ロバート山本博の生い立ち|フォークリフト就職内定から芸人へ、ロバート結成とボクシングまで

人物プロフィール

本名
山本博
生年月日
1978年9月5日
身長
177cm
血液型
A型
出身地
群馬県 邑楽町
コンビ・グループ名
ロバート
相方・メンバー
秋山竜次、馬場裕之
結成年
1998年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
1998年
養成所・スクール
NSC東京校 4期

ロバートのコントで、秋山竜次さんと馬場裕之さんが作り出す独特な世界に「なんだぁ~?」と反応する山本博さん。

芸人として活動する一方、ボクシングではプロライセンス取得から実戦まで経験し、現在は試合運営に携わるJBCインスペクター、YouTubeではゲーム配信と、テレビの外にも活動を広げています。

ところが、高校卒業を控えたころの山本さんは、子どものころから芸人を目指していたわけではありません。

卒業後はフォークリフト運転手として働くことが決まっており、お笑いの道へ進んだのは同級生から突然誘われたことがきっかけでした。

しかも、東京へ一緒に出たその友人はNSCに入って間もなく辞め、山本さんだけがお笑いの世界に残ることになります。

群馬県邑楽町でどんな子ども時代を送り、なぜ決まっていた就職をやめ、秋山さん・馬場さんとロバートを結成することになったのか。その時間を幼少期からたどります。

山本博の生い立ちと家族|群馬県邑楽町で育った子ども時代

山本さんが育ったのは、群馬県南東部にある邑楽町です。

後に故郷について語った際には、田んぼに入り、オタマジャクシを追いかけて遊んでいた少年時代を振り返っています。

田んぼでオタマジャクシを追い、鳥好きの父のもとで育つ

現在の邑楽町は平坦な土地に田畑が広がる地域で、子どもの山本さんにとって田んぼやその周辺は身近な遊び場でした。

本人は故郷での記憶について、田んぼでオタマジャクシを追いかけながら育ったと語っています。

家に帰れば、そこにも少し変わった光景がありました。

父親はかなりの鳥好きで、一時期はニワトリを30羽ほど飼い、その後はインコを50羽ほど飼っていたと山本さんは明かしています。

ただ数を飼っていたのではなく、父親は状態の良い鳥を選び、品評会のような場にも出していました。

山本さんが小さいころには軍鶏も飼われており、子どもの山本さんにとっては近づくのも怖い存在だったそうです。

日曜日になると父親が軍鶏の勝敗を記録している姿も目にしていました。

テレビの中のお笑いより前に山本さんの記憶に残っているのは、こうした田んぼや鳥に囲まれた邑楽町での日常でした。

父から「ペロ」と呼ばれ、兄・誠と育った山本家

山本家には父と母、そして山本さんより年上の兄・誠さんがいました。

家庭で特徴的だったのが、父親が山本さんを呼ぶときの愛称です。

幼いころ、カレーを勢いよく食べる様子から、父親は山本さんを「ちびペロ」と呼ぶようになりました。

ところが中学生になると、「ちび」と呼ばれることが気になり始めます。

そこで父親に「ちび」を外してほしいと伝えたところ、呼び名はそのまま「ペロ」になりました。

大人になってからも父親からは「ペロ」と呼ばれており、本人がSNSなどで使う「ペロ兄」という呼び名にもつながっています。

後にロバートで奇妙な設定のコントに巻き込まれていく山本さんですが、家ではずっと「博」ではなく「ペロ」と呼ばれていたことになります。

小学3年で幼なじみが転校した忘れられない別れ

小学生時代には、近所に「やすしくん」という仲の良い幼なじみがいました。

小学3年生までよく一緒に遊んでいましたが、やすしくんは父親の仕事の都合で突然転校することになります。

山本さんの記憶に残ったのは、盛大な別れの場面ではありません。

きちんと別れを言えないまま友人がいなくなってしまったことが、長く心に残りました。

後年、映画『ちびまる子ちゃん 大野君と杉山君』を見た際、友人との別れが自分の記憶と重なり、強く感情を揺さぶられたと書いています。

大人になってから昔を語る山本さんの話には、有名になってからの出来事だけでなく、こうした子どものころの小さな記憶もたびたび登場します。

学生時代|足利工大付属高校で考えていたのは寿司職人かフォークリフト運転手

中学を卒業すると、山本さんは群馬県内ではなく、県境を越えて栃木県足利市の高校へ進みました。

このころも、将来の選択肢に「お笑い芸人」は入っていませんでした。

群馬から県境を越え、足利の高校へ通った学生時代

