人物プロフィール
チョコレートプラネットの松尾駿さんといえば、IKKOさんのものまねや「TT兄弟」、コントで見せる独特のキャラクターなど、テレビで一目見れば分かる存在になっています。
現在はバラエティー番組のレギュラーだけでなく、MCやラジオ、YouTube、声優まで仕事が広がっていますが、芸人になる前から一直線にお笑いの道を歩いていたわけではありません。
生まれ育ったのは神奈川県箱根町で、高校卒業後には専門学校へ進み、その後は就職活動をしながら工場などで働いていた時期もありました。
そこから人生を動かしたのが、妹から言われた「お兄ちゃんの目が死んでる」という一言でした。
しかも現在の相方・長田庄平さんと組む前には、別のコンビとピン芸人を経験しており、チョコレートプラネット結成後もテレビで広く知られるまでには長い時間がかかっています。
松尾駿の生い立ちと家族|箱根・小涌谷で育った少年時代
松尾駿さんは1982年8月18日、神奈川県箱根町に生まれました。
観光地として全国的に知られる箱根ですが、松尾さんにとっては観光で訪れる場所ではなく、家族と暮らし、学校へ通い、友人たちと遊んだ日常そのものだった場所です。
両親が働いていた箱根のホテルと、妹のいる4人家族
松尾さん自身が箱根について寄稿した文章によると、父親は長崎県出身、母親は鹿児島県出身で、二人とも箱根のホテルで働いていました。
父親は調理師、母親は事務の仕事をしており、九州出身の二人が箱根の職場で出会って結婚しています。
松尾さんはその夫婦の長男として生まれ、きょうだいには妹が1人います。
家族が暮らしていたのは、箱根駅伝のテレビ中継にも映る恵明学園に近い町営住宅で、松尾さんは高校2年生までこの町営住宅で暮らしたと書いています。
「僕は長男、妹ひとり。」
コモレバWEB「箱根で育ったお笑い精神」
両親の勤務先だった箱根小涌園周辺は、松尾さんにとって子どものころから身近な場所で、箱根ホテル小涌園の風呂へ家族で出かけることもありました。
ホテルとの縁は成人後にも続きましたが、その話は松尾さんの時間が大人になってから再び登場します。
温泉小学校の「入浴授業」と、箱根の自然で遊んだ子ども時代
小学生になると、松尾さんは旧・箱根町立温泉小学校へ通いました。
温泉地の学校らしく校内には温泉があり、松尾さんの時代には学校の授業として実際に風呂へ入る「入浴」の時間がありました。
同級生同士で背中を流し合い、学校の近くを走る箱根登山電車へ裸で手を振ると、車内の観光客が手を振り返してくれたこともあったと、後年の「はこね親善大使」就任時に話しています。
山と坂の多い箱根で育った松尾さんは、自身を「スポーツ大好き少年」だったとも振り返っています。
そのスポーツ好きの中でも長く続いているのがバスケットボールとNBAで、13歳だったころにはすでにNBA選手を応援していました。
2026年には、当時の自分へ語りかけるように、ミネソタ・ティンバーウルブズのユニフォームを着て手作りの「Kevin Garnett」のボードを持つ13歳の写真を公開しています。
小中高の学生時代|箱根明星中学校から小田原城北工業高校へ
小学校を卒業した松尾さんは、同じ箱根町にあった旧・箱根明星中学校へ進みます。
テレビの中のお笑いより先に、友人と過ごす日常の中でふざけたり笑ったりする時間が続いていました。
友人たちと過ごした箱根時代とスポーツ好きだった学生生活
松尾さんの学生時代を知る人物として後年登場したのが、中学・高校の同級生だった真司さんです。
2023年のテレビ番組で松尾さんの地元・箱根を巡った際、ナインティナインが乗ったタクシーを運転していたのが、その真司さんでした。
真司さんは松尾さんへナインティナインのラジオの面白さを教えた友人でもあり、松尾さんが後に東京へ出てお笑いを始めようとした際には、一緒にやらないかと誘われていたことも明かされています。
一方で松尾さんはスポーツにも夢中で、後年までNBAへの熱が続くほどバスケットボールを好み、箱根の山坂を走り回って過ごしていました。
地元では毎年正月になると箱根駅伝が目の前を通り、子どものころには西武ライオンズのユニフォームを着て沿道に立ち、テレビへ映ろうとしたこともあったといいます。
