人物プロフィール
ドッキリを仕掛けられれば大声で怒り、長時間の体当たり企画でも最後まで粘る姿で知られている、お笑いコンビ「きしたかの」の高野正成さん。
現在の姿だけを見ると、最初からリアクションや強烈なツッコミを武器に芸人を目指していたようにも見えますが、高野さんの学生時代はかなり違います。
4歳から大学卒業まで剣道を続け、大学では社会科の教員免許を取得し、そのまま教師になるつもりでした。
その進路を動かしたのが、中学1年生からの友人だった岸大将さんです。
しかも、岸さんから正式に「一緒に芸人をやろう」と誘われたわけではなく、高野さんが岸さんの言葉を自分への誘いだと受け取り、養成所のパンフレットを持っていったところから現在のコンビへつながっていきました。
江東区で剣道を続けていた少年が、どこでお笑いと出会い、なぜ教師ではなく芸人を選び、どのように現在の「怒りツッコミ」へたどり着いたのでしょうか。
高野正成の生い立ちと家族|江東区で剣道を始めた少年時代
高野さんは1989年5月20日、東京都江東区出身で、本名は旧字体を使った「髙野正成」です。
家族については母、姉、弟の存在が本人の後年の発言から確認でき、父親は地元で居酒屋を営みながら剣道にも深く関わっていました。
4歳から大学卒業まで続く剣道生活が始まる
現在の高野さんを語るうえで外せないのが、幼いころから続けてきた剣道です。
本人は2026年の『Tarzan Web』のインタビューで、4歳から剣道を始め、大学を卒業するまで続けていたと話しています。
マセキ芸能社の公式プロフィールにも剣道四段と記載されており、中学・高校時代には東京都大会の団体戦で優勝した実績があります。
父親も剣道経験者で、後年、高野さんは江東区出身の元プロ野球選手・松坂大輔さんが少年時代に剣道をしていた際、父が指導したことがあると明かしています。
父は居酒屋を営んでおり、松坂さんが高校野球で全国的に注目されたころには、その縁から父の店へテレビ取材が来たこともありました。
小学校では深夜番組のギャグで笑いを取っていた
剣道に打ち込む一方、小学校ではすでに友達を笑わせる立ち位置にいました。
当時の高野さんはテレビ、特に周囲の同級生があまり見ていなかった深夜番組を見て、そこで覚えたギャグを学校へ持ち込んでいました。
給食を食べながら「まいう〜」と言うだけでも友達から笑いが起き、本人の記憶ではかなり手応えがあったようです。
「小学校で一番面白かったんです(笑)」
FRIDAYデジタル
まだ自分でネタを作っていたわけではありませんが、テレビで見つけた笑いを翌日の学校へ持っていくという過ごし方は、このあと岸さんとの関係が始まる場面にもつながります。
剣道経験者で居酒屋を営んでいた父と家族
父親は地域で剣道に関わる一方、居酒屋を営んでいた人物で、高野さんが大人になってからも父の店は芸人仲間が訪れる場所になっていました。
高野さん自身が芸人として仕事を増やしていく途中で父は他界しましたが、2026年に『チャンスの時間』で父の足跡をたどった際、最後の会話も明かしています。
「任せたぞ、長男坊」
ABEMA『チャンスの時間』
そのとき高野さんは、母や姉弟のことを自分が何とかすると父に返した最後のやり取りも話していました。
中学で岸大将と出会う|「面白い高野」の元ネタを見破られる
小学校で笑いを取っていた高野さんのことを、中学校へ進む前から知っていたのが後の相方・岸大将さんでした。
2人は同じ江東区で育ち、中学1年生のときに初めて同じクラスになります。
中学1年で初めて同じクラスになった2人
岸さんは高野さんと同じクラスになる前から、「小学校にかなり面白い高野という生徒がいる」という話を人づてに聞いていました。
実際に同じクラスになると、高野さんは小学校時代と同じようにテレビで見た笑いを友達の前で披露していました。
ただし、そこで小学校時代とは違うことが起こります。
同じ深夜番組を見ていた岸とお笑いの話で近づく
岸さんも深夜番組を見ていたため、高野さんが披露していたギャグの元ネタをすぐに見抜きました。
周囲には元ネタが知られていなかった小学校時代と違い、岸さんには通用しませんでした。
その代わり、同じテレビ番組やお笑いを見ているという共通点が見つかり、2人はお笑いの話をする友人になっていきます。
この時点で将来一緒に芸人になる約束はしておらず、本人たちによれば、中学生のころからコンビ結成を決めていたわけでもありませんでした。
中学でも剣道を続け東京都大会で実績を残す
