人物プロフィール
四千頭身の都築拓紀さんといえば、3人漫才で前へ出る姿だけでなく、バラエティでのトークやラジオ、ファッションへの強いこだわりでも知られています。
ところが、子どものころから漫才師に憧れ、M-1グランプリを目指して一直線に進んできたわけではありません。
小学校6年生で母親から高校卒業後の進路を考えるよう求められ、高校では周囲や先生に反発する時期を過ごし、その中で一人の担任からお笑いという道を示されました。
都築さんが最初に仕事にしたいと思ったのは「漫才」よりも、自分が好きだった「しゃべること」でした。
高校卒業後にワタナベコメディスクール22期へ入り、そこで後藤拓実さん、石橋遼大さんと出会ったことから、現在まで続く芸人人生が動き始めます。
都築拓紀の生い立ちと家族|龍ケ崎で育ち、母から将来を問われた小学生時代
都築さんは1997年3月20日生まれで、茨城県龍ケ崎市で生まれ育ちました。
本人も公式Xで「龍ヶ崎市生まれ、龍ヶ崎市育ち」と記しており、芸人になった後も母校への寄付や地元での活動を続けています。
城ノ内小学校で過ごし、ゲーム・アニメ・マンガに夢中になる
小学校は龍ケ崎市立城ノ内小学校へ通っていました。
龍ケ崎市立城ノ内小学校も都築さんを「本校の卒業生」と紹介しており、2023年には卒業生として母校へ戻り、児童を前に講演しています。
講演の日には、昼休みに子どもたちと「だるまさんが転んだ」で遊び、同年6月には大型テレビも母校へ寄付しました。
子どものころの都築さんが好きだったのは、ゲーム、アニメ、マンガでした。
後年にはポケモンや遊戯王など好きだったものを語る仕事も増えていますが、その興味は芸人になってから突然生まれたものではなく、小学生のころから続いていたものでした。
小学6年で母から「高校卒業までに自分の道を」と言われる
芸人になるずっと前、小学校6年生の都築さんには、すでに高校卒業後のことを考え始める出来事がありました。
母親から、勉強が好きではないのなら大学へ進むことだけを前提にせず、高校を卒業するまでに自分が進む道を見つけて独り立ちするようにと言われたのです。
まだ小学生だった都築さんは、それから「自分は何がやりたいのか」を考えながら過ごすようになり、高校生になるまで答えは出ませんでした。
芸人になる決断の始まりは、お笑い番組を見た一夜ではなく、小学6年生から続いた進路探しでした。
2021年のインタビューでは、母親は子どもを甘やかすタイプではなく、かなり厳しかった一方、都築さんを単に「息子」として扱うのではなく、一人の人間として向き合ってくれた存在だったと語っています。
都築さんには2歳下の妹と12歳下の弟がおり、母親は3人の子どもに対して強い自信を持って接していたそうです。
都築さん自身も、養成所で大きくスベったときでさえ「どうにかなる」と思えていた背景として、この母親から受けた育てられ方を挙げています。
中根台中学校では野球部へ|母に認められて育った自信
小学校を卒業した後は、龍ケ崎市立中根台中学校へ進みました。
龍ケ崎市の広報でも中根台中学校を都築さんの母校として紹介しており、2022年には都築さんから同校へ65インチの大型ディスプレイが寄贈されています。
中学時代は野球部に所属していました。
2026年には、中学時代の野球部の後輩から約15年ぶりに連絡を受け、その縁から福島県双葉町を訪れたことを自身の文章に残しています。
中学2年生だった2011年3月には東日本大震災を経験し、後年の双葉町訪問では母親と弟も同行しました。
実家については、都築さん自身が内装業、いわゆるクロス屋だったことも明かしています。
この時点ではまだ芸人という職業へ一直線に向かっていたわけではなく、小学生のころに母から渡された「自分がやりたいことを見つける」という宿題を抱えたまま、高校へ進むことになります。
都築拓紀の学歴|印旛明誠高校で「芸人」という進路が生まれる
高校は千葉県の千葉県立印旛明誠高等学校へ進学しました。
同校も都築さんを3期生のOBとして紹介しており、芸人になった後には文化祭へ足を運んでいます。
周囲や先生へ反発していた高校時代
現在のテレビでの姿からは意外ですが、都築さん自身は高校時代の自分について、かなり周囲へ反発していたと振り返っています。