高校2年生まで箱根で暮らし、小田原城北工業高校へ通う
中学校を卒業すると、松尾さんは箱根町外にある神奈川県立小田原城北工業高校へ進学しました。
箱根町のインタビューでは、高校時代に小田原からバスで帰宅し、箱根湯本付近を過ぎると空気が変わる感覚があったことを話しています。
町営住宅で暮らしていたのは高校2年生までで、それ以降の生活については詳しく公表されていませんが、学生時代の友人関係は卒業後も続いていました。
高校卒業後は大学ではなく、千代田工科芸術専門学校へ進みます。
この時点でも、卒業したらすぐ芸人になると決めていたわけではありませんでした。
専門学校から働く日々へ|芸人を目指す直前の松尾駿
専門学校へ進んだ松尾さんの20歳前後には、後から振り返るとお笑いにつながって見える出来事と、現実の進路に迷う時間が重なっています。
ただし、本人が芸人になる直接の決断として語っている出来事と、友人が「きっかけでは」と感じた出来事は別々にあります。
20歳ごろ、友人を笑わせるため「一生懸命ふざけた」夜
20歳ごろ、松尾さんと仲の良かった10人ほどの友人のうち、1人の父親が若くして亡くなる出来事がありました。
何か自分たちにできることはないかと考えた仲間たちは、その友人を笑わせるために、とにかく必死でふざけたといいます。
帰りの車で松尾さんと二人になった真司さんは、そのとき松尾さんがぽつりと漏らした言葉を覚えていました。
「こんなに一生懸命ふざけたことねぇな」
J-CASTニュース
真司さんは後年、「それがお笑い芸人になりたいというきっかけだったのかな」と振り返りましたが、自身でも「私が勝手に思っている」と前置きしています。
松尾さん本人が話している進路決定の瞬間は、この少し後に訪れました。
専門学校卒業後、就職活動や仕事をしながら進路に迷う
専門学校を卒業した松尾さんは、そのまま芸能界へ飛び込んだのではなく、就職活動をする時期を迎えました。
本人のインタビューによると、そのころはダンボール工場で働いていた時期があり、地元紙では小田原の百貨店ロビンソンなどでも働きながら上京のための資金をためたと紹介されています。
高校、専門学校まで進んできたものの、その先に自分が本当にやりたい仕事がはっきり見えている状態ではありませんでした。
一方、学生時代から付き合いのあった真司さんには、東京へ出てお笑いをやろうと声をかけています。
お笑いという選択肢はすでに頭の中にありながら、実際に人生をそこへ切り替えるところまでは進めずにいた時期でした。
妹の「お兄ちゃんの目が死んでる」で東京へ出ることを決める
その状態をすぐそばで見ていたのが、子どものころから一緒に育った妹でした。
就職活動をしながらダンボール工場で働いていた兄へ、妹はかなり率直な言葉を投げかけます。
「お兄ちゃんの目が死んでる」
双葉社 THE CHANGE
松尾さんはこの言葉を受け、「このままではいけない」と考え、自分がやりたいことをやろうと決めました。
ここで東京へ出て、お笑い芸人を目指すことを決断します。
友人を笑わせるために本気でふざけた20歳ごろの夜や、ナインティナインのラジオを教えてくれた真司さんとの時間を経て、最後に行動を起こす直接のきっかけになったのは妹の一言でした。
2005年NSC東京11期へ|お笑い未経験から始まった芸人人生
東京へ出た松尾さんは、2005年にNSC東京校11期へ入ります。
現在では長田庄平さん、シソンヌ、パンサー向井慧さんらと同じ世代として知られますが、入学直後の松尾さんには、それまで本格的にお笑いを経験してきたという自信がありませんでした。
「全員面白い」と圧倒されたNSC入学直後
NSCへ入ったばかりの松尾さんは、周囲を見て「面白いやつばかりが集まっている」と感じて圧倒されたといいます。
学校の授業としてネタを作ったり人前へ出たりしてきたわけでもなく、周囲にどうなじめばいいかも分からない状態でした。
「戸惑いの連続で。」
双葉社 THE CHANGE
ところが時間がたつにつれ、最初に感じていた「全員すごい」という印象は少しずつ変わり、自分もその中でやっていける感覚を持ち始めました。
