コットン西村真二の生い立ちと家族|ミスター慶應・元アナウンサーから芸人になった理由

人物プロフィール

生年月日
1984年6月30日
身長
181cm
血液型
AB型
出身地
広島県 広島市
コンビ・グループ名
コットン
相方・メンバー
きょん
結成年
2012年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2011年
養成所・スクール
NSC東京校 17期

コットンの西村真二さんといえば、きょんさんへの鋭いツッコミに加え、番組進行や実況でも力を発揮する元アナウンサーの芸人です。

慶應義塾大学を卒業し、広島ホームテレビのアナウンサーを経て吉本興業の芸人へという経歴だけを見ると、お笑いは社会人になってから選んだ新しい道のようにも見えます。

ところが、西村さんは小学校の卒業文集ですでに「芸人になりたい」と書いていました。

高校卒業時にも芸人を考えながら大学へ進み、さらにアナウンサーとして働いたあと、M-1のDVDを見た翌日に辞表を書くという形で、長く残っていた夢へ戻っていきます。

広島の野球少年が慶應でダンスとイベントMCに熱中し、テレビ局員になり、26歳でNSCへ入り直してきょんさんと出会うまで、西村さんの現在につながる時間を順番にたどります。

西村真二の生い立ちと家族|広島で育った目立ちたがりの少年

西村真二さんは1984年6月30日、広島県生まれです。

現在の吉本興業公式プロフィールには、野球12年、ピアノ12年、水泳9年、ダンス6年という長い経験が並んでいますが、お笑いへの興味も子どものころからすでに始まっていました。

生まれた時から母子家庭、働く母と3きょうだいで育つ

西村さんは2026年、『アメトーーク!』のTVer配信限定企画「ひとり親で育った芸人」で、生まれた時から父親がおらず、母子家庭で育ったことを明かしています。

きょうだいは3人で、母親は朝から晩まで働いて家庭を支えていました。

ただし、西村家の暮らしを「母子家庭だから経済的に苦しかった」と単純に説明することはできません。

本人によると母親は仕事で成果を上げており、実家は5LDKの一軒家で、表と裏に庭がある家だったそうです。

さらに母親は3人の子どもを私立大学へ進ませ、一人暮らしにかかる費用も負担していました。

仕事で母親が家を空ける時間が長かったため、西村さんは学生時代にかなり自由に遊んでいた時期もあったと話しています。

朝から晩まで働く母親の姿と、子どもたちの進学まで支える家庭環境の中で育っていました。

小学1年から野球を始め、広島市民球場へ通うカープ少年に

子どものころの西村さんの生活で大きな位置を占めていたのが野球でした。

小学1年生で野球を始め、小柄だったころはセカンドを守り、背が伸びるとピッチャーを任されるようになります。

地元・広島で育ったこともあり、広島東洋カープが身近にある少年時代を過ごしました。

広島市民球場へ足を運び、外野フェンスの向こうにいる選手たちを見ていたことも本人が語っています。

小学1年から始めた野球は、高校まで12年間続くことになります。

小学校の卒業文集にはすでに「芸人になりたい」

野球を続ける一方で、テレビの中にいる人たちへの憧れも早い時期からありました。

本人によれば、小学生のころにテレビ番組を見たことからお笑い芸人を意識するようになり、小学校の卒業文集には将来の夢として「芸人になりたい」と書いています。

後にアナウンサーを辞めて芸人へ転身する西村さんですが、そのとき突然お笑いを選んだわけではなく、夢そのものは小学生まで遡ります。

本人は当時の自分について、かなり目立ちたがりで「お調子者」だったとも振り返っています。

中学では背番号1、卒業式の代表挨拶でも全力でふざける

中学校でも野球を続け、中学1年から背番号1をつけてピッチャーを務めました。

この野球部でバッテリーを組んでいた同級生は、何年もあとに西村さんと一緒にNSCへ入る人物でもあります。

学校での西村さんは、野球だけに打ち込む静かな生徒ではありませんでした。

中学校の卒業時には大勢の前で代表挨拶をする役を任されましたが、本人によると、そんな大事な場面でも全力でふざけてしまい、あとからかなり怒られたそうです。

「小学生の頃から、めちゃくちゃ目立ちたがり屋で、ザ・お調子者って感じの性格だった」

よなよなエール公式ウェブサイト「よなよなの里」

修道高校時代|野球部のエースが芸人という進路を考える

中学を卒業すると、西村さんは広島の修道高校へ進みました。

高校でも野球部に入りながら、卒業が近づくころには子どものころから頭にあった「芸人」が現実の進路として再び出てきます。

右の軟投派投手として修道高校でも背番号1を背負う

修道高校でもピッチャーを続け、エースとして投げていました。

本人が後年説明した投球スタイルは、右のオーバーハンドからカーブやスライダーを使う軟投派です。

速球だけで押すというより変化球を使って打者と勝負するタイプで、高校まで野球を続けました。

大学で野球を続ける道へは進みませんでしたが、長年の野球経験とカープ好きは、のちにアナウンサーとして野球実況を担当するときにも顔を出します。

進路指導で「芸人かホスト」と言われ、母に芸人志望を伝える

高校卒業後の進路を考える時期、西村さんは先生から、人前に出る性格を見て「芸人かホストが向いている」という趣旨のことを言われたと振り返っています。

そこで母親に、芸人になりたいと伝えました。

小学校の卒業文集に書いた夢が、高校卒業を前に具体的な進路の候補として戻ってきたことになります。

母から「大学だけは」と頼まれ、芸人になる時期を4年先へ延ばす

母親は芸人になること自体をその場で後押しするのではなく、まず大学を卒業してほしいと頼みました。

そこで西村さんは、すぐ芸人になることをいったん見送り、大学受験へ切り替えます。

「18歳で芸人になるのも22歳でなるのも変わらない」

慶應塾生新聞デジタル

芸人になる夢を捨てたのではなく、大学を卒業するまで4年間先送りするという選択でした。

慶應義塾大学時代|ブレイクダンスとミスター慶應

大学進学で西村さんが強く望んでいたのは、広島を離れて東京へ出ることでした。

兄が早稲田大学に通っていたこともあり東京の大学を志望し、複数の学部を受験した末、慶應義塾大学商学部へ進みます。

東京へ出たくて慶應へ、REVOLVEのブレイクダンスに飛び込む

慶應へ入学した西村さんが熱中したのは、お笑いサークルではなくストリートダンスサークル「REVOLVE」でした。

新入生歓迎の場でブレイクダンスを見て惹かれ、すぐに練習へ参加するようになります。

吉本興業の現在のプロフィールでもダンス歴は6年、特技にはブレイクダンスが挙げられており、芸人になる前から人前で体を使って表現する時間を長く過ごしていました。

ダンスイベントのMCとレンタルビデオ店のアルバイト

大学時代の西村さんは、本格的に漫才やコントをしていたわけではありません。

その代わり、自分たちのダンスイベントだけでなく、他大学のイベントでもMCを数多く担当していました。

ステージで客へ話しかけ、出演者をつなぎながら場を盛り上げる経験を重ねていたことになります。

生活面では大学1年から、東急東横線の綱島駅近くにあったレンタルビデオ店でアルバイトをしていました。

大学ではお笑いサークルではなく、ダンスとイベントMCが人前に立つ主な場所でした。

大学4年、後輩の応募からミスター慶應グランプリに

「ミスター慶應」という経歴も、西村さんが自分から狙って手に入れたものではありませんでした。

大学4年のとき、サークルの後輩女性から写真を撮られ、その写真を本人の知らないところで応募されたことから選考へ進んでいきます。

最終的に2007年のミスター慶應グランプリに選ばれました。

本人はコンテスト中もふざけていたといい、後年のインタビューでは当時について「黒歴史」と表現しています。

外から見ると華やかな学生生活でしたが、そのころも卒業後の選択肢から芸人が消えていたわけではありません。

DJ仲間と「1年だけ社会人」を約束して就職活動へ

大学卒業後、西村さんはサークルで一緒だったDJ仲間と芸人になることを考えていました。

ただ、その友人との間で出たのが、いきなり芸人になるのではなく「1年だけ社会経験を積もう」という案でした。

就職活動ではアナウンサーだけに絞ったわけではありませんでしたが、一般企業より早く始まるアナウンサー試験にも挑戦し、広島ホームテレビから内定を得ます。

高校卒業時に4年間延ばした芸人へのスタートは、大学卒業時にさらに1年だけ先へ延びる予定になりました。

広島ホームテレビ時代|1年で辞めるはずが3年間アナウンサーに

2008年、西村さんは地元へ戻り、広島ホームテレビへアナウンサーとして入社しました。

最初から片手間で働いていたわけではなく、採用試験にも仕事にも全力で向き合いながら、その一方で芸人になる約束を残していました。

2008年に地元・広島のテレビ局へ入社

局ではニュースのほか、情報番組『あっぱれ!熟年ファイターズ』などを担当しました。

高校まで続けた野球とカープ好きも仕事につながり、広島東洋カープの試合を実況する機会もありました。

その実況ではカープへの思いが入りすぎたのか、阪神戦で一塁側と三塁側をどちらも「カープ」と言ってしまったことがあったと本人が明かしています。

野球少年だったころにスタンドから見ていた競技を、今度は放送席から言葉で伝える側になっていました。

一緒に芸人になるはずだった友人が就職先で心変わり

入社から約1年が過ぎると、西村さんは予定どおり辞表を書き、芸人になる約束をしていた大学時代の友人へ連絡しました。

ところが、その友人は就職した会社で仕事にやりがいを感じるようになり、会社を辞めたくないと考えるようになっていました。

西村さんは広島から新幹線で名古屋まで会いに行き、芸人になろうと説得します。

翌朝早くから仕事が入っていたため話せた時間は1時間にも満たず、説得は実らないまま広島へ戻りました。

一緒に始めるはずだった相手がいなくなり、1年で辞めるという計画はいったん止まりました。

芸人への夢を抱えたまま番組を任されるようになる

そのまま西村さんはアナウンサーを続けました。

仕事を続けるうちに担当番組も増え、アナウンサーとしての生活そのものは充実していきます。

一方で、周囲の同僚が番組を任されることを素直に喜んでいる姿を見ると、自分は「芸人になりたい」と思ったままここにいていいのかという気持ちが残りました。

芸人を諦め切ったわけでもなく、すぐ会社を辞めるわけでもない状態で、予定していた1年間を越えて働き続けます。

チュートリアルのM-1を見て熱が再燃し、翌日に辞表を書く

再び状況を動かしたのは、テレビ局での大きな失敗ではありませんでした。

西村さんがたまたま見たのは、チュートリアルが優勝した2006年のM-1グランプリのDVDでした。

「俺がやりたいのはこれだ!」

まいにちdoda

西村さんはその翌日に辞表を書きました。

ただし担当番組を途中で放り出すことはせず、番組改編の時期を待って上司へ辞表を提出します。

上司は突然の申し出に「待って」と慌てたそうですが、西村さんの進路はそこで芸人へ向かって動き始めました。

小学校で書いた夢から十数年を経て、アナウンサーという職業を離れる決断をしたのです。

NSC東京17期へ|アナウンサーから26歳の芸人1年生に

広島ホームテレビを退社した西村さんは、東京へ出て吉本興業の養成所NSC東京校へ進みます。

吉本興業公式プロフィールでは、2011年の東京NSC17期生として記録されています。

退社4か月後、中学時代の野球仲間を誘ってNSCへ

NSCへ一人で入るつもりだった西村さんは、中学時代の同級生で、野球部ではバッテリーを組んでいた友人に声をかけました。

友人も誘いを受け、2人は「ロッキングサン」というコンビでNSCへ入ります。

元アナウンサーと、テレビ局で働いた経験のある相方という組み合わせだったこともあり、周囲からは入学当初から目立つ存在として見られていました。

きょんさんによれば、約700人いたNSC生の間でも「あいつが元アナウンサー」と西村さんの存在は知られていたそうです。

ロッキングサンの初舞台は想像ほどウケなかった

社会人経験があり、テレビの世界も知っている2人でしたが、芸人としての最初のネタ見せから順調だったわけではありません。

西村さんは当時、分かりやすいボケよりも雰囲気やセンスを意識したネタを書いていました。

講師からは目指している笑いは分かるものの技術が追いついていないという趣旨の指摘を受けています。

「初舞台はそんなウケなくて、『あれ? なんだこの感じ』って戸惑いましたね」

logirl

アナウンサーとして人前で話してきた経験があっても、ネタで客を笑わせる技術は別のものでした。

26歳で初めてアルバイトを経験、テレビ局員時代との落差

生活もテレビ局員だったころから大きく変わりました。

西村さんはNSCへ入った26歳で初めてアルバイトを経験します。

飲食店で働いていると、芸人を目指していることを知った客からその場で面白いことを求められ、「面白くない」と言われることもありました。

数か月前まで地元テレビ局でニュースや番組に出演していた人物が、今度は養成所へ通いながらアルバイトで生活することになりました。

それでも、アナウンサーへ戻ろうとは考えなかったと本人は話しています。

ロッキングサンを解散し、新しい相方を探す

ロッキングサンでは西村さんがネタを書いていました。

しかし、書いた台本をそのまま演じる以上のものが生まれないことに、西村さんは次第に物足りなさを感じるようになります。

昔からの友人だったことで、遅刻やアルバイトへの姿勢など、芸人仲間としては見過ごせない部分も気になるようになりました。

中学時代からの友人と始めた最初のコンビは、NSC卒業を前に解散へ向かいました。

きょんとの出会いとラフレクラン結成|水道橋の居酒屋でコンビへ誘う

ロッキングサンで活動していた西村さんと、のちに相方となるきょんさんは、NSCへ入った時点では別々のコンビにいました。

2人の距離が縮まったのは、通常のクラスとは別に選ばれた少人数の授業でした。

700人の同期から12人の「演技選抜」に2人とも選ばれる

当時の東京NSC17期には約700人が在籍しており、その中から12人だけが選ばれる「演技選抜」に西村さんときょんさんが入りました。

そこで2人は話すようになり、担当講師からも相性の良さを指摘されています。

きょんさんは西村さんと同じクラスではなかったものの、元アナウンサーの経歴を持つロッキングサンを早くから知っていました。

後年には、当時の西村さんを同期の中の「超エース」と見ていたことも明かしています。

オリオンステーションを解散したきょんを西村から誘う

きょんさんはNSC時代に「エントランス」「はちみつ神社」を経て、「オリオンステーション」で活動していました。

卒業を前にオリオンステーションが解散し、ほぼ同じころに西村さんのロッキングサンも解散します。

それまで2人ともツッコミ寄りの立場で活動していましたが、西村さんはきょんさんとなら一緒にやっていけると考えました。

新しいコンビへ誘ったのは西村さんです。

水道橋での食事と長文メッセージ、3日後にきょんが承諾

西村さんはきょんさんを水道橋の居酒屋「やるき茶屋」へ二人きりで誘いました。

きょんさんによると、その日は「今日はなんでも食べて」と西村さんが食事を振る舞う、まるで接待のような席だったそうです。

ただ、きょんさんにはほかの同期からもコンビ結成の誘いがあり、その場では返事をしませんでした。

西村さんは約3日間返事を待つ間にも長いメッセージを送り、その最後をこんな言葉で締めています。

「お笑いのテッペン、一緒に獲りに行こう」

logirl

きょんさんは、元のコンビを解散してまで自分を誘った西村さんの覚悟にも惹かれ、申し出を受けました。

こうして2012年4月、2人はラフレクランとして活動を始めます。

結成2週間で初ネタ、17期のライブで好スタートを切る

ラフレクランとして最初のネタを作ったのは、コンビを組んでから約2週間後でした。

最初は客を入れず、NSC卒業生が集まる場で動画撮影する形でネタを披露しています。

そして2012年5月、ヨシモト∞ホールで新コンビとして初めて客前に立つ直前、きょんさんはXでライブへの期待を書き残していました。

17期生によるランキング戦では、型の決まった漫才に切り替えて優秀者に選ばれ、ほかの同期より一段上のランクから劇場活動を始めることができました。

西村さんの最初のコンビとは対照的に、ラフレクランは結成直後から劇場で結果を出しました。

ラフレクランの若手時代|人気先行からネタに向き合うまで

ラフレクランは若手時代からまったく仕事がなかったコンビではありません。

むしろ比較的早く劇場で上位へ入り、メディアにも呼ばれながら、その先にどう進めば全国的に売れるのかが見えない時間を過ごしました。

結成当初はコントではなく漫才中心だった

キングオブコントで知られる現在の印象とは違い、結成から数年間のラフレクランはほぼ漫才中心でした。

結成直後にはボケとツッコミさえ完全には定まっておらず、2人の役割を入れ替えるような漫才も試しています。

キングオブコントに向けてコントを1本用意することはあっても、普段の活動でコントを主軸にしていたわけではありませんでした。

2016年の単独公演でも漫才とコントの両方を披露しており、試行錯誤しながらネタの幅を広げていきます。

単独ライブも埋まる人気、2014年には∞ホールTOP3へ

結成から2年ほど経った2014年、ラフレクランはヨシモト∞ホールのランキングでジャングルポケット、ニューヨークと並ぶTOP3に入りました。

若い女性ファンも多く、単独ライブのチケットがすぐ埋まり、出待ちにも人が集まる時期でした。

きょんさんによると、同期の中でも仕事量はかなり多く、西村さんも早い時期にアルバイトを辞め、テレビへ月に1~2回出演するようになっています。

ところが2人には、そのまま売れていくという確信はありませんでした。

西村さんは当時を、入ってきた仕事に全力で取り組んではいたものの、それがどこへつながるのか分からなかった時期として振り返っています。

相席スタート山添の一言をきっかけにコントへ

漫才中心だった2人に別の方向を示したのが、同期の相席スタート・山添寛さんでした。

「お前らコントの方が向いてるんちゃう」

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この言葉をきっかけに、ラフレクランはコントへ本格的に取り組むようになります。

きょんさんがさまざまな人物になりきる演技と、西村さんのツッコミや設定作りを生かせる形が少しずつ増えていきました。

現在知られているコントの形は、結成時から完成していたものではありません。

2016年NHK新人お笑い大賞準優勝で周囲の見方が変わる

コントへの取り組みが結果として見え始めたのが2016年のNHK新人お笑い大賞でした。

ラフレクランは決勝へ進み、準優勝しています。

西村さん自身、このころ初めて「一人前のコントができるようになった」という感覚を持ったと話しています。

それまで若い女性から人気のコンビという見られ方も強かった中で、ネタそのものへの周囲の評価が変わった時期でもありました。

先に人気が出たあと、ネタで評価を取り直す時間が続いていたのです。

西村の強すぎる「ツッコミ像」ときょんとの緊張関係

ネタの評価が上がるまでには、コンビ内の関係にも難しさがありました。

当時の西村さんは、自分をツッコミ、きょんさんをボケと強く考え、きょんさんには普段からボケてほしいという圧をかけていたといいます。

きょんさんが何かを言えば西村さんが細かく拾うという関係が続き、きょんさんが萎縮し、それを見た西村さんがさらに厳しくなるような時期もありました。

劇場で早くから仕事を得ていた一方で、テレビで2人の持ち味をどう出すか、コンビとしてどう力を抜くかはまだ定まっていませんでした。

NHK新人お笑い大賞優勝から「コットン」改名へ|コンビの空気が変わった時期

2016年の準優勝から3年後、ラフレクランは同じ大会で今度は頂点に立ちます。

その後、賞レースの結果だけでは変わらなかったコンビの見え方が、テレビ番組への出演をきっかけに別の方向から動き始めました。

2019年NHK新人お笑い大賞で優勝、ネタで結果を積み上げる

2019年、ラフレクランはNHK新人お笑い大賞で優勝しました。

2016年には準優勝だった大会で、3年後に優勝したことになります。

このころにはABCお笑いグランプリでも複数回決勝へ進み、若手時代から続けてきた漫才と、途中から力を入れたコントの両方で活動していました。

ただ、NHK新人お笑い大賞で優勝した瞬間に全国的な知名度が一気に上がったわけではありません。

次に大きく変わったのは、ネタの外で西村さん自身の見え方が崩れたときでした。

「しくじり先生」で西村の“いじられる側”が表に出る

西村さんにとって大きかった番組の一つが、テレビ朝日系『しくじり先生 俺みたいになるな!!』です。

それまで西村さんは、自分がツッコミとして場を整える側だという意識を強く持っていました。

ところが番組では若林正恭さん、吉村崇さん、澤部佑さんらから西村さん自身の言動をいじられ、それまで表へ出にくかった別の面が笑いになっていきます。

西村さんは、番組への出演によって周囲から「いじれる人」だと分かってもらえたことが大きかったと話しています。

ツッコミとしてきょんさんを動かすだけだった関係から、西村さん自身も笑われる関係へ変わっていきました。

2021年、ラフレクランからコットンへ改名

『しくじり先生』では、長年使ってきたコンビ名にも話が及びました。

マネージャーから「ラフレクラン」という名前を覚えてもらいにくいことが伸び悩む理由の一つとして挙げられ、きょんさんも、もっと覚えやすい名前への改名を希望します。

番組内で候補を考える中、若林さんの問いかけに西村さんが「ゴッド」と答えたところから言葉が変化し、最終的に「コットン」が候補として残りました。

「吸収力があり、人を潤すこともできる」という意味も加わり、2021年4月にラフレクランからコットンへ改名しています。

新しい名前で自己紹介し、周囲から拍手を受けた西村さんは涙を見せました。

結成から約9年使ってきたラフレクランという名前を手放し、コットンとして再スタートしました。

キングオブコント準優勝で全国へ|元アナ経験も現在の武器に

改名翌年の2022年、コットンは芸人人生の中でも大きな舞台へ進みます。

それまで積み上げてきたコントで初めてキングオブコント決勝へ進出し、仕事の状況も大きく変わりました。

2022年キングオブコント初決勝で準優勝

キングオブコント2022で、コットンは初めて決勝へ進みました。

決勝の舞台で西村さんは比較的冷静だった一方、きょんさんは体が震えるほど緊張していました。

1本目のコント中も、西村さんは相方にしか分からないような視線で「落ち着け」と合図を送り、きょんさんの様子を確認しながらネタを進めています。

結果は準優勝でした。

NSCの演技選抜で知り合い、水道橋の居酒屋でコンビを組む話をした2人が、結成から約10年でキングオブコントの最終決戦まで進みました。

「KOC特需」と本人が語るほどテレビ出演が増える

キングオブコントで優勝したのはビスケットブラザーズでしたが、準優勝後のコットンにも大きな変化が起きます。

西村さんは大会後にテレビ出演が増えた状況を「キングオブコント特需」と表現しています。

2023年のインタビューでは、改名や『しくじり先生』も大きかったとしながら、ブレイクの最大の要因として2022年のキングオブコントを挙げました。

「キングオブコント“以前”“以後”のようにガラッと人生が変わりました」

テレ東プラス

賞レースの結果が、そのまま出演機会の増加へ結びついた転機でした。

アナウンサーと芸人を組み合わせた司会スタイルへ

仕事が増えると、西村さんのアナウンサー経験も再び表へ出てきました。

大学時代にはダンスイベントでMCを経験し、卒業後にはテレビ局でニュースや番組進行、野球実況を担当し、その後は芸人として劇場やテレビで笑いを作ってきました。

西村さん自身、現在の司会について「芸人」と「アナウンサー」を組み合わせたハイブリッドのような立ち位置を意識しています。

高校卒業時に芸人へ直行せず、大学とアナウンサーを経由した時間も、現在は別の形で仕事に使われています。

コントだけに固定せず漫才も続ける現在

キングオブコント準優勝によってコントの印象が強くなったコットンですが、2人は自分たちをコントだけのコンビと決めてきたわけではありません。

若手時代は漫才から始まり、途中からコントへ比重を移しながら、両方のネタを続けてきました。

2024年には再びキングオブコント決勝へ進み、2025年には漫才とコントの二刀流で競う「ダブルインパクト」でも決勝進出を果たしています。

元アナウンサーという異色の経歴だけではなく、漫才からコントへ試行錯誤してきた時間も現在のコットンを形づくっています。

広島で野球をしながらテレビの芸人に憧れた少年は、母親との約束で大学へ進み、その後はアナウンサーとして社会に出ました。

一度遠回りした芸人への道へ戻り、NSCで最初のコンビを経験したあと、きょんさんを自分から誘ってラフレクランを結成しました。

漫才、コント、改名、キングオブコントを経た現在も、アナウンサーと芸人の両方を経験した西村真二さんならではの仕事が続いています。

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