同級生の中で少し目立っている生徒を見ても素直に受け入れられず、先生にも反発し、学校の中で自分から敵を作りやすい状態だったそうです。
一方で、小学校6年生から考え続けてきた「高校を卒業したら何をするのか」という答えも、まだ見つかっていませんでした。
そんな時期に、それまでの先生とは違う接し方をする担任と出会います。
高校2年の担任から「お笑いの道はどうだ?」と勧められる
高校2年生の担任は、周囲へ反発していた都築さんにも真剣に向き合ってくれた先生でした。
もともと人としゃべることが好きだった都築さんに、その先生が示した選択肢がお笑いでした。
「お笑いの道はどうだ?」
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この担任の一言をきっかけに、都築さんの中で「芸人」が高校卒業後の具体的な進路になりました。
ただし、当時から漫才に強い憧れがあったわけでも、M-1グランプリで優勝したいという目標があったわけでもありません。
都築さんが自分の好きなことを考えたときに浮かんだのは、「しゃべること」でした。
母親からも、嫌いなことを無理に続けるより自分の好きなものを見つけるよう言われており、担任からのお笑いという提案と「しゃべるのが好き」という自覚がここで重なりました。
芸人になると決め、同学年約160人との接し方を変えた
進路を決めた後、学校での都築さんの行動にも変化がありました。
芸人になるなら、いずれ日本中の多くの人を相手にしなければならないと考えた都築さんは、まず自分の学年にいる約160人と向き合おうとします。
それまで距離を置いたり、嫌ったりしていた同級生にも自分から接するようになり、実際に友人関係が広がっていきました。
最初は苦手だと思っていた相手とも話してみると面白い部分が見え、高校卒業後も付き合いが続く友人ができたといいます。
舞台にもテレビにもまだ立っていない高校生の時点で、芸人になると決めたことが学校での人との接し方を変えていました。
高校卒業後にWCS22期へ|大学ではなくお笑いの道を選ぶ
2015年、高校を卒業した都築さんは大学へは進まず、芸人になるための行動へ移りました。
進んだ先は、ワタナベエンターテインメント系の芸人養成所であるワタナベコメディスクール(WCS)でした。
複数の養成所を見るつもりが、最初に受かったWCSへ
都築さんは当初、いくつかの養成所を見て回るつもりでした。
その中で最初に合格したのがWCSで、本人は後年、「これも何かの縁だろう」と考えて入学したと話しています。
2016年にWCS卒業生として寄せたコメントでは、説明会でライブの仕組み、授業内容、講師陣について聞いたことも入学を決める材料になったと説明しています。
高校卒業と同時にWCS22期へ入り、18歳でお笑いの世界へ踏み込みました。
同じ22期には、後に四千頭身を組む後藤拓実さん、石橋遼大さんのほか、丸山礼さんらがいました。
ネタへの強い憧れはなく「しゃべること」を仕事にしたかった
養成所へ入った都築さんには、芸人志望者にありがちな「まずネタを作りたい」という感覚がほとんどありませんでした。
M-1グランプリについても、放送されていれば見る程度で、最初から漫才師を目指して大会を研究していたわけではありません。
むしろ本人は、養成所へ入ってから、なぜネタを作るという段階を踏まなければいけないのかと思っていたほどでした。
芸人という進路を選びながら、最初に仕事へしたかったものは一貫して「人としゃべること」でした。
自己PRやライブを通じて初めて芸人として舞台に立つ
WCSでは入学して間もない時期から自己PRライブがあり、在学中でも人前へ立つ機会が用意されていました。
都築さんは卒業時のコメントで、定期ライブやイベントを通して、まだ養成所生でありながら舞台で表現する経験を何度も得られたことを挙げています。
授業ではネタだけでなく、自分の過去を書き出す「自分史」の提出などもありました。
一方、舞台上の都築さんは最初から堂々と笑いを取れていたわけではありません。
後年のWCS同期対談では、ライブ中の自分を撮った写真を講師から見せられ、あまりにも目が死んでいると指摘され、それを見た本人まで笑ってしまったという養成所時代の場面も語られています。
