人物プロフィール
テレビ番組では大悟さんの自由なボケを拾い、独特の言葉で即座にツッコむ姿がすっかりおなじみになった千鳥のノブさん。
いまではMCを任される機会も多いノブさんですが、高校卒業後に選んだ進路は芸人ではなく、シャープの営業職でした。
しかも高校時代には、すでに大悟さんと休み時間にダウンタウンについて語り、授業中には紙を回して大喜利をしていたにもかかわらず、自分が芸人になることについては「無理」だと思っていたといいます。
その会社員生活を約1年で手放すきっかけになったのが、高校時代からの友人だった大悟さんからの「一緒に漫才をやろう」という誘いでした。
父親から強く反対されながら大阪へ向かい、吉本のオーディションでは何度も落ち、初舞台では大きく失敗し、笑い飯と六畳一間で暮らした時期もあります。
ノブさんがどんな家庭で育ち、大悟さんとどのように出会い、会社員から芸人へ進んだのか、現在の千鳥に至るまでを順番にたどっていきます。
千鳥ノブの生い立ちと家族|井原市で3兄弟の末っ子として育つ
ノブさんの本名は早川信行さんで、岡山県井原市芳井町で育ちました。
家には兄が2人おり、ノブさんは3兄弟の末っ子です。
3兄弟を同じように育てた父・勝治さんと母・千代子さん
父親は早川勝治さん、母親は千代子さんで、両親は1972年に結婚し、その後3人の男の子を育てました。
山陽新聞による両親への取材では、当時暮らしていた地域には約40世帯があり、男の子3人を育てる家庭も珍しくなかったと語られています。
3歳ずつほど離れた兄弟について、両親が意識していたのは、末っ子だからといってノブさんだけ扱いを変えないことでした。
「3人とも同じようにして、ノブの服や靴も極力、お下がりは使いませんでした」
LaLa Okayama(山陽新聞)
次兄には、下級生に厳しく接する部活動の習慣を「翌年にノブが同じ目に遭うかもしれない」と考えて止めたというエピソードも残っています。
兄弟はそれぞれ違う道を歩きながらも、幼いころは同じ地域で遊び、同じようにスポーツを始めていきました。
実家の前には、樹齢約450年と伝えられる大きなカヤの木があり、幼いノブさんはその木へ登ろうとして叱られたこともあったそうです。
小学4年から少年野球、卒業文集の夢は「日本テレビの社長」
早川家の3兄弟は、そろって小学4年生から少年野球を始めました。
兄2人は高校まで野球を続け、ノブさんも中学校までは野球に取り組んでいます。
その一方で、家にいるときから好きだったのがテレビでした。
大人になって小学校の卒業文集を見返した際、そこに書かれていた自分の将来の夢が「日本テレビの社長」だったことを知ったといいます。
芸人やタレントと書いていたわけではありませんが、ノブさん自身は、当時テレビが好きだったことから日本テレビの名前を書いたのではないかと振り返っています。
子どものころからテレビは身近でしたが、この時点で「芸人になる」という将来を決めていたわけではありませんでした。
中学まで野球を続け、高校ではサッカー部へ
中学校まで野球を続けたノブさんは、高校でも当初は野球部を考えていました。
ところが本人の回想では、このころ肘を痛めていたこともあり、最終的には野球ではなくサッカー部へ入っています。
進学したのは、吉本興業の公式プロフィールにも記載されている岡山県立笠岡商業高等学校です。
井原市から笠岡市の高校へ通うようになったことで、ここからノブさんの人生に長く関わる同級生と出会うことになります。
笠岡商業高校で大悟と出会う|休み時間も授業中もお笑い漬けに
笠岡商業高校で同級生になったのが、のちに千鳥の相方となる大悟さんです。
ただし入学直後から親友だったわけではなく、1年生のころにはほとんど話していませんでした。
ソフトボールの試合で飛ばした一言から大悟と急接近
2人の距離が縮まったのは、高校2年生のころに行われたクラス対抗のソフトボールでした。
バッターボックスに立った大悟さんが独特な構えを見せたとき、レフトを守っていたノブさんが遠くから声を飛ばします。
