人物プロフィール
独特なおじさんを演じるコントから、ラジオで語られる日常まで、空気階段・鈴木もぐらさんには、一度見たら忘れにくい存在感があります。
2021年には水川かたまりさんとともにキングオブコント王者となり、テレビやラジオ、俳優、執筆などへ活動の幅を広げました。
ところが時間をさかのぼると、生まれたのは千葉県の団地で、7歳で両親が離婚し、高校では自分で学費を稼ぎ、一浪して大阪芸術大学へ進んでいます。
しかも、大学へ入った時点では芸人志望ではなく、映像に興味を持っていました。
芸人になるという進路が現実になったのは、大阪芸大でミルクボーイとななまがりの舞台を見たことがきっかけでした。
そこから大学除籍、大阪で働いた約3年間、上京、NSC、水川かたまりさんとの出会いを経て、現在の空気階段へつながっていきます。
鈴木もぐらの生い立ちと家族|旧八日市場市の団地で育った幼少期
吉本興業の公式プロフィールでは千葉県旭市出身となっていますが、本人が「生まれた場所」として話しているのは、現在の匝瑳市にあたる旧八日市場市の団地です。
幼いころの記憶には、父親と母親、団地の子どもたち、テレビ、そして家族で囲んだ食卓が具体的な場面として残っています。
父母と3人で暮らした団地|最初の記憶は父と行ったパチンコ店
鈴木もぐらさんは1987年、旧八日市場市にあった団地で生まれ、当初は父親、母親との3人で暮らしていました。
本人が覚えている最も古い場面は、家から歩いて数分のパチンコ店へ父親と行き、父親の膝の上でスロットのボタンを押したときのことです。
「7、7、7」という父親の掛け声に合わせて押すと図柄がそろったという記憶を、2026年のインタビューでも鮮明に話しています。
団地には子どもが多く、庭に建てられたプレハブをたまり場にして、4歳ほどの子から15歳ほどの子までが一緒になって遊んでいました。
もぐらさん自身は、当時の暮らしを特別なものとは感じておらず、団地全体を一つの家のように感じていたと振り返っています。
「私、生まれた時点から7歳までは『白鳥翔太』でした。」
『ぼくのおじさん』インタビュー
7歳で両親が離婚|名字が変わり、母と暮らす生活へ
7歳のころに両親が離婚すると、転校とともに名字が変わり、それまでの白鳥翔太から鈴木翔太になりました。
その後、母親は再婚と離婚を経験しており、もぐらさん自身も名字が何度か変わったことを公に話しています。
母親との生活には妹もいて、母親は2人を養うために働き続けていました。
2026年に自身の食の記憶を振り返った際には、当時の家庭について本人自身が「母子家庭」という言葉で説明しています。
「私が育った環境をひと言で表すなら、《貧乏な母子家庭》でしょうか。」
婦人公論.jp
母親は食事の作法には厳しく、食卓では正座をさせ、スープを音を立てて飲むと叱られるような家庭でもありました。
食卓とテレビに残る家族の記憶|幼いころからバラエティを見て育つ
家計に余裕がなくても、母親は食べることへのこだわりが強く、八日市場にあった中華料理店へ出かけることがありました。
その店へ行く前には質屋へ立ち寄って品物を預け、そのお金で食事をすることがあり、もぐらさんは6、7歳ですでに「質流れ」の意味まで理解していたといいます。
食事と並んで家の中にあった娯楽がテレビで、父親もバラエティ番組を好み、もぐらさん自身も子どものころからコントやテレビのお笑いを見て育ちました。
後にコントを選んだ理由を尋ねられたときにも、本人は「コント番組を見て育った」ことを挙げています。
鈴木もぐらの学生時代|卓球に打ち込み、高校の学費は自分で稼いだ
中学、高校へ進むと、もぐらさんの生活には卓球とアルバイトが入ってきます。
テレビで見せる現在の姿からは少し意外ですが、卓球では県大会まで進む選手でした。
中学の卓球で千葉県ベスト16|福原愛とも対戦
吉本興業の公式プロフィールには、もぐらさんの卓球について中学時代に千葉県ベスト16まで進んだことが記載されています。
