人物プロフィール
ロングコートダディの兎さんといえば、ゆったりとした空気の中で独特なキャラクターを演じるコントや、体を大きく使った漫才でも知られる芸人です。
2025年には堂前透さんとともにキングオブコント第18代王者となりましたが、芸人になる前から大阪のお笑いに詳しかったわけではありません。
岡山で過ごした10代のころは、友人との釣りや深夜番組に夢中になり、高校卒業後には大学ではなく美容師の専門学校へ進んでいます。
その専門学校を離れ、アルバイトやバンドをしながら過ごしていたとき、姉が持ってきたNSCの願書が、芸人になるための最初の具体的な一歩になりました。
しかも、現在の相方である堂前さんとも最初からコンビを組んでいたわけではなく、別の相方との活動、解散、岡山へ帰ろうと考えた時期を経てロングコートダディが生まれています。
なお、「兎 本名」と検索されることも多い人物ですが、吉本興業の公式プロフィールでは本名のフルネームは掲載されていません。
本人は2026年のRSK山陽放送のインタビューで、芸名を決めた経緯を話す中で自分の名字が「高橋」だと明かしています。
ロングコートダディ兎の生い立ちと家族|岡山で釣りと友人に囲まれた子ども時代
兎さんは1988年8月19日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは岡山県岡山市出身とされています。
本人もお笑いナタリーのインタビューで「生まれも育ちも岡山市」と話しており、19歳でNSCへ入るため大阪へ移るまで岡山で暮らしていました。
父や祖父に連れられて始めた釣り、田んぼと用水路が身近だった岡山の暮らし
子どものころに暮らしていた家の周囲には田んぼが多く、ザリガニを取って遊ぶような環境でした。
夜は街灯が少なく、本人によれば自転車で走っていて道と間違えて用水路へ落ちたことが何度もあり、持っていた遊戯王カードまで水に浸かってしまったこともあったそうです。
現在も公式プロフィールの趣味に釣りを挙げていますが、その始まりはかなり早く、祖父と父の存在がありました。
祖父は漁師で、父も釣り好きだったため、小さいころから2人に連れられて岡山の魚を釣っていました。
「小さい時からおじいちゃん、オトンに釣りに連れて行ってもらってました」
月刊芸人
家では母の手料理をよく食べており、子どものころに好きだった料理としてカレー、ペペロンチーノ、ハンバーグを挙げています。
芸人になったあとも実家から岡山のぶどうが届くといい、シャインマスカットやピオーネについても地元のものを気に入っていると話していました。
小学6年で仲のいい友人が同じクラスに集まり、一年間笑って過ごす
小学校時代について兎さんが特に覚えているのは、小学6年生の一年間です。
それまで別々のクラスだった仲のいい友人たちが同じクラスに集まり、本人の記憶では一年中笑っているような毎日になりました。
のちに芸人になる人物の子ども時代として「昔から漫才をしていた」といった話ではなく、まず友人同士でふざけたり笑ったりする時間そのものを楽しんでいた時期でした。
中学では自然と「お笑い担当」に|朝4時から友人と釣りへ
中学生になると、友人の中で自然に笑いを担当するような立ち位置になっていきます。
ただし、この時点でも漫才のボケやツッコミを意識していたわけではありません。
本人は岡山時代について、友達と普通にふざけてはいたものの、意識的にネタを作ったりツッコミを入れたりする文化にはほとんど触れていなかったと説明しています。
一方、釣りのほうは本格的になっていました。
毎週土曜日になると友人8人ほどで朝4時に馴染みの釣具店へ集合し、餌を買ってから自転車で2~3時間かけて山を越え、人の少ない入り江まで出かけていました。
寝袋まで持って行き、眠くなればその場で眠り、起きた者からまた釣りを始めるような週末を過ごしていたそうです。
中学から高校へ|さまぁ〜ず三村に憧れ「芸人」という選択肢が生まれる
兎さんがお笑い芸人という職業を意識し始めたのは、中学生のころでした。
きっかけになったのは、テレビ朝日系で放送されていた『内村プロデュース』です。
『内村プロデュース』の三村マサカズを見て「こんな人になりたい」
番組で目に留まったのが、さまぁ〜ずの三村マサカズさんでした。