お笑い好きの友人として岸さんと付き合う一方で、高野さんの日常の大きな部分を占めていたのは依然として剣道でした。
マセキ芸能社のプロフィールでは、中学・高校時代に東京都大会団体優勝と紹介されています。
小学校から続けてきた剣道で結果を残し、その実績は高校進学の際にも生かされることになります。
國學院大學久我山高校へ|剣道推薦から全国大会へ
中学校を卒業すると、高野さんは國學院大學久我山高等学校へ進みました。
進学の入口になったのは、それまで続けてきた剣道でした。
高校3年で東京都大会団体優勝、全国大会へ進む
高野さんは剣道推薦で國學院久我山へ入り、高校でも剣道部に所属しました。
高校3年生になると団体戦のメンバーとして東京都大会を制し、全国大会へ進出しています。
後年テレビで大声を上げながら体を張る姿とはかなり違いますが、高校時代の高野さんは全国大会を目指す剣道部員として毎日の練習を重ねていました。
校門に掲げられた横断幕を同級生が16年後に思い出す
高校時代の高野さんを伝える証言の一つに、同級生だったキリン研究者の郡司芽久さんの回想があります。
國學院久我山は一学年の人数も多く、郡司さんと高野さんは在学中に話した記憶がないほど接点がありませんでした。
それでも郡司さんは、剣道部が全国大会へ出場した際に校門横へ掲げられた横断幕を覚えていました。
卒業から16年後の2024年、声優・俳優の石川由依さんを含む同級生3人で母校を訪れた際、郡司さんは当時の横断幕に名前があった選手が高野さんだったことを知ります。
長時間の「太鼓」の稽古で身についた感覚
高校の剣道部には、高野さんが「太鼓」と呼んでいる掛かり稽古がありました。
先生が太鼓を鳴らしてから次の合図まで相手と打ち合い続ける練習で、本来なら数分でもきつい内容を、先生がその場を離れたことで長時間続けたこともあったといいます。
終わりが見えない状態で竹刀を振り続けながら、高野さんの中には一つの感覚が残りました。
「何事もいつかは終わる」
Tarzan Web
この言葉はずっと後になって、『水曜日のダウンタウン』などで何時間も続く企画へ挑む際にも本人の頭に浮かぶことになります。
日本大学時代|社会科教師を目指していた進路が動く
高校卒業後、高野さんは日本大学経済学部へ進みました。
大学でも剣道を続けながら、卒業後の職業として考えていたのはお笑い芸人ではなく学校の教師でした。
大学卒業まで剣道を続け、社会科教員免許を取得
4歳で始めた剣道は大学まで途切れず、高野さんは学生生活の大半を剣道とともに過ごしました。
さらに大学では中学校と高校の社会科教員免許を取得しています。
芸能界へ進むことを前提に資格を取っていたわけではなく、本人の進路は学校の先生になる方向へ進んでいました。
「そのまま先生になるつもりだった」
FRIDAYデジタル
岸の「芸人になる」という宣言を自分への誘いだと思う
同じころ、岸さんは大学まで続けてきた水泳を離れたあと、芸人になることを考えていました。
岸さんが仲間の前で「芸人になる」と話したとき、高野さんもその場にいました。
ただし岸さんの認識では、高野さんへ「一緒にやろう」と誘ったわけではありません。
ところが高野さん側は、その話を自分への誘いだと受け取っていました。
数日後、養成所のパンフレットを持って岸のもとへ
岸さんが芸人になると話してから数日後、高野さんはお笑い養成所のパンフレットを用意して岸さんのところへ持っていきます。
岸さんからすれば、誘った覚えのない友人が一緒に芸人になる準備を始めていたことになります。
岸さんは当時、シソンヌやかが屋のような雰囲気のコンビに憧れがあり、もっと「シュッとした」タイプの相方を想像していたとも話しています。
それでも高野さんとコンビを組んだ場面を頭に浮かべると、なぜか熱湯風呂に入っている高野さんの姿が思い浮かび、「一緒なら面白いことができるかもしれない」と考えました。
教師になる予定だった高野さんの進路は、正式な勧誘さえなかった岸さんとのやり取りを境に、お笑いへ動きました。
ワタナベコメディスクールから「きしたかの」結成へ
進路をお笑いへ切り替えた2人は、ワタナベコメディスクールへ進みます。
中学校で出会ってから長い付き合いになっていたものの、ここで初めて2人は同じ目標を持って芸人の世界へ入りました。
2011年に岸と養成所へ|同期と過ごした時期
2人は2011年にワタナベコメディスクールへ入り、ネタ作りや舞台へ出るための基礎を学び始めました。
高野さんは後年も同じ時期に芸人を始めた仲間との交流があり、芸歴を重ねたあとも同期芸人と仕事をしています。