さらに当時、後に卓球日本代表として活躍する福原愛さんと対戦し、その様子が新聞に載った経験もあると紹介されています。
芸人になってから付け加えられたキャラクター設定ではなく、学生時代から実際に競技として続けていた特技です。
匝瑳高校でも卓球部へ|アルバイトをしながら自分で学費を払う
高校は千葉県立匝瑳高等学校へ進みました。
匝瑳高校同窓会の会報にも、本名の「鈴木翔太」とともに高校58回卒として掲載され、在学時は卓球部に所属していたことが確認できます。
一方、家庭では「高校からは自分で行く」という話になっていたため、高校生になるとアルバイトを始め、授業料や教材費を自分の収入から払っていました。
学校へ通い、卓球部で活動しながら、高校生活に必要な学費も自分で稼いでいたことになります。
残った給料で漫画雑誌を買えるようになったことを本人は喜んでおり、2026年のエッセイでは、部活帰りによく買っていた唐揚げのり弁の味も高校時代の記憶として挙げています。
田舎から東京への憧れ|テレビや音楽に触れて過ごした10代
地元では、新しい本やCDを予約しても届くまで時間がかかることがあり、雑誌の中に出てくる東京の風景は遠い世界に見えていました。
『笑っていいとも!』が始まる前に流れる新宿アルタ前の映像を見て、華やかな東京へ行きたいと思っていたことも本人は覚えています。
ただし、この時点で芸能人を目指していたわけではなく、本人の関心は映画や映像へ向かっていきました。
一浪して大阪芸術大学へ|映像志望だった鈴木もぐらがお笑いと出会う
高校卒業後、もぐらさんはすぐ進学せず、一年間の浪人生活を送ります。
ここから大阪芸術大学での出会いまでが、芸人になる前の大きな方向転換でした。
パチンコ店で働き約200万円を貯めて大阪芸大へ
浪人中はパチンコ店で働き、そこでスロットも覚え、本人によると約200万円を貯めています。
その資金を使って進学したのが大阪芸術大学でした。
当時、大阪芸大には映画監督の原一男さんが教授として在籍しており、もぐらさんは原監督から学びたいという気持ちを持っていました。
音楽ゲーム『beatmania』で流れるような映像を作ってみたいという興味もあり、現在でいうVJのような映像表現にも惹かれていたと話しています。
つまり大学へ入った時点では、芸人になるための進学ではありませんでした。
ななまがりとミルクボーイの舞台を見て落研へ入る
大学で転機になったのが、落語研究会によるライブ『芸大漫才』です。
もぐらさんはもともとお笑いが大好きでしたが、好きだからこそ「自分にはできない」と思い、最初から落研へ入るつもりはありませんでした。
たまたまチラシを受け取り、それほど期待せずライブへ足を運ぶと、最初に登場したななまがりのコントを見て笑い、続いて出てきたミルクボーイの漫才にも強い衝撃を受けます。
もっと近くでこの人たちを見たいと思い、新入生歓迎会へ参加したことから落語研究会に入部しました。
部室では先輩たちと過ごし、学食へチャーハンを買いに行くこともあり、後年の対談では当時の自分を先輩たちの「パシリ」のようだったと笑っています。
先輩たちがプロへ進む姿を見て「芸人になる」と決める
さらに大きかったのは、ミルクボーイとななまがりが単に大学内でネタをしているだけではなかったことです。
2組は在学中から吉本のオーディションやインディーズライブへ出ており、もぐらさんは目の前の先輩たちを通して、プロの芸人へ進む具体的な手順を初めて知りました。
それまで「絶対に無理」と感じていた芸人という仕事が、このとき現実的な進路へ変わりました。
「お2組がいなかったら僕は芸人やってなかったと思います。」
TV Bros. WEB
この時点で芸人を目指す意思は固まりましたが、大学を離れてすぐ養成所へ入れたわけではありませんでした。
大阪芸大を除籍後も芸人を諦めず|3年間働いてNSCを目指した時期
大阪芸大では学費を払い続けることが難しくなり、もぐらさんは1年余りで大学へ通えなくなりました。