芸の技術を分析して憧れたというより、大人になってもずっと楽しそうにふざけている姿に惹かれています。
「こんな人になりたいな」「三村さんみたいな芸人になりたいな」
FANY Magazine
本人によれば、この気持ちが出てきたのは中学2~3年ごろでした。
ただ、当時の兎さんは吉本新喜劇や大阪の漫才師を追いかけていたわけではありません。
のちに大阪へ出た19歳のころでさえ、当時すでに関西で活躍していた千鳥、笑い飯、麒麟、ジャルジャルらをほとんど知らなかったと振り返っています。
「芸人になりたい」という思いはあったのに、漫才そのものには詳しくなかったというのが、兎さんのお笑いへの入り口でした。
高校では欠席が増え、4・5限目から登校する日も
高校に入ると、友人たちが少しずつ大人びていく中で、中学時代のような空気が薄れていったと感じるようになります。
そのころ深夜番組を見る時間も増え、朝起きられず学校を休みがちになりました。
学生向けメディアのインタビューでは、高校3年間で欠席が100日を超えたと話しています。
朝から行けず4限目や5限目から登校したり、体育の授業には出たり、学校へ行かず釣りへ出かける日もありました。
月曜日の1限目については『週刊少年ジャンプ』の発売日を気にしていたという話もあり、整った学校生活とはかなり違う高校時代を送っています。
『リチャードホール』とバンドに夢中になった高校時代
テレビでは『内村プロデュース』に続き、フジテレビ系の『リチャードホール』にも強く惹かれました。
一方で高校時代にはバンドも好きになり、卒業後すぐお笑い一本に進むわけではありませんでした。
中学生のころには芸人への憧れが生まれていましたが、卒業時に選んだ進路は別のものでした。
高校卒業後は大学ではなく美容師の道へ|専門学校を離れてフリーターに
「兎 大学」という検索もありますが、高校卒業後に進んだのは大学ではありません。
本人の説明では、岡山にある美容師の専門学校へ進学しています。
友人の進路についていく形で美容師の専門学校へ
美容師になることを子どものころから目標にしていたというより、周囲の進路に影響されて選んだ学校でした。
ところが入学して間もなく、学校へ通わなくなっていきます。
FANY Magazineでの本人の説明では、実際に通っていた期間は2カ月ほどでした。
骨折による入院後、ハサミをめぐる出来事が起きる
専門学校を離れた理由として知られているのが、美容師用のハサミをめぐる話です。
ただし「ハサミを盗まれたから辞めた」という単純な出来事ではありません。
骨折で入院し、しばらく学校を休んだあと久しぶりに登校すると、自分のハサミの一部が折れていました。
クラスメートから、自分のハサミが折れたため兎さんのものを使ったと聞かされ、本人は強く取り返すこともなく、その出来事のあと学校を離れています。
正式に退学したのは本人の後年の会話では9月ごろとされています。
バイト、バンド、友人との遊びで過ごした専門学校中退後
学校へ行かなくなったあと、すぐ別の進路を決めたわけではありません。
アルバイトをし、趣味のバンドを続け、友人と遊ぶ日々になりました。
本人自身が「時間があり余っていた」と振り返るこの時期に、家族から新しい話が持ち込まれます。
姉が持ってきたNSCの願書|19歳で芸人への最初の一歩
中学生のころに頭へ浮かんでいた「芸人」という選択肢を、もう一度目の前へ持ってきたのが姉でした。
「中学のころ芸人になりたいって言ってたやん」と姉に背中を押される
専門学校を離れ、アルバイトなどをしながら過ごしていた弟に、姉がNSCの願書を持ってきました。
「ダラダラしてるぐらいやったら行ってみたら」
FANY Magazine
この願書が、兎さんが実際に芸人の道へ動き出す直接のきっかけになりました。
三村さんを見て芸人に憧れたのが中学生のころの原点なら、姉が願書を持ってきたことが現実の進路へ切り替わる場面でした。
東京のお笑い養成所へ通っていた中学時代の友人へ電話
願書を受け取ったあと、兎さんは中学時代に仲のよかった友人へ連絡しています。
その友人は東京のお笑い養成所へ通っており、普段一緒に遊んでいたころは特別にボケ続けるような人物ではなかったため、「あいつでも行っているなら」と具体的なイメージが持てたようです。