「一緒にやろう」と言わないまま2012年にコンビ結成
養成所での時間を経て、2人は2012年に「きしたかの」を結成しました。
M-1グランプリ公式には結成年が2012年4月1日と登録されています。
コンビ名は2人の名字である「岸」と「高野」をひらがなでつないだ、現在まで使われている「きしたかの」です。
本人たちは後年も、学生時代から結成まで一度もきちんと「一緒にやろう」と言っていないことをネタにしており、勘違いから始まった相方関係がそのまま10年以上続くことになりました。
初期は正統派コント|岸が書き、高野が笑えばネタ採用
現在は漫才やバラエティーでの印象も強い2人ですが、若手時代に力を入れていたのは正統派のコントでした。
ネタ作りでは高野さんがテーマを出し、それを岸さんが台本にして、高野さんが読んで笑えば採用するという形で作っていました。
当時の高野さんは、現在のように最初から大声で怒り続けるツッコミではなく、岸さんによればもっと相手のボケを受け流すようなツッコミをしていました。
「怒る高野」はコンビ結成時から完成していたキャラクターではありませんでした。
養成所卒業後のフリー時代|アルバイトをしながら舞台へ
養成所を出たからといって、すぐに現在のマセキ芸能社へ所属できたわけではありません。
2人には約1年間、フリーとして活動しながら生活費をアルバイトで支えた時期がありました。
岸と弁当店で1年間働き、高野は盛り付けを担当
フリー時代、高野さんと岸さんは同じ弁当店で約1年間アルバイトをしていました。
料理が得意ではなかった高野さんは盛り付けを担当し、岸さんは米を炊いたり調理をしたりする側を担当していました。
9つに分かれた弁当容器のうち3か所へご飯を盛る作業では、高野さんは休まず同じ作業を3時間ほど続け、しかも徐々にスピードが上がっていったといいます。
岸さんが思わず「なんでずっと同じことできるの?」と驚くほどで、高校まで続けた剣道とはまったく違う場所でも、長時間同じ作業を続ける姿がありました。
ラーメン店など複数のアルバイトで芸人生活を支える
弁当店以外にも、高野さんは若手時代にラーメン店など複数の仕事を経験しています。
2026年には、かつて長く働いていたラーメン店の系列店で15年以上ぶりに実際の仕事へ挑戦する企画にも出演しました。
厨房へ入ると、昔の経験を思い出しながらラーメン作りやランチタイムの仕事をこなし、売れる前に続けていた仕事を映像の中で改めてたどっています。
芸人仲間と会社員の同級生を含む3人でルームシェアしていたころには生活が苦しくなり、水で腹を膨らませたり、先輩に食事をおごってもらえば翌日の分まで食べたりした時期もありました。
オーディションを経てマセキ芸能社へ
フリーでの活動を経て、きしたかのはオーディションを受け、現在まで所属するマセキ芸能社へ入ります。
事務所へ所属すると平日の勤務が必要だった弁当店との両立が難しくなり、2人はそのアルバイトを辞めました。
ここから事務所ライブなどへ出られるようになったものの、テレビの仕事が急に増えたわけではなく、長い若手時代が続きます。
若手・下積み時代|「3年で辞める」を何度も更新した日々
芸人を始めた高野さんは、最初から10年以上続けるつもりではありませんでした。
むしろ本人は、芸人になったころには3年程度で売れると考えていました。
ネット番組や小さなCM出演が芸人を続ける理由になる
2人は事務所へ入る際、「3年間やってテレビへ出られなければ辞める」「レギュラーが決まらなければ辞める」といった短期の区切りを決めていました。
ところが最初の3年ほどでネット番組のレギュラーが決まり、その次の区切りには小さな役ながらCMの仕事が入ります。
「ここまでに何もなければ辞める」という時期が来るたび、小さくても次の仕事が入り、本人たちの言う「契約更新」のような形で芸人生活が続きました。
2018年になっても一般的な知名度は高くなく、『おもしろ荘』へ出演した時点でも2人は「まずはネタ」で知られたいと話していました。
三四郎・小宮に本気で怒り、現在のツッコミが生まれる
その若手時代に、高野さんの芸人人生を大きく変える場面が事務所ライブで起きます。
MCを務めていた先輩コンビ・三四郎の小宮浩信さんが、高野さんを何度もいじり続けました。
当時は大声で怒るキャラクターではなかった高野さんでしたが、あまりにいじられるため、本当に腹を立てて強く言い返します。
すると、それまでとは違う大きな笑いが起きました。
「初めてツッコミが面白いと思った。あそこがターニングポイント」
スポニチアネックス
