人物プロフィール
お笑いコンビ「コットン」のきょんさんは、西村真二さんとのコントだけでなく、一人で演じる女性キャラクターやSNS、俳優の仕事でも活動の幅を広げています。
本名は富士田恭兵さんで、吉本興業の公式プロフィールでは1987年11月18日生まれ、埼玉県出身と紹介されています。
舞台では強いキャラクターになりきり、細かな人間観察をネタにする姿が知られていますが、昔から人前に出ることが平気だったわけではありません。
子どものころは、妹が親戚の前でギャグをする姿を見るだけでも恥ずかしくなるほどの「超恥ずかしがり屋」でした。
そこから草加の友人とお笑いの真似事を始め、大学では芸能界への入口に一度立ちながら、卒業後にはIT企業の営業マンとして働く道を選びます。
会社で社長賞と新人賞を取ったあとに仕事を辞め、23歳でNSC東京校17期へ入り、西村さんと出会うまでにはいくつもの出来事がありました。
コットンきょんの生い立ちと家族|草加で育った恥ずかしがり屋の少年
きょんさんは埼玉県出身で、子ども時代から高校生のころまでを振り返るときには、たびたび草加市での思い出を語っています。
毎年のように盆踊りへ出掛けたり、友人と地元の施設へ遊びに行ったりと、後年のインタビューには当時の街の風景まで具体的に残っています。
草加で育ち、妹のギャグを見るだけでも恥ずかしかった子ども時代
現在のきょんさんからは意外にも見えますが、幼いころは目立つことが得意な子どもではありませんでした。
恥ずかしいと顔が真っ赤になることもあり、自身では当時を「赤面症」だったと振り返っています。
「俺はもともと超恥ずかしがり屋でした!」
よなよなの里
妹は藤井隆さんが好きで、親戚が集まった場でも「ホットホット!」のギャグを披露していたそうですが、兄のきょんさんは横で見ているだけでも恥ずかしくなっていたといいます。
草加では大きな広場のある公園の盆踊りへ毎年のように出掛け、たこ焼きや型抜きなどが並ぶ小さな地元のお祭りを楽しんでいました。
このころはまだ、自分が大勢の客を前にして笑いを取る仕事に就く姿は想像しにくい少年でした。
父は鈴木雅之らと旧知|母・妹と確認できる家族エピソード
きょんさんが公の場で家族について話す際には、父、母、妹が登場します。
なかでも父には少し変わった若いころのエピソードがあり、高校時代に鈴木雅之さんやラッツ&スターのメンバーたちと交流があったことを、きょんさん自身が後年明かしています。
父は鈴木雅之さんからグループへ誘われたものの、当時は肌荒れを気にしていたため参加せず、その後もメンバーとの親交は続いたそうです。
両親の結婚式にはラッツ&スターのメンバーがサプライズで現れたという話もあり、きょんさんの家庭には芸能界と少し不思議な接点がありました。
母については、草加の昔話をしている途中で会いたくなったと口にするなど、地元へ帰ることと母に会うことが本人の中で近いものとして語られています。
小中学生時代|サッカーと卓球、友人とのお笑いの真似事
小学生になると、きょんさんの生活にはスポーツが大きく入ってきます。
同時に、中学生になるころには後の芸人人生へつながる友人との遊びも始まっていました。
西町FCでサッカー、祖父に負けた悔しさから卓球部へ
小学生のころは地元の西町FCに入り、サッカーを始めました。
中学校へ進んでも西町FCでサッカーを続ける一方、学校では卓球部を選んでいます。
卓球を始めた理由は、祖父と温泉へ行った際に卓球で負けたことが悔しかったからという、きょんさんらしい負けず嫌いが見えるものでした。
そこから卓球にも熱中し、埼玉県大会で4位ほどまで進むようになります。
現在の吉本興業のプロフィールにも、卓球は「県ベスト4」、サッカーは「県選抜」と特技欄に記載されており、スポーツはかなり本格的に続けていました。
中学の文化祭で友人・小南とお笑いを始める
スポーツと並んでもう一つ大きかったのが、地元の友人小南さんとの時間でした。
中学校の文化祭や学校行事では、小南さんと一緒に「お笑いの真似事」のようなことをするようになります。
この時点でプロの芸人を目指していたわけではありませんが、本人は後年、この友人との経験をはっきりと芸人になる前のきっかけとして挙げています。
「自分が今あるのも地元の友人のおかげです。」
チイコミ!