養成所の様子を電話で聞き、芸人になることが遠い世界の話ではなくなっていきました。
人力舎も候補にしながら、距離を考えて大阪の吉本を選ぶ
所属先として最初に浮かんだのは吉本興業でしたが、好きな芸人が多かったプロダクション人力舎も候補にありました。
ただ、岡山から東京は遠いと考え、最終的には大阪を選びます。
2008年、19歳でNSC大阪校31期へ入りました。
NSC大阪31期へ|お笑いをほとんど知らないまま始まった大阪生活
大阪へ出てからの兎さんは、周囲のNSC生と比べても、お笑いに関する知識が多いタイプではありませんでした。
本人は後年、当時の自分について、漫才をきちんと理解していない状態だったと繰り返し話しています。
「ネタってなんやねん」から始まったNSC生活
NSCへ入ると、当然のように「コンビを組んでネタをやる」という話になります。
しかし、テレビへ出ることを芸人の仕事だと思っていた兎さんにとって、ネタは最初から中心にあるものではありませんでした。
「そのときは『ネタってなんやねん』と」
お笑いナタリー
最初は「テレビに出るために、自分たちが面白いと示す名刺のようなもの」と捉えていましたが、舞台を経験するうちにネタそのものが芸人の仕事だと気づいていきます。
NSCでは漫才をやりたいと考えていたものの、後年ロングコートダディがコント師としてキングオブコントを獲るまでになるとは、この時点ではまだずっと先の話です。
地下鉄で一駅を半年通い、自転車なら約2分だったことに気づく
大阪での一人暮らしにも、まだ慣れていませんでした。
NSCまで実はかなり近い場所に住んでいたのに、日本橋駅からなんば駅まで地下鉄で通い、その生活を半年ほど続けています。
自転車を買って初めて、家からNSCまで2分ほどで行けることに気づいたというエピソードも残っています。
最初の相方から「オムレッツ」へ|タマゴ高橋として活動
兎さんはNSCの「相方探しの会」には参加していません。
最初はクラスで話しかけてきた同期とコンビを組みましたが、自分との温度差を感じて解散しました。
その後も何人かと組んでは別れ、最終的にケチャップ清水さんと「オムレッツ」というコンビを結成します。
このときの兎さんの芸名は、現在とはまったく違う「タマゴ高橋」でした。
名字が高橋であることは、2026年の本人インタビューでも確認できます。
現在の「兎」という芸名については、後年、候補の中に「桃太郎」もあったと本人が明かしており、周囲が桃太郎を推す中で自分は兎を選んだと話しています。
相方が辞めて岡山へ戻る寸前、堂前透からコンビに誘われる
現在の相方、堂前透さんもNSC大阪校31期です。
ただし、入学してすぐ2人で組んだわけではありません。
堂前さんも「ゼットンズ」というコンビやピン活動、「大三元」というトリオを経験しており、別々に活動する中で少しずつ遊ぶようになりました。
オムレッツの相方が大学へ専念し、卒業公演にも出ないと決める
オムレッツで組んでいたケチャップ清水さんは、NSCと並行して通っていた大学へ専念するため芸人を辞めることになります。
NSCの卒業公演を前に相方がいなくなった兎さんは、1人で舞台へ出る道を選びませんでした。
自分では面白いと思っていたものの、実際にはうまくいっていないことも感じ、岡山へ帰ろうと考えていました。
堂前が声をかけた理由は『ギャグマンガ日和』で笑う感覚が似ていたから
そのタイミングで声をかけたのが堂前さんです。
2人は当時から漫画『ギャグマンガ日和』が好きで、お互いに全巻を持っていました。
同じ場面を面白いと感じ、漫画について話している時間も多かったため、堂前さんは笑うポイントが近い相手だと感じていました。
「一緒にいてこういう感じ楽だな」
月刊芸人
別の座談会では、2人で『モンスターハンター』をしている最中に、堂前さんから「それが終わったら一緒にやらないか」という趣旨で誘われたことも明かされています。
岡山へ戻ろうとしていた兎さんに堂前さんが声をかけたことで、現在まで続くコンビが動き始めました。
2009年4月、ロングコートダディを結成
吉本興業の公式プロフィールでは、ロングコートダディの結成年月は2009年4月です。