後藤拓実と出会い、石橋遼大を加えて四千頭身を結成
WCS22期へ入ったことで、都築さんの芸人人生を大きく変える二人との出会いがありました。
ただし、都築さん、後藤さん、石橋さんの3人が出会ってすぐ、そのまま四千頭身になったわけではありません。
「ネタを書けそう」と都築から後藤へ声をかける
養成所の最初の自己PRで特に都築さんの目に留まったのが、後藤拓実さんでした。
後藤さんは小学生のような帽子や蛍光色のリュックなど独特の格好をしており、都築さんは自己紹介で同い年の18歳だと知って驚いたと振り返っています。
見た目以上に注目したのは、後藤さんが当時から滑らかに話し、自己PRでも目立っていたことでした。
自分ではネタをまったく書けなかった都築さんは、後藤さんを見てこう考えます。
「こいつネタ書けそうだな」
QJWeb
最初にコンビ・トリオ結成へ動いたのは都築さんで、後藤さんへ自分から声をかけました。
後藤さん側から見た当時の都築さんの印象は、かなり違います。
「ちなみに、一番つまらなかったのが都築です(笑)」
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後藤さんは都築さんが自己PRで大きくスベっていたことを覚えていましたが、その姿を周囲からイジられたときの「負け顔」が面白くなるのではないかと感じ、都築さんと別の同期を交えた最初のトリオに参加しました。
最初のトリオ解散と組み替えを経て石橋が加わる
最初に組んだ3人組は、そのまま現在まで続いたわけではなく、一度解散しています。
その後、後藤さんは石橋遼大さんとコンビを組みました。
後藤さんはボケをやりたいと考え、石橋さんならツッコミができるのではないかと思って組んだものの、実際に試すとうまくかみ合わず、このコンビも短期間で解消します。
石橋さんが芸人を辞めることまで口にしたころ、後藤さんは再び都築さんたちと組もうとしていました。
ちょうど都築さん側のメンバーが一人抜けたタイミングが重なり、石橋さんも加わることになりました。
いくつもの組み替えを経て、都築拓紀・後藤拓実・石橋遼大という現在につながる3人がそろいました。
3人は2016年に四千頭身としてデビューします。
3人漫才の形ができ、WCS内ライブで結果を出し始める
現在知られている四千頭身の漫才の形は、結成初期から大きく離れたものではありませんでした。
後藤さんは、都築さんには「変なことを言いそうな顔」があると考え、ネタの中で都築さんをボケ側へ置く形を作っていったと振り返っています。
養成所ではライブごとにランク分けがあり、同期の丸山礼さんによると、自身がAランクで優勝した一方、四千頭身はBランクで優勝しています。
都築さんたちは、まだテレビへ出る前から養成所内のライブでは結果を残す組になっていました。
養成所卒業後の若手時代|ライブでは勝ててもテレビに出られなかった
四千頭身は結成からテレビ出演までが早いため、長い下積みを経験した芸人という印象は強くありません。
それでもWCS卒業直後には、ライブで手応えがあるのに仕事へ結びつかない時期がありました。
同期にテレビ仕事が決まる中、四千頭身には仕事が来なかった
卒業後、同じWCS出身者には『ぐるぐるナインティナイン』の「おもしろ荘」や『世界の果てまでイッテQ!』など、次々とテレビの仕事が決まっていきました。
一方の四千頭身には、なかなか同じ流れが来ませんでした。
ライブでは勝てているため、ネタがまったく評価されていないわけでもありません。
都築さんの中には、舞台で結果を残すこととテレビへ出ることの間にある距離が見えない時期がありました。
「テレビってどうやったら出られるの?」
お笑いナタリー
同期の丸山礼さんは、ほかの同期のテレビ出演が決まるたびに、四千頭身が悔しそうにしていた当時の姿を覚えています。
WEL FES出演が『新しい波24』オーディションへつながる
状況が動いたのは、ワタナベエンターテインメントの大型ライブ「WEL FES」でした。
四千頭身は予選を勝ち抜いてWEL FESへの出演を決めます。
その舞台を見ていた関係者から、フジテレビの若手芸人発掘番組『新しい波24』のオーディションへ呼ばれました。