職業として芸人になる決断よりずっと前に、友人と人前で笑いを取る経験が始まっていたことになります。
高校・大学時代|男子校で人前に出始め、芸能界を意識
中学を卒業するころ、きょんさんは進学という最初の大きな分岐を迎えます。
この高校生活で、子どものころから続いていた恥ずかしがり屋の一面にも少しずつ変化が出てきました。
越谷南高校に届かず都内の男子校へ|高校までサッカーを継続
高校受験では第一志望だった埼玉県立越谷南高校に合格せず、都内の男子校へ進みました。
中学まで続けてきたサッカーは高校でも続けており、子ども時代から長く付き合ったスポーツになっています。
男子校へ通いながら、休日には少し背伸びをして原宿までデートに出掛けることもあったと、地元インタビューで笑いながら振り返っています。
男子校のノリで少しずつボケるように|マクドナルドで2年半アルバイト
男子校では、友人から何か面白いことをするよう求められる場面が増え、少しずつボケたり、人前へ出たりするようになりました。
本人が「恥ずかしさ」に変化が出た最初の時期として挙げているのも、この高校時代です。
一方、学校の外ではマクドナルドで約2年半アルバイトをしており、2025年にマクドナルドのイベントへ出演した際には、約20年ぶりにユニフォームを着たと話していました。
人前でふざける機会が増えた男子校での生活と、接客の現場で働いた高校時代を経て、進学後には芸能界という選択肢がさらに近づいてきます。
國學院大學のカフェサークルから芸能界への挑戦へ
高校卒業後は國學院大學へ進学しました。
大学ではカフェサークルに所属しながら過ごし、このころにはお笑い芸人だけでなく俳優という仕事にも関心を持っていました。
好きだった俳優として挙げているのが、阿部サダヲさんや竹中直人さんで、コメディーもできる存在感のある役者への憧れがあったといいます。
ただし、芸能界への興味は「いつか」の話だけでは終わらず、大学在学中に実際の行動へ変わりました。
大学3年でワタナベの選考に合格するも芸能の道へは進まず
大学3年生のとき、きょんさんはワタナベエンターテインメントの選考を受けました。
結果は授業料全額免除での合格というもので、一度は入る気になったものの、授業料以外にも費用がかかることを知り、その場では決断しませんでした。
別のインタビューでは俳優コースを受けたとも話しており、この時点では芸人一本に進路を絞り切れていなかったことが分かります。
芸能界へ行く気持ちが本物なのか、就職活動から逃げたいだけなのか本人にも判断がつかず、いったん一般企業で働くことを選びました。
IT営業マン時代|社長賞・新人賞を取っても消えなかった芸人への思い
大学卒業後にきょんさんが進んだのは、お笑いとはまったく違う会社員の道でした。
しかも、そこで仕事がうまくいかなかったから芸人へ転向したわけではありません。
就職氷河期に2社から内定、一度社会人になると決める
就職活動をしていたころはリーマンショック後の厳しい時期で、なかなか内定が決まらない状況が続きました。
最終的には水関係の商社とIT企業の2社から内定を得て、規模の大きかったIT企業を選びます。
本人の中では、まず社会人として1年間働き、それでも芸能界へ進みたい気持ちが残っていたら挑戦するという期限を決めていました。
芸人への憧れを消したのではなく、1年間働いたあとでも同じ気持ちなのか確かめるための就職でした。
電話営業から訪問営業へ最速で進み、入社1年目で二つの社内賞
配属された営業では、まず電話で顧客へアプローチし、経験を積むと訪問営業へ進む仕組みになっていました。
きょんさんはその移行が社内でも最速だったといい、入社1年目に社長賞と新人賞を受賞しています。
当時の初任給は38万円だったとも明かしており、仕事では結果が出ていました。
営業マンとして評価されながらも、1年後になっても芸能界へ行きたい気持ちは消えていませんでした。
栃木出張中の東日本大震災が芸人になる決断を後押し
会社員として働いていた2011年3月、人生の進路を決める直接的な出来事が起きます。
仕事で栃木県へ出張していた日に東日本大震災が発生し、乗っていた電車が大きく傾き、その後は近くの避難所へ移動することになりました。
携帯電話もつながりにくい中、避難所では食べ物を求めて人々が動く様子を目にし、「人生はいつ何が起きるか分からない」と考えたと話しています。
「きっかけは東日本大震災です。」
まいにちdoda
この経験を境に、いつかではなく本当に芸人を目指すために動き出すことを決めました。
会社には「飲食関係へ行く」と伝え、23歳でNSCへ
退職を申し出ると、会社では上の役職の人たちから強く引き止められました。