「おい! ドミニカ出身か!」
TOKYO FM「木村拓哉 Flow」
それを聞いた大悟さんが「面白いやつだ」と感じ、共通の友人を通して話すようになったと2人は振り返っています。
後の千鳥につながる最初の接点は、養成所でもお笑いライブでもなく、高校のソフトボールで交わした一言でした。
ダウンタウンを語り、大喜利の紙を授業中に回した高校3年
高校3年生になると2人は同じクラスになり、お笑いの話をする時間が一気に増えていきます。
休み時間になると学校のベンチへ行き、当時好きだったダウンタウンや『ダウンタウンのごっつええ感じ』について話していました。
さらに授業中には、ノブさんが紙へ大喜利のお題を書いてクラスメート経由で大悟さんへ回し、大悟さんが答えを書いて返すという遊びを繰り返していたそうです。
当時放送されていた松本人志さんの『一人ごっつ』を見ていたことが、こうした大喜利遊びにも影響していました。
まだコンビを組んではいませんでしたが、ノブさんがお題やきっかけを投げ、大悟さんが返し、それを2人で面白がるという時間は高校の教室ですでに始まっていました。
人前で笑いを取ろうとして失敗した文化祭の司会
高校3年生では、2人で文化祭の司会も担当しています。
教室で友人同士を笑わせることとは違い、大勢の前で「何か面白いことを言わなければならない」という状況になったノブさんは、思うようにいきませんでした。
「めちゃくちゃすべりました」
ORICON NEWS
後年、母校を訪れた2人はこの文化祭を振り返っており、ノブさんにとっては、人前で笑いを求められる難しさを初めて強く味わった場面になりました。
高校ではこれほどお笑いに時間を使っていた2人ですが、卒業の日が近づくと、進路は同じ方向には進みませんでした。
高校卒業後はシャープへ就職|芸人になりたくても「無理」と考えた時期
高校を卒業すると、大悟さんは芸人を目指して大阪へ向かいました。
一方のノブさんは広島で就職し、学生時代とは別の生活へ入ります。
大悟は大阪へ、ノブは営業職へ進んで別々の道を選ぶ
ノブさんが入社したのはシャープで、担当していたのは営業職でした。
高校では大悟さんとお笑いの話ばかりしていたため、そのまま2人で芸人になったようにも見えますが、実際には卒業時点で一度、はっきりと別々の進路を選んでいます。
ノブさんにもお笑いをやってみたい気持ちはありました。
「芸人はめちゃくちゃやりたかったんですけど、絶対無理やと思ってた」
TOKYO FM「木村拓哉 Flow」
好きなことと、自分が職業として選ぶことは、ノブさんの中ではまだ別だったのでしょう。
高校を卒業してすぐ養成所へ入ったわけでも、大学のお笑いサークルへ進んだわけでもなく、社会人として働く時間を経験しています。
「一緒に漫才を」の誘いを受け、約1年で会社を辞める
状況が変わったのは、就職してから約1年後でした。
大阪で活動していた大悟さんから、「一緒に漫才をやろう」と声がかかります。
大悟さんは自分が大阪でうまくいっているような話をしてノブさんを誘ったそうですが、ノブさんが会社を辞めて大阪へ出てみると、大悟さんもまだ売れてはいませんでした。
高校卒業時には選べなかった芸人という道を、ノブさんはこの誘いを受けて選び直し、安定した会社員生活を約1年で終えました。
大悟さんは後年、就職していたノブさんを辞めさせて大阪へ呼んだことについて、自分一人で芸人を続けるのとは違う責任を感じていたと明かしています。
父の猛反対と、大阪へ発つ日に渡された真っ赤な天狗の面
ノブさんの決断をすぐには受け入れなかったのが父・勝治さんでした。
就職した息子が会社を辞め、先の見えない芸人になることに父親は強く反対し、大阪へ出る直前には親子でほとんど口をきかない状態になったといいます。
母・千代子さんは反対しながらも、息子との連絡は絶やさない姿勢を見せていました。
そして大阪へ向かう当日、駅にはそれまで口をきいていなかった父親の姿もありました。
