マユリカ阪本の生い立ちと家族|高校の大喜利が芸人のきっかけ、中谷との結成まで

人物プロフィール

本名
阪本 匠伍
生年月日
1990年1月7日
身長
175cm
血液型
A型
出身地
兵庫県 神戸市西区
コンビ・グループ名
マユリカ
相方・メンバー
中谷
結成年
2011年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2011年
養成所・スクール
NSC大阪校 33期

M-1グランプリの決勝やテレビ番組で見せる独特のボケ、そしてPodcast『マユリカのうなげろりん!!』での飾らないトークでも知られるマユリカの阪本さん。

相方の中谷さんとは、芸人になってから知り合ったのではなく、3歳のころから一緒に遊んできた幼なじみです。

小学生のころには二人でコントまで披露していますが、その時点で「将来は芸人」と決めていたわけではありませんでした。

阪本さんがお笑いを「見るもの」から「自分でやるもの」として意識するようになったのは、地元を離れて通った高校で、一人のお笑い好きの同級生と出会ってからです。

授業中の大喜利から始まり、大学で中谷さんを誘い、一般オーディションに落ち続けた末に大学を辞めてNSCへ進む。

現在まで続くマユリカは、そんな神戸での子ども時代と学生時代の延長線上で生まれました。

マユリカ阪本の生い立ちと家族|神戸・井吹台で中谷と育った幼少期

阪本さんは1990年1月7日生まれで、兵庫県神戸市出身です。

子ども時代を過ごしたのは神戸市西区の井吹台で、ここに後の相方となる中谷さんの家族も暮らしていました。

3歳で中谷と出会い、近所で毎日のように遊んだ

二人が出会ったのは幼稚園の年少組だった3歳のころで、阪本さんは「うさぎ組」、中谷さんは「ひよこ組でした。

当時の井吹台は新しく開かれたニュータウンで、近所に住む子ども同士として二人の付き合いが始まります。

家へ電話をかけて野球に誘い、ドッジボールやフリスビー、ミニ四駆で遊ぶような日々で、幼稚園から小学校までは同じ学校へ通いました。

小学校で同じクラスになったのは1年生と4年生だけでしたが、学校のクラスが違っても遊ぶ関係は変わりませんでした。

中谷さんが覚えている小学生時代の阪本さんは、現在の落ち着いた印象とは少し違います。

「明るかったですし、社交的でしたね」

月刊芸人

運動も得意で足が速く、クラスのリレー選抜にも選ばれていたと二人は後年振り返っています。

テレビで見る現在の阪本さんとはまた違う、外で走り回りながら中谷さんと遊んでいた少年時代がありました。

父親・母親・妹と、幼なじみの家族がゆるくつながっていた

阪本さんと中谷さんは家が近かったため、子ども同士だけでなく互いの家族とも接点がありました。

家族ぐるみで常に行動するほどではなかったものの、阪本さんが中谷さんの父親に食事へ連れて行ってもらったり、逆に阪本さんの父親が中谷さんを食事へ連れて行ったりすることがあったそうです。