芸人になるという目標を持ったまま、大阪で働く時期へ入ります。
学費が払えず大学を除籍|大阪の風俗業界で働き始める
大学の学費が苦しくなるなか、もぐらさんは「高収入」という求人に惹かれ、梅田の風俗店で働き始めました。
ところが大学を除籍になるころ、その勤務先も閉店します。
そこで店の関係者から次の仕事を紹介され、渡された住所へ行くと、今度はデリバリーヘルスの事務所でした。
そこでは電話受付の仕事を約3年間続けています。
大学へ通えなくなったから芸人を諦めたのではなく、NSCへ入る金を作るつもりで働き始めた時期でした。
NSC資金を貯められないまま約3年|勤務先社長の一言で東京へ
当初は短期間で資金を作り、すぐNSCへ入るつもりでした。
しかしギャンブルをするようになったことなどもあり、思うように金は残らず、気づけば2〜3年が経っていました。
その間も、ななまがりやミルクボーイがオーディションでどこまで勝ち上がったかを確認し、大学時代の先輩たちが芸人として活動していることを追い続けていました。
状況を変えたのは、デリバリーヘルスの勤務先の社長です。
芸人になりたいなら東京へ行けと、NSCの入学や上京に必要な資金として約100万円を貸してくれました。
大阪芸大で芸人になると決めてから数年を経て、この借金によってようやく東京のNSCへ進めることになりました。
資金を借りて上京|手元10万円から始まった高円寺生活
NSCの費用などを払うと、東京へ来たときに残っていたのは約10万円でした。
荷物はリュック一つで、中野の不動産店へ行き、「今日から安く住めるところ」を探します。
5万円、4万円、3万円、2万円の物件まで「高い」と断った末に紹介されたのが、偶然にも高円寺にあった月1万7000円の部屋でした。
2011年、鈴木もぐらさんは東京でNSC17期生として芸人人生を始めます。
NSC東京17期で水川かたまりと出会い、空気階段を結成
東京NSC17期には、後に相方となる水川かたまりさんもいました。
ただし、入学してすぐ現在の2人になったわけではなく、それぞれ別の相手とのコンビを経験しています。
NSCでは別コンビを経験|大阪芸大時代の先輩の言葉を支えにする
大阪芸大の落研では、身近にいた先輩たちが面白く、オーディションやライブへ積極的に出ていました。
ところが東京NSCへ入ったもぐらさんは、周囲の雰囲気やネタ見せに戸惑い、「ここがプロの世界なのか」と感じる時期があったと後年語っています。
そのころ、ななまがりの初瀬悠太さんからNSCの様子を尋ねる連絡があり、もぐらさんが少し弱気な返事をすると、短い励ましが返ってきました。
「お前は面白いから大丈夫」
TV Bros. WEB
もぐらさんはそのメールを保護し、つらいときに繰り返し見ていたと明かしています。
NSCに入ってからも、ななまがりが大阪で単独ライブを開けば、夜行バスで見に行っていました。
鈴木もぐらから水川かたまりを誘う|最初は断られそうだった2人
それぞれが別コンビを経験したあと、もぐらさんの側から水川かたまりさんへ「コンビを組もう」と声をかけました。
現在の2人からは意外ですが、その時点ではほとんど話したことがありませんでした。
かたまりさんは、もぐらさんを見て良い人そうとは思えず、最初は誘いを断るつもりだったと明かしています。
「どうみても良い人そうではなかったから、喋ったこともなかったし、断ろうと思ってたんですけど。」
テレ東プラス
そこで、もぐらさんが大阪芸大を短期間で除籍になった話をすると、その経歴が偶然にもかたまりさんの父親とよく似ていました。
かたまりさんはその偶然に興味を持ち、まだデビュー前だったこともあって、まずは「とりあえず」組んでみることになります。
幼なじみでも親友でもなく、ほとんど話したことのない同期への誘いから空気階段は始まりました。
2012年に空気階段を結成|漫才も経験しながらコントへ軸足を移す
2人は2012年に空気階段を結成しました。
コンビ名は、互いが好きだった言葉を組み合わせて決めたものです。
NSCでは漫才も経験しましたが、もぐらさんは人前で素のまま漫才をすることに照れを感じ、人物になりきって演じるコントのほうがやりやすいと感じていました。
子どものころからコント番組を見ていたこともあり、2人は次第にコントを活動の中心にしていきます。
家賃1万7000円の高円寺生活|空気階段の若手・下積み時代
コンビを組んだからといって、すぐ仕事だけで生活できるようになったわけではありません。
もぐらさんは高円寺の安い部屋を拠点にアルバイトをしながら、空気階段として舞台へ出続けました。
風呂なし4畳半でアルバイト生活|舞台を続けた若手時代
高円寺の部屋は4畳半、風呂なし、共同トイレで、水道代込みの家賃が1万7000円でした。
歌舞伎町では無料案内所のアルバイトをし、法被を着て路上で客へ声をかける仕事もしています。
家賃だけでなく電気やガスも止まることがあり、部屋ではネズミが出ました。
体調を崩してライブ当日に声がほとんど出なくなったときも、当時は月に一度ほどしかない舞台だったため本番へ出て、その後アルバイト先の店長に促されて病院へ向かったことがあります。
大家から食事を差し入れてもらう一方で家賃を何カ月も滞納し、最終的にはその部屋を出ることにもなりました。
テレビで知られる以前の空気階段は、こうした生活と劇場の舞台を同時に続けていました。
団地や夜の仕事で出会った人々がコントの登場人物へ
空気階段のコントには、もぐらさんが演じる、妙に生活感のある男性やおじさんがたびたび登場します。
本人は、その人物像について、幼少期の団地や大阪で働いたデリバリーヘルスなど、それまでの人生で出会ったさまざまな人の要素が少しずつ入っていると説明しています。
一人をそのままモデルにするのではなく、何人もの話し方や雰囲気、考え方が混ざってキャラクターになるという感覚です。
団地で子どもたちや大人を見ていた時間、大阪の夜の仕事、高円寺での暮らしが、後のコントへ入っていきました。
キングオブコント2015準決勝へ|少しずつ結果が出始める
空気階段が賞レースで目立つ結果を残し始めるのは、結成から数年が経ったころです。
キングオブコント2015では準決勝へ進出し、大会公式記録にも準決勝進出者として名前が残っています。
同年12月には、東京・ヨシモト∞ホールで初の単独ライブ「mosaique」を開催しました。
吉本の当時の告知では、芸歴4年目でキングオブコント準決勝へ進んだ若手として紹介され、数カ月前から初単独へ向けて打ち合わせを重ねていたことも伝えられています。
ラジオで評価を高めた空気階段|『踊り場』開始からテレビ進出へ
キングオブコントで決勝へ届くより先に、空気階段の名前を押し上げた場所の一つがTBSラジオでした。
ネタの評価とトーク番組が並行して伸びていったことで、後のテレビ進出までにいくつもの段階が生まれます。
2016年にLaughter Night優勝|初の冠特番へ
TBSラジオ『マイナビ Laughter Night』では、若手芸人がネタを披露し、年間のチャンピオンライブで優勝すると冠特番の権利が与えられます。
空気階段は2016年度のグランドチャンピオンになり、初めてTBSラジオで2時間の冠特番を担当しました。
テレビの大きな賞レースで優勝する5年前に、まずラジオのネタ番組で結果を残していたことになります。
2017年に『空気階段の踊り場』がスタートし、その秋に大会2連覇
2016年の優勝を足がかりに、2017年4月から冠ラジオ『空気階段の踊り場』が始まりました。
まだテレビで広く知られる前から、もぐらさんとかたまりさんが自分たちの生活や出来事を話す場所ができたことになります。
同年10月には『マイナビ Laughter Night』のチャンピオンライブへ再び出場し、空気階段は史上初の2連覇を達成しました。
ラジオのレギュラーを持ち始めた年にもネタの大会で優勝し、コントとトークの両方で活動が続いていきます。
2018年「クローゼット」を境にテレビから声がかかり始める
テレビ出演が変化した時期について、もぐらさん自身が具体的に挙げているのが2018年末です。
テレビ朝日系『有吉のお饅頭が貰える演芸会』で「クローゼット」のコントを披露し、有吉弘行さんから番組内の優勝者に選ばれました。
「テレビに呼んでもらえるきっかけになったのは、やっぱり『クローゼット』のコントですね。」
Fika
かたまりさんも、番組を見たテレビ関係者から声がかかる機会が増えたことに加え、爆笑問題の太田光さんがラジオで評価したことや、ラジオのネタ大会での優勝も大きかったと話しています。
空気階段はキングオブコント優勝前の2016〜2018年に、ラジオ、ネタ、テレビで少しずつ仕事の入口を増やしていました。
キングオブコント決勝常連から王者へ|鈴木もぐらの現在につながる転機
2019年以降、空気階段はキングオブコントでも決勝の常連になっていきます。
ここでも一度の結果だけで状況が変わったのではなく、3大会をかけて順位を上げました。
2019年に初の決勝進出、2020年は3位へ
キングオブコント2019では初めて決勝へ進出し、結果は9位でした。
翌2020年も決勝へ戻り、今度は3位まで順位を上げます。
2021年大会前のTBS公式会見では、かたまりさんが前年までの結果を「9位、3位」と振り返りながら、劇場で月50本ほどライブへ出てきたことが自信になっていると話していました。
テレビの決勝だけでネタを作っていたのではなく、吉本の劇場で何度も客前に立ちながら2021年を迎えています。
2021年にキングオブコント優勝|仕事量が大きく変化
2021年10月2日、空気階段は3年連続となるキングオブコント決勝へ進みました。
1stステージでは486点を記録して1位で通過し、最終決戦も制して、14代目キングに決定します。
2015年の準決勝から6年、2019年9位、2020年3位と進み、2021年に初めて頂点へ届きました。
キングオブコント2021優勝は、空気階段の知名度と仕事量をさらに大きく変える出来事になりました。
「本当にうれしいですね。まさかコントのチャンピオンになれるとは思ってなくて。」
ORICON NEWS
優勝会見では、かたまりさんが決勝で使ったネタについて、単独ライブではもともと20分以上あったものを大会用に磨いたことも明かしています。
2人は優勝直後にも、翌日のヨシモト∞ホールとルミネtheよしもとの舞台へ出演する予定を話していました。
コント・ラジオ・俳優へ広がっても残る、昔出会った人々の記憶
キングオブコント優勝後はコンビでのテレビ出演が増え、もぐらさん個人でも俳優、麻雀やパチンコに関する番組、動画、執筆などへ仕事が広がりました。
一方で、2017年に始まった『空気階段の踊り場』は現在も続き、空気階段は単独公演を含めてコントの舞台にも立ち続けています。
2026年には初の単著『没頭飯』を刊行し、幼いころの食卓、高校の部活帰り、売れる前に芸人仲間と過ごした時間など、自分の過去を食の記憶から書き残しました。
現在のコントで演じる人物にも、旧八日市場市の団地、大阪で働いた店、高円寺などで実際に出会った人々の断片が残っています。
旧八日市場市の団地で育った少年は、映像を学ぼうと大阪芸大へ進み、そこでミルクボーイとななまがりの舞台を見たことで芸人という進路を選びました。
大学を離れてからも大阪で働き続け、勤務先の社長に資金を借りて東京へ出た先で、水川かたまりさんと出会い、2012年に空気階段を結成しました。
高円寺の家賃1万7000円の部屋と小さな舞台から始まった2人は、ラジオと劇場で時間を重ね、2021年のキングオブコント優勝を経た現在も、コントの中でさまざまな人間を演じ続けています。












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