勝治さんは多くを語らず、息子へ一つの箱を渡します。
大阪の部屋に着いて箱を開けると、中に入っていたのは真っ赤な天狗の面でした。
「何なのかいまだに分かんない」
TOKYO FM「木村拓哉 Flow」
地元の神楽などとの関係を本人も考えたそうですが、父親がどんな意味を込めて面を渡したのかは、ノブさん自身にも分かっていません。
反対されながらも父から渡された天狗の面を持ち、ノブさんは大悟さんの待つ大阪へ向かいました。
2000年に千鳥結成|NSCではなく吉本のオーディションから芸人へ
大阪で再び合流した2人は、ここから友人ではなく漫才コンビとして活動を始めます。
吉本興業の公式プロフィールでは、千鳥の結成年月は2000年7月とされています。
大悟と再び合流し、2000年7月に千鳥を結成
大悟さんはノブさんを呼ぶ以前から、大阪のインディーズのお笑いイベントへピンで出演していました。
そこへ会社を辞めたノブさんが加わり、高校時代に大喜利をしていた2人が正式にコンビを組みます。
ノブさんが20歳前後だったころで、会社員として働いていた時間から一転し、舞台に立つ側の生活が始まりました。
千鳥は学生時代から活動していたコンビではなく、高校卒業後に一度別々の道へ進んだ2人が、大阪で再び合流して生まれたコンビです。
コンビ名「千鳥」は高校時代の地元に由来していた
長く親しまれている「千鳥」というコンビ名について、ノブさんは2026年に母校周辺を訪れた際、その由来を明かしています。
笠岡商業高校の近くには笠岡高校があり、当時その学校は地元で「千鳥」と呼ばれていました。
ノブさんによると、笠岡高校は勉強もスポーツもできる学校という印象があり、自分たちにとって憧れの存在だったそうです。
その高校への憧れが、コンビ名の「千鳥」につながりました。
コンビ名まで、高校時代を過ごした笠岡とのつながりを持っていたことになります。
「NSC大阪21期と同期」だがNSC出身ではない理由
千鳥の経歴で間違えやすいのが、NSC大阪校21期との関係です。
吉本興業のノブさんと千鳥の公式プロフィールに記載されているのは「NSC大阪校21期」ではなく、「NSC大阪校21期と同期」という表現です。
2人はNSCを卒業してそのまま吉本所属になったのではなく、千鳥を結成した後に吉本興業のオーディションへ挑戦しています。
読売テレビ『黄金列伝』の記録では、同じころ活動していた笑い飯とともに吉本のオーディションを受け、何度も落とされた時期があったことが紹介されています。
そのため、千鳥は「NSC大阪21期出身」ではなく、「NSC大阪21期と同期」の世代として扱うのが正確です。
笑い飯のライブで迎えた初舞台は大失敗
会社員から芸人になったノブさんを、最初から手応えのある舞台が待っていたわけではありませんでした。
本人によれば、芸人としての初舞台は笑い飯が主催していたお笑いライブでした。
ところが本番では空回りしてしまい、思うような笑いを取れないまま終了します。
さらに打ち上げでは、笑い飯が大悟さんに「あいつはやめとけ」と話していたことを知りました。
「朝方まで泣きながら飲んでた。ここからやらなあかんなって」
スポニチアネックス
大悟さんに誘われて会社まで辞めた直後、ノブさんが最初に味わったのは成功ではなく、先輩からコンビ継続を心配されるほどの失敗でした。
仕事もお金もない大阪時代|笑い飯と六畳一間で暮らした若手時代
初舞台を終えたからといって、すぐに芸人として生活できる収入が得られたわけではありません。
千鳥と笑い飯は吉本のオーディションに挑みながら、仕事もお金も少ない時期を一緒に過ごしていきます。
大悟の部屋に笑い飯を含む4人が集まった共同生活
当時、大悟さんが暮らしていたのは六畳一間の部屋でした。
そこへノブさんだけでなく、笑い飯の西田幸治さんと哲夫さんも集まり、4人で生活していた時期があります。
高校卒業後に就職し、会社員として給料を受け取っていたノブさんにとって、仕事の少ない芸人生活との落差は小さくありませんでした。