2026年には岸さんがこの出来事を改めて振り返り、小宮さんへ本気で怒った帰り道、高野さんが「あの感じで行く」と話したことも明かしています。
現在の「怒りツッコミ」は、計画して作ったキャラクターではなく、先輩芸人へ本気で怒った瞬間に客席が笑ったことから始まりました。
「喉爆発ライブ」と正統派コントで舞台を重ねる
怒るツッコミに手応えを得たあとも、きしたかのはライブでネタを続けました。
高野さんのツッコミを前面に出した企画では、複数の芸人が次々にボケ、高野さんが約6時間にわたってツッコミ続ける「喉爆発ライブ」まで行っています。
一方でコンビとしては正統派コントにもこだわり、怒るだけではなく、岸さんの細かなボケへ高野さんが徐々にテンションを上げて返していく形を作っていきました。
2018年「おもしろ荘」出演後も「まずはネタ」
2018年には『ぐるぐるナインティナイン』内の「おもしろ荘」へ出演しました。
テレビへ出る機会は生まれていたものの、ここで一気に生活が変わるほど仕事が増えたわけではありません。
同年のインタビューでも、岸さんは「まずはネタ」と話し、高野さんも賞レースで現状を変えたいという考えを示していました。
翌2019年には『チャンスの時間』で、きしたかのが体を張る「イッテQ!への道」という企画が始まり、テレビとは別の場所で高野さんのリアクションが使われる機会が増えていきます。
2020〜2021年、芸歴10年で「無理かもしれない」と感じる
それでも芸歴が10年に近づくころ、高野さんの中にはそれまでとは違う不安が出始めました。
ライブの取り置きや出待ちの人数を見ても人気があるとは言えず、周囲ではモグライダー、真空ジェシカ、オズワルドなど知り合いの芸人が次々に知られるようになっていました。
さらにコロナ禍に入ると芸人の仕事だけでなくアルバイトも減り、ほとんど仕事がない時期を経験します。
「もしかして無理ってことあるのか?」
Tarzan Web
当時は第7世代と呼ばれる後輩たちがテレビで注目され、その番組の前説をきしたかのが担当したこともあり、高野さんは後輩が客席から歓声を浴びる姿を舞台袖に近い位置から見ていました。
2020年から2021年ごろは、高野さん自身が「本当に無理かもしれない」と考えた時期でした。
「チャンスの時間」とYouTubeが転機|仕事が増え始める
仕事が少ない時期にも、完全に芸人としての接点が途切れたわけではありませんでした。
細く残っていたライブと番組出演の中から、後に高野さんを広く知られる存在へ押し出す動きが生まれます。
仕事が少ない時期も『チャンスの時間』が月1回の接点になる
高野さんによると、ほかの仕事がほとんどなくなった時期にも、ABEMAの『チャンスの時間』には月に1回ほど呼ばれていました。
出演本数だけを見れば多くありませんが、「番組側にきしたかのを面白いと思っている人がいる」と感じられる仕事でした。
ライブと『チャンスの時間』だけになった時期にも、この番組との接点が残っていたことで芸能界から完全に切れてはいないという感覚を持てたと話しています。
2020年にYouTube開始、2022年に「高野さんを怒らせたい。」が拡大
もう一つの動きがYouTubeでした。
きっかけを作ったのは、元芸人で作家・編集を担当する大河内敦揮さんです。
大河内さんは『チャンスの時間』に出ていたきしたかのを見て、「もっと見たい」と思ったものの、ほかのメディアではなかなか2人を見つけられなかったため、自分からYouTubeをやらないかと声をかけました。
声をかけたのは2019年秋ごろで、2020年1月には最初の撮影を始め、その年の3月からチャンネルが動き始めます。
ただし最初から成功したわけではなく、2人に趣味を聞いても題材がなかなか見つからず、一般的なYouTuberがやりそうな企画を試すような時期が続きました。
そこで岸さんと大河内さんは、高野さんの強いツッコミそのものを見せる方法を考えます。
「ツッコミを見せるチャンネル」では伝わりにくいため、ボケを用意して高野さんに反応してもらう構造を「高野さんを怒らせたい。」と言い換えました。
2022年1月にチャンネルをリニューアルすると、映画の字幕がずっと天気の話になっているドッキリなどが芸人仲間の間でも見られるようになり、再生数が伸び始めます。
賞レースで優勝して突然テレビへ出たのではなく、ライブで生まれた怒りツッコミをYouTubeが何度も見られる形にしたことが、大きな転機になりました。
大河内敦揮と岸大将がドッキリを考える
