人物プロフィール
空気階段のコントでは、細身の体に眼鏡という姿で、鈴木もぐらさんが演じる強烈な人物を受け止めたり、自身も奇妙な人物へ変わったりする水川かたまりさん。
2021年には空気階段としてキングオブコントを制し、その後は俳優や脚本の仕事にも活動を広げています。
ところが、お笑い芸人になるまでをたどると、子どものころから人前でネタを披露していたタイプではなく、岡山でサッカーと勉強に打ち込み、慶應義塾大学法学部へ進学した学生でした。
大学へ入って数か月後には学校へ行かなくなり、その後の約1年半でラジオやお笑いDVDにのめり込みます。
大学から離れていた時間の中で、それまで進路の候補になかった「お笑い芸人」が現実の選択肢になっていきました。
そこからNSCへ入り、別のコンビでの活動を経て、ほとんど話したことのなかった鈴木もぐらさんから声をかけられ、現在の空気階段が生まれます。
水川かたまりの生い立ちと家族|岡山で育った子ども時代
水川かたまりさんは1990年7月22日、岡山県岡山市で生まれました。
芸名では「水川かたまり」と名乗っていますが、本名は水川航太です。
映画『死に損なった男』の公式サイトでは、両親が「この世界を太く逞しく航海してほしい」という思いを込めて「航太」と名付けたことを本人が明かしています。
父は遊び相手、母は教育を担った家庭で妹と育つ
岡山での家庭について、水川さんは父親がよく遊び相手になってくれ、母親は教育熱心だったと振り返っています。
妹がおり、2022年に岡山の家族を訪ねたABEMAの番組では、母親や妹へ家電を贈る姿も放送されました。
両親の仲については、子どものころに夫婦げんかを見た記憶がないほどだったと本人が語っています。
一方で、家庭ではバラエティ番組を見ることに制限があり、幼いころからテレビのお笑い番組を大量に見て育ったわけではありません。
それでも『ポンキッキーズ』に登場していた爆笑問題の「爆チュー問題」は記憶に残っており、この名前が高校時代になって再び水川さんのお笑いとの接点になります。
小2の授業参観を境に、暴れん坊から勉強する子へ
小学校へ入ったころは、授業中に歩き回ったり、カーテンで遊んだりするほど落ち着きがなく、先生が見やすい最前列の席に座っていたといいます。
その様子が変わったのが、小学2年生の授業参観でした。
普段とは違う教室の雰囲気に興奮し、机の上に立って騒いだため、見に来ていた両親は授業の途中で帰ってしまいました。
「そこから丸一日は母親に無視されましたね」
スタジオパーソル
それ以降は真面目に勉強するようになり、親に勧められて地元のスポーツ少年団にも参加しました。
高学年になるころには学級委員を務めるようになり、小学校へ入ったばかりのころとは学校での立ち位置も変わっていました。
小中学校時代|サッカー選手を夢見た少年時代
小学生の水川さんが考えていた将来の仕事は、お笑い芸人ではありませんでした。
熱中していたのはサッカーで、小学校まではプロのサッカー選手になることを夢見ています。
スポーツ少年団に入り、高学年では学級委員を務める
勉強ができ、スポーツも続けていた水川さんは、小学校高学年になるころには学校でも模範的な立場になっていました。
後年、本人は幼稚園から高校まで通った学校について自身のXで触れており、岡山で学生生活を送っていたことが分かります。
中学ではレギュラーになるも、プロの道を早くに切り替える
中学校でもサッカー部へ入り、レギュラーメンバーに選ばれていました。
しかし部には自分より上手な選手が何人もおり、その姿を見た水川さんは、プロ選手になる道を早い段階で諦めています。
サッカーそのものから離れたわけではなく、試合の戦術を考えることが好きだったため、コーチやサッカー関連メディアの仕事を漠然と考えていました。
中学生の時点では「自分が選手になる」ことより、「どうすれば勝てるかを考える」ほうへ興味が移っています。
高校時代|下から3番目の成績から慶應合格へ
水川さんが進学したのは岡山県立岡山城東高校です。
中学までは「勉強ができる人」という立ち位置でしたが、高校へ進むと、自分より成績のよい生徒が周囲に増えました。
サッカー部の仲間と過ごし、進路指導を機に受験勉強を始める