「人生、失敗したと思った」
読売テレビ「黄金列伝」
同じ部屋で暮らしていた笑い飯は、やがて千鳥より先に注目を集めていきます。
身近な芸人が一歩先へ進んでいく様子を見ながら、千鳥は舞台とオーディションを続けました。
居酒屋とパチンコ店のアルバイトをしながら舞台へ
芸人だけでは生活できなかった時期、ノブさんは居酒屋やパチンコ店でアルバイトをしていました。
特に覚えている仕事として本人が挙げているのがパチンコ店です。
給与面だけでなく、ライブの予定に合わせて店長がシフトを調整してくれたため、芸人活動と両立しやすかったといいます。
仕事では重い箱を運び、大きな音の中で接客する日々を送りながら、舞台が入ればそちらへ向かいました。
大悟さんの回想では、このころはパチンコへ行きながらネタを考え、週に1回ほどライブへ出るような生活だったそうです。
テレビに出る前の千鳥は、アルバイトのシフトとライブの日程を組み合わせながら漫才を続けていました。
エセ大阪弁をやめ、岡山弁の漫才へ戻る
漫才を始めた2人には、言葉の問題もありました。
地元で使っていた岡山弁のまま大阪で漫才をすると、言葉そのものが客へ伝わりにくい場面があったといいます。
そこで一時期は大阪弁へ寄せ、本人たちが後に「エセ大阪弁」と表現する話し方で舞台に立っていました。
しかし自分たちにもなじまず、客の反応も思うようには得られません。
数年を経て、2人は開き直るように地元の岡山弁へ戻していきました。
大阪で伝わりにくいから一度変えた方言を、最後には自分たちの普段の言葉へ戻したという経緯があります。
台本を書かず、2人の会話から作ってきた千鳥の漫才
千鳥では「大悟さんだけが完成した台本を書き、ノブさんが覚える」という形でネタを作っているわけではありません。
ノブさんの説明では、デビューしたころから、2人で実際にしゃべりながらネタを作る方法を続けています。
大悟さんが設定やボケを始め、それにノブさんがその場でツッコミを返し、会話を重ねながら漫才の形を固めていきます。
高校の授業中にノブさんがお題を書き、大悟さんが答えを書いて返していたころから年月を重ね、舞台では2人のやり取りそのものをネタへ変えていくようになりました。
千鳥のネタ作りは一方だけの作業ではなく、2人で会話をしながら完成させる方式です。
M-1決勝へ進んでもすぐには売れず|関西のロケで仕事を積み重ねる
ライブを続けていた千鳥が全国のお笑いファンにも名前を知られる大きな機会になったのが、M-1グランプリでした。
ただし、M-1の決勝進出と全国的なブレイクは同時ではありません。
2003年M-1初決勝で全国に名前が出始める
千鳥はM-1グランプリ2003で初めて決勝へ進みました。
大会公式記録では、この年の決勝順位は9位です。
翌2004年にも決勝へ進み、2005年には敗者復活から決勝へ、さらに2007年にもファイナリストとなりました。
ノブさんは後年、M-1で何年も準決勝まで残り続けたことで、自分たちの名前を知ってもらえるようになったと話しています。
M-1は千鳥を全国へ見せる重要な舞台でしたが、決勝進出だけで現在のような仕事量になったわけではありませんでした。
賞レース常連になっても続いた若手生活
M-1以外でも、千鳥は2004年にABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を受賞し、2005年と2007年にはNHK上方漫才コンテストで優秀賞を受賞しています。
賞レースで結果が出始めても、東京の全国ネット番組で一気に人気者になったわけではありません。
2人が長い時間をかけて増やしていったのは、関西のテレビ番組やロケの仕事でした。
舞台で漫才をする時間に加えて、カメラの前で一般の人と会い、街を歩き、その場で起きたことへ反応する仕事が増えていきます。
『せやねん!』などのロケで関西の仕事が増えていく
