人物プロフィール
NON STYLEの井上裕介さんといえば、前向きな発言やナルシストキャラクターを生かしたテレビでの姿と、石田明さんとのテンポの速い漫才で知られています。
2008年にはM-1グランプリで優勝していますが、芸人になるまでの道のりは、最初からお笑い一本だったわけではありません。
高校卒業を前に考えていた将来は、学校の先生、ミュージシャン、料理人、お笑い芸人という4つで、大学へ進むとギターを手に音楽活動へ打ち込んでいました。
その大学時代、音楽のプロになる夢を諦めた井上さんが声をかけた相手が、中学時代から知っていた石田明さんでした。
2人は養成所へ通うのではなく、路上へセンターマイクとスピーカーを持ち込み、自分たちで漫才を始めています。
大阪で過ごした子ども時代から石田さんとの出会い、大学生活、NON STYLE結成、若手時代を経てM-1王者になるまでを順番にたどります。
井上裕介の生い立ちと家族|大阪市で育った子ども時代
井上裕介さんは1980年3月1日生まれ、大阪府大阪市出身で、両親と弟のいる家庭で育ちました。
後に大勢の観客の前へ立つ仕事を選びますが、子どものころには家で一人で過ごす時間も少なくなかったようです。
大阪市で生まれ育つ|両親と3歳下の弟がいる家庭
井上さんには3歳年下の弟がおり、兄弟2人で育ちました。
大人になってからは弟の家族や両親も交えて会う機会がある一方、井上さんは男兄弟だけで改まって話すような関係ではなかったことも明かしています。
父親や母親については、後年のテレビ出演や家族を巡る企画でもたびたび話しており、芸人になった後にも家族との出来事が続いていきます。
ただし、芸人になることを最初から両親へ相談していたわけではなく、その事実が家族に知られるのはNON STYLEを結成した後でした。
小学生までの暮らしと家族の記憶
子ども時代について井上さん本人は、仕事などで家族が不在の時間に、自分で家の鍵を持って過ごすことが多かったと振り返っています。
「僕、子どものころは鍵っ子でひとりの時間が多かったんです。」
Mart
そんな小学生時代に夢中になったのが光GENJIで、佐藤アツヒロさんや諸星和己さんの下敷きを持つほど好きでした。
自分も光GENJIに入りたいと思い、ローラースケートで遊んでいたというエピソードも残っています。
当時はバンダナがどんなものか分からず、母親が袖まくりに使っていたゴムバンドを頭につけ、きつさに耐えながら光GENJIのまねをしていたそうです。
人前に立つ仕事を具体的に考えるよりずっと前から、テレビの中で大勢の視線を集める人たちに憧れていた子どもでした。
大淀中学校で石田明と出会い、東淀川高校でも同級生に
井上さんの人生に後々まで関わる石田明さんとの出会いは、芸人になってからでも養成所でもなく、中学生のころでした。
2人は大阪市立大淀中学校で知り合い、その後は偶然高校も同じになります。
中学1年で石田明と初対面|まだ親友ではなかった2人
井上さんが石田さんと初めて出会ったのは中学1年生のときで、井上さんから見た第一印象は、小さく細身の男子がいるというものでした。
現在まで長くコンビを続けているため、学生時代からいつも一緒にいた親友同士にも見えますが、当時の関係は少し違っていました。
「僕と井上は仲良くはなかったです。あくまで一定の距離は保っている感じですね」
スポニチアネックス
石田さん自身がそう説明しており、幼いころから何でも一緒にしてきた2人がそのままコンビになったわけではありませんでした。
高校ではバスケットボール部へ|野球部の石田明との交流
中学校を卒業すると、2人は偶然そろって大阪府立東淀川高校へ進学しました。
高校では井上さんがバスケットボール部、石田さんが野球部に所属し、部活動同士の付き合いもあったため、中学時代からの関係はそのまま続いていきます。
ただ、この時期も「将来一緒に漫才をする相方」として互いを見ていたわけではなく、それぞれ別の学校生活を送っていました。
井上さんの趣味として現在までバスケットボールが挙げられていることからも、高校時代に取り組んだ競技はその後も身近なものとして残っています。
卒業前に考えていた教師・ミュージシャン・料理人・芸人の4つの進路
高校生活が終わりに近づいたころ、井上さんには一つに絞り切れていない将来像がありました。