母校は、現在の足利大学附属高等学校です。

山本さんが通っていた当時は足利工業大学附属高等学校という校名でした。

学校は栃木県足利市にありますが、山本さんの実家がある邑楽町からは県境を越えて隣接する地域で、自転車でも行けるほどの距離だったと本人が振り返っています。

2021年には母校の創立60周年を機に学校を訪れ、高校時代を振り返る機会もありました。

そこで改めて語っているのが、自分からお笑いを始めようと考えた高校生ではなかったということです。

卒業が近づくまで、山本さんが考えていたのは地元で現実的に働く進路でした。

回転寿司で働きながら、卒業後はフォークリフト運転手に内定

山本さんが若いころに憧れていた仕事の一つが寿司職人でした。

高校時代には実際に回転寿司店でアルバイトをしています。

もう一つ興味を持っていたのが、フォークリフトを運転する仕事でした。

きっかけは子どものころ、地元の駅から見える工場でフォークリフトが動いている姿を目にしたことだったといいます。

荷物を運びながら機敏に動く車両が印象に残り、やがて「自分も乗って仕事をしたい」と考えるようになりました。

高校卒業を迎えるころには、その希望はかなり具体的になっていました。

フォークリフト運転手として働く就職先がすでに決まっていたからです。

そのまま卒業すれば、山本さんは地元近くで働き始めるはずでした。

芸人になったきっかけ|就職直前に同級生の一言で進路が変わる

高校生活も残りわずかになったころ、それまで考えていなかった選択肢を持ち込んだのが同級生でした。

山本さんが自分で養成所を調べていたわけでも、テレビを見ながら芸人になると決めていたわけでもありません。

「25歳からでもフォークリフトはできる」と誘われ、お笑いを選ぶ

卒業直前、友人から突然「お笑いをやろう」と誘われました。

山本さんには就職先があります。

一方の友人は、18歳の今だからこそ東京へ出て挑戦できると考えていました。

「東京に出てお笑いをやるのは18の今しかできないよ」

mamagirl

フォークリフトの仕事なら25歳になってからでも挑戦できるという友人の言葉を聞き、山本さんの進路は急に揺れ始めます。

本人はそれまで東京に住むことさえ考えたことがありませんでした。

就職が決まっていた18歳の卒業直前に、友人から誘われたことが芸人になる直接のきっかけでした。

自分一人で何年も温めてきた夢ではなく、友人に押される形で初めて「東京でお笑いをする」という道が現れたのです。

卒業式後に父へ告白し、ビンタ一発のあと東京行きを認められる

進路を変えると決めても、すぐに父親へ話せたわけではありませんでした。

山本さんにとって父親は厳しい存在で、高校の卒業式を迎えても芸人になることをまだ伝えられずにいました。

そこで最初に話したのは母親でした。

母親から「お父さんにも自分で言いなさい」と促され、眠っていた父親を起こして東京へ行きたいと伝えます。

意外にも父親は、その場では山本さんの話を受け入れました。

ところが約5分後、再び山本さんのところへやって来ます。

父親は一度だけ殴らせてほしいという趣旨のことを伝え、山本さんの頬を平手で打ちました。

その一発のあと、父親は東京行きを止め続けることはしませんでした。

一方で山本さんは家族と、25歳までにテレビへ出られなければ諦めるという区切りも決めています。

就職内定を断り、地元を離れることになりました。

NSCの締切に間に合わず、八王子で1年間アルバイト

友人と東京へ出た山本さんですが、すぐNSC生活が始まったわけではありません。

卒業間際に進路を決めたため、その年のNSCの願書締切には間に合いませんでした。

翌年の入学まで、東京で1年間生活しながら資金を作る必要があります。

最初は渋谷や下北沢なども考えましたが、18歳の2人には家賃が高く、選んだのは八王子でした。

家賃を抑えられる場所で友人と生活しながらアルバイトを続け、翌年のNSC入学費用を貯めていきます。

高校を卒業してそのまま養成所へ入ったようにも見える経歴ですが、その間には東京で働きながら入学を待った約1年間がありました。

1998年、山本さんはようやく東京NSC4期としてお笑いの世界へ入ります。

東京NSC4期|誘ってくれた友人が辞め、ロバート結成へ

東京NSC4期には、後にインパルスとなる板倉俊之さん・堤下敦さん、森三中、椿鬼奴さん、POISON GIRL BANDらがいました。

山本さんにとって最初の問題は、ネタ以前に「誰と活動するか」でした。