高校最初のテストでは、学年で下から3番目という結果になりました。
それまで持っていた「自分は勉強ができる」という感覚が崩れ、しばらくは勉強への意欲を失い、サッカー部の仲間と遊ぶ時間が増えていきます。
転機になったのは、高校3年生の進路指導でした。
志望校を伝えたところ、先生から現実的ではないという趣旨の言葉をかけられ、それをきっかけに受験勉強へ本腰を入れました。
「最初のテストの成績は学年で下から3番目」
双葉社 THE CHANGE
そこから猛勉強を続け、現役で慶應義塾大学法学部へ合格しています。
友人に勧められた『爆笑問題カーボーイ』でお笑いにハマる
高校時代には、受験とは別のところでも後の進路につながる出会いがありました。
お笑いに詳しいわけではなかった水川さんは、「好きな芸人は誰か」と聞かれると、子どものころに知っていた爆笑問題の名前を答えていました。
すると、お笑い好きの友人からTBSラジオの深夜番組『爆笑問題カーボーイ』を勧められます。
テレビで見ていた爆笑問題とは違い、2人が長時間話し続けるラジオの空気に惹かれ、水川さんは自分からお笑いへ近づくようになりました。
高校卒業時点ではまだ芸人を目指していませんでしたが、このラジオは大学生活が止まったあとも聴き続けることになります。
岡山城東高校から慶應義塾大学法学部へ
2009年、水川さんは岡山を離れて東京へ移り、慶應義塾大学での生活を始めました。
テレビドラマなどで見ていた東京のキャンパスライフへの憧れもあり、大学へ入るまでは新しい生活を楽しみにしていました。
しかし、実際に始まった大学生活は、入学前に思い描いていたものとは大きく違っていました。
慶應進学後に大学へ行かなくなる|約1年半のお笑い漬けの生活
慶應へ進んだ水川さんは、フットサルサークルの新入生歓迎会にも参加しました。
ところが雰囲気になじめず、ほかのサークルにも入らないまま、大学内で親しい友人を作れずにいました。
サークルになじめず、岡山弁をいじられた翌日から通学をやめる
入学から数か月がたったころ、語学の必修クラスの飲み会に参加した際、岡山弁の語尾「〜じゃが」を同級生からいじられる出来事がありました。
水川さんはその翌日から語学だけではなく、大学の授業そのものへ行かなくなります。
本人は後年、この一件だけが理由だったわけではなく、サークルへ入れなかったことや授業への興味を持てなかったことなどが重なっていたと説明しています。
同じ学部へ進んでいた高校時代の同級生を通じて、大学へ行っていないことはやがて岡山の両親にも伝わりました。
両親からすぐに退学しないよう言われ、水川さんは大学を休学します。
「大学へ行かなくなった時期」と「慶應を正式に退学した時期」は同じではありません。
親に知られて休学し、ラジオ・ゲーム・図書館・お笑いDVDの日々へ
休学後は、深夜までラジオを聴きながらゲームをし、眠って起きると自転車で出かける生活を送っていました。
出かける先の一つが武蔵小杉の図書館で、本を借りて帰宅すると再びラジオを聴きながらゲームをするという日々を繰り返しています。
やがて近所のレンタルショップにも通うようになり、漫才やコントのDVDを毎日のように見るようになりました。
高校時代に知った爆笑問題だけでなく、さまざまな芸人のラジオやネタへ触れるうちに、自分でもお笑いをやってみたいという気持ちが生まれます。
パン食べ放題店のアルバイト先だけが居心地のよい場所になる
大学へ通わなくなっていた時期、水川さんはパン食べ放題のある飲食店で約1年間アルバイトもしていました。
大学では友人を作れなかった一方、アルバイト先では周囲と仲良くなり、本人にとって居心地のよい場所になっていました。
ここで出会った年下のアルバイト仲間の一言が、後になって水川さん自身が「大きかった」と振り返る出来事になります。
水川かたまりが芸人になったきっかけ|NSC東京17期へ
大学を休学した時点で、水川さんに明確な次の進路があったわけではありません。
約1年半のお笑い漬けの生活の中で少しずつ「自分もやってみたい」と思うようになり、いくつかの出来事が重なってNSCへの入学を決めました。
バイト仲間の「お笑いみたい」という一言が背中を押す