候補に挙げていたのは、学校の先生、ミュージシャン、料理人、お笑い芸人の4つでした。
この時点でお笑い芸人も選択肢には入っていましたが、それだけを目指して卒業後すぐ養成所へ向かったわけではありません。
大学に合格したことで進学を選び、まずは学生として自分の好きな音楽に時間を使う道へ進みました。
神戸学院大学へ進学|音楽に打ち込んだ学生時代
高校卒業後、井上さんは神戸学院大学経済学部へ進学しました。
大学時代は後の芸人人生へつながる出来事が次々に起こりますが、最初に力を入れていたのは漫才ではなく音楽でした。
大学選びからフォークソング部へ|学園祭ではギターを弾いて歌う
井上さんは文系の大学生活に憧れを持って進学し、入学後はフォークソング部へ入りました。
ギターを弾きながら歌い、学園祭でもステージに立つなど、ミュージシャンになりたいという高校時代からの選択肢を実際に試しています。
さらに、バレーボールやフットサル、ボウリングなどを楽しむ30〜40人規模のサークルにも参加していました。
同学年の男子が次第に来なくなり、井上さん一人が残った時期には、女性の先輩たちから弟のようにかわいがられていたと大学のインタビューで語っています。
大人数で動くサークルでは、前に出る人や周囲を支える人など、それぞれに役割があることも感じていたそうです。
音楽のプロを諦めても「ステージに立ちたい」という思いが残る
フォークソング部で音楽を続けるうち、井上さんは自分よりもはるかにギターがうまい学生たちを目にします。
そこで、音楽でプロになることについては現実的に考え直すようになりました。
「ステージに立ってスポットライトを浴びたいという思いは残っていました」
兵庫の大学へ行こう
音楽そのものへの進路は変わっても、人前のステージに立つことまで諦めたわけではありませんでした。
この時期には、まだ芸人としてプロになることを決め切っておらず、大学生として就職も視野に入れていました。
就職も考えていた大学3年生に、お笑いという道が近づく
井上さんが大学生活を送っている間、石田さんは高校卒業後に料理の仕事へ進み、その後は高校時代の知人たちとお笑いのオーディションを受けるなど、井上さんとは別の道を歩いていました。
その活動が終わった石田さんは、一人でも路上でお笑いを始めようと考えるようになります。
一方の井上さんはバンド活動を終えていましたが、ステージへの興味は消えていませんでした。
中学・高校で知っていた2人の進路が、大学3年生になった井上さんのところで再び交差します。
石田明を誘いNON STYLE結成|路上漫才から吉本興業へ
石田さんが一人で路上のお笑いを始めようとしていることを知った井上さんは、自分から一緒にやろうと声をかけました。
養成所でたまたま同じクラスになったのではなく、学生時代から一定の距離で知っていた2人が、それぞれ別の道を経験した後に組んだコンビでした。
一人でお笑いを始めようとしていた石田明へ井上裕介から声をかける
NON STYLE結成を持ちかけたのは井上さんの側でした。
2025年に2人が結成当時を振り返った際には、井上さんは当初から純粋な漫才だけを想定していたわけではなく、自分が歌い、石田さんにも楽器を担当してもらいながら、その合間に漫才をするような構想も持っていたことが明かされています。
音楽活動を経験した井上さんと、一人で路上のお笑いを始めようとしていた石田さんの案が重なったところから、2人の活動が始まりました。
2000年5月14日に結成|音楽も考えていた2人が漫才へ絞るまで
2000年5月14日、井上さんが大学3年生のときにNON STYLEを結成しました。
井上さん本人によると、当時は路上へセンターマイクとスピーカーを持ち込み、「NONSTYLE」と書いたTシャツを着て、見よう見まねで漫才をしていました。
「この頃は、ただの遊び感覚で、就職活動もしていた」
井上裕介 公式ブログ
コンビを結成した後にも就職活動をしていたという事実からも、この段階では芸人だけに人生を賭けた状態ではありませんでした。
路上で実際に客の反応を受けるうちに音楽の要素より漫才へ比重が移り、NON STYLEとしてのお笑い活動が形になっていきます。
路上ライブに200〜300人|三宮などで見よう見まねの漫才を重ねる
大学のインタビューで井上さんが語った活動場所の一つが、阪急三宮駅前でした。