相方が早々に退所し、組む相手を替えながらNSCを続ける

山本さんを群馬から東京へ誘った友人も一緒にNSCへ入りました。

ところが、その友人は入学してほどなくNSCを辞めてしまいます。

「一緒にお笑いをやろう」と誘った友人がいなくなり、山本さんだけがNSCに残る形になりました。

相方を失っても、その時点で地元へ戻ることは選びませんでした。

NSCを続けるため、山本さんは周囲の生徒へ自分から声を掛け、組む相手を替えながらネタを作っていきます。

後年の番組では、最初に組んだ相手が約2か月で退所したことや、その後も何人もの生徒と組んだことが紹介されています。

一緒に東京へ来た友人とのコンビがそのままプロになったわけではなく、山本さんの相方探しはNSCの中で振り出しに戻っていました。

板倉俊之が抜けた秋山竜次・馬場裕之のトリオに加わる

同じころ、秋山竜次さんと馬場裕之さんもNSCで活動していました。

秋山さんと馬場さんは福岡県北九州市から一緒に上京した幼なじみで、当初は2人で組み、そこへ板倉俊之さんが加わって3人でネタをしていました。

板倉さんはツッコミ役として参加していましたが、自分もボケをやりたいという思いから離れることになります。

板倉さんはその後、堤下敦さんとインパルスを結成しました。

ちょうどその時期、相方を固定できずにいた山本さんが秋山さん・馬場さんの側へ入ります。

山本さん自身は後年、板倉さんが先にいたことから、自分は感覚的には「4人目のロバート」のような立場だったと振り返っています。

一度だけ試したネタがウケ、1998年にロバートを結成

山本さんが加わった時点で、3人が長く組むと決まっていたわけではありませんでした。

秋山さんにとっても、まずは一度ネタをやってみるという感覚だったといいます。

「1回だけのつもりだったのが(ネタ見せで)ウケた」

めざましmedia

試しに3人でやったネタがネタ見せで受けたことから、秋山さん・馬場さん・山本さんの3人で活動する形が固まりました。

こうして1998年、現在のロバートが結成されます。

ロバートは漫才ではなくコントを中心に活動し、秋山さんと馬場さんが奇妙な人物や世界を作り、そこへ山本さんが反応する形を育てていきました。

後年、秋山さんはネタのアイデアができると、まず山本さんへ見せて反応を確かめると明かしています。

「そのアイデアをまず(山本)博にぶつけて反応を見ますね」

ORICON NEWS

山本さんが面白がれるかどうかが、秋山さんにとって観客へ届くかを測る一つの目安になっていました。

やがて「なんだぁ~?」や「むり~」といった反応も、ロバートのコントを知る人にはおなじみのものになっていきます。

若手時代|相模原から通い、『新しい波8』の特例オーディションをつかむ

ロバートを結成しても、すぐテレビ中心の生活になったわけではありません。

山本さんは東京郊外から都心へ通い、劇場や若手向けの仕事へ向かう生活を続けていました。

新宿まで1時間半以上、終電後はフジテレビで始発を待った

八王子で暮らした後、山本さんは相模原へ移りました。

相模原から新宿までは、当時1時間半以上かけて通っていたと振り返っています。

若手芸人の仕事は毎日同じ時間に終わるわけではありません。

後に『はねるのトびら』へ出演するようになると、収録が深夜まで続くこともありました。

同じ神奈川方面に住んでいたドランクドラゴンの鈴木拓さんと時間が合えば、車で途中まで一緒に帰ることもありました。

帰る手段がなくなれば、フジテレビの仮眠できる場所で寝て始発を待ちます。

テレビに出始めたあとも、相模原までの長い移動と始発待ちがある生活が続いていました。

集合場所を勘違いしてタクシーで移動した際には、片道だけで2万円を超えたこともあったと本人は書いています。

芸歴1年目ながらマネージャーの直談判で『新しい波8』へ

ロバートのテレビ進出で重要だったのが、フジテレビの若手発掘番組『新しい波8』でした。

ところが当時のオーディションには、「芸歴2年目以上」という条件が設けられていたと山本さんは振り返っています。

ロバートはまだ芸歴1年目だったため、本来なら対象外でした。

同じ東京NSC4期のインパルスや森三中らも同じ状況です。

そこで若手を担当していたマネージャーが制作側へ掛け合い、1年目の数組も見てもらえるよう直談判しました。

その結果、ロバート、インパルス、森三中などが特例でオーディションへ参加できることになります。

応募条件の外にいたロバートに、マネージャーの働きかけでテレビへの入口が開きました。