阪本さんには妹がおり、後に国立大学を卒業して獣医になったことを本人が明かしています。

その妹の存在は、ずっと後になって「マユリカ」というコンビ名にも関わることになります。

大学を辞めて芸人になると決めた際、家族からは大学との両立を尋ねられたものの、最終的には阪本さんの選択を止められなかったといいます。

小学4年のお楽しみ会で「笑う犬」をまねた3人コント

小学4年生のころには、阪本さんと中谷さん、同級生の「ワダックス」さんの3人で、クラスのお楽しみ会に出演しています。

披露したのは「たちばな先生」という変わった先生を題材にしたコントでした。

中谷さんがテレビ番組『笑う犬の冒険』を好きだったことから、休み時間にみんなでネタを考え、テレビコントのシリーズをまねるような形で作ったといいます。

ただし、二人はこの経験を「芸人を目指した瞬間」とは語っていません。

人前でコントをする経験はすでに小学生でしていた一方、本格的にお笑いへ気持ちが向くのはもっと後の高校時代でした。

中学・高校時代|中谷と学校が分かれ、高校でお笑いに深くハマる

小学校を卒業すると、二人の生活は初めて大きく分かれます。

阪本さんは地元の公立中学校へ、中谷さんは中学受験をして別の学校へ進みました。

別々の学校へ進んでも、休日は中谷たちと「チャリ旅」

中谷さんの学校は地元から距離があり、平日に一緒に遊ぶことは以前より難しくなりました。

それでも土日や夏休みなどの長期休暇になると、地元の仲間と集まる関係は続いています。

公園でフリスビーをしたり、自転車で遠くまで出かけたりし、その自転車での外出を二人は「チャリ旅」と呼んでいました。

1日かけて明石海峡大橋まで出かけたこともあり、中学・高校で学校が別になってからも幼なじみとしての距離は離れませんでした。

後に相方となる中谷さんは、この時点では「お笑いの相方」ではなく、学校が違っても休日になれば自然に集まる昔からの友人でした。

地元を離れた私立高校で「学校へ行くこと」を頑張った

高校進学では、阪本さんは地元を離れて大学まで内部進学できる私立高校へ入りました。

本人によると、中学時代に勉強をあまりしておらず、進学できそうな学校を選んだ結果だったそうです。

ところが、新しい高校では周囲との人間関係にうまく馴染めない時期がありました。

「ただ学校に行くということを頑張ってましたね」

ch FILES

神戸新聞のインタビューでも、当時は大阪のやんちゃな同級生たちに無理に合わせ、苦しい時期があったことを話しています。

その高校生活の途中で出会ったのが、後に阪本さんより1年早くNSCへ入ることになる同級生の澤下さんでした。

同級生・澤下との大喜利と『内村プロデュース』で「やる側」へ

澤下さんはかなりのお笑い好きで、二人は授業中に携帯電話のメールを使い、大喜利のお題と回答を送り合うようになります。

それだけでは足りず、休日には公民館のような場所を借り、自分たちでフリップを用意して、観客もいない中で友人同士の大喜利までしていました。

同じころ、阪本さんはテレビのお笑いも以前より深く見るようになり、高校2〜3年ごろには『内村プロデュース』に特にハマっていたと話しています。

後のM-1インタビューでも、賞レースを見て芸人を志したというより、『内村プロデュース』や『リチャードホール』などテレビのお笑いへの憧れが強かったと説明しています。

「やる側の意識が出たのはその時でしたね」

MEN’S NON-NO WEB

阪本さんが芸人という進路を意識した直接の入口は、小学生のお楽しみ会ではなく、高校で澤下さんと始めた大喜利でした。

神戸学院大学時代|中谷を誘い「いぶき」で舞台へ

高校卒業後、阪本さんはそのまま神戸学院大学へ進学しました。

しかし、高校時代に生まれた「お笑いをやってみたい」という気持ちは、大学に入ってから実際の行動へ変わっていきます。

内部進学で神戸学院大学へ進み、大学1年ごろ中谷を誘う

阪本さん自身は大学進学について、強い目的があって選んだというより、高校から進める環境だったためそのまま進学したと説明しています。

一方の中谷さんは神戸芸術工科大学へ進み、漫画を描きながら、卒業後に漫画のため東京へ行くか就職するかを考えていました。

大学1年ごろ、阪本さんはそんな中谷さんに「一緒にお笑いをやらないか」と声をかけます。

幼いころから一緒に過ごし、小学生のころにはコントまでしていた相手でしたが、中谷さんは当時、漫画の道も考えていたため、二人が最初から芸人コンビになることを約束していたわけではありません。