同期としてNSCにいた一人が、後に相方となる長田庄平さんでしたが、この時点ではまだ二人がコンビを組んでいたわけではありません。
「バンプキン」解散後、松尾アンダーグラウンドとしてピン活動
NSC時代、松尾さんが最初に組んだのは長田さんではなく、同期の肥後さんとの「バンプキン」というコンビでした。
しかしバンプキンは解散し、その後は「松尾アンダーグラウンド」という芸名で一人でネタをするようになります。
現在の松尾駿という名前からは想像しにくい芸名ですが、この「松尾アンダーグラウンド」はチョコレートプラネット結成後もしばらく使われ、2011年に現在の「松尾駿」へ改めています。
ピンで舞台へ立つ時間が続くと、一人だけでネタを続けていくことにしんどさも感じるようになりました。
そのタイミングで、同期の芸人たちからある名前を立て続けに出されます。
長田庄平との出会い|シソンヌの一言からチョコプラ結成へ
松尾さんと長田庄平さんは同じNSC東京校11期ですが、「同期だったから自然にコンビになった」という単純な経緯ではありません。
それぞれ別の活動をしていた二人の間に入ったのが、同じ11期のシソンヌでした。
じろうと長谷川忍から同じ日に「長田くんと組めば?」
松尾さんがピン芸人として活動していたころ、昼間に会ったシソンヌ・じろうさんから長田さんと組むことを勧められました。
それだけなら同期同士の何気ない助言で終わっていたかもしれませんが、その日の夜、今度はシソンヌ・長谷川忍さんからも同じ名前が出ます。
「長田くんと組めば?」
radiko news/TBSラジオ
昼と夜、別々に会ったシソンヌの二人から同じ日に長田さんを勧められたことで、松尾さんはその日のうちに行動します。
松尾から電話で誘うも、長田は一度返事を保留
松尾さんは長田さんへ電話をかけ、コンビを組まないかと自分から誘いました。
ところが、長田さんはその場ですぐ「やろう」と返したわけではなく、一度考える時間を求めています。
当時の松尾さんは現在よりかなり細身で、髪は五厘刈りに近く、眉毛も細くしており、長田さんから見るとかなりいかつい外見でした。
長田さんは後年、テレビへ出ることまで考えたときにそのビジュアルを心配した一方、NSCで松尾さんの面白さは高く評価していたことを話しています。
最終的に長田さんが松尾さんとのコンビを選び、現在まで続く二人がここで動き始めました。
2006年に結成、「チョコレート」と「プラネット」を合わせてコンビ名に
二人は2006年にチョコレートプラネットを結成しました。
コンビ名は深い物語から生まれたわけではなく、それぞれが好きな言葉を一つずつ持ち寄って決めています。
松尾さんが出したのが「チョコレート」、長田さんが出したのが「プラネット」で、二つをつなげました。
松尾さんは「略せる名前」を意識しており、「チョコプラ」と呼ばれるだろうという軽い気持ちで決め、ほかの候補も特になかったと話しています。
こうして、別コンビとピン活動を経験した松尾さんと、同期の長田さんによるチョコレートプラネットが始まりました。
若手・下積み時代|KOC決勝後も続いた「売れきらない」時間
コンビを組んだ二人は、テレビへ進む前にライブとコントを重ねていきました。
後から見れば早い段階で大きな賞レースの決勝まで進んでいますが、それで現在のような人気がすぐ手に入ったわけではありません。
2年目ごろ、新宿シアターブラッツで初単独ライブ
本人たちの回想によると、結成2年目ごろには新宿シアターブラッツで初めての単独ライブを開いています。
客席は150〜200人ほどの劇場で、現在の大規模なライブツアーとはまったく規模の違う場所から単独公演を始めました。
シアターブラッツはチョコレートプラネットにとって若手時代を象徴する場所の一つとなり、約20年後の2025年には、シソンヌとのユニット「チョコンヌ」で再び同劇場へ立っています。
長田さんはその公演を前に、「僕らはここから始まった」とコメントしています。
2008年KOC決勝で「コントを頑張る」に意識が変わる