きょんさんは、本当の理由である「芸人になりたい」と伝えれば説得されるかもしれないと考え、会社には飲食関係の仕事へ進みたいと説明しました。
別のインタビューでは、親にも知らせずに会社を辞めたと話しています。
そして2011年、23歳でNSC東京校17期へ入り、会社員からお笑いの世界へ生活を切り替えました。
NSC東京17期時代|3つのコンビを経て西村真二と出会う
NSCへ入ってから現在のコットンがすぐにできたわけではなく、きょんさんは西村さんと組むまでに複数の相方とネタを作っています。
その過程では、現在の芸風からは想像しにくいツッコミ役も経験していました。
エントランスで人生初のネタ見せ、はちみつ神社を経てオリオンステーションへ
NSCで最初に組んだコンビはエントランスでした。
エントランスは客前に立つ前に解散しましたが、人生で初めて「ネタ見せ」を経験したのはこのコンビで、同期や先輩、放送作家を前に刑事を題材にした漫才コントのようなネタを披露しています。
本人は緊張でネタをやることに必死になり、「早く終わってほしい」と思うほどだったそうです。
その後ははちみつ神社を経て、仲嶺広伸さんとオリオンステーションを組みました。
2011年夏の初客前舞台|当時のきょんはツッコミだった
客を前にして初めてネタを披露したのは、2011年夏ごろのオリオンステーション時代でした。
草加の友人や大学時代の友人も見に来ていましたが、笑ったのは知り合いだけではなく、会場全体から反応が返ってきたといいます。
そして、このコンビできょんさんが担当していたのはツッコミでした。
現在のキャラクター型のボケとは違い、相方のボケの間をツッコミで補う役回りをしていた時期があります。
約700人から12人の演技選抜で西村真二と親しくなる
西村真二さんとはNSCの同期でしたが、入学当初はクラスが違いました。
西村さんは広島ホームテレビの元アナウンサーという経歴があったため、約700人いた同期の間でも名前を知られた存在で、きょんさんも直接話す前から知っていました。
2人が近づいたのは、同期約700人の中から12人ほどが選ばれた演技選抜の1軍にそろって入ったことがきっかけでした。
西村さんによると、きょんさんは自分から「きょんって呼んで」と話しかけるような明るいタイプで、そこで気が合うようになったといいます。
卒業直前にオリオンステーションを解散し、ピンで卒業するつもりだった
オリオンステーションはNSC内での成績も上がっていきましたが、ネタを続けるうちに相方とのテンポ感のずれが気になるようになります。
きょんさんは後年、その違いを「0.5秒の世界」と表現するほど細かなものだったと話しています。
卒業直前の2月に行われたNSC大ライブで1回戦敗退となり、このままデビューするのは違うと考え、きょんさんの側から解散を申し出ました。
仲嶺さんとは人としての関係が悪かったわけではなく、別れる際にも「各々がんばろう」と受け止めてもらい、きょんさん自身はピンでNSCを卒業するつもりでいました。
西村真二からの誘いでラフレクラン結成|水道橋で決まった現在の相方
同じころ、西村さんが組んでいた幼なじみとのコンビロッキングサンも解散します。
それまで別々の相方と活動していた2人が、ここで初めて一つのコンビへ向かい始めました。
水道橋のやるき茶屋で西村からコンビ結成を打診される
声をかけたのは西村さんでした。
初めて2人きりで水道橋の「やるき茶屋」へ行き、西村さんは「今日はなんでも食べて」ときょんさんにごちそうし、きょんさんはそこで初めてマグロのカマを見たと笑いながら振り返っています。
当時のきょんさんにはほかにもコンビ結成の誘いがあり、その場ですぐ西村さんに決めたわけではありませんでした。
ただ、以前のコンビを解散したうえで自分を誘ったのは西村さんだけだったことが、決断の材料になりました。
複数の誘いから3日間考え、西村を選んだ理由
返事を待ってもらった期間は約3日でした。
その間にも西村さんから長いメッセージが届き、最後にはこんな言葉が書かれていました。
「お笑いのテッペン、一緒に獲りに行こう」
テレビ朝日 logirl
きょんさんは最終的に西村さんと組むことを選び、2012年にラフレクランが誕生しました。
コットン公式YouTubeでは、2人の結成日を2012年4月4日としています。
結成直後は漫才中心|2012年5月の初ライブで好スタート
結成から約2週間後には、NSC卒業生が集まる場で客を入れずにネタを収録しました。
現在はコントのイメージが強いコットンですが、ラフレクラン結成直後は漫才中心で、ボケとツッコミの役割もまだはっきり決まっていませんでした。
客前でラフレクランとして初めてネタを披露したのは2012年5月で、同期のランキングライブに出場すると優秀者に選ばれ、通常より一つ上のランクから劇場活動を始めることになります。
3組のコンビを経験した末に組んだ西村さんとの初ライブは、結果の出るスタートになりました。
若手ラフレクラン時代|∞ホールで早くもTOP3、その後の停滞
ラフレクランは結成直後から同期の中でも比較的早く結果を出し、東京の若手劇場で上位へ進みました。
ただ、その勢いのまま全国区へ進んだわけではなく、若手時代には上昇と停滞の両方を経験します。
同期4人との約5年間のルームシェアと「平常心」と唱えた舞台袖
芸人になってからも、子どものころからの恥ずかしがり屋がすぐ消えたわけではありませんでした。
若手時代は舞台に上がる前に顔が赤くなるのを気にして、舞台袖で「平常心、平常心」と唱えていたといいます。
舞台経験を重ね、3年目あたりになると少しずつ赤面することも減っていきました。
私生活では、同期芸人4人で約5年間ルームシェアをしており、互いに何でも話し、けんかをしたり泣いたりすることもある生活を送っていました。
会社員を辞めた直後には収入が少なく、友人に食事をおごってもらうこともありましたが、本人はNSCへ入ったことを後悔したことはなく、アルバイトをしていた時期も楽しかったと話しています。
売れる前に草加のイベントへ|地元の友人が客席に集まった
芸人としてまだ広く知られる前、地元・草加のイベントへ呼んでもらったこともありました。
客席には中学生のころから付き合いのある友人たちが集まり、地元で親しまれていたスーパー「ポロロッカ」の閉店をネタのつかみにすると、その日の大きな笑いにつながったといいます。
中学時代に一緒にお笑いの真似事をしていた友人たちが、今度は芸人として舞台に立つきょんさんを客席から見る側になっていました。
2014年に∞ホールTOP3へ入り、早い時期にアルバイトを卒業
2014年には、東京・ヨシモト∞ホールの若手ランキング「彩~irodori~East」で、ジャングルポケット、ニューヨークと並ぶTOP3へ入りました。
同期の中でも仕事は多く、アルバイトを辞めるのも早く、テレビにも月に1~2回ほど出る時期がありました。
結成2年ほどで劇場のTOP3まで上がったため、若手時代の前半だけを見ると順調に進んでいるようにも見えます。
2016年にTOPから落ち、仕事を次へつなげられない時期へ
ところが、2016年には劇場のTOPから落ちました。
当時はテレビへ呼ばれても、収録で何を準備し、出演後にどこを反省すれば次へつながるのか分からず、経験を十分に生かせていなかったと2人は後年振り返っています。
きょんさん自身も、テレビでは力が入りすぎて空回りすることがありました。
若手の早い段階で仕事が増えた一方、その仕事を継続的な出演へ変えていく難しさにぶつかった時期でした。
2019年NHK新人お笑い大賞優勝で再び流れが変わる
賞レースでは2016年のNHK新人お笑い大賞で準優勝し、3年後の2019年に再び本選へ進みました。
2019年10月の決勝ではゾフィーとのコント対決を制し、ラフレクランが大賞を受賞します。
3年前には他の芸人に降る紙吹雪を見て悔しい思いをしていた西村さんにとっても、コンビで初めて大きなタイトルを取った瞬間でした。
ただ、2019年に優勝しても、その直後から一気に全国的なブレイクへ進んだわけではありませんでした。
SNS、改名、キングオブコント|ラフレクランからコットンへ
2019年の受賞後も活動を続ける中で、舞台や賞レースとは別の場所から、きょんさん個人のキャラクターが知られる出来事が生まれます。
そして結成10年目を迎えるころ、長く使ってきたコンビ名そのものも変わりました。
コロナ禍に始めたSNSで「クラスで一番明るいJK」が大反響
新型コロナウイルスの影響で自宅待機が続いていた時期、きょんさんは後輩のおばたのお兄さんへ電話をかけ、SNSについて相談しました。
「SNSに向いているからやった方がいい」と勧められ、まず1か月続けてみようと投稿を始めます。
最初に投稿したのが、妹の高校生活をモデルにした「クラスで一番明るいJK」というキャラクターでした。
本人によると、この最初の動画が3日ほどで約800万再生まで広がり、舞台とは別の場所できょんさん一人のキャラクターが一気に知られることになります。
子どものころ、親戚の前でギャグをする妹を見るだけでも恥ずかしがっていた兄が、今度はその妹の高校生活を観察して自分のキャラクターとして演じていました。
2021年『しくじり先生』を機に「コットン」へ改名
2021年、結成10年目を迎えたラフレクランは、コンビ名を「コットン」へ変更しました。
以前から「ラフレクラン」は覚えにくく、言い間違えられることもあったため、より親しみやすい名前への変更を考えていました。
テレビ朝日系『しくじり先生 俺みたいになるな!!』のお笑い研究部企画で「ラフレクランがいまいちハネない」を検討する中、新しいコンビ名を考える流れになり、「コットン」が決まります。
改名は2021年4月1日に発表され、約9年間活動したラフレクランという名前からコットンへ切り替わりました。
おかっぱから坊主へ|コントのキャラクターも変化
ラフレクラン時代のきょんさんは、おかっぱに近い髪型が長く続いていました。
コットンへの改名後には『有吉の壁』をきっかけに丸坊主へ変え、見た目も大きく変化します。
本人は、改名した以上は自分も変わったところを見せたいという気持ちがあったと話しており、女装コントでウィッグを使う際にも坊主の方が都合がよかったそうです。
結成直後には漫才を中心にボケとツッコミを入れ替えていた2人が、このころにはコントでそれぞれのキャラクターを強く出すスタイルでも注目されるようになっていました。
キングオブコント2022初決勝|震えるきょんに西村が送った目線
2022年、コットンはキングオブコントで初めて決勝へ進出しました。
大会公式記録では3018組が参加した年で、コットンは10組のファイナリストに残り、最終的に準優勝しています。
大舞台でも、西村さんは比較的冷静だった一方、きょんさんの身体は本番中に震えていました。
1本目は動きもセリフも多く、一つ崩れるとネタ全体に影響する内容だったため、本人も強い緊張を感じていたといいます。
「ずっと目で『お前、大丈夫か?』って。」
テレビ朝日 logirl
西村さんは相方にしか分からない目線を送り、きょんさんもネタの後半に入るころには落ち着きを取り戻していきました。
キングオブコント2022の準優勝後、コットンへの出演依頼は大きく増加しました。
西村さんも後のインタビューで、コットンの歩みを振り返るうえでキングオブコントの前後では人生が大きく変わったと話しています。
R-1準優勝と俳優業|昔から抱いていた演技への興味が現在へ
キングオブコント後はコンビでの仕事が増える一方、きょんさん個人にも新しい動きが続きました。
大学時代に考えていた俳優という仕事も、芸人として10年以上活動したあとに実際の出演へつながります。
R-1グランプリ2023で初決勝・準優勝
2023年にはピン芸日本一を決めるR-1グランプリへ出場し、初めて決勝まで進みました。
結果は準優勝で、前年のキングオブコントに続いて、今度はきょんさん個人で賞レースの最後まで残ることになります。
コンビではキングオブコント準優勝、個人では翌年R-1準優勝と、コントで磨いてきた演技やキャラクターを別の形でも見せる時期になりました。
『下剋上球児』で地上波連続ドラマへ初出演
同じ2023年、TBSの日曜劇場『下剋上球児』への出演が決まります。
TBSの公式発表では、これがきょんさんにとって地上波連続ドラマ初出演で、越山高校の生徒たちが利用するコンビニの名物店員・青沼健太を演じました。
大学時代には阿部サダヲさんや竹中直人さんのような俳優に憧れ、一度はワタナベエンターテインメントの選考も受けていました。
会社員になる前から興味を持っていた俳優の仕事へ、芸人として活動を続けた先で実際に進むことになりました。
キングオブコント再挑戦とコント・SNS・演技へ広がった現在
コットンは2022年の準優勝で賞レースから離れたわけではなく、2024年には再びキングオブコント決勝へ進出しました。
現在も吉本興業の公式プロフィールにはコットンとして掲載され、コンビの漫才・コントと並行して、きょんさん個人ではSNSのキャラクターや演技の仕事も続いています。
私生活では2025年7月にタレントのまつきりなさんとの結婚を発表し、同年11月には第1子となる男児が誕生しました。
高校時代に約2年半働いていたマクドナルドのイベントへ2025年に出演した際には、第1子誕生後初の公の場となり、約20年ぶりに同社のユニフォームへ袖を通しています。
草加で友人とお笑いの真似事をしていた少年は、一度会社員として働いたあと、自分で仕事を辞めてお笑いの世界へ入りました。
NSCでは三つのコンビを経験し、西村さんからの誘いを受けて始まったラフレクランは、約9年後にコットンへ名前を変えました。
現在はそのコンビ活動を続けながら、SNSのキャラクター、ピン芸、俳優と、芸人になる前から興味を持っていた分野にも活動を広げています。












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