知り合いの多い地元では失敗したときに恥ずかしいという感覚があり、自分たちを知らない人が多い三宮を選んだと説明しています。
活動は週1回ほどのペースで約半年間続き、同じ場所へ立って漫才を重ねました。
最初から完成された芸風を持っていたわけではありませんが、やがて路上に200〜300人ほどが集まることもあり、地元メディアから取材されるようになります。
神戸学院大学のインタビューでは、写真家の立木義浩さんに撮影してもらった出来事も語っており、大学生の遊びから始まった活動が、少しずつ外部から注目されるようになっていました。
NSCには通わずオーディションへ|路上から吉本興業所属へ
路上で手応えを感じるようになると、2人はbaseよしもとのオーディションへ挑戦しました。
NON STYLEは吉本興業の芸人ですが、NSCに通った経験はありません。
石田さんの公式ブログでは、2000年5月に路上漫才を始め、2000年末から2001年1月ごろにオーディションライブを勝ち上がって吉本興業へ所属した経緯が記されています。
そのため「同期」もNSCの同じ期という意味ではなく、活動開始時期が近い芸人たちと便宜的に同期として扱われる形でした。
石田さん自身は、時期として大阪NSC22期や東京NSC5期あたりと近いと説明していますが、NON STYLEそのものは養成所の期を持っていません。
テレビ出演で両親に芸人活動が発覚|家族会議になった結成1年目
井上さんは大学へ通いながら吉本興業で活動を始めましたが、両親には芸人をしていることを伝えていませんでした。
ところが結成1年目、大阪のテレビ番組に出演した井上さんを母親が偶然見たことで知られてしまいます。
家に戻ると家族会議になり、両親からは大学へ行かせたのは芸人になるためではないという趣旨の話をされたと、後に『徹子の部屋』で明かしています。
大学生として就職も考えながら始めた路上漫才が、家族にも知られるプロの仕事へ変わり始めた時期でした。
NON STYLEの若手時代|アルバイト生活から関西で頭角を現すまで
吉本興業へ所属しても、すぐに芸人の収入だけで生活できたわけではありません。
路上から劇場へ活動場所が変わる一方で、井上さんの日常には長くアルバイト生活が残っていました。
26歳までアルバイト|店長や先輩に支えられた生活
井上さんは後年、26歳ごろまでアルバイトを続けていたと話しています。
24歳ごろには借金も抱え、日々の食事代にも余裕がない時期がありました。
アルバイト先では店長から食事を食べさせてもらうことがあり、芸人の先輩たちにも支えてもらいながら活動を続けています。
仕事が少ない若手時代には辞めることが頭をよぎることもありましたが、そのたびに周囲から声をかけてもらったことを本人が振り返っています。
路上で200人以上を集める経験をしても、プロの世界に入れば生活がすぐ安定するわけではなく、劇場へ出ながらアルバイトを続ける日々がありました。
石田明がネタを書き、井上裕介が前へ出るコンビの役割
NON STYLEでは早い時期から、石田さんがネタ作りを担当し、井上さんがツッコミとして前へ出るという役割が形になっていきました。
2025年に結成当時を振り返った際には、井上さんが最初から自分はネタを書かないと伝え、石田さんへ数多くのネタを作るよう求めていたことも明かされています。
井上さんの自信の強さや人前へ出る性格は、石田さんがネタを作り、それを井上さんという人物を使ってどう見せるかというNON STYLE独自の漫才へ取り込まれていきました。
井上さん自身のキャラクターを石田さんがネタの中でいじる構造が、後に「イキり漫才」と呼ばれるスタイルへつながっていきます。
「イキり漫才」で注目され、関西の賞レースと劇場で実績を積む
NON STYLEは劇場で漫才を磨きながら、2005年に上方お笑い大賞の最優秀新人賞、2006年にNHK新人演芸大賞を受賞するなど、関西で実績を重ねていきました。
このころの代表的な形が、井上さんが自信満々に格好をつけ、石田さんがその言動を次々に崩していく「イキり漫才」でした。
テレビで知られるようになった井上さんのナルシスト的なキャラクターも、若手時代の漫才の中ですでに大きな役割を持っていました。
NON STYLEの公式YouTubeでは、後年「M-1で一番悩んでた頃のネタ」として、当時使っていた「かっこいい男の条件」を改めて披露しています。