関西で仕事が増えていく過程では、MBS『せやねん!』などの番組でロケ経験を積みました。
賞レースのように数分間のネタですべてを見せる仕事とは違い、ロケでは現地の人との会話や、予想外の出来事への反応がそのまま番組になります。
千鳥はそうした現場を大量に経験し、関西ではロケを任されるコンビとして知られるようになっていきました。
2014年にテレビ埼玉『いろはに千鳥』の第2シーズンが発表された際、吉本興業の公式ニュースでも、2人がそれまで年間200本のロケをやり遂げていたことが紹介されています。
年間約200本のロケをこなし「関西で地道に」と考えた時期
若手時代には仕事もなく六畳一間で暮らしていた2人が、やがて年間約200本という数のロケを経験するようになりました。
それでも、全国区への道は一直線ではありません。
東京で仕事を増やすことだけを急ぐのではなく、関西の現場で仕事を続けていた期間が長くありました。
千鳥の知名度は一つの大会で突然完成したのではなく、漫才と賞レース、その後に何本ものロケを積み重ねる中で少しずつ広がっていきました。
THE MANZAIから東京進出へ|「ノブ小池」にまで改名した迷走期
関西で仕事を増やした千鳥に、もう一度全国へ踏み出す機会が訪れます。
2010年代に入ると東京での出演が増え、2012年には本格的に活動の拠点を東京へ広げていきました。
2011年THE MANZAI3位から全国番組へ
2011年、千鳥はTHE MANZAIで3位に入ります。
翌2012年には『アメトーーク!』の「東京に出てきたいけど芸人」に出演し、その後、東京での活動を本格化させました。
関西ではすでにロケを数多く経験し、劇場や賞レースでも知られていた2人でしたが、東京では同じようにいくとは限りませんでした。
『ピカルの定理』への加入など全国放送の仕事が始まった一方で、そこで千鳥らしさを十分に出せない時間も続きます。
『ピカルの定理』終了後、東京で思うようにウケない日々
東京へ進出した千鳥にとって大きかった『ピカルの定理』は、2013年に終了しました。
大阪で使っていたギャグやノリを東京の番組へ持ち込んでも、期待したほど笑いが起きないことがあり、ノブさん自身も違いを感じていたといいます。
大阪では人気があるのに東京では結果を出せないコンビという見られ方も強まりました。
2013年秋にルミネtheよしもとで単独ライブを行った際、吉本興業の公式ニュースでは街頭で千鳥について尋ねてもほとんど知られていなかった様子まで紹介されています。
関西で多くのロケを任されるようになってから東京へ出ても、もう一度「知られていない芸人」に近い位置から始めることになりました。
2013年に「ノブ小池」へ改名し、2015年にノブへ戻す
東京で結果を求めていた2013年11月、ノブさんはテレビ朝日系『ロンドンハーツ』の企画をきっかけに、芸名を「ノブ小池」へ変更しました。
もともとのきっかけには、浅尾美和さんから名前を「小池」と間違えられた出来事があり、有吉弘行さんから改名を提案されたことで実際の芸名変更へ進みます。
ただ、新しい名前が定着した期間は長くありませんでした。
2015年1月1日、約1年余りで「ノブ小池」を終了し、芸名を再びノブへ戻しています。
芸名まで変えて東京でのきっかけを探していた時期だったことが分かります。
『ゴッドタン』などの現場が東京での自信をつないだ
東京で思うような結果が出ない中でも、千鳥を繰り返し番組へ呼ぶスタッフがいました。
テレビ東京『ゴッドタン』のプロデューサーを務めた佐久間宣行さんも、その一人です。
「ゴッドタンだけは僕らを呼んでくれていた」
ニッポン放送 NEWS ONLINE
ノブさんは、東京のほかの現場で結果が出ない時期に『ゴッドタン』へ呼ばれることが、気持ちの面でも大きかったと語っています。
さらに日本テレビ『満天☆青空レストラン』では、宮川大輔さんから、グルメ番組だからと遠慮せず普段の千鳥らしいボケやツッコミを出すよう背中を押されたこともありました。
その現場での2人をスタッフが面白がり、別の番組へつながっていったとノブさんは振り返っています。
東京での流れは一度の出演で変わったのではなく、千鳥を面白がって再び呼ぶ人が少しずつ増えることで動き始めました。
2015年の「反省会」から全国区へ|岡山弁のツッコミが武器になる
東京進出から数年がたった2015年、千鳥にとって後に節目として振り返られる放送がありました。
12月10日に放送された『アメトーーク!』の「もっとやれるはずだったのに…2015反省会」です。
『アメトーーク!』2015反省会でノブが感じた手応え
この回には、その年に思うような結果を残せなかった芸人として、千鳥のほか品川庄司、TKO、ジャルジャルらが出演しました。
現在の『アメトーークCLUB』公式ページにも、この回について「千鳥は、ここから飛躍」と記されています。
ノブさん自身も後に2015年末を転機として挙げ、この出演で初めて東京で強い手応えを感じたと振り返りました。
「初めてカチッと音がした」
週刊女性PRIME
M-1初決勝から12年後、東京進出からも数年たった2015年末に、ノブさん自身が明確な手応えを感じる場面が訪れました。
「~じゃ」を前へ出し、“クセがすごい”へつながったツッコミ
この時期には、ノブさんのツッコミの言葉にも変化がありました。
『アメトーーク!』を手がける加地倫三プロデューサーから、ノブさんが普段使う「~じゃ」という岡山弁をもっと前へ出した方がいいと勧められたことがあったといいます。
若手時代には「大阪で伝わりにくい」という理由で一度引っ込めた岡山弁が、東京では逆にノブさんを見分ける特徴の一つになっていきました。
やがて「クセがすごい」のような、方言と独特の言葉選びを組み合わせたツッコミが広く知られるようになります。
大阪で一度は変えた岡山弁を使い続けたことが、東京ではノブさんのツッコミを一目で分からせる言葉になっていきました。
一つの賞ではなく複数の番組と人との出会いから仕事が拡大
千鳥のブレイクを一つの賞レースや一つの番組だけで区切るのは難しいところがあります。
M-1で名前が広がり、関西では大量のロケを経験し、THE MANZAIを経て東京へ進み、その東京で一度苦戦しました。
その間には『ゴッドタン』の佐久間宣行さん、『満天☆青空レストラン』で共演した宮川大輔さん、『アメトーーク!』の加地倫三プロデューサーなど、千鳥の持ち味を出せる場所を作った人たちとの出会いがありました。
2015年の「反省会」以降は全国放送で存在感を増し、ノブさんは大悟さんへのツッコミだけでなく、番組を進行する役割でも起用されるようになります。
会社を辞めた直後から順調に売れたのではなく、大阪での下積み、関西でのロケ、東京での苦戦を経たあとに仕事の幅が大きく広がりました。
テレビで活躍する現在も、新作漫才を続ける千鳥
現在はテレビのMCやバラエティ番組で見る機会が多い千鳥ですが、漫才から離れたわけではありません。
2026年8月13日には、東京・LINE CUBE SHIBUYAで「千鳥の大漫才2026」が開催されました。
吉本興業の公式案内では、ノブさん自身も公演前に新作漫才についてコメントしています。
「新作漫才楽しみです!!」
よしもとライブ
MCとして全国の番組に出演するようになった現在も、2000年に大悟さんと始めた漫才は千鳥の活動として続いています。
岡山県井原市でテレビを見て育ち、高校では大悟さんと授業中に大喜利をしていたノブさんは、卒業後には一度シャープの営業職を選びました。
そこから大悟さんの誘いで会社を辞め、初舞台の失敗やアルバイト生活、関西での大量のロケ、東京での苦戦を経て、2人で仕事を続けてきました。
高校時代に出会った2人は、2026年になっても千鳥として新しい漫才を舞台へ持っていっています。












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