ライブで積み上げてきた結果が、ここで初めてテレビ出演へ直接つながりました。
オーディションに合格した四千頭身は、2016年12月に放送された『新しい波24』の特番でテレビへ初出演します。
翌2017年には番組がレギュラー化し、四千頭身も「波24メンバー」としてネタを披露する機会を得ました。
芸歴がまだ浅い段階で、舞台中心だった3人の活動にテレビという新しい場所が加わりました。
テレビ初出演後、「何をしゃべればいいのか」から学び直した
テレビへ出られるようになったからといって、都築さんがすぐバラエティで自在にしゃべれたわけではありません。
最初のころは緊張し、トークの順番が回ってきても何を話せばいいのか分からず、ウケたとしてもなぜ笑いが起きたのか理解できないことがあったといいます。
『新しい波24』のオーディションで四千頭身を評価したディレクターとは、番組開始後も何度もトークの打ち合わせをしました。
同じ出来事を話す場合でも、どんな順序で説明するか、具体的な固有名詞をどこへ入れるかなど、テレビでエピソードを笑いにする方法を教わっていきます。
「何を話せばいいんだよ」
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人としゃべることが好きで芸人になった都築さんが、プロになった後に「テレビでどうしゃべるか」を一から覚えていた時期でした。
収録を重ねるうちに先輩芸人と楽屋で話す機会も増え、カメラが回ったときにどこまで踏み込めるかという感覚も少しずつ身につけていきました。
四千頭身の仕事が増加|ラジオとM-1で知名度が広がる
『新しい波24』への出演後、四千頭身はテレビだけでなくラジオや賞レースにも活動の場を広げていきました。
ここからは3人の若さそのものも特徴となり、同世代の芸人たちと並んで紹介される機会が増えていきます。
2018年に『四千ミルク』、続いて『オールナイトニッポン0』へ
2018年春にはFM FUJIで、四千頭身にとって初の冠ラジオ番組『四千ミルク』がスタートしました。
同年4月にはニッポン放送『四千頭身のオールナイトニッポン0(ZERO)』の木曜パーソナリティにも起用されます。
当時3人はいずれも21歳で、番組公式ブログでも非常に若いパーソナリティとして紹介されていました。
高校卒業直後に出会った3人は、20代前半で全国放送の深夜ラジオを任されるところまで進みました。
もともと「しゃべること」を仕事にしたかった都築さんにとって、ネタ以外の言葉だけで長時間番組を進めるラジオは、個人の持ち味を出せる場所にもなっていきます。
M-1グランプリ2019で準決勝・敗者復活戦まで進出
当初はM-1を熱心に追っていたわけではなかった都築さんですが、四千頭身として漫才を続ける中で、賞レースも重要な舞台になっていきました。
M-1グランプリ2019では準決勝まで進出し、決勝進出を逃した後は敗者復活戦へ回ります。
敗者復活戦には16組が出場し、結果発表ではアインシュタイン、ミキ、和牛とともに、四千頭身も最後まで名前が残る4組に入りました。
最終的に決勝への切符を得たのは和牛でしたが、四千頭身は決勝直前の舞台まで漫才で注目を集めています。
2019年はM-1準決勝進出に加え、第40回ABCお笑いグランプリでも決勝へ進んだ年でした。
賞レースだけで突然知られたのではなく、『新しい波24』からテレビへ進み、ラジオの冠番組を持ち、その途中で漫才の実績も重なっていった時期です。
「第七世代」と呼ばれる時期にテレビ出演が大きく増える
2018年から2019年ごろになると、霜降り明星、ハナコ、宮下草薙など若い世代の芸人がテレビで取り上げられ、「お笑い第七世代」という言葉が広がりました。
四千頭身もその流れの中で名前を挙げられることが増え、バラエティ番組への出演が一気に増えていきます。
都築さんは先輩芸人にも積極的に話しかける立ち位置が目立つようになり、養成所卒業直後に抱えていた「テレビでは何を話せばいいのか」という状態から変わっていきました。
サンドウィッチマンら先輩芸人が楽屋でも都築さんや石橋さんをイジってくれたことで、収録でも少し踏み込んだ発言ができるようになったと本人は話しています。
舞台での3人漫才に加え、都築さん自身のトークや先輩とのやり取りもテレビで見えるようになりました。
「好きなことを仕事に」が広がる|ファッション・ラジオ、そして現在へ
仕事が増えてからの都築さんは、四千頭身としての活動だけでなく、自分が昔から好きだったものを話す個人仕事も増やしていきました。
そこには、小学生のころから続くゲームやマンガへの興味と、芸人になるときに選んだ「しゃべること」が重なっています。
ゲームや洋服を語る個人仕事が増えていった
2021年ごろには、遊戯王やポケモン、ゲーム、そしてファッションなど、都築さん自身が好きな分野について話す仕事が増えていました。
本人は、好きなことについてであればいくらでも話せる感覚があると語り、そうした仕事をさらに増やしたいと考えていました。
小学校6年生のころから「自分がやりたいこと」を探し、高校では「しゃべること」を選んだ都築さんにとって、芸人として名前が知られた後は、何についてしゃべるかまで自分の好きな方向へ広がっていきます。
ラジオでも個人で話す機会が増え、後にはラジオ大阪『サクラバシ919』で木曜日を担当するようになりました。
2023年に「HIROKI TSUZUKI」を立ち上げる
ファッション好きとして知られるようになった都築さんは、2023年に自身のブランド「HIROKI TSUZUKI」を立ち上げました。
意外にも、以前から自分のブランドを持つことを目標にしていたわけではありません。
スタイリストのTEPPEIさんらとのつながりからブランドをやらないかと声をかけられ、それなら新しい挑戦としてやってみようと動き始めました。
芸人になるときと同じく、最初から決められた一本道を進んだのではなく、人との出会いから新しい仕事が始まりました。
都築さんは服飾の専門学校に通った経験も、パターンを引く専門技術もありません。
その代わり、長く服を買い、実際に着てきた経験から、パンツの股上や股下、裾幅などを数値で細かく指定し、自分が持っている古着をサンプルとして持ち込むなどして形を詰めています。
「服が好きだった」という個人的な趣味が、着る側から作る側の仕事へ変わりました。
龍ケ崎と家族写真を服へ取り入れ、原点が現在の仕事にも登場
ブランドの中には、都築さんの生い立ちそのものをデザインへ取り入れた服もあります。
スカジャンを制作した際には、背中へ地元の「Ryugasaki(龍ケ崎)」という文字と家族写真を入れました。
胸元には龍ケ崎市の花と鳥をモチーフとして使い、自分のバックボーンを服へ落とし込んでいます。
しかも、このスカジャンは50着を制作し、工場で難しいと言われた加工を都築さん自身が手作業で行いました。
発売予定に間に合わせるため、前年12月の約1カ月間はスカジャンの加工を続けていたといいます。
小学生時代を過ごした龍ケ崎と、幼いころから大きな影響を受けた家族が、芸人になって十数年後には洋服のデザインとして現れました。
2026年8月現在の活動状況
2026年8月18日、所属するワタナベエンターテインメントは、都築さんから書類送検された旨の報告を受けたとして、同日付で当面の間、謹慎処分とすることを公式に発表しました。
事務所は同時に、四千頭身については当面、後藤拓実さんと石橋遼大さんの2人で活動するとしています。
またラジオ大阪も、都築さんが木曜日を担当していた『サクラバシ919』について当面の出演見合わせを発表し、番組は代役を立てて放送を継続するとしています。
2026年8月23日現在、都築さん本人は謹慎期間に入っているため、これまでと同じ形で芸能活動を続けている状況ではありません。
龍ケ崎で育ち、小学校6年生で母親から自分の進路を考えるよう言われた都築さんは、高校2年生で担任からお笑いという道を示されました。
WCSで後藤さんへ声をかけ、組み替えの末に石橋さんを加えた3人は四千頭身となり、養成所のライブからテレビ、ラジオ、賞レースへ活動を広げました。
2026年8月現在は謹慎により活動を離れていますが、それまでの歩みには、しゃべること、ゲーム、洋服、龍ケ崎、家族など、子どものころから身近だったものが仕事の中へ何度も登場しています。












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