澤下と中谷の双方とライブに出た時期を経て、中谷を相方に選ぶ

しかも大学時代の阪本さんには、中谷さん以外にもコンビを組む可能性のある相手がいました。

高校で一緒に大喜利をしていた澤下さんからも誘われ、阪本さんは一時期、澤下さんと中谷さんの双方とインディーズライブへ出ていたといいます。

澤下さんとは同じように大喜利が好きだった分、ネタ作りの意見がぶつかることも多かった一方、中谷さんとは夜の公園で何時間も話せるような関係が昔から続いていました。

最終的に阪本さんが中谷さんを選んだ理由として挙げたのは、笑いの能力を比較した結果ではなく「居心地の良さ」でした。

3歳から積み重ねてきた「一緒にいて無理をしなくていい関係」が、ここで芸人コンビの関係へ変わります。

「いぶき」でbaseよしもとのオーディションへ通い、初舞台でネタを飛ばす

二人は地元・井吹台から取った「いぶき」というコンビ名を付け、NSCへ入る前から吉本の一般参加オーディションに挑戦しました。

当時のbaseよしもとで行われていたオーディションへ月に一度ほど通い、夜にファミリーレストランでネタを作ってから車で大阪へ向かう生活を約1年間続けています。

初めて舞台に立ったのも、この一般オーディションでした。

ところが、初舞台では二人ともネタを飛ばしてしまい、阪本さんは緊張から胃が痛くなり、帰り道に薬局へ寄って胃薬を買っています。

現在まで舞台に立ち続ける二人の最初の舞台は、きれいな成功体験ではなく、ネタを忘れて半泣きで帰るところから始まりました。

1年間の落選を経て大学を中退し、NSCを選ぶ

オーディションは一度失敗して終わったわけではなく、その後も二人は挑戦を続けました。

しかし、何度受けても合格できず、一般参加だったため芸人仲間との横のつながりも作れません。

「このままでは合格できへん」

月刊芸人

そう考えた阪本さんは、大学を辞めてNSCへ入ることを決断し、中谷さんにも一緒に大学を辞めて養成所へ行こうと持ちかけました。

中谷さんは大学で友人もできていたため最初は中退を嫌がりましたが、阪本さんから繰り返し説得され、最終的に二人そろって大学を離れています。

家族からは「大学へ通いながらではだめなのか」という反応もあったものの、阪本さんは進路を変更しました。

芸人になる決断が形になったのは、大学へ進んだ後、一般オーディションに1年間落ち続けた末の大学中退でした。

NSC大阪33期とマユリカ結成|約500人の中でBクラスからスタート

2010年、阪本さんと中谷さんはNSC大阪校33期へ入学します。

ここから二人の周囲には、同じように芸人を目指して大阪へ集まった同期が一気に増えました。

2010年にNSCへ入り、男性ブランコら同期と同じ世代に

阪本さんによると、当時のNSC大阪には約500人がおり、実力などによってクラス分けが行われていました。

マユリカはBクラスから始まり、同じ33期の男性ブランコはAクラスでした。

それでも阪本さんと中谷さんは「自分たちならいける」という感覚を持っており、Aクラスではなかったことを不満に思うほどだったと振り返っています。

同期にはビスケットブラザーズ、kento fukaya、ZAZY、滝音の秋定遼太郎、ニッポンの社長のケツらがおり、阪本さんは特にビスケットブラザーズやkento fukayaとよく遊んでいました。