リニューアル後の企画会議は、主に岸さんと大河内さんの2人で行われるようになります。
仕掛けられる側の高野さんを会議に入れてしまえばドッキリにならないため、高野さん本人は完成した企画を知らないまま撮影へ入ります。
大河内さんは単純に再生回数だけを追うのではなく、テレビ関係者などへ「高野さんをこう扱うと面白い」と伝わる動画を作ることを重視していました。
高野さん自身も、2023年のFRIDAYインタビューで、YouTubeがドッキリ中心になってから比較的早く結果が出たと話しています。
怒りツッコミとリアクションがテレビでも知られていく
YouTubeで「高野さんをどう扱うと面白くなるのか」が見えやすくなると、テレビでも高野さんの怒りやリアクションを生かす企画が増えていきました。
高野さんは後年、モグライダーやみなみかわ、真空ジェシカ、オズワルドなど、自分を昔から知る芸人たちが番組内で「こう扱えばいい」と見せてくれたことも大きかったと振り返っています。
以前は突然大声を出しても「誰なのか分からない」と注意されることがありましたが、高野さんの人物像が知られるにつれ、周囲からいじられた末に爆発する形がテレビでも成立するようになりました。
2023年のインタビューでは、1〜2年前まで芸人としての収入がほぼなかった状態から仕事が増え、高野さんは「売れた」というよりようやく芸人になれたような感覚だと語っています。
M-1初準決勝から現在へ|ネタと体当たり企画の両方で活動
YouTubeやバラエティーで高野さんの名前が広がる一方、きしたかのはコンビとして漫才の舞台にも立ち続けました。
テレビで知られたあとに賞レースへ初めて挑んだわけではなく、若手時代から続けてきたネタの活動が2023年に一つの結果へつながります。
2023年M-1で初の準決勝、敗者復活戦へ
きしたかのはM-1グランプリ2023で初めて準決勝へ進出しました。
決勝進出には届きませんでしたが、準決勝敗退組として12月24日の敗者復活戦へ出場しています。
芸人を始めたころに想像していた「3年ほどで売れる」という時間からは大きく遅れましたが、結成11年目で初めてM-1準決勝の舞台まで進みました。
その前年からYouTubeが伸び、2023年にはテレビ出演も増えていたため、M-1準決勝はブレイクの始点というより、仕事が変わり始めた時期にネタでも残した結果という位置づけになります。
剣道で覚えた「いつかは終わる」が長時間企画でも生きる
テレビの仕事が増えてから、高野さんには長時間耐える企画や体を張る仕事も多く回ってくるようになりました。
『水曜日のダウンタウン』では、清春さんの新曲の歌詞をすべて聞き取れるまで終われない企画に挑み、およそ60時間に及ぶ生活を経験しています。
本人がそのとき思い出したのが、高校の剣道部で太鼓が再び鳴るまで竹刀を振り続けた練習でした。
4歳から大学まで続けた剣道の時間と、現在テレビで求められる高野さんのタフさが、ここで同じ場面に重なります。
テレビ・ラジオ・YouTube・ライブへ活動が広がる
2026年現在、きしたかのはテレビだけでなく、TBSラジオ『きしたかののブタピエロ』、YouTube「高野さんを怒らせたい。」、ライブなど複数の場所で活動しています。
高野さん個人でもバラエティーやロケへ呼ばれる機会が増え、以前のように「誰かが自分へ振ってくれるのを待ったまま何も起こらない」という状況とは仕事の景色が変わりました。
私生活では結婚後に妻と暮らすようになり、2026年6月には第一子となる男児が誕生しています。
第一子が生まれる前に『チャンスの時間』で亡き父のことをたどった高野さんは、自分が知らなかった父の若いころの話を地元の人たちから聞き、最後には父への思いを言葉にしました。
幼いころは父と同じ剣道を始め、中学ではテレビ好きの岸さんと出会い、大学では教師になる準備まで進めていた高野さんですが、岸さんの一言を自分への誘いだと思ったことで芸人の道へ入りました。
そこから弁当店やラーメン店で働きながら舞台へ出て、小宮浩信さんとのライブで怒りツッコミが生まれ、芸歴10年を超えて仕事がなくなりかけた時期を経てYouTubeと『チャンスの時間』から知られていきました。
現在テレビで見せている高野正成さんの大声やタフなリアクションの少し前には、竹刀を握り続けた学生時代と、教師になるはずだった大学時代、そして岸大将さんと長く売れない時間を過ごした若手時代があります。












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