ここから、3人の仕事はそれまでとは違う方向へ動き始めます。

2001年『はねるのトびら』がテレビで知られる大きな転機になる

『新しい波8』に出演した若手たちの中から始まったのが、2001年スタートの『はねるのトびら』でした。

ロバートのほか、キングコング、ドランクドラゴン、インパルス、北陽らが出演し、深夜枠から始まった番組はその後長く続きます。

ロバートにとっては、全国の視聴者に3人の顔と関係性を知ってもらう大きな機会になりました。

秋山さんと馬場さんが独特なキャラクターへ入り込み、その横で山本さんが戸惑いながら受け止める形も、テレビを通じて広く知られていきます。

高校卒業時に家族と決めた「25歳までにテレビへ」という区切りより前に、山本さんは全国放送のレギュラー番組へ出演するところまで来ていました。

『はねるのトびら』期に始めたボクシング|趣味からプロテストへ

テレビや劇場の仕事が続くようになる中で、山本さんはお笑いとは別に長く続く活動を始めました。

それがボクシングです。

本格的に練習を重ね、プロテストに挑戦

ボクシングを始めた当初から、プロ選手になることが目的だったわけではありません。

芸人になって運動する機会が減り、体を動かすために何か始めようと考えたのが入口でした。

芸人仲間との野球やフットサルも試しましたが、仕事が直前に決まる若手芸人の生活では、複数人の予定を合わせる競技は続けにくいという問題がありました。

一方、ボクシングジムなら一人で行けます。

劇場の出番と出番の間に2時間ほど空けば、その時間にも練習できました。

ジムへ通ううちにパンチを評価され、単なる運動から本格的な練習へ変わっていきます。

仕事の合間に一人でも通えるという理由で始めたボクシングが、やがてプロライセンスを目指すところまで進みました。

一度の不合格を経て2008年にプロテストへ合格

山本さんはプロボクサーの資格取得を目指し、プロテストに挑戦します。

最初の挑戦では合格できませんでした。

それでも練習を続け、2008年に再びプロテストを受験します。

2度目の挑戦でプロテストに合格し、フェザー級のプロボクサーとしてリングへ上がれる資格を手にしました。

ただし、資格を取った直後に公式戦へ出場したわけではありません。

芸人としてロバートの活動を続けながら、ボクシングとの関わりも途切れずに続いていきます。

キングオブコント2011|「忍者ショー」でコント日本一へ

テレビで知られるようになった後も、ロバートにとってコントは活動の中心にありました。

2008年にコント日本一を決めるキングオブコントが始まると、ロバートも初回大会から参加します。

2008年決勝、2009年準決勝、2010年不出場を経て再挑戦

ロバートは漫才よりコントを中心に活動していたため、キングオブコントは自分たちの芸風と直接重なる大会でした。

第1回の2008年大会では決勝へ進み、吉本興業の公式プロフィールでは第3位と記録されています。

翌2009年は準決勝まで進みました。

2010年は、決勝で勝負できるほどネタを仕上げられていないと判断し、出場を見送ったと山本さんは振り返っています。

毎年出場して結果だけを積み重ねていたのではなく、ロバートは一度大会から離れました。

そして2011年、再びキングオブコントへ挑戦します。

決勝直前のルミネでは「忍者ショー」が思うようにウケなかった

2011年の勝負ネタの一つが、忍者を題材にした「忍者ショー」でした。

本番へ向けて何度も劇場で掛け、3人はネタを調整していきます。

ところが決勝の数日前、ルミネtheよしもとで「忍者ショー」を披露した際、期待していたほど客席の反応を得られませんでした。

本番直前まで試してきたネタが受けないとなれば、別のネタへ変更する選択肢もあります。

それでも3人は「忍者ショー」で決勝へ向かいました。

「これでウケなかったらもうしょうがないよ」

mamagirl

直前の劇場で手応えが弱くても、何度も作り込んできたネタを変えずに決勝へ持ち込みました。

秋山のネタを信じて決勝へ進み、ロバートが優勝

2011年9月23日の決勝で、ロバートは2本のコントを披露しました。

1stステージで942点、2ndステージでも934点を獲得し、合計点でトップに立ちます。

ロバートはキングオブコント2011で優勝し、結成13年目にコント日本一となりました。

ただし、ここを「初めて売れた瞬間」とするのは山本さんたちの歩みとは少し異なります。