一般オーディション時代にはなかった「同じ時期に芸人を目指す仲間」が、NSCに入ったことで一気に増えました。

「いぶき」から「マユリカ」へ|妹マユとユリカがコンビ名の由来

NSCへ入るタイミングで、二人はアマチュア時代の「いぶき」からコンビ名を変えることにしました。

「いぶき」でオーディションを受けても結果が出なかったため、養成所入学を機に心機一転しようと考えたからです。

二人の共通点を探していく中で出てきたのが、阪本さんの妹「マユ」と、中谷さんの妹「ユリカ」でした。

二つの名前を合わせた「マユリカ」という響きが二人の中ですぐにしっくりきて、現在まで続くコンビ名が決まりました。

M-1グランプリ公式では、マユリカの結成年月日を2011年4月1日としています。

2010年のNSC入学と2011年のコンビ結成・デビューは、同じ時点ではありません。

同じアパートの1階と2階で始まった芸人生活

NSCへ入ったころ、二人はそれぞれ初めての一人暮らしも始めました。

選んだ住まいは別々の場所ではなく、同じアパートの1階と2階、斜め上下の部屋でした。

幼稚園から小学校まで同じ地域で育ち、中学以降も休日に集まり、大学ではコンビを組み、芸人になってからも同じ建物で生活することになります。

お金には余裕がなく、阪本さんはビスケットブラザーズのきんさんと同じ夜勤に入ることもありました。

朝5時に仕事が終わると少し飲み、そのまま公園でキャッチボールをして帰るような日もあったそうです。

阪本がネタを書き、4〜5年目に現在につながる漫才の形が生まれる

マユリカのネタ作りは、アマチュア時代から阪本さんが担当しています。

NSCに入って最初のネタ見せで漫才をしたことから、そのまま漫才を主軸に活動するようになりました。

阪本さんは後に、最初のネタ見せでコントをしていれば、その後もコントを続けていたかもしれないと話しています。

現在のマユリカでは、中谷さんが女性役になり、阪本さんとの会話を進めるタイプの漫才もよく知られていますが、その形が出てきたのは結成直後ではありません。

4〜5年目ごろ、男性としてツッコむ中谷さんを阪本さんが見て、女性役を試してもらったところ、しっくりきたことから現在につながる形が生まれました。

最初から完成された「マユリカの漫才」があったのではなく、劇場へ出ながら数年かけて現在につながる役割を作っていきました。

劇場に入るまでの若手・下積み時代|アルバイトと無給ライブの日々

NSCを卒業しても、すぐに劇場で多くの仕事をもらえたわけではありません。

卒業後しばらくは、インディーズライブやオーディションへ出ながらアルバイトを続ける時期が続きました。

同期より遅れた劇場入りも、ビスケットブラザーズらと毎日遊んでいた

マユリカは同期の中でも劇場メンバーになるのが早いコンビではありませんでした。

NSC卒業後の約3年間は、月に舞台が3本ほどしかない時期もあり、インディーズライブやオーディションへ出ても大きな結果は出ませんでした。

それでも阪本さんたちは、周囲より遅れていることを深刻には受け止めていなかったといいます。

仲の良かったビスケットブラザーズも似た状況で、みんなアルバイトをしながら遊んでいたため、自分たちだけが取り残されているという感覚が薄かったからです。

仕事というより、まだ仲間と遊びながらライブへ出る生活の延長に近い感覚でした。

4年目に劇場メンバーとなり、初めて「仕事」と感じる

変化が訪れたのは芸歴4年目ごろでした。

ようやく劇場メンバーに選ばれ、毎月継続して舞台へ出られるようになり、ギャラも受け取れるようになります。

それ以前に出ていたインディーズライブには、お金が出ない舞台も多くありました。

定期的に劇場へ立ち、ギャラを受け取ったことで、二人は初めて漫才を「仕事」として実感するようになりました。

ここから劇場で漫才を重ねる時間が増え、阪本さんがネタを書き、中谷さんと試しながら形を変えていく日々が続きます。

バイトを辞めても収入は少なく、「素パスタ」で過ごした時期

劇場へ入ったからといって、すぐに芸人の収入だけで余裕を持って暮らせるようになったわけでもありません。

二人は、まだアルバイトが必要なほどの収入だった時期に先にバイトを辞めてしまい、金銭的に厳しい生活を送ったこともありました。

食材をいろいろ買う余裕がなく、パスタを茹でて調味料だけで味を付けた「素パスタ」を食べたり、交通費にも困ったりしたといいます。

ただ、阪本さんは当時を「芸人生活がつらかった」という調子では語っていません。

周囲の同期も似た生活をしており、仕事が少ない中でも一緒に遊べる仲間がいたためです。

お金がないことと、芸人を辞めたいことが、二人の中ではそのまま結び付いていませんでした。