結成から間もない2008年、チョコレートプラネットは第1回『キングオブコント』の決勝8組に入りました。
この大会ではバッファロー吾郎が優勝しており、チョコプラがこの時点でタイトルを獲得したわけではありません。
それでも松尾さんにとっては、賞の有無以上に大きな意味を持つ大会になりました。
それまでは自分たちが何を武器にしていくのか明確ではなく、「何となくお笑いをやっていた感じ」だったといいます。
「コントを頑張らなきゃいけない」
双葉社 THE CHANGE
2008年の決勝進出は、チョコプラが「コント」を自分たちの軸として意識する転機になりました。
27歳ごろ、幡ヶ谷でじろう・ジャンポケ太田らと共同生活
テレビの仕事が十分に増えていなかった時期、松尾さんは東京・幡ヶ谷で暮らしていました。
27歳ごろには、一軒家でシソンヌ・じろうさん、ジャングルポケット・太田博久さん、元バースの近藤裕希さんと4人で共同生活をしています。
3DKほどの家で部屋を分け、若手芸人同士でテレビを見たり、食事へ出たり、それぞれの仕事へ向かったりする生活でした。
松尾さんは当時、家賃を長期間滞納したり、水道を止められたりした経験も明かしており、仕事だけで生活が安定していた時期ではありません。
近所にはネタ合わせへ行っていた公園や、アルバイト先、頻繁に通っていた店があり、2021年に幡ヶ谷を再訪した際には、それらの場所を一つずつ巡っています。
じろうさんとの付き合いはその後も長く続き、松尾さんは後年、「東京とお笑いを教えてくれた親友」と表現しています。
仕事が増えない時期、パンサー菅良太郎に支えられる
幡ヶ谷で暮らしていたころ、頻繁に一緒に過ごしていた先輩芸人の一人がパンサー・菅良太郎さんでした。
松尾さんと菅さんは同い年ですが、芸歴では菅さんのほうが2年先輩です。
松尾さんによれば、自分にはまだほとんど仕事がなかった一方、菅さんはすでにパンサーとして忙しくなっていました。
「マジで週8メシ連れて行ってもらってた」
スポニチアネックス
もちろん「週8」は松尾さんらしい言い方ですが、それほど頻繁に食事をさせてもらい、酒を飲ませてもらっていた時期だったことが伝わります。
同期だけでなく、こうした先輩や周囲の芸人たちと過ごしながら、チョコプラは舞台とネタ番組への出演を続けていました。
2014年KOC準優勝、2015年NHK新人お笑い大賞を経ても続いた模索
2008年の決勝から6年後、チョコレートプラネットは『キングオブコント2014』で再び決勝へ進みます。
この大会ではシソンヌが優勝し、チョコプラは準優勝となりました。
松尾さんは後年、2014年の大会を「お笑い芸人人生のハイライト」と表現するほど強く記憶しています。
翌2015年にはNHK新人お笑い大賞を受賞し、コント師として結果は積み重なっていきました。
しかし、松尾さんの回想では、テレビで呼ばれるのは主にネタ番組で、ひな壇やバラエティーのロケへ次々と呼ばれる状態にはなっていませんでした。
賞レースで結果を出しても、そのまま現在につながるブレイクが始まったわけではなかったのです。
2015年に特番時代の『有吉の壁』へ出演するようになり、ここからネタ番組とは違う場所でチョコプラのキャラクターが見える機会が増えていきます。
IKKOものまねからブレイクへ|約10年眠っていたネタが転機に
チョコレートプラネットには、KOCとは別にテレビでの知名度を大きく動かした転機がありました。
松尾さんが演じるIKKOさんのものまねです。
幡ヶ谷の共同生活で生まれたIKKOものまね
2021年に若手時代の幡ヶ谷の家を訪れた松尾さんは、そこで「この家でIKKOさんが生まれた」と話しています。
仲間とテレビを見ているときに何気なく「どんだけ〜!」とまねしたところ、周囲から「似ている」と言われ、そのままライブでも試すようになりました。
2025年の本人インタビューでは、IKKOさんの「どんだけ〜!」が広く知られるようになった2007年ごろ、同期とテレビを見ていてまねしたのが最初だったとも説明しています。
若手仲間の前ではウケ、ライブのエンディングでも反応があったものの、その時点でテレビの代表芸へ成長したわけではありませんでした。
一度は手応えがあったIKKOものまねを、松尾さん自身もしばらく忘れていたといいます。
2017年ごろにものまねを復活させ、テレビで認知が拡大
眠っていたものまねが再び出てきたのは、それから約10年後でした。
2017年ごろ、ものまね番組へ呼ばれ、「何かできる?」と尋ねられた松尾さんは、かつて仲間内でやっていたIKKOさんを思い出します。
「IKKOさんできるかもしれないですね」
双葉社 THE CHANGE
そこから本格的にIKKOさんのものまねをするようになり、本人との共演も増えていきました。
松尾さん自身、KOC後もネタ番組へは出ていたものの、それ以上に仕事が広がりきらない感覚があり、IKKOものまねを始めてから「認知度も一気に変わった」と話しています。
2015年から出演していた『有吉の壁』も重なり、松尾さんの言葉では2017年ごろからの2〜3年間で仕事が大きく動き始めました。
和泉元彌ものまねやTT兄弟へ広がり、チョコプラの仕事が変化
松尾さんのIKKOさんに対し、長田さんには和泉元彌さんのものまねが生まれ、二人でテレビへ出たときに分かりやすい武器が増えていきました。
さらに2018年9月、『有吉の壁』で披露したのが「TT兄弟」です。
白いTシャツと短パン姿で日常に隠れた「T」の形を探すシンプルなキャラクターは番組の外へも広がり、同年12月には映画館の幕間映像へ起用されるほど反響が大きくなっていました。
KOCで磨いてきたコントに、ものまねと一目で伝わるキャラクターが加わったことで、ネタ番組以外でも二人を見かける機会が増えていきます。
松尾さんがIKKOさん、長田さんが和泉元彌さんになり、二人ではTT兄弟になるという複数の入り口ができたことで、チョコレートプラネットの名前も幅広い世代へ届くようになりました。
2019年、かつて願っていた「はこね親善大使」に就任
仕事の幅が大きくなっていくなか、松尾さんには地元・箱根でも一つの出来事がありました。
2014年、KOC準優勝直後に地元紙の取材を受けた松尾さんは、将来について「いつかは箱根の観光大使になりたい」と話していました。
その約5年後となる2019年6月、松尾さんは箱根町から「はこね親善大使」に任命されます。
子どものころに町営住宅から学校へ通い、箱根登山電車へ手を振っていた少年が、今度は町を外へ伝える役目を担うことになりました。
2023年には、両親が働き、自身も子どものころから親しんでいた箱根小涌園で、新しい箱根ホテル小涌園の開業日に「一日箱根小涌園支配人」も務めています。
コント・MC・YouTube・声の仕事へ広がった現在
ブレイク後のチョコレートプラネットは、若手時代から続けてきたコントを残しながら、バラエティーやMCへ仕事の範囲を広げていきました。
『ヒルナンデス!』『有吉の壁』『新しいカギ』などでレギュラーを持ち、2024年にはチョコレートプラネット、霜降り明星、ハナコが『FNS27時間テレビ 日本一たのしい学園祭!』の総合司会を担当しています。
自分たちのYouTubeチャンネルからも新しい企画やキャラクターを発信する一方、松尾さん個人では声の仕事も増え、2025年公開の劇場版『僕とロボコ』では主人公・ロボコの声を担当しました。
一方で、テレビへ出るきっかけになったものまねだけに活動が置き換わったわけではなく、チョコプラとして単独ライブを続け、若手時代から積み重ねてきたコントも現在の活動の中に残っています。
箱根で育ち、専門学校を出て働いていた松尾さんが芸人へ動いたのは、妹から言われた短い一言がきっかけでした。
NSCでの戸惑い、最初のコンビとピン活動、長田庄平さんとの結成、結果を出してもすぐには売れなかった時間を経て、若手時代に生まれていたIKKOものまねが約10年後に再び動き出しました。
現在の松尾駿さんの活動は、チョコレートプラネットを結成した2006年よりさらに前、箱根で友人を笑わせていたころから続いてきた出来事の先にあります。












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