作りや舞台の基礎を習ってからデビューしたのではなく、3人でネタを作り、実際の客前へ出ながら活動を始めた形でした。
ネプチューンへの憧れがSMA平井精一との縁につながる
所属先を考えたとき、本間さんの頭には中学生のころから好きだったネプチューンがいたため、当初はワタナベエンターテインメントも候補にありました。
ところが芸人仲間から「SMAがお笑い部門を始めた」と聞き、3人でSMA NEET Projectの面接を受けます。
そこで出会ったのが、お笑い部門を立ち上げた平井精一さんでした。
平井さんは本間さんたちと同じ日本大学の先輩で、以前はワタナベ側でネプチューンにも関わっていた人物だったため、本間さんにとって意外なところで学生時代からの憧れと接点が生まれます。
2005年4月、本間さん、中嶋さん、海野さんの初代や団はSMAで芸人として活動を始めました。
初代や団の若手時代|早くからSMA上位へ進むも海野が脱退
SMAへ入ったばかりのや団は、所属したものの舞台に立てない状態から始まったわけではありません。
当時のSMAで行われていたライブの中で、若手ながら比較的早い段階から上位へ進んでいきました。
2005年4月にSMAへ入り、トライアウトライブを駆け上がる
当時のSMAでは、ライブの結果によって芸人が段階的にランク分けされる「トライアウトライブ」が行われていました。
や団は第3回ごろから参加し、約50組が出演する中でもかなり若い側だったものの、勝ち上がりを重ねて上位ライブの常連になっていきます。
芸人1年目からライブでは手応えがあり、SMA内では早い時期から上位に顔を出すトリオになっていました。
このころから中心にあったのは漫才ではなくコントで、本間さんが後に長く続けるネタ作りもここから始まっています。
活動2年後の2007年、海野健太郎が芸人を辞める
3人で活動を始めて約2年がたった2007年、初代メンバーの海野さんが芸人を辞めることになりました。
大学を卒業して次の生活へ進む時期でもあり、海野さんはお笑いから離れる道を選びます。
ライブではすでに上位へ進み始めていたや団にとって、3人のうち1人が抜けることは活動の形そのものが変わる出来事でした。
本間は2人組ではなく、もう一度3人組を作ろうとする
海野さんが抜ければ、本間さんと中嶋さんの2人で続ける選択もありました。
しかし本間さんの中には、中高生のころから惹かれてきた「複数人で作る笑い」が残っていました。
本間さんと中嶋さんは2人組へ移行せず、新しい3人目を探して再びトリオを作ることにしました。
そこでSMA側から名前が挙がったのが、当時ピンで活動していたロングサイズ伊藤さんでした。
ロングサイズ伊藤との出会い|一本の電話で現在のや団へ
現在のや団は、最初から本間キッドさん、中嶋享さん、ロングサイズ伊藤さんで結成されたトリオではありません。
海野さんの脱退後、SMAの中で別に活動していた伊藤さんを誘ったことで、現在につながる3人がそろいました。
SMA平井精一からロングサイズ伊藤を紹介される
新しいメンバーを探していた本間さんと中嶋さんに、平井さんが候補として挙げたのがロングサイズ伊藤さんでした。
当時の伊藤さんはSMAのライブでは下のランクにいて、や団とは活動上の位置も離れていました。
それでも平井さんは伊藤さんの存在感や演技を見て、3人目として候補にしたといいます。
ネタ見せに来ない伊藤を待ち、本間から加入を持ちかける
本間さんと中嶋さんは、伊藤さんがSMAのネタ見せへ来るのを待つようになりました。
ところが何週待ってもなかなか姿を見せず、最終的には連絡先を教えてもらい、本間さん自身が電話をかけています。
「や団と言いますけど、良かったら一緒にやりませんか?」
Cocotame
そのころ伊藤さんは芸人を続けるかどうかも考えていた時期でしたが、この電話をきっかけにや団へ加わることになります。
2007年4月に現在の3人体制が始まる
2007年4月、本間さん、中嶋さん、ロングサイズ伊藤さんによる現在のや団が始動しました。
中学時代から「3人」でいることを好み、芸人になるときもトリオを選んだ本間さんは、初代メンバーが抜けたあとも3人体制を崩しませんでした。
現在のや団の「結成2007年4月」という記録は、このロングサイズ伊藤さんが加入した時点を指しています。
本間さんと中嶋さん自身の芸人活動は2005年から始まっているため、「や団の現在の結成時期」と「本間さんの芸歴開始時期」には約2年の違いがあります。
新生や団の最初の舞台で伊藤が感じた客席の反応
伊藤さんは加入前、客としてや団の舞台を見たことがありました。
そのとき客席から「てっちゃーん!」と本間さんへの声が飛んでいたため、「かなり人気のある芸人なのでは」と感じていたそうです。
実際には、その声を出していたのは本間さんのアルバイト仲間たちでした。
下のランクで活動していた伊藤さんにとって、SMA上位にいたや団へ突然入る最初の舞台は、それまでとは客席の規模も反応も違う場所になりました。
海野さんと伊藤さんは体格が比較的近かったこともあり、メンバーが替わった直後には、その変化にすぐ気づかない客もいたとメンバーは後に振り返っています。
長い下積み時代|KOC準決勝とアルバイト生活が続く
現在の3人になったや団は、ライブでまったく評価されない状態が続いたわけではありません。
むしろ賞レースでは何度も上位まで進みながら、あと一段のところで決勝へ届かない時間が長く続きました。
KOC初期から準決勝へ進みながら決勝には届かない年月
キングオブコントが始まった2008年からや団は大会へ挑戦し、2009年には早くも準決勝へ進出しました。
その後も準決勝まで残る年が増えていきますが、決勝の10組には入れない状態が続きます。
ライブでは評価され、賞レースでも最後の数十組まで進む一方、テレビで広く名前を知られるところまでは届かないという年月でした。
「30歳まで」の家族との約束を越えて芸人を続ける
就職を断って芸人になった本間さんには、家族から一つの区切りも示されていました。
おおむね「30歳くらいまでに芽が出なければ辞める」という条件です。
30歳を迎えるころには、キングオブコントで予選を勝ち上がるようになり、『オンバト+』などテレビへ出る機会も少しずつ生まれていました。
大きく売れてはいなくても、前年より先へ進んでいる材料があったため、本間さんは30歳を越えても芸人を続けました。
「お笑い自体を辞めようと思ったことはないですね」
Cocotame
水道メーター検針をしながら舞台へ通った生活
舞台を続ける一方、本間さんが長く生活を支えていた仕事が水道メーターの検針でした。
SMAの芸人には同じ仕事を経験した人が複数いて、本間さんも水道メーターを確認して回る仕事をしながらライブやネタ作りを続けています。
30代半ばごろまでは埼玉の実家から芸人活動へ通い、その後は高円寺周辺の古い木造アパートへ移って生活していました。
2020年の時点でも、や団の3人はまだ全員がアルバイトを続けていました。
KOC準決勝の常連になってからも、本間さんの日常には水道メーター検針と芸人活動が並んでいました。
ネタだけでなく演技や客への見せ方を修正していく
決勝へ届かない期間、や団はネタの設定だけでなく、3人のキャラクターや演技の見せ方も変えていきました。
2019年ごろに作ったコント「バーベキュー」はSMAの大会で評価され、翌2020年には『新春大売り出し!さんまのまんま』内の「今田耕司のオススメ芸人コーナー」でも披露する機会を得ます。
それまでKOCを意識しすぎて「何を作ればいいのか」が見えにくくなっていた中で、伊藤さんの極端な行動や中嶋さんの独特な反応をそのまま前へ出す方向が見えてきました。
「素直に狂気と異常者でいい(笑)」
Cocotame
メンバーの演技も、舞台の中だけで完結させるのではなく、客席へ顔を見せ、何が起きているのかが伝わるように少しずつ調整されていきました。
本間さん自身は、場所も人物も小道具も自由に設定できるコントについて「コントなら、何でもできる」と話しており、その「作品を作る」感覚がネタ作りの中心にありました。
「バーベキュー」と初単独ライブ|2022年KOC初決勝の直前に変えたこと
何度もキングオブコント準決勝へ進みながら決勝へ届かなかったや団にとって、2022年はそれまでと違う動きを始めた年でした。
本間さんたちはネタそのものに加え、ライブの規模や他者から意見をもらう相手まで広げていきます。
停滞の中で3人の「狂気と異常さ」が見えるネタが生まれる
その流れの一つにあったのが、先ほど触れた「バーベキュー」でした。
3人それぞれの人物像を無理に整えるのではなく、伊藤さんの異様な行動、本間さんの反応、中嶋さん独特のズレが同じ場面で動く形が、や団のコントとして定着していきます。
長く続いた「KOCで決勝へ行くには何を作ればいいのか」という迷いの中で、3人のキャラクターをそのまま使える方向が見え始めました。
2022年7月、座・高円寺2で初単独「真夏のや団」を強行
2022年7月には、結成以来初めてとなる単独ライブ「真夏のや団」を東京の座・高円寺2で開催しました。
普段出演していたBeach Vよりはるかに大きく、250人以上が入る会場で、開催を決めた時点から満席にできる見込みがあったわけではありません。
実際に客席は埋まり切りませんでしたが、本間さんは、それまでと同じことを続けていても状況は変わらないと考えて大きな会場を選んでいました。
KOC決勝へ届かない状況を変えるため、売れてから単独ライブを大きくするのではなく、先に大きな会場へ出ました。
「もっと広いところで、もっと多くの人に見てもらいたい」
Cocotame
外部の芸人・作家からもネタを見てもらい、決勝へ向けて磨く
同じ時期、ネタをSMA内部だけで見る状態からも離れました。
バッファロー吾郎Aさんや作家のせきしろさんらにもネタを見てもらい、舞台上での立ち位置や客席への見せ方について意見を受けています。
マネージャーの鈴木俊樹さんも、以前と比べて3人それぞれの演技力が上がり、客席へ顔を見せることや、3人のバランスが改善していった時期だったと振り返っています。
ネタの設定だけを作り直すのではなく、演技、立ち位置、見せ方まで外部の目を入れて調整したうえで2022年のKOCへ向かいました。
15回目の挑戦でKOC初決勝、3位を境に仕事が変わる
2022年9月、や団はついにキングオブコント決勝進出を決めました。
2008年の第1回大会から出場を続け、15回目の大会で初めてファイナリスト10組に入ったことになります。
初めて立った決勝では、ファーストステージを突破して最終決戦まで残り、最終順位は3位でした。
決勝後はテレビやライブの仕事が増え、本間さんは長く続けてきた水道メーター検針の仕事を辞めています。
2005年に就職を取りやめて芸人になってから、生活のためのアルバイトを続けながら舞台へ立った時間を経て、芸人の仕事だけで過ごす日常へ変わっていきました。
KOC常連から現在へ|コントをライブと本へ広げる本間キッド
2022年の初決勝以降も、や団はキングオブコントへの挑戦を止めませんでした。
一度の決勝進出を区切りにするのではなく、翌年以降も同じ3人でコントを作り続けています。
2023年・2024年・2025年も決勝へ進み、2025年は準優勝
や団は2023年もキングオブコント決勝へ進んで5位、2024年は4位となりました。
さらに2025年もファイナリストとなり、これで2022年から4年連続の決勝進出です。
2025年はファイナルステージまで進み、ロングコートダディに次ぐ合計937点で準優勝となりました。
初決勝まで15大会を要したトリオが、その後は4大会続けて決勝の舞台に立っています。
私生活では2026年4月、本間さんが一般女性との結婚を公表しました。
単独ライブが全国ツアーへ広がり、2026年は5都市6公演
2022年に座・高円寺2で初めて行った単独ライブも、その後は規模を広げました。
2025年には初の単独ツアーを行い、2026年の単独ライブツアー「巡業」では東京、愛知、福岡、大阪、新潟の5都市を回る6公演へ拡大しています。
2022年に「もっと多くの人に見てもらいたい」と大きな会場へ踏み出した単独ライブは、数年後には複数都市を巡るツアーになりました。
自身のコントを活字化した『弾丸爛漫奇譚集』を出版
ネタ作りを担当する本間さんは、舞台の外にもコントを広げています。
2026年6月には、本間キッド名義の著書『弾丸爛漫奇譚集』を刊行しました。
これまで舞台で演じてきたや団のコントを文章作品として再構成したもので、サスペンスと笑いが交じる12編が収録されています。
20代から作り続けてきたコントは、ライブだけでなく「読むコント」として書籍にもなりました。
2026年9月時点、KOC2026は準決勝まで進出
や団は2026年もキングオブコントへ出場し、8月に発表された準決勝進出35組に入りました。
準決勝は2026年9月3日・4日に行われ、決勝進出10組の発表は9月10日午後6時に予定されています。
そのため2026年9月6日現在、や団について確認できる最新状況は「KOC2026準決勝進出」までで、5年連続の決勝進出が決まった段階ではありません。
富士見市で育ち、中学生のころにネプチューンを見て芸人を意識した本間キッドさんは、大学卒業直前に会社員ではなくお笑いの道を選びました。
中嶋享さん、海野健太郎さんとの初代や団から、ロングサイズ伊藤さんを迎えた現在の3人へ変わり、水道メーター検針を続けながら何度もKOC準決勝へ挑んだ末、2022年に初めて決勝へ進みました。
現在も3人でコントを作り、賞レース、全国ツアー、そして本間さん自身の書籍へと活動を広げています。












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