2017年新人賞、2018年M-1準決勝の直後にも活動が止まる時期があった

劇場で活動を重ねたマユリカは、2017年に第2回上方漫才協会大賞新人賞を受賞します。

翌2018年にはM-1グランプリで準決勝へ進み、敗者復活戦にも出場しました。

阪本さんにとっては、「このまま仕事が増え、アルバイトをしなくても暮らせるのでは」と感じる時期でもありました。

ところが、その直後には中谷さんの遅刻による謹慎でコンビの仕事が止まる時期が訪れます。

さらに2020年にはytv漫才新人賞決定戦の決勝へ進出予定だったものの、濃厚接触者となった影響で出場を辞退しました。

賞レースで結果が見え始めたあとも、そのまま一直線に仕事が増えたわけではありませんでした。

初冠ラジオからPodcastへ|「うなげろりん」がマユリカの名刺になるまで

マユリカの知名度が大きく変わる過程では、賞レースとは別にラジオとPodcastが重要な役割を持ちました。

テレビ出演がまだ多くなかった時期に始まった番組が、やがて全国のリスナーに二人の会話を届ける入り口になります。

2020年、ラジオ関西で初の冠レギュラーが始まる

ラジオ関西とマユリカの関係が始まったのは2020年4月でした。

『よしもと☆のびしろアワー』の中で、初の冠レギュラーとなる『マユリカのうなされながら見た夢のあとで!』を担当します。

当時はコロナ禍に入り、仕事自体が大きく減っていた時期でした。

阪本さんは当時のマユリカについて、よしもと漫才劇場の舞台には出ていたものの、テレビ出演はほとんどなく、知名度も高くなかったと説明しています。

番組は当初、月1回の放送でした。

放送縮小から2021年にPodcastが誕生

ところが番組改編によって、月1回だった放送は年4回へ縮小されます。

その際、放送回数が減ることを惜しむリスナーから反応が届き、別の形で番組を続ける話が動き始めました。

制作費を自分たちで稼ぐことを前提に、2021年7月から始まったのが『マユリカのうなげろりん!!』です。

阪本さん自身、スタート時にはPodcastという仕組みに馴染みがなく、説明を受けてもよく分かっていなかったといいます。

テレビで一気に知られてから始まった番組ではなく、まだ二人の知名度が高くない時期に、地上波の放送縮小をきっかけとして生まれた番組でした。

ビキニ写真集や先輩芸人のYouTubeも重なり、少しずつ知られる存在に

『うなげろりん!!』では、二人が話したことから企画が実際に動き出すことも増えていきます。

番組運営費を集める企画から生まれたのが、マユリカの二人がビキニ姿になる写真集『Perfect!!』でした。

阪本さんは当初、数十冊程度しか売れない展開まで想定していましたが、実際には予想を大幅に超えて販売数を伸ばしました。

ラジオ関西の2023年の取材では5,000部以上の販売が紹介され、写真集をきっかけに雑誌や撮影の仕事が増えたことも阪本さん自身が話しています。

同じころ、見取り図やロングコートダディのYouTubeへ出演したことで、先輩芸人のファンにもマユリカを知ってもらう機会が増えていきました。

M-1準決勝を重ねながら、Podcastは月間80万ダウンロードへ

マユリカは2021年、2022年とM-1グランプリ準決勝へ進み、漫才でも決勝に近いところまで進むようになります。

その一方、『うなげろりん!!』はアーカイブを最初から聞けることもあり、後からマユリカを知った人が二人の過去のトークまでさかのぼれる入口になっていきました。

2023年10月のラジオ関西の記事では、番組は月間80万ダウンロード超と紹介されています。

「マユリカの1番の名刺じゃないかと」

ラジトピ ラジオ関西トピックス

阪本さんはさらに、『うなげろりん!!』をやっているかどうかで現在の立ち位置も違っていたと思うと語っています。

マユリカの仕事が広がった時期は、M-1だけでなく、劇場、先輩芸人のYouTube、写真集、Podcastが同時に積み重なった時期でもありました。

2023年の東京進出とM-1初決勝|全国へ知られるまで

大阪の劇場で長く活動した二人は、2023年にもう一つ大きな環境の変化を迎えます。

活動拠点を東京へ移し、その年の暮れには初めてM-1グランプリ決勝の舞台へ進みました。

大阪から東京へ拠点を移した2023年

2023年3月によしもと漫才劇場を卒業し、同年4月から東京へ活動拠点を移しました。

上京を決めた理由についても、阪本さんは自分一人で長期計画を立てていたというより、周囲から今がいいのではないかと言われたことが大きかったと話しています。

Podcastの収録場所も神戸から東京へ変わりましたが、ラジオ関西側のスタッフは変わらず、番組自体は継続しました。

幼少期から学生時代、NSC、劇場、ラジオまで長く関西を拠点にしてきた二人にとって、ここで初めて活動の中心が東京へ移ります。

M-1グランプリ2023で初の決勝進出、4位に

上京した2023年、マユリカはM-1グランプリで初めて決勝進出を果たします。

それまでにも準決勝や敗者復活戦まで進んでいましたが、結成13年目にして初めて決勝の10組に入りました。

M-1公式記録では、ファーストラウンドで645点を獲得。

さや香、ヤーレンズ、令和ロマンに続く4位となり、最終決戦まであと一つという位置でした。

2020年のラジオ開始、2021年のPodcast開始、2023年の東京進出を経て、その年の暮れに初めてM-1決勝へ届きました。

2024年は敗者復活から2年連続の決勝へ

翌2024年は、最初から決勝進出が決まっていたわけではありません。

マユリカは敗者復活戦へ回り、最後の1枠を勝ち取って決勝へ進出しました。

これで2年連続のM-1決勝となり、決勝では820点を記録して7位タイとなっています。

2023年の初決勝だけを一点の「ブレイク」と見るより、長く続いた劇場活動にPodcastでの支持が重なり、東京進出とM-1決勝が続いた時期として見ると、仕事が広がった順序が分かりやすくなります。

高校時代に公民館で友人だけの大喜利をしていた阪本さんは、2024年には2年続けてM-1決勝の舞台に立っていました。

マユリカ阪本の現在|子どものころ好きだったものが仕事になる

M-1決勝後も、阪本さんの活動は漫才やテレビだけに限られていません。

ただし、現在の幅広い仕事にも、昔から続いている趣味や人間関係がそのまま顔を出しています。

今も『うなげろりん!!』がマユリカの活動の大きな軸

2021年に始まった『マユリカのうなげろりん!!』は、東京進出後も続いています。

番組の基本は阪本さんと中谷さんのフリートークで、ラジオ関西のインタビューでは、忙しくなってからはトーク内容を事前に細かく準備せず、その場で話すことが多いと明かしています。

3歳のころから公園や互いの家で遊び、中学から学校が分かれても休日に会い、大学時代には夜の公園で長時間話していた二人が、現在はその会話そのものを番組にしています。

幼なじみとして長く続けてきた「二人でしゃべる時間」が、そのまま現在のマユリカを代表する仕事の一つになっています。

「ジンジャーエール阪本」として続けたバンド活動は2026年に一区切り

阪本さんは漫才以外に、芸人バンド「ジュースごくごく倶楽部」でも活動していました。

バンドは2020年に大阪で結成され、阪本さんは「ジンジャーエール阪本」の名義でボーカルを担当。

ロングコートダディの堂前透さん、ニッポンの社長の辻さん、滝音のさすけさんら芸人仲間とオリジナル曲を発表し、アルバム制作や音楽フェスへの出演も経験しました。

2026年5月、本人の意向による脱退が発表され、5月16日のMETROCK2026が現メンバーでの最後の出演となりました。

高校時代に進路を決めたころから計画していた活動ではなく、本人が以前のインタビューで話していたように、芸人仲間に誘われたことから始まり、楽しくて続けてきた仕事の一つでした。

好きだった『クレヨンしんちゃん』で2026年にゲスト声優を務める

2026年には、阪本さんの昔からの「好き」が別の仕事にもつながりました。

7月31日公開の『映画クレヨンしんちゃん 奇々怪々!オラの妖怪バケ〜ション』で、マユリカの二人がゲスト声優を担当。

阪本さんは江戸前スッシーズの妖怪イカ、中谷さんは妖怪カレイを演じています。

マユリカは漫才で登場するときの出囃子にも『クレヨンしんちゃん』の楽曲を使うほど作品が好きで、完成披露試写会では、二人が3〜4歳だったころに地元でしんのすけやアクション仮面と撮った写真まで披露されました。

「非常に光栄に思っています」

東宝

3歳から一緒だった中谷さんと、子どものころから見ていた『クレヨンしんちゃん』の映画へ二人そろって出演するところまで、幼少期の風景が現在の仕事へつながりました。

神戸・井吹台で中谷さんと遊んでいた阪本さんは、高校で同級生と大喜利を始めたことで、お笑いを自分でやるようになりました。

大学時代の一般オーディションで結果が出なかったあと、大学を辞めてNSCへ進んだ選択から、マユリカとしての芸人人生が本格的に始まります。

劇場、Podcast、東京進出、M-1決勝を経た現在も、その隣にいるのは3歳のころから一緒だった中谷さんです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA