マユリカ中谷の生い立ちと家族|14歳の漫画賞、阪本の誘いで芸人になるまで

人物プロフィール

本名
中谷祐太
生年月日
1989年10月23日
身長
171cm
血液型
A型
出身地
兵庫県 神戸市西区
コンビ・グループ名
マユリカ
相方・メンバー
阪本
結成年
2011年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2011年
養成所・スクール
NSC大阪校 33期

M-1グランプリ2023・2024のファイナリストとなり、Podcastでも支持を広げたマユリカで、甲高い声のツッコミを担っているのが中谷さんです。

舞台やテレビで見せる姿のほか、似顔絵や漫画を描き、芸人アイドルグループZiDolでも活動しています。

中谷さんが最初に夢中になった表現は、14歳で『週刊少年サンデー』の月例賞に入るほど打ち込んだ漫画でした。

漫画家と就職の間で進路を考えていた大学生を芸人の世界へ連れ出したのは、3歳からの幼なじみ・阪本さんのひと言でした。

神戸で過ごした子ども時代から、大学中退、NSC、月に数本しか舞台がなかった若手時代を経て、現在の活動へ届くまでをたどります。

マユリカ中谷の生い立ちと家族|神戸・井吹台で阪本と出会った3歳

中谷祐太さんは1989年10月23日に生まれ、神戸市西区の井吹台で育ちました。

家族には父親、母親、妹がおり、同じニュータウンへ移ってきた阪本家とは、母親同士のつながりを通じて3歳の中谷さんと阪本さんが出会いました。

土遊びをしていた阪本と、同じ幼稚園で出会う

二人が3歳だったころ、森を切り開いた井吹台のニュータウンが街開きを迎え、そこへ中谷家と阪本家が移ってきました。

幼稚園では別のクラスで、中谷さんはひよこ組、阪本さんはうさぎ組でした。

中谷さんに残っている最初期の記憶は、母親から、向こうで土をいじっている子が「しょうちゃん」だと教えられた場面です。

実家は歩いて行き来できるほど近く、幼稚園を出た二人は神戸市立井吹東小学校へ進みました。

両家の父親とも出かけた幼なじみ時代

二人は互いの家へ電話をかけ、野球、ドッジボール、フリスビー、ミニ四駆など、その日にやりたい遊びへ相手を誘っていました。

中谷さんは近所の男子を集めてドッジボール大会へ出るチームを作っており、阪本さんの記憶では、当時は周囲を引っ張る側にいました。

両家がいつも一緒に行動していたわけではありませんが、中谷さんの父親が阪本さんを食事へ連れていき、阪本さんの父親が中谷さんを連れ出すことはありました。

中谷さんの父親に連れられて神戸・元町へ行った日は、赤萬の餃子を食べ、元町高架通商店街を歩いたと二人は覚えています。

父親は2000年ごろにはインターネットオークションを使っており、中谷さんが遊ばなくなったおもちゃを売り、その代金で漫画『烈火の炎』のグッズを買う手伝いもしていました。

小学4年生のお楽しみ会で3人コントを披露

小学校で同じクラスになったのは1年生と4年生だけでしたが、4年生のお楽しみ会では、友人のワダックスを加えた3人で「たちばな先生」というコントを披露しました。

当時好きだったテレビ番組『笑う犬の冒険』のようなコントをやろうと、休み時間に3人で内容を考え、ワダックスがボケを担いました。

後年に映像を見返すと、中谷さんが考えたと思われていた部分に浅越ゴエさんのネタとよく似た箇所があったことまで、二人の昔話になっています。

「でも2人とも、それでお笑いに目覚めた、というわけではないですね」

月刊芸人

中学校へ進むと、中谷さんの関心は体操と漫画へ向かいました。

中学・高校時代|器械体操と漫画に明け暮れた「体操小僧」

中谷さんは地元の公立中学校へ進んだ阪本さんと離れ、姫路市の私立男子校淳心学院中学校・高等学校へ進学しました。

平日は長い通学と部活動、帰宅後は漫画制作に時間を使い、週末や長期休暇になると地元の友人たちと集まっていました。

漫画『ガンバ!Fly high』を読み、器械体操部のある学校へ

中学校選びのきっかけになったのは、森末慎二さん原作、菊田洋之さん作画の体操漫画『ガンバ!Fly high』でした。

作品を読んでバク転をしてみたくなり、器械体操部がある学校を受験しています。

中高一貫校だったため、高校もそのまま内部進学し、器械体操を続けました。

公式プロフィールに現在もバク転とバク宙が特技として載っているのは、この学生時代の部活動によるものです。

長距離通学と部活動の後、朝4時まで漫画を描く

神戸の自宅から学校までは片道約1時間半から2時間かかり、地元へ帰るころには遅い時間になっていました。

それでも部活動を終えて帰宅し、食事を済ませると、勉強には向かわず原稿用紙へ漫画を描き続けました。

朝4時ごろまで描き、睡眠を3時間ほど取って再び学校へ向かう生活だったといいます。

「勉強はできひんけど漫画だけはずっと描いてました」

MEQRI

学校が別になった阪本さんとは、日曜日や長期休暇に遊び、二人で自転車をこいで明石海峡大橋まで行く「チャリ旅」もしていました。

14歳で描いた『BIRTHDAY』がサンデーの月例賞へ

漫画を描き始めた直接のきっかけは、小学校でオリジナル漫画を描いて友人同士で見せ合ったことでした。

中学校へ入ると漫画用のペンや原稿用紙の存在を知り、解説書を読みながら見よう見まねで制作を始めます。

最初の長編となった『BIRTHDAY』は約40ページあり、誕生日によって使える能力が異なる世界で、2月29日生まれの主人公を描いた作品でした。

完成まで約1年半をかけ、漫画家志望者が集まるサイトでプロやアシスタント経験者から投稿制度を教わり、『週刊少年サンデー』の月例賞へ送りました。

14歳で完成原稿を送り、「あと一歩で賞」に選ばれたことで、漫画家という進路が現実味を帯びました。

賞金は自分のパソコンを買うために使い、「体操小僧」の名前で個人サイトを作ってイラストや1ページ漫画を公開しました。

中学2年生から大学1年生ごろまで漫画家志望者のチャットへ通い、オンラインで知り合った人々との交流やオフ会にも参加しています。

高校から大学途中までオムライス店で働く

初めてのアルバイトは、自宅から一駅離れた場所にあったオムライス店でした。

その店を選んだ理由は、もともと店のオムライスが好きだったからで、高校生のころから大学途中まで長く続けています。

学校、器械体操、漫画、アルバイトが生活の中心で、このころのお笑いはテレビで時々見る程度でした。

神戸芸術工科大学時代|漫画家か就職かを迷った進路

高校卒業後は、地元の神戸芸術工科大学へ進みました。

進学先も、漫画を描いてきた延長で選んでいます。

漫画のポートフォリオを使い、AO入試で大学へ

進学校に通いながら勉強より漫画へ時間を使っていたため、一般入試とは別の進み方を探し、自作の作品を持ち込めるAO入試を選びました。

自宅から近く、これまで描いた漫画をポートフォリオとして生かせることが大学を選んだ理由でした。

入学したのは19歳になる年で、阪本さんも別の大学へ進んでいました。

大学生活を楽しむ一方、漫画制作の手が止まり始める

大学では親しい友人が増え、毎日のように友人の家へ遊びに行くうち、漫画へ向かう時間が減っていきました。

中谷さんは後年、当時の自分を「お笑い好き」よりも、インターネットや漫画に夢中だったテレビ好きの大学生として説明しています。

漫画作品による受賞歴はありましたが、芸人へ進む前にプロの漫画家としてデビューした経歴はありません。

就職と東京での漫画アシスタントを考える

大学生活が進むなかで、中谷さんは卒業後に就職するか、東京へ出て漫画家のアシスタントになるかを考えていました。

漫画は以前のように描けず、プロデビューにも届いていなかったため、どちらへ進むか決め切れない状態でした。

その時期に、地元で付き合いを続けていた阪本さんから連絡が入ります。

芸人になったきっかけ|阪本の誘いで「いぶき」を結成

阪本さんは高校時代、お笑い好きの同級生と授業中にメールで大喜利を送り合い、休日には公民館を借りて仲間だけで大喜利をするほど、お笑いへ傾いていました。

中谷さんと会った夜にも、小学4年生で披露したコントを振り返り、今ならもう少しきちんとしたものを作れるかもしれないと話していました。

大学1年の夜、阪本から「芸人やらへん?」と誘われる

大学1年の10月、阪本さんは中谷さんを自宅の下へ呼び出しました。

「芸人やらへん? 俺らやったら関西の番組くらいやったらすぐ出れると思うで」

マユリカ公式サイト

中谷さんはその言葉を聞いて「確かに」と答え、漫画家か会社員かという二択だった進路に、芸人という三つ目の道が加わりました。

阪本が中谷を選び、中谷が誘いを受けたそれぞれの理由

阪本さんには、先にお笑いを教えてくれた高校の同級生と組む選択肢もあり、大学時代にはその友人ともインディーズライブへ出ていました。

その友人とはお互いに大喜利やネタの案を出すため意見がぶつかりましたが、中谷さんは阪本さんの案を受け入れることが多く、最終的には一緒にいて気を使わない居心地が決め手になりました。

一方の中谷さんには、お笑いだけを追いかけてきた経歴も、舞台へ通った経験もありませんでした。

テレビに出られるかもしれない、芸能人に会えるかもしれないという好奇心があり、自分を「目立ちたがりのオタク」だったと説明しています。

ファミレスでネタを作り、一般オーディションへ1年間通う

二人は地元の井吹台から取った「いぶき」をコンビ名にし、養成所へ入る前にbaseよしもとの一般オーディションを受け始めました。

月に一度、夜のファミリーレストランでネタを作り、車で大阪の会場へ向かう生活を約1年間続けています。

最初のオーディションは二人にとって初舞台でもあり、緊張のあまり二人ともネタを飛ばしてしまいました。

阪本さんは胃が痛くなり、帰りに薬局へ寄って胃薬を飲みましたが、その後もトップバッターで出ては不合格となる回が続きました。

大学中退とNSC大阪33期|マユリカ結成まで

NSCへの入学には、大学の友人と過ごす生活を続けるか、お笑いへ時間を使うかという決断が伴いました。

入学費用に加え、大阪で初めて一人暮らしをする準備も必要になります。

大学を離れ、親から費用を借りてNSCへ

中谷さんは当初、大学を辞めることには乗り気ではなく、阪本さんから繰り返し説得されました。

大学とNSCを同時に続ける案もありましたが、二人は大学3年へ進む年にそろって中退します。

家族は強く引き止めず、大学へ通いながらNSCへ入る案も尋ねましたが、最終的には本人に進路を任せました。

2010年、二人は親から入学費用を借り、NSC大阪校33期生になりました。

約500人のBクラスで出会った同期たち

当時のNSC大阪校には約500人がおり、評価によってA・B・Cのクラスに分けられていました。

マユリカは20組ほどが入るBクラスとなり、二人はAクラスではなかったことを不服に感じていました。

同じNSC大阪33期の同期には、ビスケットブラザーズ、kento fukayaさん、ZAZYさん、滝音・秋定遼太郎さん、ニッポンの社長・ケツさんらがいました。

「いぶき」から、二人の妹の名前を合わせた「マユリカ」へ

一般オーディション時代の「いぶき」では結果が出なかったため、NSC入学を機にコンビ名も変えることにしました。

二人に共通するものを探すなかで、阪本さんの妹マユさんと中谷さんの妹ユリカさんの名前をつなげた案が出ました。

阪本さんからは「枕少年」「かさぶたネットワーク」という候補も出ましたが、「マユリカ」は口にした瞬間に二人が納得して決まりました。

同じアパートで暮らし、アルバイトをしながらネタを作る

NSC入学に合わせて二人とも初めて一人暮らしを始め、同じアパートの1階と2階にある斜め上下の部屋を借りました。

中谷さんは難波中心部の大規模な居酒屋で働き、そこへ後に豪快キャプテンの山下ギャンブルゴリラさんが入り、ニッポンの社長・ケツさんや阪本さんも一時期働きました。

二人とも芸人であることを職場では隠していましたが、懇親会で阪本さんが初対面のように中谷さんへ住所を尋ね、同じマンションだと偶然気づいた芝居を始めたことがあります。

中谷さんは宗右衛門町のしゃぶしゃぶ店でも働き、牛タン店では初日に約40枚の皿を一度に割り、居づらくなって短期間で辞めました。

漫画家の東風孝広さんのもとでは、蛙亭・中野周平さんと一緒に、背景やベタ塗りを担当するアシスタントも短期間経験しています。

ネタは阪本さんが中心になって作り、中谷さんがツッコミを担う形が固まっていきました。

デビュー後の若手時代|月3本の舞台から劇場メンバーへ

マユリカは2011年4月1日に結成し、同年にプロとしてデビューしました。

NSCを卒業した後も、劇場のメンバーになるためのオーディションが続きました。

2011年に結成するも、約3年間は劇場へ所属できず

卒業後はインディーズライブや事務所のオーディションに出ましたが、劇場のレギュラーメンバーにはなかなか選ばれませんでした。

約3年間、舞台に立てるのは月3本ほどで、出演してもギャラが出ないライブが中心でした。

同じ33期で現在も活動する組の中では、親しくしていたビスケットブラザーズとマユリカが劇場入りの遅い組になりました。

二組ともアルバイトをして同じ境遇にいたため、中谷さんたちは劇場へ入れない状況を挫折としては受け止めず、先に入った同期を見ながら自分たちの番を待っていました。

手元にお金がない日は、ゆでたパスタへ調味料だけをかけた「素パスタ」を食べ、移動の交通費にも困る生活でした。

芸人2年目の漫画『シャンプーハット』が小学館で佳作

舞台数が少なかった時期にも、中谷さんは漫画を完全には手放していませんでした。

2012年6月、第70回小学館新人コミック大賞へ「中谷祐太」の本名で『シャンプーハット』を投稿し、青年部門佳作に選ばれています。

この受賞は芸人になる前ではなく、マユリカ結成翌年の出来事です。

初めて劇場から受け取ったギャラは450円

結成4年目になり、ようやく吉本の劇場メンバーへ選ばれると、毎月決まった舞台へ出演できるようになりました。

それまでのインディーズライブと違い、劇場から出演料が支払われたことで、中谷さんは初めて漫才を仕事として実感しました。

「源泉税を引かれた450円だったけど、今でも明細書を大切にしてます」

神戸新聞NEXT

2015年には、よしもと漫才劇場のスタッフTシャツに使われるイラストも描きました。

新ネタを増やし、2017年の新人賞と2018年M-1準決勝へ

劇場へ入ってからも二人は舞台を重ね、2016年ごろからは毎月2本の新ネタを作るようになりました。

2017年には第2回上方漫才協会大賞新人賞を受賞しました。

翌2018年にはytv漫才新人賞決定戦で5位となり、M-1グランプリでは初めて準決勝へ進み、敗者復活戦にも出場しました。

初めて全国放送のM-1敗者復活戦へ出たことで、二人は仕事が増える時期に入ると考えていました。

M-1準決勝後の謹慎と、ytv決勝辞退

翌2019年、中谷さんの遅刻をめぐる処分で二人の活動が止まりました。

仕事が増え始めた時期に遅刻が重なり、2か月の謹慎へ

中谷さんは数分程度の遅刻を重ね、劇場から次に遅れればコンビの仕事も止めると注意を受けていました。

その翌日にも寝坊し、怒られることを恐れて携帯電話の電源を切りました。

「細かい遅刻が3〜4回くらいあって、次やったら仕事無くすよと言われた次の日に、まあ、6時間ほど……」

MEN’S NON-NO WEB

周囲では連絡が取れない中谷さんが自宅で倒れているのではないかと騒ぎになり、翌日に本人が現れると、マユリカはコンビで仕事を止められました。

処分は約2か月に及び、M-1準決勝の直後に予定されていた仕事もなくなりました。

謹慎中は坊主頭にし、以前から高い声が出にくかった喉の治療も受けましたが、処置後は一時的に高い声しか出なくなったと後年明かしています。

謹慎中もコンビを続けた阪本との関係

初のM-1準決勝で「これから仕事が増える」と考えていた阪本さんは、中谷さんへ強く怒りました。

復帰後にも舞台へ遅れ、劇場へ謝罪する出来事が続きました。

阪本さんは、小学生まで周囲を引っ張っていた中谷さんが、コンビでは「何でもええで」と判断を任せる人物だったことに驚いたとも語っています。

その一方で、3歳からの知り合いなので、腹が立ったことを直接言っても関係が不自然になりにくいと二人は捉えていました。

阪本さんは解散を選ばず、復帰後も二人で舞台へ戻りました。

2020年、初冠ラジオが始まるもytv決勝は辞退

2020年4月、ラジオ関西で月1回の初冠番組『マユリカのうなされながら見た夢のあとで!』が始まりました。

番組開始時の中谷さんは、リスナーからの反響をまだ感じていませんでした。

「誰も聴いてないだろう」

ラジトピ

同年8月には、第9回ytv漫才新人賞決定戦の決勝へ進出しました。

ところが大会直前、仕事で一緒になった人物の新型コロナウイルス陽性が判明し、中谷さんが濃厚接触者に該当する可能性があったため、大事を取って出場を辞退しました。

配信とPodcast、M-1が変えた2020年以降

謹慎や大会辞退の後、仕事の流れは複数の入口を通じて変わりました。

先輩芸人のYouTube、コロナ禍の配信、Podcast、M-1での連続した結果が別々の入口となり、マユリカを知る人が増えていきました。

コロナ禍の配信と先輩芸人のYouTubeで名前が広がる

コロナ禍で客席を入れた舞台が難しくなると、マユリカは配信ライブへ出演する機会を重ねました。

見取り図のYouTubeへドッキリ企画で呼ばれ、その後も出演が続くと、見取り図の視聴者へ二人の名前が届きました。

ロングコートダディのYouTubeにも登場し、劇場で共演していた先輩や仲間の視聴者が、マユリカの漫才や会話へ入ってくるようになります。

2021年、ytv3位とPodcast開始で新しい流れが生まれる

2021年2月には前年に辞退したytv漫才新人賞へ戻り、決勝で458点を獲得して3位になりました。

前年から月1回だったラジオ番組が同年4月から年4回へ縮小されると、継続を望む声を受け、7月にPodcast『マユリカのうなげろりん!!』が始まりました。

制作費を確保するグッズとして、阪本さんが提案した二人のビキニ写真集をリスナーの編集者らと制作し、9月に予約販売を始めると初版1100部が完売しました。

年末にはM-1で2018年以来となる準決勝へ進み、敗者復活戦で6位、オールザッツ漫才で準優勝という結果を残しました。

2022年、100万ダウンロードとM-1連続準決勝へ

2022年1月には上方漫才協会大賞の文芸部門賞を受賞しました。

2月に写真集を重版すると、追加分400部が約30分で完売し、累計販売部数は2700部以上になりました。

同年4月には累計100万ダウンロードへ達し、二人の幼なじみ同士の会話そのものが仕事になりました。

M-1でも前年に続いて準決勝と敗者復活戦へ進み、阪本さんはこの時期にようやく少しずつ流れを感じたと述べています。

2023年に東京へ移り、結成12年目でM-1決勝4位

2023年4月、マユリカはよしもと漫才劇場を卒業し、大阪から東京へ活動拠点を移しました。

ロングコートダディやニッポンの社長ら親しい芸人が東京へ移る時期と重なり、先輩からも「行くなら今」と背中を押されたことが決断につながりました。

東京へ移った同年、中谷さんは阪本さんの発案を受けて、脚本・作詞・作曲・出演を一人で担う90分のミュージカル『七里、山越えて』にも挑戦しました。

12月には、結成12年目で初めてM-1決勝へ進出し、ファーストラウンド645点で4位となりました。

2024年、敗者復活から2年連続のM-1決勝へ

2024年は準決勝で敗退しましたが、敗者復活戦の最終審査で票を集め、最後の1枠で決勝へ進みました。

敗者復活から出場した決勝では820点を獲得し、ダイタクと同点の7位となりました。

劇場、先輩の動画、Podcast、東京進出と活動の入口が増えた後、二年連続の決勝進出を迎えています。

漫画少年と幼なじみコンビの現在地

東京へ移った後も、中谷さんの活動は漫才やテレビだけに限られていません。

現在は、漫画に関わる仕事、Podcast、ZiDolの舞台を漫才と並行しています。

漫画・イラストの経験が芸人以外の仕事にも広がる

中谷さんは現在も公式プロフィールの趣味と特技に、絵、漫画、似顔絵を掲げています。

漫画を紹介する番組やイベントにも出演し、実際に作品を描いて投稿した経験を交えて漫画について話してきました。

2025年4月には『マンガ沼』のイベントに登場し、出演者と漫画クイズに挑みました。

Podcast、漫画番組、ZiDolを並行する現在

2025年6月の『マユリカのうなげろりん!!』第200回には中谷さんの父親が登場し、賞金を家族旅行へ使うため、親子で10問のクイズに挑みました。

翌7月には200回を記念した展覧会が始まり、全国7会場を巡りました。

2026年1月にはあだち充さんの画業55周年を扱う特別番組でMCを務めました。

2026年2月に地元・神戸で最終会場を迎えた時点で、展覧会のチケット購入者は4万5000人を超えています。

NSC大阪33期のkento fukayaさんがプロデュースするZiDolでは、浦井のりひろさん、稲田美紀さん、ケツさん、高見さんと歌やダンスに取り組み、2026年春にも名古屋と東京でワンマンツアーを開催しました。

神戸で漫画を描いていた少年は、大学で進路を迷っていた夜に阪本さんから誘われ、二人で舞台へ向かいました。

舞台の少ない若手時代を通り、マユリカはM-1決勝とPodcastという二つの大きな舞台へ届きました。

漫画と幼なじみという二つの長い時間は、現在も中谷さんの漫才、トーク、イラスト、舞台活動の中に残っています。

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