現在は兎という短い芸名ですが、コンビ活動の途中まで名字の高橋を使っていた時期もありました。
芸名「兎」を決める際には「桃太郎」という候補もあり、岡山出身という点では周囲から桃太郎を推されたものの、本人が兎を選びました。
結成直後は舞台が2カ月に1回|遊びながら始まった若手時代
ロングコートダディを結成したからといって、すぐに劇場へ毎日のように立てたわけではありません。
若手時代について本人たちは、舞台が少なく、かなりの時間を遊んで過ごしていたと振り返っています。
舞台では「声が小さすぎて聞こえない」と言われる
結成当初は、舞台があっても2カ月に1回ほどという時期がありました。
さらに兎さんは声が小さく、NSCの発声指導でも注意され、舞台へ出るようになってからも同期や先輩に「何を言っているのか聞こえない」と言われることがありました。
堂前さん自身も声が大きいタイプではなく、現在の落ち着いた空気感とは別に、単純に客席へ声を届けるところから苦戦していた時期があります。
久宝寺駅近く、電車が通るたび声が消える公園でネタ合わせ
ネタ合わせをしていた場所の一つが、久宝寺駅近くの公園でした。
ところが線路が近く、電車が通るたびに互いの声が聞こえなくなるような環境でした。
ネタを合わせるには便利とは言いにくい場所ですが、そこで2人は舞台へ出るための準備をしていました。
「客3人」のインディーズライブから先輩に認められるまで
まだ劇場で安定して仕事を得られない時期には、インディーズライブにも出演しました。
ニッポンの社長・辻さんは、ロングコートダディと一緒に観客が3人ほどしかいないライブへ出たこともあったと振り返っています。
当時の若手たちは、芸人の仕事だけで生活できる未来が簡単には見えない状態で舞台へ立っていました。
その一方で、ツートライブの周平魂さんから早い段階で面白さを認められたことも、堂前さんが後年語っています。
2012年に解散|兎が芸人を離れて気づいた「もう一度やりたい」
結成から数年後、ロングコートダディは一度活動を止めています。
原因を単純な不仲とするものではなく、兎さんが当時の自分に対して「芸人としてダメだ」と感じたことが大きく関わっていました。
劇場オーディションと若手約100人の海旅行を経て兎から解散を切り出す
劇場のオーディションバトルで結果が出ず、下の位置へ戻った時期がありました。
さらに先輩芸人が若手約100人を誘った海への旅行へ2人で参加したものの、兎さんも堂前さんも周囲へうまくなじめませんでした。
オーディションでの結果と、大勢の芸人の中へ入れなかった経験が重なり、兎さんの気持ちは折れていきます。
そして兎さんのほうから解散を持ちかけました。
深夜のコンビニバイトをしながら、再びお笑いをやりたいと思い始める
ところが、解散して1カ月ほどすると、兎さんはまたお笑いをやりたくなりました。
自分から別れを切り出した手前、堂前さんへ「もう一度組みたい」とは簡単に言えません。
同期と飲みながら相談すると、「もったいない」「断られてもいいから言ったほうがいい」と背中を押されました。
それでもすぐには連絡できず、数カ月悩み続けます。
雪と盗まれた自転車|朝6時に堂前へ「もう一回組んでくれへんか」
決断したのは、深夜のコンビニバイトを終えた朝でした。
外を見ると雪が降っており、さらにその日は自転車まで盗まれていました。
歩いて帰らなければならない状況の中で、兎さんは「今しかない」と感じます。
「もっかいコンビ組んでくれへんか」
月刊芸人
電話した時刻は朝6時でした。
当然、堂前さんは寝ており、その場では返事をせず「1週間考えさせて」と電話を切りました。
1週間後、2人は喫茶店で会い、ロングコートダディをもう一度始めることが決まりました。
再結成後、劇場メンバーになるまで|長かった大阪での下積み
再結成したからといって、状況がすぐ好転したわけではありません。
オーディションライブへ出ながら、正式な劇場メンバーになることを目指しました。
結成6年ほどで正式な劇場メンバーに
本人たちの回想では、コンビを組んでから6年ほどたったころ、ようやく正式な劇場メンバーとして名前が載りました。
兎さんにとっては、長く受け続けてきた劇場オーディションを抜けたことが、大きな一区切りでした。
堂前さんも、この時点で一つの目標を達成し、コンビとして形になった感覚があったと話しています。
ニッポンの社長らとライブを重ね、コント師として名前が広がる
大阪ではニッポンの社長をはじめ、同じ劇場やライブで活動する芸人たちと舞台を重ねていきます。
ロングコートダディは漫才にも取り組みながら、コントでも評価を上げていきました。
2019年にはキングオブコント準決勝へ進み、翌2020年には初めて決勝へ進出します。
2020年、キングオブコントで初めて決勝へ
キングオブコント2020での最終順位は7位でした。
優勝には届かなかったものの、それまで大阪の劇場やライブで積み上げてきたコントが、全国放送の決勝で披露されるところまで進みました。
同じころ、M-1グランプリでも準決勝へ進出するようになり、漫才とコントの両方で名前が残り始めます。
M-1決勝進出で知名度が上昇|コントと漫才の両方で全国へ
テレビでロングコートダディを知る人が大きく増えた転機の一つが、M-1グランプリ2021でした。
決勝初進出ながら649点を獲得し、最終順位は4位でした。
兎さんはそれ以前のM-1準決勝で緊張しすぎて真っ白になった経験を語っていましたが、2021年の準決勝では初めて楽しめたと振り返っています。
若手時代には声が小さすぎると言われていた兎さんが、M-1決勝の舞台まで進みました。
2022年M-1で最終決戦へ進み3位
翌2022年も決勝へ進出しました。
ファーストラウンドでは660点で2位通過し、さや香、ウエストランドとともに最終決戦へ。
最終的にはウエストランドが優勝し、ロングコートダディは3位となりました。
キングオブコントだけでなくM-1でも2年連続決勝へ進んだことで、「コントのコンビ」という枠だけでは収まらない活動になっていきます。
2023年、よしもと漫才劇場を卒業して東京へ
2023年3月末、長く活動してきたよしもと漫才劇場を卒業しました。
4月からは大阪を離れ、活動拠点を東京へ移しています。
岡山から大阪へ出てNSCに入り、長い劇場生活を送ったあと、今度は東京へ移ることになりました。
兎さんは東京へ移る際にも、新しい土地で釣りをすることを楽しみにしていました。
キングオブコント準優勝を経て、2025年に18代目王者へ
東京へ活動拠点を移したあとも、ロングコートダディはコントを続けました。
キングオブコントでは2020年、2022年に続き、2024年に3度目の決勝へ進出します。
2024年はキングオブコント準優勝
キングオブコント2024では、優勝したラブレターズにあと一歩及ばず準優勝でした。
さらにM-1グランプリ2024では準々決勝敗退後、ワイルドカードで準決勝へ復活しています。
賞レースで何度も上位へ進みながら、コンビとして大きなタイトルにはまだ届かない期間が続きました。
2025年、4度目の決勝でキングオブコント優勝
2025年10月11日、ロングコートダディは4度目のキングオブコント決勝へ出場しました。
1stラウンドで「モグドン」を披露して474点を獲得し、ファイナルラウンドでは「警察泣いてる」で471点。
合計945点でキングオブコント2025を制し、第18代王者となりました。
優勝直後、兎さんは「泣いてはいない」と笑わせながらも、自分たちが目指してきた場所だったため本当にうれしいと話しています。
「堂前と組んでからの僕の目標はずっと『キングオブコント』だった」
FANY Magazine
本人は、堂前さんの力を考えるともっと早く賞レースを獲れていたのではないか、自分が原因なのではないかと思うこともあり、それを否定するためにもタイトルを獲りたかったと明かしました。
中学生のころに『内村プロデュース』の三村さんを見て「こんな大人になりたい」と思い、高校卒業後には美容師の専門学校へ進み、学校を離れたあと姉からNSCの願書を渡されました。
堂前さんと組む直前には岡山へ帰ろうと考え、一度は自分から解散を切り出し、それでも朝6時に電話して再びコンビを始めています。
そのロングコートダディが、結成から16年以上を経た2025年、長く目標にしてきたキングオブコントの頂点に立ちました。












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