博多大吉の生い立ちと家族|新日本プロレス志望から華丸との出会い、芸人になるまで

人物プロフィール

本名
吉岡廣憲
生年月日
1971年3月10日
身長
182cm
血液型
O型
出身地
福岡県 古賀市
コンビ・グループ名
博多華丸・大吉
相方・メンバー
博多華丸
結成年
1990年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
1990年

博多大吉さんといえば、穏やかな口調のツッコミと落ち着いた佇まいから「大吉先生」の愛称で親しまれ、博多華丸さんとの漫才だけでなく、NHK「あさイチ」のキャスターとしてもおなじみです。

ところが、その歩みを若い頃までさかのぼると、現在の姿からは想像しにくい出来事が次々と出てきます。

中学時代には文化祭の日に焼却炉の当番を任され、後年「焼却炉の魔術師」と呼ばれることになるエピソードを残し、高校時代には芸人ではなく、新日本プロレスの社員を目指していました。

そのために大学へ進み、そこで偶然入った落語研究会で出会ったのが、のちに30年以上をともにする博多華丸さんでした。

神戸で生まれて福岡で育った少年が、なぜ新日本プロレスを志望し、そこからどのように芸人の道へ入ったのか。

幼少期の家族との生活から福岡大学での出会い、福岡吉本1期生としての若手時代、東京進出までを時間の流れに沿ってたどります。

博多大吉の生い立ちと家族|神戸で生まれ2歳から福岡県古賀市へ

吉本興業の公式プロフィールでは福岡県古賀市出身と紹介されている大吉さんですが、生まれた場所は福岡ではありません。

本人が家族について語った際には、出生から幼い頃までの意外な経緯も明かしています。

神戸で生まれ、1歳上の姉とともに福岡へ

博多大吉さんは1971年3月10日生まれで、本名は吉岡廣憲さんです。

本人によると父親は福岡出身、母親は福島出身で、大吉さん自身は神戸で生まれ、2歳ごろまで神戸で暮らしていました。

1歳上の姉も神戸で生まれており、その後、家族は福岡へ移ります。

「親父は福岡の人間で、お袋は福島の人間なんですよ」

ABEMA TIMES

大吉さん自身も、なぜ姉弟がそろって神戸で生まれたのか詳しい事情までは知らないと語っています。

そのため「出生地」としては神戸、「育った場所」としては福岡県古賀市周辺という整理になります。

父の仕事が減り、母のパートで家計を支えた少年時代

福岡へ移ったあとの家庭では、父親が親族の運送会社で働いていた時期がありました。

ところが、大吉さんによれば1984年のロサンゼルスオリンピックのころから父親が仕事へ行く回数が減り、その後は日雇いの仕事へ出る程度の時期もあったといいます。

家計を支えたのは、パートへ出ていた母親でした。

「お母さんはパートで頑張ってくれていた」

ABEMA TIMES

大吉さんが後年話しているのは、家計の状況そのものだけではなく、そのころ毎日目にしていた食卓の光景です。

形が崩れて安く売られていた明太子を母親が買い、白いご飯と一緒に食べることが多かったと振り返っています。

白飯と明太子が並んだ食卓で出た「人生初のツッコミ」

中学校の家庭科では、一日に食べた食品を書き出す課題がありました。

大吉さんの記録には朝も夜も「白飯と明太子」が並び、学校では給食を食べていたため、先生も食生活を気にかけたといいます。

また、別の時期にはサツマイモやカボチャの天ぷらとご飯が続くこともありました。

ある日、食卓を前にした少年時代の大吉さんは、母親へ思わずこんな言葉を口にしたそうです。

「もう戦争は終わったとばい…」

livedoor NEWS

大吉さんは後年、この一言を自分の「人生初のツッコミ」のようなエピソードとして話しています。

中学・高校時代|「焼却炉の魔術師」から新日本プロレス志望へ

まだ芸人という進路が具体的に見えていなかった学生時代、大吉さんの関心を強く引いていたものの一つがプロレスでした。

一方、学校では後のテレビ出演で全国に知られることになる、独特な立ち位置で過ごしていました。

中学時代についたあだ名は「焼却炉の魔術師」

2008年、大吉さんはテレビ朝日系「アメトーーク!」の企画「中学の時イケてないグループに属していた芸人」へ出演しました。

そこで語ったのが、中学校の文化祭の日の出来事です。

華やかな催しが行われるなか、大吉さんが担当していたのは焼却炉でした。

そのエピソードから番組内で生まれた「焼却炉の魔術師」という言葉は、年末の「アメトーーク大賞」で流行語大賞に選ばれています。

現在の「大吉先生」という呼び名が広まるきっかけも同番組でしたが、それはもう少し後の話です。

プロレスに夢中になり、高校卒業前に新日本プロレスへ履歴書

中学生のころにはプロレスラーへの憧れもありましたが、体格などを考えてレスラーになる道は断念します。

それでもプロレスそのものへの興味は消えず、高校で進路を考える時期になると、今度は新日本プロレスで社員として働くことを考えました。

高校卒業を前に、大吉さんは実際に新日本プロレスへ履歴書を送っています。

「新日本プロレスに履歴書を送ったことがあって」

テレビ西日本

応募したのはレスラーではなく、会社を支える社員としての採用でした。

社員採用には大学卒業が必要と知り、福岡大学への進学を選ぶ

新日本プロレス側から返ってきたのは、社員は大学卒業者を採用しているという趣旨の回答でした。

そこで大吉さんは大学進学を選び、福岡大学経済学部へ入ります。

この時点で目標の先にあったのは、芸能事務所でもお笑いの養成所でもなく、新日本プロレスでした。

ところが大学のキャンパスで起きた出来事によって、進む方向は大きく変わります。

福岡大学で博多華丸と出会う|応援団から逃げ込んだ落研が転機に

1989年、福岡大学へ入学した大吉さんは、約2万人もの学生が通う大きなキャンパスで新生活を始めました。

そこで入ったのが落語研究会です。

応援団の勧誘から逃げて入った落語研究会

入学直後の大吉さんは、最初から落研だけを目指して部室へ向かったわけではありません。

キャンパスではアーチェリー部から声をかけられ、初心者から五輪候補になった部員がいると聞いて、一瞬は自分が表彰台へ立つ姿まで想像したと後に話しています。

その後に出会ったのが応援団の勧誘でした。

名前を書かされるなど強い勧誘を受け、そこから離れようとした大吉さんが逃げ込んだ先にあったのが落語研究会です。

もともとお笑いへの興味もあった大吉さんは、そのまま落研に入ることになります。

「そこで僕、華丸と出会う」

スポニチアネックス

新日本プロレスへ入るために進んだ大学で、のちの相方と出会ったことになります。

大吉から見た華丸は「目がでかい」、華丸から見た大吉は「男のくせにえくぼ」

同じ落語研究会にいたのが、法学部へ入学した岡崎光輝さん、現在の博多華丸さんでした。

二人が後に残した互いの第一印象は、現在の長いコンビ歴を考えると拍子抜けするほどシンプルです。

華丸さんから見た大吉さんは「男のくせにえくぼ」、大吉さんから見た華丸さんは「目がでかい」でした。

HISTORY of 博多華丸・大吉

落研では大学3年生のとき、華丸さんが「福々亭さろん」、大吉さんが「福々亭こまんど」という高座名を先輩から付けられています。

大吉さんの「こまんど」は、当時流行していた映画「コマンドー」に由来するものでした。

「福々亭こまんど」と「福々亭さろん」からコンビ活動へ

二人は落研の中でも一緒に行動することが多くなり、大学生のうちから人前でお笑いをする機会を持つようになります。

当時の二人が地元のタウン誌で取り上げられたことをきっかけに、芸能事務所側から声がかかったこともありました。

その事務所では「ヨッチャンオカチャン」という名前も提案され、東京で活動する話まで進んだと大吉さんは後に明かしています。

そんな時期に福岡で動き始めたのが、吉本興業の福岡事務所立ち上げでした。

1990年に福岡吉本1期生へ|オーディション4位からプロになった二人

現在の博多華丸・大吉はNSC出身ではありません。

プロへの入口になったのは、吉本興業とテレビ西日本が福岡で行ったオーディション番組でした。

「岡崎君と吉岡君」で受けたオーディションは8組中4位

福岡事務所の開設にあたり、吉本興業とテレビ西日本はオーディション番組「激辛!?お笑いめんたい子」を実施しました。

福岡大学の落研にもエントリーの依頼が来たため、華丸さんと大吉さんは本名を使った「岡崎君と吉岡君」として出場します。

参加したのは8組で、当初は上位2組が吉本へ所属できる条件でした。

二人の順位は8組中4位で、本来ならここで吉本入りの話は終わるはずでした。

優勝したのは、後にカンニング竹山さんとして知られる竹山隆範さんと田中健二さんによる「ター坊ケン坊」です。

福岡吉本から後日声がかかり、プロの道へ

ところが、福岡事務所の旗揚げ公演には出演者が必要でした。

そこで吉本興業から改めて声がかかり、二人は1990年に福岡吉本1期生となります。

オーディション4位から、後日の連絡によってプロの芸人生活が始まりました。

吉本興業の公式プロフィールではコンビ結成を1990年5月としており、二人は大学で出会った翌年にはプロとして活動を始めています。

「ゴモラとガメラ」を避けて「鶴屋華丸・亀屋大吉」に

所属にあたって事務所側から提示されたコンビ名には、驚くような候補もありました。

二人に示されたのは「ゴモラとガメラ」と「華丸・大吉」の二択でした。

二人は迷わず「華丸・大吉」を選び、その後、「めでたいから」という理由で華丸さんが「鶴屋華丸」、大吉さんが「亀屋大吉」を名乗るようになります。

この「亀屋大吉」という芸名で、福岡を拠点とした長い活動が始まりました。

福岡での若手時代|テレビの仕事と漫才のツッコミに悩んだ日々

福岡吉本は立ち上がったばかりで、二人は所属直後からさまざまな仕事を経験します。

一般的な「長く舞台だけで下積みをしてからテレビへ」という道筋とは少し違い、福岡では比較的早い時期からテレビの現場へ入っていました。

20代前半から福岡ローカルで仕事が増えていく

公式ヒストリーによると、芸人デビューから1年もたたないうちに「どっちもどっち博多っ子倶楽部」「若っ人ランド」「夜はとことん」「とことんサンデー」などへ出演し、テレビ西日本では初の冠番組「華丸・大吉の鉄腕ももち」も持ちました。

ただ、最初から出演者として華やかな仕事だけをしていたわけではありません。

大吉さんは若手時代、テレビ制作の現場でカンペを持つなど、フロアディレクターに近い役割も経験したと振り返っています。

地元番組の現場へ出ながら、漫才師としての形を探す日々が続きました。

博多弁で強くツッコむスタイルになじめなかった大吉

福岡で活動するコンビとして、漫才では福岡らしい言葉を使うことも求められました。

ところが大吉さんは、当時一般的だった大阪弁の「なんでやねん」のように強く切り返せる博多弁のツッコミを見つけられず、苦戦します。

「そげなバカな」「もうよかよ」といった言葉を試したものの、自分の感覚にはうまくはまりませんでした。

華丸さんが前でボケ、大吉さんが強く止めるという形だけでは、大吉さん自身の話し方に合わなかったのです。

約1年間の自宅待機をきっかけに漫才台本を書き始める

仕事が増えていた福岡時代にも、活動が大きく止まる時期がありました。

大吉さんが25歳から26歳ごろのころ、テレビ番組の海外研修企画をめぐって吉本側とテレビ局側の連絡がうまくいかず、生放送でアメリカへ行くと発表した大吉さんだけが動けない状態になったと本人が説明しています。

その結果、表向きはアメリカへ行っていることになり、約1年間、自宅で待機するような生活になりました。

そのころ華丸さんにはラジオなどの仕事がありましたが、大吉さんには時間が残りました。

そこで始めたのが、漫才の台本を書くことでした。

「本当にやることがなくなって、暇だから漫才のネタを書いた」

デイリーニュースオンライン

仕事から離れた約1年が、大吉さん自身が漫才を書くきっかけになりました。

おぎやはぎ矢作の漫才に見つけた「なだめるツッコミ」

漫才の台本を書くようになっても、ツッコミの悩みは残っていました。

大吉さんは東京や大阪の同世代の芸人を見ながら、自分に合うやり方を探していきます。

その中で強く印象に残ったのが、おぎやはぎの矢作兼さんでした。

「爆笑オンエアバトル」などでおぎやはぎの漫才を見た大吉さんは、矢作さんが相方を強く叩いたり怒鳴ったりするのではなく、なだめるように言葉を返していることに気づきます。

強く攻めなくてもツッコミは成立する。

大吉さんは後年、矢作さんのツッコミを見て「この手があったか」と思ったと語っています。

現在知られている柔らかな口調のツッコミは、若手時代から最初から完成していたものではなく、福岡で試行錯誤するなかで形を見つけていったものでした。

M-1失格から改名・東京進出へ|福岡で15年過ごした二人の決断

福岡でテレビの仕事を重ねた二人は、1990年代末には常設劇場「吉本111劇場」でも活動しました。

そのまま福岡でキャリアを重ねるなか、全国の漫才師が競う新しい大会が始まります。

2001年M-1準決勝で大ウケするも結成11年目で失格

2001年に始まったM-1グランプリは、当時「結成10年以内」が出場資格でした。

すでに結成11年目だった華丸・大吉は当初出場を諦めていましたが、吉本社員から勧められてエントリーします。

二人は予選を勝ち上がり、準決勝まで進みました。

準決勝では直前に日韓ワールドカップを題材にした時事ネタへ変更し、会場では大きな反応を得たと公式ヒストリーに残されています。

しかし主催側があらためて出場資格を協議した結果、結成11年目であることを理由に失格となりました。

華丸・大吉がM-1に出場したのは、この2001年が最初で最後です。

2004年「博多華丸・大吉」へ改名

転機は賞レースだけではありませんでした。

2004年、福岡事務所にいた姓名判断に詳しい女性スタッフが退職する際、二人へ芸名の変更を勧めます。

そこで「鶴屋華丸・亀屋大吉」から、現在の「博多華丸・大吉」へ改名しました。

スタッフは改名だけでなく、「2年以内に東へ」という趣旨の助言もしたと公式ヒストリーに記録されています。

その翌年、二人は実際に福岡を離れる決断をします。

「東京で売れる勝算がない」まま2005年に上京

福岡での活動はすでに約15年に及び、二人は地元で多くのテレビ仕事を持っていました。

一方で、東京を中心に変化していくテレビの状況を見ながら、福岡だけで活動を続けることへの限界も感じるようになります。

それでも大吉さんは、東京へ行けば成功できると考えていたわけではありませんでした。

「東京で売れる勝算がない」

HISTORY of 博多華丸・大吉

華丸さんには子どもの学校の事情もあり、「行くなら今年がラストイヤー」という時期でした。

二人は2005年、福岡で築いた仕事を離れて東京へ進出します。

オーディション落選の中、華丸のものまねが突破口になる

東京へ出れば、そのまま全国放送の仕事が増えるわけではありませんでした。

二人は日本テレビ系「エンタの神様」への出演を一つの目標にしていましたが、オーディションには落選します。

状況が動いたのは、華丸さんの児玉清さんのものまねでした。

フジテレビ系「とんねるずのみなさんのおかげでした」の「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」で優勝し、華丸さんが全国的に注目されます。

コンビで東京へ出たものの、最初に大きく名前を広げたのは相方のピンの仕事でした。

R-1決勝前、二人の「最大の大ゲンカ」

翌2006年、華丸さんは「R-1ぐらんぷり 2006」の決勝へ進みます。

ところが決勝を前に、披露するネタをめぐって二人の意見が真っ二つに分かれました。

華丸さんは博多弁を使ったゴルフ場受付のコントをやりたいと考えましたが、大吉さんは東京で反応を得ていた児玉清さんのものまねを続けるべきだと猛反対します。

公式ヒストリーでは、このやり取りを二人の「コンビ最大の大ゲンカ」と紹介しています。

最終的に華丸さんが大吉さんの意見を受け入れ、これまでと同じ方向のネタで決勝へ臨みました。

結果は優勝で、華丸さんは当時のR-1で初めて、コンビに所属しながら王者になった芸人となりました。

THE MANZAI優勝から現在へ|漫才師として全国区になった博多大吉

華丸さんのものまねやR-1優勝で全国放送の機会が増えたあと、大吉さん自身にも転機が訪れます。

2008年には「アメトーーク!」の中学時代のエピソードが注目され、番組スタッフが呼び始めた「大吉先生」という愛称も少しずつ広がっていきました。

2011年の敗退とビートたけしの一言

漫才師として再び大きな勝負の場になったのが「THE MANZAI」です。

二人は2011年の大会に出場しましたが、決勝1回戦で敗退しました。

それでも大会最高顧問だったビートたけしさんから漫才を評価され、翌2012年の「ビートたけしのエンターテインメント大賞」でも日本芸能賞を受賞します。

2011年以降、華丸・大吉はTHE MANZAIへ出場していませんでした。

再挑戦のきっかけになったのは、ビートたけしさんと番組で一緒になった際、楽屋で「あんちゃんたち出ないの?」と声をかけられたことでした。

その一言を受け、二人は2014年に3年ぶりのTHE MANZAIへ挑戦します。

決勝直前に大吉がネタを変更し、2014年THE MANZAI優勝

2014年の決勝では、すでに披露するネタを事前に決めていました。

ところが本番直前、大吉さんは会場の空気を見て別のネタへ変更します。

急な変更に華丸さんは内容を十分に覚えておらず焦りましたが、選ばれたネタが酔っ払いを演じる設定だったこともあり、その状況を乗り切りました。

博多華丸・大吉は「THE MANZAI 2014」で優勝し、結成から24年を経て漫才の全国タイトルを手にします。

福岡でテレビの仕事を始め、ツッコミの形を探し、自宅待機中に台本を書き始め、35歳前後で東京へ移った二人にとって、上京から約9年後の出来事でした。

「大吉先生」から「あさイチ」へ広がった仕事

THE MANZAI優勝後、大吉さんはコンビの漫才だけでなく、大喜利やトーク、司会の仕事でも出演を重ねました。

2015年にはフジテレビ系「IPPONグランプリ」で初優勝し、テレビでも大喜利の力が広く知られるようになります。

そして2018年4月、博多華丸・大吉はNHK「あさイチ」の2代目キャスターに就任しました。

2026年現在も吉本興業の公式プロフィールには「あさイチ」がレギュラー番組として掲載され、福岡では2009年から続く「華丸・大吉のなんしようと?」にも出演しています。

東京へ進出したあとも、博多華丸・大吉というコンビ名と福岡で積み重ねた活動は残り続けています。

神戸で生まれ、福岡県古賀市で少年時代を過ごした大吉さんは、高校卒業を前に新日本プロレスの社員を目指して大学へ進みました。

その大学で偶然入った落語研究会で華丸さんと出会い、オーディション4位から福岡吉本1期生となり、福岡で15年を過ごしたあと東京へ活動の場を移しました。

若手時代に探し続けたツッコミと、自宅待機の時間から始めたネタ作りを抱えながら、現在も博多華丸・大吉として漫才とテレビの両方に立ち続けています。

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