2025年の『空気階段の踊り場』で、水川さんは芸人を目指す直前に起きたアルバイト先での出来事を明かしました。
仲の良かった女子高校生のアルバイト仲間から、水川さんは「ちょっと面白いから、お笑いみたい」という趣旨の言葉をかけられたといいます。
ちょうど本人がお笑いへ強くハマっていた時期だったため、その言葉は強く残りました。
後年には、あの一言がなければNSCへ入っていなかったかもしれないほどの出来事だったと振り返っています。
雪の日にTHE BLUE HEARTSを聴き、芸人になると決める
進路を決めるもう一つの場面が、雪の降る日の散歩中にありました。
音楽を聴きながら歩いていると、THE BLUE HEARTSの『未来は僕らの手の中』が流れてきます。
水川さんはこのとき、お笑い芸人になることを決めました。
高校卒業時には存在していなかった「芸人」という進路が、大学へ行かなくなった約1年半を経て、ここで次の行き先になりました。
岡山へ戻り、父親の車で「芸人になりたい」と伝える
芸人になると決めた水川さんは、岡山の実家へ連絡し、「話がある」と伝えて帰省しました。
駅まで迎えに来た父親の車に乗り込み、そこで初めて芸人になりたいと打ち明けています。
両親は芸人になること自体には反対せず、すぐに大学を辞めるのではなく休学しておくよう勧めました。
「これで生きる方向が見つかってやっていってくれるんだったら」
ABEMA TIMES
母親は、約1年半の生活を見たあとだったからこそ、息子が進む方向を見つけたことを受け止めていました。
2011年にNSCへ入り、漫才ではなくコントに絞る
2011年4月、水川さんはNSC東京校17期へ入学しました。
同じ17期には、のちに相方となる鈴木もぐらさんのほか、オズワルドやコットンらがいます。
入学した水川さんは、漫才とコントの両方を続けるのではなく、一つのスタイルへ絞ろうと考えました。
そこで選んだのがコントでした。
本人によれば、漫才よりコントを披露したときのほうがNSCの講師から叱られることが少なかったことも理由の一つでした。
当時は「面白い相方を見つけ、結成3年後にキングオブコントで優勝する」という、自分なりの道筋まで考えていました。
芸人になる入口の時点で、水川さんは漫才ではなくコントを自分の主戦場に選んでいました。
NSC卒業と鈴木もぐらとの出会い|2012年に空気階段を結成
NSC東京17期で同期だった水川さんと鈴木もぐらさんですが、入学してすぐ仲良くなり、そのまま空気階段を組んだわけではありません。
それぞれ別の相方と活動したあと、養成期間が終わるころに現在の2人が組むことになります。
2012年に一度慶應へ戻り、その日のうちに退学を決める
NSCを卒業した2012年、水川さんにはまだ休学中の慶應義塾大学が残っていました。
一度区切りをつけようと復学し、授業へ向かうため大学の敷地へ入ります。
ところが、その初日に「ここへあと3年通うのは難しい」と感じ、そのまま正式な退学手続きを進めました。
つまり、水川さんは大学入学後すぐに授業へ行かなくなりましたが、正式に慶應を退学したのはNSCを卒業した2012年です。
平井さんとのコンビ解散後、ピン芸人も考えていた
NSC時代、水川さんは現在とは別の相方である平井さんとコンビを組んでいました。
しかしそのコンビは養成期間の終盤に解散します。
水川さんはすぐに別の相方を探していたわけではなく、その後は一人で活動することも考えていました。
同じころ、鈴木もぐらさん側のコンビも解散していました。
もぐらから誘われ、父親との奇妙な共通点に「運命」を感じる
そこで水川さんへ声をかけたのが鈴木もぐらさんです。
もぐらさんから「一度話をしよう」という形で誘われましたが、それまで2人はほとんどまともに会話したことがありませんでした。
話してみると、もぐらさんは大阪芸術大学に在籍していたものの学費を払えず除籍になり、ギャンブルが好きで借金もあるといった自身の経歴を水川さんへ話しました。
その内容を聞いた水川さんは驚きます。
大阪芸術大学、ギャンブル、借金といった要素が、自分の父親の経歴とよく似ていたからです。
「これは運命的なものを感じる」
スポニチアネックス
ピンで活動することまで考えていた水川さんは、この奇妙な一致をきっかけにもぐらさんと組むことを決めました。
空気階段としてコントを始める
こうして2012年、水川かたまりさんと鈴木もぐらさんによる空気階段が結成されました。
水川さんがNSCへ入ったときから選んでいたコントを中心に、2人で劇場へ立ち始めます。
NSCへ入ったときに思い描いていた「3年後にキングオブコント優勝」という予定どおりには進みませんでした。
結成後に待っていたのは、短い持ち時間の舞台を積み重ねる若手時代でした。
初舞台から下積みへ|月1回・1〜2分の舞台から始まった
空気階段を結成すると、水川さんともぐらさんは渋谷の吉本の劇場へ出演するようになります。
しかし新人が自由に何本も舞台へ立てたわけではありません。
渋谷の劇場でネタをしてもほとんどウケなかった若手時代
水川さんによると、最初に与えられた機会は月に1回ほど、持ち時間は1〜2分でした。
芸人として舞台へ立てること自体がうれしかったため、最初から苦しいと感じていたわけではありません。
ただ、同期の中には早い時期から芸人の仕事だけで生活できるようになるコンビも現れます。
一方の空気階段は、劇場でコントを披露しても客席からほとんど反応がない時期が続きました。
結成から数年後には、もぐらさんが舞台上で恋人ができたことを話した際、それまでとは客席の反応が変わり、同じネタでも笑いが増えたと水川さんは振り返っています。
アルバイトと両親からの仕送りを受けながら活動を続ける
舞台へ立っていても、それだけで生活できる収入にはなりませんでした。
空気階段の2人はアルバイトを続けながら芸人活動をしており、水川さんには岡山の父親からの仕送りもありました。
本人によると、大学進学で上京した2009年から約10年にわたり、父親から受け取った仕送りは合計約1,200万円にのぼります。
後年、水川さん自身が、その支援がなければもっと早く芸人を辞めていたと話しています。
空気階段として舞台へ立てるようになっても、数年間は芸人の収入だけで暮らせる状態ではありませんでした。
2015年、吉本社員へ頼み込んで初単独『mosaique』を開催
2015年、空気階段はキングオブコントで初めて準決勝へ進出しました。
同年12月12日には、東京・ヨシモト∞ホールで第1回単独ライブ『mosaique』を開催します。
現在の空気階段は単独公演を大きな活動の柱にしていますが、最初の単独は自然に与えられた仕事ではありませんでした。
「月の給料は4000円とかでした」
QJWeb
水川さんは当時について、単独ライブも吉本の社員へ「やらせてほしい」と頼み込んで実現したものだったと語っています。
初単独当時の空気階段はまだアルバイトを辞められず、キングオブコント準決勝へ進んだだけで仕事が一気に増えたわけでもありませんでした。
空気階段公式YouTubeには現在も2015年12月12日の『mosaique』のコント映像が公開されており、売れる前の2人の舞台を見ることができます。
ラフターナイトと『踊り場』|仕事が動き始めた2016〜2019年
初単独を終えた翌年から、空気階段にはテレビの賞レースとは別の場所でも結果が出始めます。
特に大きかったのが、TBSラジオの若手芸人発掘番組『マイナビ Laughter Night』でした。
2016・2017年度ラフターナイトを2年連続制覇
空気階段は2016年度の『マイナビ Laughter Night』チャンピオンLIVEでグランドチャンピオンとなりました。
さらに翌2017年度も優勝し、2年連続グランドチャンピオンとなっています。
同大会の歴代優勝者として、TBSラジオ公式にも2016年・2017年の両年に空気階段の名前が記録されています。
この結果は賞金だけではなく、空気階段がラジオ番組を持つ流れにもつながっていきます。
2017年に冠ラジオ『空気階段の踊り場』がスタート
2016年には優勝特典としてTBSラジオで冠特番が放送され、その後2017年4月7日から『空気階段の踊り場』がレギュラー番組として始まりました。
水川さんにとってラジオは、高校時代に爆笑問題へハマった入口であり、大学を休学していた時期にも毎日のように聴いていたメディアです。
今度は自身が鈴木もぐらさんとマイクの前に座り、2人の生活や考えていることを話す側になりました。
番組は放送枠を変えながら続き、現在もTBSラジオでレギュラー放送されています。
高校時代にラジオでお笑いへ近づいた水川さんが、芸人として自分の冠ラジオを持ったのは2017年でした。
2019年にキングオブコント初決勝へ進み、アルバイト生活を終える
空気階段は2015年にキングオブコント準決勝へ進んだあとも挑戦を続けました。
2018年にも準決勝まで進み、結成8年目となる2019年、ついにキングオブコントの決勝へ初進出します。
結果は9位でしたが、水川さんはこのころにはアルバイトをする必要がなくなり、お笑いの仕事だけで生活できるようになったと振り返っています。
2021年の優勝より前に、ラジオ、単独ライブ、劇場、そして2019年のKOC初決勝を通して、空気階段の仕事はすでに大きく変わり始めていました。
キングオブコント3年連続決勝|2021年の優勝まで
2019年に初めて決勝へ進んだ空気階段は、その後もキングオブコントの舞台へ戻ってきます。
ここから3年連続で決勝に残り、順位を上げていきました。
2019年9位、2020年3位と順位を上げる
2019年は9位でしたが、翌2020年は決勝で3位まで進みます。
空気階段のコントが全国放送で知られる機会も増えましたが、2人にとっては長く目標にしてきたキングオブコントの優勝にはまだ届きませんでした。
NSCへ入った水川さんが当初考えていた「結成3年後の優勝」からは、すでに大きく時間が過ぎていました。
2021年にキングオブコント優勝、仕事の幅が大きく広がる
2021年10月2日、空気階段は3年連続となるキングオブコント決勝へ出場しました。
ファーストステージを突破し、最終決戦でも得点を伸ばしてキングオブコント2021の14代目キングに決定します。
NSCで「キングオブコント優勝」という目標を思い描いてから約10年、空気階段は2021年にその大会の頂点へ立ちました。
優勝後はテレビ出演が一気に増えましたが、空気階段は単独公演と『空気階段の踊り場』を続け、コントとラジオというそれ以前からの活動も残しています。
2022年に岡山へ帰省する企画では、キングオブコントの優勝賞金から家族へ恩返しをする様子も放送されました。
子どものころから遊び相手だった父親や、大学へ行けなくなった時期を見ていた母親と、芸人になってからの時間を振り返る場面も生まれています。
コントから俳優・脚本へ|現在も空気階段の活動が軸
キングオブコント優勝後、水川さん個人の仕事も大きく広がりました。
テレビドラマへの出演に加え、映像作品の脚本、舞台の脚本・演出など、コントとは異なる形で物語を作る仕事も増えています。
ドラマ出演から映画『死に損なった男』主演へ
俳優としては『妻、小学生になる。』『罠の戦争』などに出演し、2025年には映画『死に損なった男』で映画初主演を務めました。
脚本では『でっけぇ風呂場で待ってます』の一部エピソードやHuluオリジナル『君のことだけ見ていたい』などを担当しています。
本名の「航太」の由来を明かしたのも、『死に損なった男』の主演に際して寄せた本人コメントでした。
脚本や演技の経験を、再びコントへ持ち帰る
俳優や脚本の仕事が増えても、水川さんの中でコントと別々の活動になっているわけではありません。
映画で求められる演技と、コントで笑わせるための演技の違いを考えながら撮影に取り組み、新しい仕事で得たものを空気階段へ持ち帰ろうとしています。
「つい『コントにも還元できそう』と思ってしまう」
スタジオパーソル
現在は俳優や脚本家として名前を見る機会も増えましたが、芸人人生の始まりから続いている中心にはコントがあります。
岡山でサッカー選手を夢見ていた少年は、高校で爆笑問題のラジオに出会い、慶應へ進んだあとに大学から離れる時間を過ごしました。
その時間にお笑いへ深く入り込み、NSCで鈴木もぐらさんと出会い、短い劇場出演とアルバイト生活を重ねながら空気階段のコントを続けました。
キングオブコント優勝後に仕事の形が増えた現在も、新しく経験した演技や脚本を再びコントへ戻しながら活動しています。












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