『新しい波8』や『はねるのトびら』を通じて3人はすでに全国に知られており、キングオブコントは長く続けてきたコントそのもので大きな結果を残した転機でした。

山本さんにとっても、秋山さんが作る世界を受け止める役割を10年以上続けた先にあった優勝でした。

2014年のプロデビューから、ゲーム配信・ボクシングの裏方へ

キングオブコント優勝後、山本さんの活動はテレビ出演を増やすだけでは終わりませんでした。

若いころから続けてきた趣味が、少しずつ仕事や資格と結びついていきます。

プロデビュー戦を4回TKOで勝利し、戦績は1戦1勝1KO

2008年にプロテストへ合格してから6年後の2014年、山本さんはついに公式戦へ出場しました。

11月26日、会場はプロボクシングの興行で知られる後楽園ホールです。

フェザー級4回戦で、高橋陸選手と対戦しました。

序盤から一方的に進んだ試合ではなく、1回には左フックを受けて足元が揺れ、2回にもパンチを受けて左目が腫れる場面がありました。

それでも3回からボディーへのパンチを効かせ、4回に攻勢を強めます。

最後は右ストレートなどで相手を追い込み、レフェリーが試合を止めました。

デビュー戦は4回1分11秒TKO勝ちで、吉本興業の公式プロフィールに残るプロ戦績は1戦1勝1KOです。

芸人が番組企画でプロテストを受けただけではなく、実際に公式戦のリングへ上がり、1試合を戦った経歴が残りました。

ポケモン好きから2019年にゲームチャンネルを開設

もう一つ、山本さんが長く関わってきたのがポケットモンスターです。

『ポケモン☆サンデー』『ポケモンスマッシュ!』などのテレビ番組に出演し、劇場版への声の出演やイベントの司会など、ゲーム実況を始める以前からポケモンとの仕事が続いていました。

2019年11月には、自身のYouTubeチャンネル「ロバート山本ひろしのゲームチャンネル」を開設します。

スタート時には『ポケットモンスター ソード・シールド』をプレーし、その後もポケモンを中心にさまざまなゲームの実況やライブ配信を続けてきました。

テレビのポケモン番組へ出演していた時期から続く興味が、自分自身で長時間ゲームを配信する活動へ移っていきました。

2026年にも公式チャンネルではポケモンをはじめとするゲームのライブ配信が続いています。

トレーナー資格を経て、2024年にJBCインスペクターへ

プロの試合を1戦経験した後も、山本さんとボクシングの関係は続きました。

選手として試合へ出続けるのではなく、今度はトレーナーライセンスも取得しています。

さらに後楽園ホールへ頻繁に足を運ぶ中で、試合の裏側を支えるスタッフの仕事にも関心を持つようになりました。

会場へよく来る山本さんに、関係者から運営を手伝ってみないかという話があり、実際の仕事を目にしたことから資格取得へ進みます。

2024年2月、山本さんは日本ボクシングコミッション(JBC)のインスペクターライセンスを取得したことを公表しました。

インスペクターは選手としてリングに上がる仕事ではなく、計量、グローブ、バンデージ、試合進行、ドーピング検査など、興行を安全に進めるための確認に関わります。

「インスペクターっていうのは試合進行です」

日刊スポーツ

2024年5月6日に東京ドームで行われた井上尚弥選手とルイス・ネリ選手の世界タイトル戦でも、山本さんはリングサイドでインスペクターとして仕事をしていました。

テレビ中継に姿が映ったことで注目されましたが、その時だけ手伝ったわけではなく、すでに複数の世界戦で業務を経験していました。

運動不足解消のために始めたボクシングは、プロテスト、公式戦、トレーナー資格を経て、試合を運営する側の仕事まで続いています。

現在もロバートの一員として活動を続ける

2026年現在、吉本興業の公式プロフィールにはロバートが1998年結成のトリオとして掲載され、山本博さん、秋山竜次さん、馬場裕之さんの3人がメンバーとして記載されています。

3人それぞれの個人活動が広がる中、山本さんは芸人に加えてゲーム配信やボクシングの現場にも活動の場所を持つようになりました。

高校卒業を控えた18歳のころには、フォークリフトに乗って働く予定でした。

そこから友人の誘いで東京へ出て、誘った友人が辞めた後もNSCに残り、秋山さんと馬場さんの間へ入ったことでロバートの山本博さんが始まりました。

そして今も、コントで培った芸人人生と、途中から始めたゲームやボクシングの時間が、それぞれ山本さんの現在の仕事として続いています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA