人物プロフィール
フルーツポンチの亘健太郎さんは、村上健志さんとのコンビ活動だけでなく、現在は第二種電気工事士の資格を生かして現場でも働いています。
さらに吉本興業の公式プロフィールには予備自衛官とも記されており、「芸人」「電気工事士」「元航空自衛官」という異なる経歴を持つ人物です。
ただ、子どものころから芸人になることを目指していたわけではなく、本人によればバラエティ番組は好きだったものの、お笑いの世界は現実の進路から遠い存在でした。
高校卒業後は航空自衛隊へ入り、青森県三沢市で武器弾薬整備員として5年間勤務しています。
その生活が大きく変わったのは、自衛隊を続けるか迷っていた時期に、小学校時代からの友人から「お笑いをやらないか」と誘われたことでした。
しかも最終的にその友人は会社員となり、誘われた亘さんだけがNSCへ入り、そこで村上さんと出会うことになります。
亘健太郎の生い立ち|横浜で育ち、小中高は野球に熱中
亘健太郎さんは1980年7月12日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは神奈川県出身とされています。
本人は後年のインタビューで地元を横浜と話しており、子どものころから学生時代まで野球を続けていました。
バラエティ好きでも、芸人は現実の進路ではなかった少年時代
テレビではバラエティ番組をよく見ていて、友人同士で悪ふざけをして笑わせることも好きだったそうです。
一方で、自分がお笑い芸人になるという発想はほとんどありませんでした。
「芸人に対する憧れはそれほど強くなかったんですよ。」
CHANTO WEB
当時の亘さんにとって芸能人は、自分から目指してなる職業というよりも、どこか遠い世界の存在だったようです。
小学校から高校まで続けていたのは野球で、のちに高校生活を振り返った際にも、自分は野球部だったと話しています。
中学でアメカジに夢中、友人と渋谷・代々木のフリーマーケットへ
お笑いとは別に、中学生のころから長く続いているものがアメリカンカジュアル、いわゆるアメカジへの興味です。
1995年ごろ、ファッション雑誌を開くと所ジョージさんや浜田雅功さん、木村拓哉さんらがアメカジを着こなしており、亘さんもそのスタイルに引かれていきました。
ただし、中学生が高価なヴィンテージ品を簡単に買えるわけではありません。
友人たちと日曜日に渋谷や代々木公園周辺のフリーマーケットをはしごし、途中の古着店に寄って何十万円もする服の値札を見ながら盛り上がっていたといいます。
中学3年ごろに始まったアメカジ好きはその後も途切れず、40代になった現在まで続いています。
工業高校から航空自衛隊へ|ジムで会った自衛官が進路の入口に
高校へ進んでも野球を続けていましたが、卒業後に何をしたいかはまだ固まっていませんでした。
工業高校へ通っていたため、本人は当初、卒業後は工場などへ就職して働くのだろうと漠然と考えていました。
高校でも野球を続け、不況を見て「公務員」を意識
高校時代にはアルバイトもしており、自分で稼いだお金を使って身体を鍛えるためのジムへ通っていました。
そこで偶然知り合ったのが、海上自衛隊で働いていた自衛官でした。
自衛隊は厳しいという印象を持っていた亘さんに、その自衛官は最初の訓練を終えればさまざまな職種があり、デスクワークなどの仕事もあると説明したそうです。
ちょうど世の中は不況が続き、大きな会社でさえ経営が行き詰まるニュースが流れていた時期でした。
小さな工場へ就職した後で会社そのものがなくなる可能性を考えた亘さんは、安定した公務員という進路を現実的に考えるようになります。
海上自衛隊を希望するも航空自衛隊へ
地元の横浜は横須賀にも近かったため、最初に希望したのは海上自衛隊でした。
横須賀の基地なら地元の近くで働けるという考えもありましたが、海上自衛隊の枠には入れず、「航空自衛隊なら枠がある」と案内されます。
ぎりぎりまで迷ったものの、就職せずに過ごすよりはやってみようと決め、航空自衛隊へ進みました。
入隊後は埼玉県にある教育隊で約3か月間、自衛官としての基礎を学びます。
入る前には事務系の仕事もあると聞いていましたが、教育を受けるうちに「せっかく航空自衛隊へ入ったのだから飛行機に触りたい」と思うようになり、第1希望には航空整備員を書きました。
希望職種には武器弾薬整備員も書いており、最終的にはそちらへ配属されることになります。
青森・三沢で武器弾薬整備員として5年間勤務
配属先は青森県三沢市でした。
担当した武器弾薬整備員は、戦闘機に搭載するミサイルや機関砲、爆弾など、訓練で使う武器に関する準備や整備を行う仕事です。
訓練計画に合わせて弾薬を準備したり、訓練用のものを戦闘機へ搭載したりする役割を担っていました。
航空自衛隊には2任期、合計5年間在籍しています。
高校卒業時には工場勤務も考えていた青年が、横浜を離れ、三沢で戦闘機に関わる仕事をする生活へ入っていました。
自衛隊を続けるか迷う中、幼なじみの一言で芸人を目指す
航空自衛隊での生活が3年目を迎えるころ、最初の任期を終えてそのまま勤務を続けるかどうかを考える時期がやってきました。
このタイミングで、亘さんの進路を予想外の方向へ動かした人物が現れます。
小学校時代からの友人フナコシに「お笑い」を誘われる
声をかけたのは、小学校時代から知っていた地元の友人フナコシさんでした。
「亘、お笑いやんねえか」
Rooftop「2SEE MORE」
当時の亘さんは、自衛隊をこのまま続けるのか迷っていた時期でもありました。
以前、別の友人から似た誘いを受けたときには断っていたものの、フナコシさんから誘われた場合には「やってもいい」とどこかで思っていたそうです。
すぐに自衛隊を辞めたわけではなく、亘さんの任期と、大学生だったフナコシさんの卒業時期を合わせ、約1年半後に一緒に始めるという話になりました。
1年半待った友人は就職、亘健太郎は一人でNSCへ
ところが、その約1年半の間に状況が変わります。
フナコシさんが就職活動を行い、伊藤忠商事への就職を決めたのです。
お笑いへ誘った側が会社員になることになりましたが、待っている間に亘さん自身の気持ちは芸人へ向かっていました。
もともとはNSCという養成所があることさえ知らず、フナコシさんから教えてもらっていたほどでしたが、ここで元の進路へ戻ることはしませんでした。
芸人へ誘った友人は就職し、誘われた亘さんだけが一人でNSCへ入ることになりました。
「ひとまず1人でNSCに飛び込んでいったんです。」
CHANTO WEB
2004年、亘さんはNSC東京校10期へ入学しました。
吉本興業の公式プロフィールでも、亘さんと後の相方・村上健志さんはともに2004年のNSC東京校10期生とされています。
自衛隊には「大工になる」と伝えるもNSCのテレビ取材で発覚
航空自衛隊を辞める際には、周囲へ「お笑い芸人になります」とはなかなか言えなかったそうです。
そこで友人から建設会社の名刺を用意してもらい、自衛隊の人たちには別の進路を説明しました。
「大工になります」
Rooftop「2SEE MORE」
ところがNSCへ入ったあと、テレビ番組の密着取材で「以前は何をしていたのか」と聞かれ、元自衛官だったことを話します。
その映像が青森でも放送され、三沢時代の仲間たちから「あれは亘ではないか」と気づかれてしまいました。
芸人としてテレビで知られるより前に、NSCの取材によって元同僚へ芸人転身が知られるという出来事が起きていたのです。
NSC東京10期で村上健志と出会い、フルーツポンチ結成へ
一人でNSCへ入った亘さんにとって、ここでの出会いがその後20年以上続く芸人人生を形づくることになります。
同じNSC東京10期にいたのが、後にフルーツポンチの相方となる村上健志さんでした。
ともに一人で残り、村上健志のコント練習に参加
2人は最初からフルーツポンチとしてNSCへ入ったわけではなく、それぞれ一人で養成所へ通っていました。
後年紹介された結成時のエピソードでは、村上さんが自分で作ったコントを試すため、仲のよかった亘さんへ練習相手を頼んだことが始まりだったとされています。
2人でそのコントをNSCの授業で披露すると反応がよく、選抜クラスへ入ることになりました。
その後も同じ2人で練習する時間が続いていきます。
授業で好反応、正式な結成宣言をしないままコンビへ
特徴的なのは、どちらかが改まって「コンビを組もう」と申し込んだ形ではなかったことです。
村上さんが作ったコントを亘さんが一緒に演じ、その組み合わせがそのまま続いていきました。
芸人になるきっかけと同じように、コンビ結成も大げさな決断の場面ではなく、目の前の出来事が続いた先にありました。
「フルーツポンチ」という名前も、村上さんが当時その言葉の響きを気に入っており、仮のようにつけた名前が残ったと紹介されています。
2005年4月にフルーツポンチ結成、村上がネタ作りを担当
吉本興業とM-1グランプリの公式記録では、フルーツポンチの結成は2005年4月です。
2004年はNSC東京校へ入った年なので、「NSC入学」と「コンビ結成」は別の時期になります。
NSC入学から約1年後、亘健太郎さんと村上健志さんはフルーツポンチとして活動を始めました。
ネタ作りでは村上さんが中心となり、亘さんがそのコントやネタを一緒に形にしていく関係が続きます。
芸歴3〜4年でテレビへ|『爆笑レッドカーペット』が大きな岐路に
フルーツポンチは結成後、長い年月を経てようやくテレビへたどり着いたコンビではありませんでした。
亘さん自身も2017年のインタビューで、芸歴3〜4年目ごろからテレビに出始めたと話しています。
自衛隊時代の貯金もあり、典型的な極貧下積みではなかった
若手芸人時代には収入が少なく、一時的に実家へ戻ったこともありましたが、航空自衛隊で働いていたころの貯金も残っていました。
借金を重ねながら長期間アルバイトだけで生活したというタイプではなく、本人も後年、自分にはいわゆる極端な貧乏時代のエピソードはあまりないと振り返っています。
芸人になる前に5年間会社員に近い形で収入を得ていたことも、NSCへ入ったばかりの時期の生活を支えていました。
『爆笑レッドカーペット』のオーディションを境に知名度上昇
テレビへの大きな入口となったのが、フジテレビ系のネタ番組『爆笑レッドカーペット』でした。
2026年にABEMAの密着企画でコンビの歩みを振り返った際、亘さんはオーディションについてこう話しています。
「『爆笑レッドカーペット』のオーディションに行ったのが一番の岐路だった」
ENCOUNT
村上さんも同じ場面を、初めてテレビのオーディションに受かった出来事として記憶していました。
2人がそろって大きな思い出として挙げた『爆笑レッドカーペット』のオーディションが、テレビで知られる転機になりました。
2009年『ピラメキーノ』MCへ、同じ年に結婚
『爆笑レッドカーペット』への出演で知名度が上がると、2009年にはテレビ東京系の子ども向けバラエティ『ピラメキーノ』で、はんにゃとともにMCを務めることになります。
それまで想像していなかったような仕事が次々と入り、街で声をかけられる機会も増えていきました。
亘さんは後年、うれしさの一方で、自分の力量に対する不安や緊張も抱えながら仕事をこなしていたと明かしています。
航空自衛隊を辞めてNSCへ入ってから数年で、全国放送の人気番組を担当する生活へ変わりました。
私生活では同じ2009年5月、約3年前から交際していた一般女性と結婚しています。
ブレイク後に家族を持ち、仕事とコンビの関係も変化
テレビの仕事が急激に増えたころ、亘さんには家族ができ、村上さんとの関係にも少しずつ変化が生まれていました。
表から見える仕事量が増える一方、コンビの中ではネタ作りをめぐる負担の感じ方に差が出ていきます。
忙しさの中で村上健志との距離が広がる
2026年のABEMA密着企画で、村上さんは多忙だった時期、ネタを書いている自分と亘さんを比べ、不満を相方へぶつけていたことを振り返っています。
村上さん自身、後になって当時は亘さんへ嫌なことを言ってしまったと語りました。
亘さんの説明では、大きな一度のけんかで関係が変わったというより、村上さんのストレスが積み重なり、少しずつ距離が離れていった感覚だったそうです。
「ケンカするというよりは、どんどん距離が離れていくっていう感じですね」
ENCOUNT
それでもコンビを解散することなく、フルーツポンチとしての活動は続いていきました。
2011年に長男が誕生、2014年には予備自衛官へ
2011年10月には、第1子となる長男が誕生しました。
「待ちに待ったせがれとようやく対面する事ができました。」
ORICON NEWS
父親になった後は、お金を使うときにも「家族のため」という意識が強くなったと本人が話しています。
そして2014年には、かつて5年間勤務していた自衛隊との縁が別の形で戻ります。
予備自衛官となり、その後も活動を継続しており、現在の吉本興業公式プロフィールにも予備自衛官であることが記載されています。
芸人になるために一度離れた自衛隊との関係も、芸人活動を続けながら再び持つようになりました。
『ピラメキーノ』終了後に仕事が減り、2016年には長女が誕生
長く続いた『ピラメキーノ』は2015年に終了し、亘さんを取り巻く仕事の状況も少しずつ変わっていきました。
テレビで頻繁に見かけた時期と比べると仕事は減り、収入にも変化が出るようになります。
翌2016年1月には第2子となる長女が誕生し、2児の父親になりました。
テレビの仕事が減っていく一方で、家族の生活を支える立場は変わりませんでした。
仕事減少とコロナ禍を経て建設現場へ|現在は電気工事士との二足のわらじ
『ピラメキーノ』終了後も芸人活動は続けていましたが、2020年に新型コロナウイルスの感染拡大が始まると、状況はさらに大きく変わりました。
舞台やイベントなどの仕事が減り、2026年のABEMA密着企画では、かつて最高で月180万円ほどあった収入が、少ない時期には月8万円ほどまで落ちたことを明かしています。
2020年ごろ、知人の工務店で大工仕事を始める
仕事がほとんどない状況になり、亘さんは妻へアルバイトを始めることを伝えます。
生活が難しくなるなら芸人を辞め、別の仕事で家族を支えることも考えていました。
そんな2020年ごろ、以前から知っていた人物が関わる建設会社から、現場で働かないかと声をかけられます。
工業高校に通っていた亘さんは、学生時代にブロック塀を積むアルバイトをした経験もあり、まったく知らない世界へ飛び込んだわけではありませんでした。
千葉県の現場へ入り、週の大半を現地で過ごして働く時期もあり、当時の日当は約1万3000円だったと話しています。
自衛隊を辞めるときに周囲へ「大工になる」と説明した亘さんは、それから十数年後、本当に建設現場で大工仕事をすることになりました。
工業高校時代の経験を思い出し、第二種電気工事士を取得
建設現場で働くうち、亘さんはこの先も仕事として続けられる資格を持つことを考え始めました。
そこで選んだのが、国家資格の第二種電気工事士です。
工業高校時代から電気工事士という資格の存在は知っており、筆記と実技の勉強を進めました。
「一発で合格できました。」
CHANTO WEB
実技試験は制限時間ぎりぎりまで作業する展開だったものの、無事に資格を取得しました。
高校を卒業して20年以上が過ぎた後、工業高校時代から知っていた資格が実際に家族の生活を支える仕事へ変わりました。
芸人以外の仕事を本格的に始めることには、本人の中で迷いもありました。
そのとき思い出したのが、2012〜2013年ごろに舞台で共演し、食事へ行った際に間寛平さんから聞いた言葉でした。
「芸人は『何してんねん!』でええねん。」
CHANTO WEB
ネタだけではなく、自分がやっていることそのものが「何してんねん」と笑いにつながるという考え方を知り、電気工事の仕事を持つことへの見方も変わっていきました。
芸人・電気工事・予備自衛官、アメカジ活動を続ける現在
2026年のABEMAによる密着では、亘さんが東京都内のビルで照明をLEDへ交換するなど、実際に電気工事の現場へ立つ様子が紹介されました。
現在もフルーツポンチとして活動する一方、月の半分ほどを電気工事の仕事に充てる生活を続けています。
吉本興業の公式プロフィールにも、亘さんの実績として「予備自衛官」、資格として「第二種電気工事士」が掲載されています。
中学生のころに始まったアメカジ好きも続いており、吉本興業のプロフィールからは、アメカジを扱うYouTube「アメカジボーイズ」へも案内されています。
村上さんとのフルーツポンチも2005年4月の結成から20年以上が経ち、2026年には結成21年目としてABEMAの密着企画に2人で出演しました。
航空自衛隊を辞めて芸人になった亘さんは、芸人を続けたまま、電気工事士と予備自衛官という別の仕事や役割も持つ現在へたどり着いています。
横浜で野球とアメカジに親しんだ学生時代を経て、卒業後は航空自衛隊で5年間を過ごしました。
幼なじみからお笑いへ誘われたことで自衛隊を離れ、結果的には一人でNSCへ入り、そこで村上健志さんと出会ってフルーツポンチを結成しました。
テレビの仕事が大きく増えた時期と減った時期の両方を経験した現在も、フルーツポンチとして舞台に立ちながら、電気工事の現場でも仕事を続けています。











コメントを残す