客席では笑いが取れていても、大きな賞レースで勝ち切れない時期が続き、2人はこのスタイルをさらに変えることになります。
2007年の敗退からM-1グランプリ2008優勝へ
関西で新人賞を取り、漫才師として名前が知られ始めても、NON STYLEにはM-1グランプリという大きな壁が残っていました。
特に2007年の敗退は、それまで作ってきた漫才の型そのものを見直すきっかけになります。
敗者復活で流した涙|「イキり漫才」を捨てて新しい型を探す
2007年、NON STYLEは長く磨いてきた「イキり漫才」に手応えを感じ、M-1の準決勝でも大きな笑いを取っていました。
しかし決勝には届かず、敗者復活戦でもサンドウィッチマンが勝ち上がります。
石田さんは後年、この結果を受けたときに芸人になって初めて涙が出たと振り返っています。
そこで翌年勝つために、それまで客席で受けていた「イキり漫才」を大きく捨てる決断をしました。
井上さんにとっては、実際に笑いが取れている型を変えることになるため、最初からすんなり納得できる変更ではありませんでした。
2人は試行錯誤を重ね、井上さんのツッコミに石田さん自身のツッコミを重ねるなど、ボケの数とテンポを一気に増やした新しい漫才へ移っていきます。
2008年のM-1へ向けて、前年までの成功パターンを守るのではなく、漫才そのものを作り直しました。
2008年春に東京進出|関西の仕事を手放し、仕事が少ない状態へ
漫才を作り直していた2008年春、NON STYLEは活動の拠点を大阪から東京へ移しました。
井上さんは後年、大阪では当時9本ほどのレギュラーがあったと振り返っていますが、それを手放しての東京進出でした。
関西ではすでに知名度があった一方、東京では同じように仕事が用意されていたわけではなく、出演の少ない状態から再び始めることになります。
井上さんの中には、コンビ結成10年、30歳ごろまでにM-1で結果を出せなければ辞めることも考えるという区切りがありました。
関西で得ていた仕事を手放し、東京で仕事が減った年に迎えたのが2008年のM-1でした。
2008年12月21日にM-1優勝|「芸人で食べていける」と感じた転機
2008年12月21日、NON STYLEはM-1グランプリ2008の決勝へ初進出しました。
M-1グランプリ公式記録によると、この年は4,489組が出場し、NON STYLEは最終決戦でオードリー、ナイツと争いました。
最終決戦では審査員7人のうち5票を獲得し、NON STYLEがM-1グランプリ2008王者となりました。
路上で見よう見まねの漫才を始めてから約8年半が経っていました。
「M-1で優勝できたから、一生この世界でご飯を食べていけると思えた。」
マイナビニュース
優勝後は仕事量が大きく変わり、井上さん自身も芸人として生活していけると感じる節目になりました。
M-1後の変化|家族、テレビ仕事、活動自粛を経たNON STYLE
M-1優勝後、NON STYLEは全国で知られるコンビとなり、井上さん個人のテレビ出演も増えていきました。
その変化の中では、芸人になることに反対していた家族との出来事や、石田さんとの漫才に対する温度差も生まれています。
2010年、1万2000人無料ライブへ両親を招待
芸人になった当初、両親には活動を隠し、テレビ出演によって知られることになった井上さんですが、M-1優勝後には大きな舞台へ両親を招く機会が訪れました。
2010年12月、さいたまスーパーアリーナで行われたNON STYLEの無料ライブには約1万2000人が集まり、井上さんは両親も客席へ招待しました。
ところがライブ終盤では、普段の漫才と同じように井上さんが客席から一斉にいじられる演出があり、約1万2000人から「きもい」と声を浴びる形になります。
お笑いとして成立している光景でも、母親には息子が大勢から悪く言われているように見え、涙を流してしまったと井上さんは明かしています。
芸人になることを隠していた大学時代から10年ほど経ち、両親が1万人を超える観客の中で息子の舞台を見るまでになっていました。
テレビ仕事が増える中で生まれた、石田明との漫才への温度差
M-1後は井上さん個人のバラエティー出演も増え、NON STYLEの中でもそれぞれが別の仕事を持つ時間が増えていきました。
石田さんは2021年、2016年ごろには井上さんの個人仕事が増え、以前ほど漫才へ気持ちが向いていないように感じていた時期があったと明かしています。
漫才を続けたい石田さんとの間には活動の方向を巡る違いがあり、石田さんがコンビ解散まで現実的に考えていた時期もありました。
石田さん自身は別に劇団を立ち上げる構想も持っており、NON STYLEがずっと同じ状態のまま続いていたわけではありません。
2016年の接触事故と活動自粛|2017年に再び2人で漫才へ
2016年12月11日、井上さんが運転していた車とタクシーが東京都内で接触し、タクシー運転手がけがをする事故が起きました。
井上さんはその後、芸能活動を自粛します。
井上さんが舞台へ出られない間、石田さんは一人で仕事を続けましたが、活動の方向を巡って解散まで考えていた直前とは、2人の関係も変わっていきます。
「おれの人生から井上引っこ抜いたらおれの人生なんかペラッペラなんですよ」
ORICON NEWS
2017年3月には事故について不起訴処分となり、同月30日、井上さんはルミネtheよしもとの舞台へ登場して石田さんと漫才を披露しました。
約3か月半ぶりに2人で漫才をした後、井上さんは以前より漫才へ向き合うようになったと石田さんが後に語っています。
解散を考えていた石田さんも劇団を作る計画を取りやめ、NON STYLEとして再び漫才を続ける方向へ進みました。
現在も漫才を続ける井上裕介|若い世代へ広がった活動
活動再開後の井上さんは、個人でテレビや配信番組へ出演しながら、NON STYLEとしての漫才も続けています。
2020年代に入ると、家族と自分の過去を改めてたどる仕事や、若い世代が見る番組での活動も増えました。
2023年、3歳下の弟と大阪で自分のルーツを巡る
2023年には、NHKの番組企画で3歳下の弟と2人きりで大阪を歩き、自分のルーツに関わる場所を巡りました。
普段は弟と会っても両親や甥など家族が周囲にいることが多く、男兄弟2人だけで長く話す機会はほとんどなかったそうです。
このロケでは大阪の思い出の場所を巡りながら話し、井上さんは後に、弟とこれほど話したことはなかったかもしれないというほどの時間になったと振り返っています。
中学で石田さんと出会い、大学生で路上漫才を始めた大阪を、40代になって今度は弟と歩くことになりました。
新ネタ収録と全国ライブを続ける現在のNON STYLE
テレビでの個人活動が目立つようになってからも、井上さんと石田さんは漫才をやめていません。
井上さんは2023年、NON STYLEの公式YouTubeへ公開するため、約2か月に1回のペースで10本ほどの漫才をまとめて収録していることを公式ブログで紹介しました。
「漫才師しております^_^」
井上裕介 公式ブログ
2026年にもNON STYLE公式ファンクラブではネタ収録ライブや単独ライブツアーが告知されており、結成26年を迎えた現在も舞台で新しい漫才を作り続けています。
M-1優勝後にテレビの仕事が増えても、活動の軸から漫才そのものが消えたわけではありません。
『今日、好きになりました。』見届け人8年目|新しい世代に知られる存在へ
個人では、ABEMAの恋愛番組『今日、好きになりました。』で高校生たちの恋愛を見守る「恋愛見届け人」としても長く出演しています。
2026年には見届け人8年目となり、中高生を中心とする若い視聴者が多い番組でコメントする立場を担っています。
大学時代には大人数のサークルで、前へ出る人と周囲を支える人にはそれぞれ役割があると感じていた井上さんですが、現在は自分が前面へ出る漫才だけでなく、若い出演者たちのやり取りを横から見守る仕事も続いています。
大阪で一人の時間を過ごしながらテレビのスターに憧れていた子どもは、大学で音楽を経験した後、石田明さんへ声をかけて路上へ立ちました。
そこから漫才を重ね、東京進出とM-1優勝、活動を離れた時期も経て、再び石田さんと舞台へ立っています。
結成から四半世紀を超えた現在も、NON STYLEとして新しい漫才を作りながら、井上裕介さん個人の活動も続いています。












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